磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ドクター・ジュノー 武器なき勇者

2006年08月13日 | 読書日記など
『ドクター・ジュノー 武器なき勇者』
    大佐古一郎・著/新潮社s54年

戦後の広島を助けてくれたドクター・ジュノーのことを
書かれた本で、現実とはこんなものだなあーと思うことも。



表紙の裏にまとまりよく書かれてあります。下「」引用。

「マルセル・ジュノー
 一九○四年スイス・ヌーシャル州ラ・ショー・ド・フォンのプロテスタント牧師の家に生る。母方は十八世紀の有名な科学者の末裔で、貴族の出身。ジュネーブ大学医学部で外科学を専攻し、卒業後七年間、フランス・ミュルーズ市民病院に勤務。一九三五年国際赤十字事務総長の要請により第二次世界アビシニア戦争に参加、以後、国際赤十字人としての生活に入り、スペイン市民戦争や欧州戦線などを経験。一九四五年、敗戦直前の日本に入国、ヒロシマの惨状を知るに及びGHQに強く交渉し、広島市民数万の生命を救った。その後ユニセフ(国連児童基金)の代表として国共内戦下の中国に渡り、孤児や難民の救済に当る。一九五一年ジュネーブ大学医学部教授。傍らICRC(国際赤十字)のメンバーで活躍。一九五九年副委員長の肩書で来日し、北朝鮮引揚げ問題の国際的解決に尽力す。一九六一年心臓発作で死去。その五十七年にわたる武器なき戦いの生涯は本書にくわしいが、一九七九年九月博士の国境を越えた日本人への貢献と業績を記念して、広島市平和記念公園内に碑が建てられた。」


こんな間違いもあるんだなあーと驚きました。
著者が『広島昭和二十年』という本で、ジュノー博士の死を昭和二十年九月十九日と書く。

同姓同名の方と勘違いされたようです。

この著者は県庁の衛生課に勤務されていた方です。
それで、マルセル・ジュノーさんと関わりをもたれたそうです。

蝿がたくさん、生きている被爆者に卵をうみつけて、肉にたくさんのウジ虫がわいたという表現がよくされていますね。

ジュノー博士はこのままではいけいなとDDTを撒くように米軍に要請されたようです。

今では、DDTは健康によくないといわれますが、この当時なら使用することは良い判断だと思われます。

ジュノー博士は乾燥血漿、ペニシリン、サルファ剤、DDT等最新の医薬品の数々を持ってきてくれたそうで、産婆さんは「アメリカの薬はたいしたものです」と感嘆したそうです。

男尊女卑という言葉もありますが、官尊民卑というのは当時もそうであったようです。下「」引用。

「警官もいっしょだったが、あの連中は車があるんで、白米を田舎から持ってきて食べていましたが、私たちは玄米でした。もっとも玄米でも口に入ったんだから私たちはまだよかった……」


アビシニア戦争では、ドクター・ジュノーは毒ガスによる殺戮をみてこられたようです。

スイス大使は、マッカーサーは日本人のことを知らないが、マルセル・ジュノーはよく知っていると話したそうです。




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