最近、色んな人とケンカする。
友人も知り合いも何もない人生なのに
こんなに人とぶつかりまくるというのも
考えてみると不思議だ。
誰かが客観的に見てよろしくない行為をしているとき、
それは正されるべきで、その最もよい方法は
「目には目を」だと思っている。総合的に考えて
それに勝る方法はない。「目には目を」を実践
しようとすると、必然的に相手とケンカになる。
日本人は争いを避けすぎている。避けた結果
解決せず被害が拡大している案件が無数に存在する。
ケンカ、すなわち痛みを伴って当事者同士が真剣に
交渉することで、解決または改善に向かう物事は
たくさんある。この事の有用性に早く気づくべき。
もともとそんな頻度高いわけではなかったが、
最近はtwitterにも投稿するようになったため
ブログ更新頻度が落ちた。
どこかで発散できれば、それで満足するみたい。
漫画の話。
カバーしてないジャンルや、WEBの零細な作品まで
含めるときりがないものの、主だったものはだいたい
把握してしまったような気もしていて、若干退屈している。
あっと驚かされるような作品をまだまだ読みたい。
日曜の朝っぱらから約3時間
引越しするわけでもないのに
それ並みの物音を立てている
直下の部屋の住人、やっぱり頭おかしい。
日本は極めて秩序立った社会である。
これは相互にしっかりルールを守るからこそのものである。
誰かがルールを破るときその人間は、他者から
高いサービスを受ける上に、自分は義務を果たさないという
良いとこどりとなり、反対にその他の人間は
自分の義務は課せられる上に、一部の人間から迷惑を
かけられるという最悪の状態に陥る。
だからこそ日本においては、ルールを破る人間をより
厳しく制裁する必要がある。
会計上の のれん(営業権)という概念、
どうも嘘くさい。構成資産の時価以上で
事業を購入するのは、プラスアルファの無形の
営業権に期待したからではなく、単に足元を
見られたり、交渉が下手だったからなのではないか。
価格をつり上げて購入すればするほど、営業権として
資産がどんどん積みあがるというのは訳の分からない理屈だ。
それにそもそも、従来からの自社の商売については
全く営業権など計上することなく、事業買収やM&Aの
場面でのみ突如として登場するのも違和感がある。
どこの会社だって、過去からの歴史で営業ノウハウとか得意先とか
当然持ってるはずなのに、そういうのについては全く評価せんのは
釈然としない。片手落ち的だ。
訳の分からんものを資産計上するから、結局立ち行かなくなって
ある時急に費用化せざるを得なくなる。それだったら、当初から
コストとして認識した方が素直ではないか。M&A・事業買収には
多額のコスト(費用)がかかるものだと、一目瞭然、分かり易い。
結婚式の祝い金や葬式の香典を貰った場合の
課税関係ってどうなってるんやろうと思って調べた。
「贈与を受けたケースに該当するが、例外として非課税」
扱いらしい。税務当局にしてはめずらしく、温情のある沙汰である。
http://www.fukuikaikei.com/blog/?p=578
引用:相続税基本通達21の3-9
「個人から受ける香典、花輪代、年末年始の贈答、祝物又は
見舞い等のための金品で、法律上贈与に該当するものであっても、
社交上の必要によるもので贈与者と受贈者との関係等に照らして
社会通念上相当と認められるものについては、贈与税を課税しない
こととする。」
贈与税って相続税法の中の一節なんやな。知らんかった。
柳本光晴節全開。勧善懲悪な話。
日本人こういう明快な主人公像好きそう。
これがウケるなら、「女の子が死ぬ話」も
ついでに売れて欲しい。
この人の作品のキャラクターは、どうも性格と行動の間に
ちぐはぐさがうかがえる。慣れていない役者による演目
を見てるみたいというか。
持ち味の一つである、死を最上の美と崇めるセンスは、
それはそれで成立してはいるけど、やっぱり現実の人間というのは
もっと複雑で綺麗なもんじゃないから、そういった辺りが感じ取れると
一層物語に深みが出そう。
天才小説家を描いたストーリーやけど
肝心の小説部分には一切触れないという構成を取るならば、
キャラクターの性格をより一層掘り下げる必要がある。
破天荒な若き天才という設定は分かったけど、それをどう
描写するかが物語なんじゃないのか。
絵も下手な方やと思うし、この人独力では自ずから限界があるのかも
しれん。いっそ、原作者に専念して、構成力のある
作画担当とコンビ組んだら、もっと面白いもんできるかも。
4巻以降、一気にエンターテイメント作品臭が強くなってきた。
ゴールデンタイムにぼーっと観る2時間ドラマみたい。
これ面白いなあとは思うけど、観終わった後には綺麗に
内容忘れてしまっているような感じの。
柳本さんは、小説で言うなら純文学みたいなスタンスの作風やと
思うし、エンタメ作品を描くのはちょっと違うような気がする。
歩きタバコ、本当にここ一ヶ月ほどで急に頻繁に
見るようになったが、何かあったのか?
