『ヒロシマの歩んだ道』
文沢隆一・著/風媒社1996年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「この記録をとおして、戦争を知らない人たちに伝えたいことがある。それは戦場だけが戦争ではないということである。むしろ銃後といわれた国内こそ、もっとも苛烈な戦禍をこうむったことを忘れないでほしい。」
たしかに、“兵隊と女”についてほとんど書かれてありませんね……。下「」引用。
「“兵隊と女”という関係は、どこの国でも、またどこの都市でも切り離せないもののようだが、かたかなのヒロシマに関するかぎり、なぜか触れてはならないもののように思える。また実際、あれほど多くの被爆体験記が書かれているなかで、それらしい女性の手記は一篇もない。ただ、楼主の被爆手記(『被爆体験記』朝日新聞社昭和四○年刊)に、あわれな女郎の逃避行が描かれているのを、わたしは一度読んだことがある。そのとき、かの女たちもようやく苦界から解放されて、自由の身となったようだが、被爆したからだで、はたして無事に故郷にたどりつけただろうかと、いまになって案じられる。」
もくじ
学徒動員と工場勤務でも、学校の経費を払っていたという。下「」引用。
「給料は日給五○銭、残業手当や夜勤手当をいれて、だいたい月九○円くらいだった。そのうちから、貯金と授業料(これは『われらの記録』ではじめて知ったのだが、授業はなくても学校の経費は負担していたらしい)を支払って、手渡されるのが二五円だった。」
大田洋子ノートがあるという……。下「」引用。
「--『屍の街』の題名が三通り(ひろしま)(屍)(屍の街・壊□の村 *註・□は読み取りにくいので空白のままで残してある)に書かれる可能性があったことを、長岡弘芳氏が「大田洋子ノート」に書いている。そのなかで、「屍の街・壊□の村」というのが元原稿の正式な題名であった、と長岡氏はいっている。」
index
永井隆から生れた「燔祭論」。
この著者は、「羔(こひつじ)の思想」と呼ぶ。そして法皇も……。下「」引用。
「教皇ヨハネ・パウロ二世が広島を訪れ、原爆慰霊碑のまえでアピールを発表したとき、-略-教皇は〈平和の巡礼者〉ということばを使って、ヒロシマを核戦争を拒否する原点となることを説いている。そこには、永井隆の羔の思想と共通するものがある。」
彼らの教えではそうなるだろうとは思う……。
目次
抑止論は、軍拡論であることを著者は理解していないようだ。下「」引用。
「こうした抑止の意志はあったにもかかわらず、核兵器の限りない開発へと突きすすんだことは、人類の運命というほかない。」
ABCCの予算は、すべてアメリカ原子力委員会の予算からだったという。
戦後も属国でしかない日本政府……。下「」引用。
「いまひとつ忘れてはならないことは、ABCCの存在である。たしかに、アメリカ原子力委員会の意向によって、原爆の効果をたしかめるために設置されたものだったが、日本政府にたいして絶大な影響力をもっている。たとえば、広島市にできた原対協に類似した組織として、政府はさっそく原爆症調査研究協議会(五三年一一月)なるものをつくっている。それはABCCの責任者を加えて構成されたもので、実はこれが、原爆医療法の受皿となる厚生省公衆衛生局企画課への布石であった。
おそらく、ほとんどの人が知らないと思うが、日本政府の窓口に原爆という対策課はないのであ。原爆傷害に関しては公衆衛生局企画課がいっさいの事項を取り扱っている。」
国勢調査(五○時)の時の原爆被爆生存者の全国調査を実施。
--集計はABCCがおこない、数値だけの報告を日本政府はうけとった。
対策にも影響があったという……。下「」引用。
「なぜこういう不完全な原爆対策になってしまったのか。その根底には、原爆投下国であるアメリカ政府の意向があったものと考えられる。それが意図的であったかどうかはわからないが、原爆の障害についての専門家はABCCを除いて、当時どこにもなかった。」
index
「原爆神話」の人たちから出た対策……。
index
--人権などに配慮されるわけがありませんね……。
もくじ
「安芸文学」同人が大江を呼んだそうですす。下「」引用。
「実は、このとき大江氏を広島に呼んだのは、わたしたち広島の文学同人だった。むろん松阪義孝氏も同じ仲間だった。大江氏の話は十分くらいの短いもので、たぶんオオイヌノフグリのはなしではなかったかと思うが、わたしたちにはピンとこない、印象のうすいものだった。そのとき松阪氏が質問に立って、被爆者には指の先が白蝋化して亡くなっていく者もいるのだが、そうした人間的な悲惨さについてどう思うのかと聞いた。そのとき大江氏は、わたしはまだヒロシマのことをよく知らないので、これから勉強しますと答えた。それから五年後、『ヒロシマ・ノート』となって結実したわけだが、やはりわたしはなにかが欠けているような気がする。-略-」
index
バーバラと松原美代子の、『原爆の絵』をもってアメリカ横断したことについて書かれてある。
index
朝永振一郎のことも書かれてありました。下「」引用。
「わたしはかつて「原爆白書をすすめる委員会」(一九六八年)で、朝永振一郎氏(ノーベル物理学賞受賞者)の話を聞いたとき、氏が、
「科学の進歩はつねに人類のプラスであると、われわれ科学者は信じてきた。しかし、いまやそうではない世界が生まれつつある。科学の研究に、今日、倫理観が必要となったが、その基準はどこにもない。わたしはそれを、わたしなりに、日本国憲法の前文に求めている」と話された。」
index
