磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

あのとき閃光を見た 広島の空に

2009年01月03日 | 読書日記など
『あのとき閃光を見た 広島の空に』
   広島市教育委員会事務局社会教育部社会教育課・編/
     広島市教育委員会1986年

「発刊のことば」に書かれてあります。下「」引用。

「いま、広島市は、ヒロシマの体験が、過去の単なる歴史の証というだけではなく、人類の未来への限りない警鐘であることを全世界に訴えるとともに、この地球上に住むすべての人間の反省として、体験を語り伝え、平和の確立を叫んでいます。-略-このたびの被爆体験集「あのとき閃光を見た 広島の空に」の発行も、こうした事業の一環として実施するものであります。-略-幸い多くの市民のみなさんのご理解をいただき、新たに結成された公民館学習グループが自らの学習活動として聞き取りなどの調査をし、原稿にまとめてくださいました。この冊子には、一発の原子爆弾の炸裂が直接被爆していない地域においても、いかに市民生活を破壊し、影響を与えたかについて生々しく述べられております。被爆四十執念を迎えたいま、この事実を書きとどめておくことは、犠牲者に対する慰霊でもありましょう。-略-
   昭和六十一年三月
      広島市教育委員会 社会教育部長 森脇昭之」



「軍用機「福木号」の献納」のことが書かれてあった……。

--福木村は今では広島市東区のようだ。

原爆投下時の福木村の人たち。下「」引用。

「耳の遠い年寄りが「炭釜がはじけたんか」と言った程の大きい音であった。」

「福木国民学校の場合」……。下「」引用。
「・治療しようにも薬もないようで、油をつけたり、学校にあった赤チンを使いました。
・誰かが、やけどにはキュウリの汁がいいと言ったので、キュウリを切ってはその汁をつけて歩いた。-略-
・キュウリのほかにじゃが芋をすってやったり、黒焼きにしてやっても、べちゃべちゃ(やけどの傷)が乾かんかった。-略-人灰(遺体を焼いた後の骨粉片)をつけちゃったそうで、それがいっちゃん(一番)ようきいたんじゃけえ。傷がなおって聞かされんよ。」

こうもり傘が助けたくれたという。
中筋の自宅から、十日市の市場へ。牛車を押すのは長男。下「」引用。

「暑い夏の日ざしをさえぎるために牛車にはこうもり傘を親子を助けてくれたということです。暑い夏の日ざしをさえぎるために牛車はこうもり傘をのせていました。当時、こうもり傘は貴重な物で物資不足の時代には配給があるまで、めったに手に入らないものでした。だから少々の暑さでは使わないように大切にしていました。
 暑さの厳しさを増す昼前ちかくから使うのが常でした。その日に限って、いつも抱いている次男をしっかり背負い、しかも日よけの、こうもり傘をさしていたのです。
 そのために、母子ともに火傷も負わず、牛車から転落した時にも、子供を吹き飛ばさずにすみました。後日、雨ふりに、このこうもり傘をさした時、雨水がもってくるのに気づきました。傘を調べてみると中心の三十センチくらいがまるくこげて、防水がなくなっていたのです。この薄い布が熱線による火傷から子どもを守ってくれたのだと思います。」

当時の食料事情……。下「」引用。

「なお、広島県農政課の、昭和二十年度未利用資源計画表によると、ヨメナ、ヨモギ、ハコベなどからイナゴに至るまで、三十七品目があげられ、それぞれ出荷計画数量、採集時期、利用部分、処理方法、加工方法、用途が、こまかく記載されていた。現在の感覚で見ると、「こんなものまで食べられたのか」と、驚くばかりである。」

落下傘三個は可部町亀山に落ちたという……。

今では可部町は広島市安佐北区だという。

「さよならヨンスン君」というタイトルの文章があった。下「」引用。

「彼は私の担任ではなかったから、日本名を何と付けていたか? どんな字でヨンスンと書いているのか知らない。彼は学校中のアイドルで、教師も児童たちも「ヨンスン君」と呼んだ。」









Index

Index





エンタメ@BlogRanking



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。