突然だが、僕は伏見稲荷大社が好きである。
朱の鳥居の無限回廊と神社のもつ不思議な感じが好きだからである。
神社巡りなどをしていると、稲荷神社と名のつく所は、
たいていきつねの像があり、神の使いとして祀られている事に気付く。
「稲荷」と「きつね」の両者の結びつきについて気になったので
少し調べてみた。
「稲荷」という言葉は字が示す通り、稲に由来している。
「稲成り」が変形したものらしい。
田を育て米を収穫することは、近世以前の農民にとって
暮らしそのものであったと言える。
その一方、人家周辺の野山に巣穴を作り、
稲穂の垂れる喜びの季節に
田と同じ黄金色の姿を見せるきつねの存在は、
実りをもたらす神の使いと考えられたのかもしれない。
ところで「きつねうどん」とは、油揚げ入りのうどんの
事であるが、きつね=油揚げとされるのも、一説によれば
こうした事情が関係しているらしい。
つまり、当時の農民にとって最高のご馳走であった
「油揚げ」を、感謝を込めて地域の稲荷神社に奉納する、
それがいつしか、使いであるきつねにも分け与え、
きつねにとってもそれは好物であろうという
認識に変化したのだと言う。
それから、きつねと稲穂の例のように、両者とも黄金色で
あったことも関連づける理由のひとつであったかもしれない。
同様のことは、いなり寿司と稲荷神社ときつねの繋がりに
ついても成り立つだろう。
結局、油揚げの形態変化なので説明は省く。
さらに余談だが、「たぬきうどん」が「天かす入りうどん」なのは、
天ぷらの中身が無い様子がたぬきに化かされているのようだから
だそうだ。
「きつねうどん」はお揚げが「入っているうどん」であるのに対し、
「たぬきうどん」は天ぷらが「入っていないうどん」というわけだ。
農耕民族の暮らしそのものであり財産である田、
収穫をもたらす神の使いであるキツネ。
それだけ身近な存在であったきつねも、近頃は見かけない。
僕の場合は、この間長野の山奥で偶然出くわしたのが
22年生きてきて最初である。
別に都会のど真ん中に暮らしているわけではないし、
むしろ大山崎は自然が多い地域に属するだろう。
しかしあくまでもそれは「自然の近く」に暮らしているのであって、
昔の日本人のように、「自然の中」で生活をしているわけではない。
そんな事を考えた。
朱の鳥居の無限回廊と神社のもつ不思議な感じが好きだからである。
神社巡りなどをしていると、稲荷神社と名のつく所は、
たいていきつねの像があり、神の使いとして祀られている事に気付く。
「稲荷」と「きつね」の両者の結びつきについて気になったので
少し調べてみた。
「稲荷」という言葉は字が示す通り、稲に由来している。
「稲成り」が変形したものらしい。
田を育て米を収穫することは、近世以前の農民にとって
暮らしそのものであったと言える。
その一方、人家周辺の野山に巣穴を作り、
稲穂の垂れる喜びの季節に
田と同じ黄金色の姿を見せるきつねの存在は、
実りをもたらす神の使いと考えられたのかもしれない。
ところで「きつねうどん」とは、油揚げ入りのうどんの
事であるが、きつね=油揚げとされるのも、一説によれば
こうした事情が関係しているらしい。
つまり、当時の農民にとって最高のご馳走であった
「油揚げ」を、感謝を込めて地域の稲荷神社に奉納する、
それがいつしか、使いであるきつねにも分け与え、
きつねにとってもそれは好物であろうという
認識に変化したのだと言う。
それから、きつねと稲穂の例のように、両者とも黄金色で
あったことも関連づける理由のひとつであったかもしれない。
同様のことは、いなり寿司と稲荷神社ときつねの繋がりに
ついても成り立つだろう。
結局、油揚げの形態変化なので説明は省く。
さらに余談だが、「たぬきうどん」が「天かす入りうどん」なのは、
天ぷらの中身が無い様子がたぬきに化かされているのようだから
だそうだ。
「きつねうどん」はお揚げが「入っているうどん」であるのに対し、
「たぬきうどん」は天ぷらが「入っていないうどん」というわけだ。
農耕民族の暮らしそのものであり財産である田、
収穫をもたらす神の使いであるキツネ。
それだけ身近な存在であったきつねも、近頃は見かけない。
僕の場合は、この間長野の山奥で偶然出くわしたのが
22年生きてきて最初である。
別に都会のど真ん中に暮らしているわけではないし、
むしろ大山崎は自然が多い地域に属するだろう。
しかしあくまでもそれは「自然の近く」に暮らしているのであって、
昔の日本人のように、「自然の中」で生活をしているわけではない。
そんな事を考えた。