目 次
文沢隆一・著/風媒社1996年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「この記録をとおして、戦争を知らない人たちに伝えたいことがある。それは戦場だけが戦争ではないということである。むしろ銃後といわれた国内こそ、もっとも苛烈な戦禍をこうむったことを忘れないでほしい。」
たしかに、“兵隊と女”についてほとんど書かれてありませんね……。下「」引用。
「“兵隊と女”という関係は、どこの国でも、またどこの都市でも切り離せないもののようだが、かたかなのヒロシマに関するかぎり、なぜか触れてはならないもののように思える。また実際、あれほど多くの被爆体験記が書かれているなかで、それらしい女性の手記は一篇もない。ただ、楼主の被爆手記(『被爆体験記』朝日新聞社昭和四○年刊)に、あわれな女郎の逃避行が描かれているのを、わたしは一度読んだことがある。そのとき、かの女たちもようやく苦界から解放されて、自由の身となったようだが、被爆したからだで、はたして無事に故郷にたどりつけただろうかと、いまになって案じられる。」
もくじ
学徒動員と工場勤務でも、学校の経費を払っていたという。下「」引用。
「給料は日給五○銭、残業手当や夜勤手当をいれて、だいたい月九○円くらいだった。そのうちから、貯金と授業料(これは『われらの記録』ではじめて知ったのだが、授業はなくても学校の経費は負担していたらしい)を支払って、手渡されるのが二五円だった。」
大田洋子ノートがあるという……。下「」引用。
「--『屍の街』の題名が三通り(ひろしま)(屍)(屍の街・壊□の村 *註・□は読み取りにくいので空白のままで残してある)に書かれる可能性があったことを、長岡弘芳氏が「大田洋子ノート」に書いている。そのなかで、「屍の街・壊□の村」というのが元原稿の正式な題名であった、と長岡氏はいっている。」
index
永井隆から生れた「燔祭論」。
この著者は、「羔(こひつじ)の思想」と呼ぶ。そして法皇も……。下「」引用。
「教皇ヨハネ・パウロ二世が広島を訪れ、原爆慰霊碑のまえでアピールを発表したとき、-略-教皇は〈平和の巡礼者〉ということばを使って、ヒロシマを核戦争を拒否する原点となることを説いている。そこには、永井隆の羔の思想と共通するものがある。」
彼らの教えではそうなるだろうとは思う……。
目次
抑止論は、軍拡論であることを著者は理解していないようだ。下「」引用。
「こうした抑止の意志はあったにもかかわらず、核兵器の限りない開発へと突きすすんだことは、人類の運命というほかない。」
ABCCの予算は、すべてアメリカ原子力委員会の予算からだったという。
戦後も属国でしかない日本政府……。下「」引用。
「いまひとつ忘れてはならないことは、ABCCの存在である。たしかに、アメリカ原子力委員会の意向によって、原爆の効果をたしかめるために設置されたものだったが、日本政府にたいして絶大な影響力をもっている。たとえば、広島市にできた原対協に類似した組織として、政府はさっそく原爆症調査研究協議会(五三年一一月)なるものをつくっている。それはABCCの責任者を加えて構成されたもので、実はこれが、原爆医療法の受皿となる厚生省公衆衛生局企画課への布石であった。
おそらく、ほとんどの人が知らないと思うが、日本政府の窓口に原爆という対策課はないのであ。原爆傷害に関しては公衆衛生局企画課がいっさいの事項を取り扱っている。」
国勢調査(五○時)の時の原爆被爆生存者の全国調査を実施。
--集計はABCCがおこない、数値だけの報告を日本政府はうけとった。
対策にも影響があったという……。下「」引用。
「なぜこういう不完全な原爆対策になってしまったのか。その根底には、原爆投下国であるアメリカ政府の意向があったものと考えられる。それが意図的であったかどうかはわからないが、原爆の障害についての専門家はABCCを除いて、当時どこにもなかった。」
index
「原爆神話」の人たちから出た対策……。
index
--人権などに配慮されるわけがありませんね……。
もくじ
「安芸文学」同人が大江を呼んだそうですす。下「」引用。
「実は、このとき大江氏を広島に呼んだのは、わたしたち広島の文学同人だった。むろん松阪義孝氏も同じ仲間だった。大江氏の話は十分くらいの短いもので、たぶんオオイヌノフグリのはなしではなかったかと思うが、わたしたちにはピンとこない、印象のうすいものだった。そのとき松阪氏が質問に立って、被爆者には指の先が白蝋化して亡くなっていく者もいるのだが、そうした人間的な悲惨さについてどう思うのかと聞いた。そのとき大江氏は、わたしはまだヒロシマのことをよく知らないので、これから勉強しますと答えた。それから五年後、『ヒロシマ・ノート』となって結実したわけだが、やはりわたしはなにかが欠けているような気がする。-略-」
index
バーバラと松原美代子の、『原爆の絵』をもってアメリカ横断したことについて書かれてある。
index
朝永振一郎のことも書かれてありました。下「」引用。
「わたしはかつて「原爆白書をすすめる委員会」(一九六八年)で、朝永振一郎氏(ノーベル物理学賞受賞者)の話を聞いたとき、氏が、
「科学の進歩はつねに人類のプラスであると、われわれ科学者は信じてきた。しかし、いまやそうではない世界が生まれつつある。科学の研究に、今日、倫理観が必要となったが、その基準はどこにもない。わたしはそれを、わたしなりに、日本国憲法の前文に求めている」と話された。」
index
目 次