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占領軍慰安婦-国策売春の女たちの悲劇-

2009年05月28日 | 読書日記など
『占領軍慰安婦-国策売春の女たちの悲劇-』
   山田盟子・著/光人社1992年

アメリカ軍が進駐した先での「慰安所」は日本だけではなかったようだ。
--しかし、強制連行・強制売春はあったかどうかはわからない……。



「江東区女性軍」強制連行……。下「」引用。

「本土決戦が叫ばれた昭和二十年(一九四五年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女性青年団埼玉第一中隊の百三人は、終戦の日に帰してもらえなかった。
「耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」
 と、お上が手早くつくった「国際親善協会RAA」(占領軍慰安婦)のうち、都内の四カ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。
 そのことは埼玉らず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍軍需工場など、他地区にも多くみられた。
 当時--天皇のために捧げてたてまつると、血の宣紙を捧げてあった娘たちは、
「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたものであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」
 占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の八月二十一日、RAAの誕生とともに二十六日には慰安婦の徴募がなされ、二十八日はRAAが宮城前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に横浜の小町園が開所した。
 RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和二十年十一月まで二万人、最盛期七万、閉鎖時の昭和二十一年(一九四六年)三月二十七日、五万五千であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。」

横須賀……。下「」引用。

「横須賀に上陸した兵は、バイラーと呼ばれる客引きに案内された。-略-
 街は建物のかげ、ボートの中、神社、学校、いたるところで性行為が見られた。
「外人が船に乗ってくるから、パンパンがよってくる。横須賀へ来た船の着くところをこわした方がいい」(『日本の売春問題』神崎清)」

子どもたちが目撃して、作文にしている……。
--小泉はこんな環境で育ったのだろうか?

自己責任は小泉政権のスローガンでしたね。直接は関係ですが……。下「」引用。

「閉鎖までの慰安所料金は、ショートで百円、オールナイトで三百円であり、RAAは充分にもうかっていた。政府融資の国策事業なのに、慰安婦たちからは部屋代、食費、衣裳、雑品、化粧品などと、昔からの廓のしきたりをむしろ越えるほど取り上げ、揚句の果てに、病気や怪我も、慰安婦の自己払いであった。」

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閣議より前に、業者たちを集めたという。下「」引用。

「前述の慰安婦指令は、閣議よりも四日も早く、広尾小学校の警視庁保安課より出されてたのだ。高橋保安課長と大竹風紀係長らが、さっそく業者を集めてかたりかけた。」

ヨーロッパでのアメリカ兵……。下「」引用。

「--いったい、ヨーロッパ派遣のアメリカ兵などの性はどうだったのだろう。
 ノルマンディ進攻直後、その近くの海岸の町に、フランス政府は数軒の米軍専用の売春ハウスを設けた。
 連日ずこい行列であった。ところが米軍司令部は、ワシントンのお叱りをおそれ、三日目に閉鎖をした。だが、従来の売春施設は使用させていた。
 エジプトでも政府が売春施設をしたとき、米軍司令部は知らん顔をして、将兵に利用をさせた。
 占領地防疫対策を庶務とするクロフォード・サムス大佐によると、
「アルジェリアやシシリーでも、それまでドイツ・イタリア軍が使用していた施設を利用してくれと、町の有力者が、うるさく押しかけてきた。
 ドイツではこのような事実はない。-略-」

調布、三鷹……。下「」引用。

「RAAの仕事では、立石は黒人用慰安所とされた。
 調布の日本楽器の建物は「調布園」として、九月十日に慰安婦三十人で開店し、三鷹はキャバレー慰安所として、ニューキャッスルが開所した。」

ペリーと女紅場……。下「」引用。

「封建的な日本でありながら、明治五年(一八七二年)の廃娼令公布のとき、娼妓の自立にかすかながらも杖をさしだされてあった。
 その年、横浜入港のペルー艦が乗せていた百数十名の中国人奴隷をめぐって、日本とペルー側に論争がおき、そのときのペルーは、日本の公私娼の人売をついた。
 日本側はひっこみがつかずに、いっとき娼妓を解放した。
 このときですら、芸娼妓のため「女紅場」が国内にできた。」

広島の被爆者……。下「」引用。

「それから、弱い立場の女にアンパ(やくざ)が喰らいつくのだった。
「私は八月六日、広島で原爆にあい、原爆で親を失い、弟は心臓麻痺で死亡、兄は戦死してました。
 私は義理の姉を追って、京都にきました。そのとき私は、蓄膿症を病んでいたので、近くの日赤で手術をしてもらうことになったので、その前に好きな乗馬を楽しもうと、丸山公園で馬に乗って家へ帰るとき、キャッチ(パンパン狩り)にあいました。-略-パンパンの狩り込みは、昭和二十一年(一九四六年)一月二十八日から東京ではじまった。GHQの要請でだが、占領軍の性病防止のためといえた。」

京都の検挙者……。下「」引用。

「京都は昭和二十三年の検挙者は二千四百二十二名であった。年齢は大正生まれが七十八名、昭和生まれがほとんどで、彼女のように十九歳から二十四歳ぐらいまでが百三十六名と一番多かった。(国家地方警察本部防犯課の資料による)」

「娘を売る光景」下「」引用。

「人売は昭和二十三、四、五年と、売春婦に売られたが一番多いとされている(労働省婦人少年局の調査による)。」








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