今日だけでも3人見た。
従来、全く見かけなかったのに、ここへ来て
一斉にやり始めたということは、日本が
歩きタバコを黙認する社会だと、彼らに認識されて
しまったということだ。これは大きな問題である。
歩きタバコをするような奴は、そもそも底辺の人間で、
そいつらがデカい顔をするのを許してしまう社会であることが
問題の根幹である。
ウェストミンスター寺院の鐘、いわゆるチャイムの音、
考えてみれば、物心ついた頃からずっと聞いている。
幼稚園、学校、職場。始業と就業、昼休みと。
これは日本人の精神にすり込まれたものと言って良く、
チャイムの音によって、人の心を操ることも可能なのではないか。
犯罪を抑制したり、性交やギャンブルを促すなど。
エクセル式のメンテなどで、アルファベットの通し番号を打つ場面があり、
ちょっとしたものは手入力で直してしまうのだが、よく順番が分からなくなる。
仕方ないので、ABCの歌を頭の中で口ずさんで都度思い出しているのだが、
こんなレベルの奴に、外国人とやりとりする業務やらすのは、全く間違いと言う
他ないと思う。
出勤時に右側の視界が眩しく、見づらいと感じた。
例の片頭痛の症状(閃輝暗点)だということが理解できた。
かぜぐすり(イブプロフェン)により症状は次第に回復に向かったが
1時間くらい仕事にならなかった。
片頭痛の恐ろしいところは、頭痛や視野狭窄だけでなく
言葉がうまく出てこなくなる点にある。
一時的な失語症状態。
言葉により、異変を周囲に伝えられないというのは、相当な恐怖感がある。
寝不足がすぐ体調に反映されてしまう。
しかし平日は24時間では少し足りない。
ジレンマだが、体を優先するしかなく、口惜しい。
無念の一日。
ココイチのチキンカツカレーって
こんなにマズかったか。
カツに風味が全く感じられない。
弾力のある無味無臭の白い固まりのような。
飯食って頭痛くなるというのは久しぶり。
口直しに、ヨーグルト食べよう。
体が重だるい。今年の春は特に、気温や天候に
メンタルが影響されがち。4月に入って寒さが緩んだのと
時を同じくして、ぼーっとしていたり、開放的になっている人を
多く見るようになった。
人間も生き物だということをつくづく感じる。
シン・ゴジラの、自衛隊による迎撃作戦のくだり、
いつも見入ってしまう。完璧に統率された中でエスカレートしていく攻撃、
機能美を感じる。ピタゴラスイッチを視聴したときの感覚に近い。
「新社会人に向けひとこと」
っていうタグをtwitter上で見かけた。
もし僕が意見するなら、
「会議はできるだけ拒め」かなあ。
日本は、内容の薄い&無意味に出席者が多い会議が
多すぎる。それに1時間、2時間割かれるなら、デスクワークするなり
何なりしてた方が効率的。
多くの場合従業員には、会議が全くないと仮定した場合に
やっとこなせるくらいの分量の仕事が与えられている。
つまり、会議に出たら、その分だけ残業が発生すると考えてよい。
すなわちそれは、定時後に打ち合わせをしているのと実質同じという事。
残業してまでする必要のある会議など、めったに無い事は明白。
ここへ来て一気に暖かくなり、
気が緩んだのか、歩きタバコをしている人を
最近多く見かける。
タバコの灰が飛散して目に入るリスクが
高く、大変危険。
歩きタバコをしている奴には、火を押し当ててもよい
などの法整備をして欲しい。
アニメ版は見た事あったけど、原作ちゃんと読んだことなかった。
やはり志村貴子は少女漫画家だとあらためて感じた。
恋愛を中心に人生が回っているという作品世界は
少女漫画ならではであり、独特のもんがある。
行動・しぐさの一挙一動から、相手の心理を無限に慮る。
そういう風に振舞えるというのは、少女達が学校と家庭という
保証された身分の中に居るからこそであり、多くの場合
人生において限られた期間だけの夢物語のようなものだ。
考えてみれば、恋愛は、余暇があるから生まれるもので、
そのような世界は理想的な平和郷なのかもしれない。
とうとうと月日は流れ、花の高校生活は呆気なく終わりを迎える。
卒業式のシーンの清々しさは、まさに青い花の世界そのものだった。
凛とした美しさと強さを感じた。
全体的に、思春期の子供の話にしては、理性的過ぎるような印象を
受けたが、それが作品全体の美意識を高めているようでもあった。
百合は、フィクションの中にあってこそ映えるというか、
一種、理念的な愛情の形なのだと思う。