11月4日(日) 快晴
レストランの朝食
船内2箇所のレストラン。朝食と昼食はビュッフェスタイルで、それぞれ2時間オープンしています。
朝食は7:00から9:00までですから、寝過ごすと食べれませんが、夜更かし組には深夜の夜食タイムもあります。洋食は温かいおかずが6種類、パン5種類、チーズ2種類、サラダ3種類、果物数種類、ジュース2種類、牛乳、ヨーグルト、スープなど。もちろん純和風の朝食も可能です。ご飯の他におかゆも準備されています。海苔、納豆、冷奴、漬物、生卵、焼き魚、味噌汁。コーヒー、紅茶、緑茶もお代りは自由です。
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盗まれた進化論
1831年から1836年までの5年間、ダーウインを乗せたビーグル号は世界1周の調査航海をした。ビーグル号は全長30m、全幅7.5m、乗員74名で、当時としては優れた観測と調査の設備を備えていた。主要な目的は南米南部海岸の地形測量であった。32年と34年は南米の調査をして、35年にはペルー、ガラパゴス、タヒチ、ニュージーランド、36年にはオーストラリア、モーリシャスを巡った。ダーウインはアルゼンチンのパンパで大型絶滅動物の化石を目にして、またガラパゴス諸島では島ごとに異なる進化を遂げた近縁種の生物を見て衝撃を受けた。イギリス帰国後彼は「ビーグル号航海記」を著す。
ウオーレスは1848年から4年間、アマゾン河流域で探検、調査した。更に1854年から1962年までをインドネシアで過ごした。
自然淘汰説はダーウインの進化論の基本であり、生物学上の1大発見とされている。しかしその考えはウオ―レスの方が先に確立し、論文にまとめている。
ウオーレスの「種の変遷に関する論文」いわゆるサラワク法則は、1855年にイギリスの学会誌に発表されている。続いて彼は「変遷がもとのタイプから無限に達する傾向について」いわゆるテルナテ論文を1858年2月に書き、ダーウインに送った。そこには種の進化のメカニズムが解き明かされていた。
進化理論の創設者になりたかったダーウインはフッカー、ライエルなど有力者に相談をして、大急ぎで短い要約を書き、1858年7月1日、リンネの学会でウオーレスの論文とともに発表した。ダーウインの要約には特に目新しいことはなく、ウオーレスの論文はダーウインの考えより更に1歩進んでいたものだった。しかしダーウインは翌年「種の起源」を出版し、進化論の確立の名誉は彼が独占することになった。彼がウオーレス論文にひどい衝撃を受け、思い悩んだことは、有力者への手紙で明らかであったのに、「種の起源」にはウオーレスの業績には一言も触れていない。
ダーウインは富と名声の中で一生を終えたが、ウオーレスは貧乏のままであった。それでもダーウインの奔走で1881年からは200ポンドの恩給をもらえる身分になった。
読書: 「Down Under」 Bill Bryson
レストランの朝食
船内2箇所のレストラン。朝食と昼食はビュッフェスタイルで、それぞれ2時間オープンしています。
朝食は7:00から9:00までですから、寝過ごすと食べれませんが、夜更かし組には深夜の夜食タイムもあります。洋食は温かいおかずが6種類、パン5種類、チーズ2種類、サラダ3種類、果物数種類、ジュース2種類、牛乳、ヨーグルト、スープなど。もちろん純和風の朝食も可能です。ご飯の他におかゆも準備されています。海苔、納豆、冷奴、漬物、生卵、焼き魚、味噌汁。コーヒー、紅茶、緑茶もお代りは自由です。
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盗まれた進化論
1831年から1836年までの5年間、ダーウインを乗せたビーグル号は世界1周の調査航海をした。ビーグル号は全長30m、全幅7.5m、乗員74名で、当時としては優れた観測と調査の設備を備えていた。主要な目的は南米南部海岸の地形測量であった。32年と34年は南米の調査をして、35年にはペルー、ガラパゴス、タヒチ、ニュージーランド、36年にはオーストラリア、モーリシャスを巡った。ダーウインはアルゼンチンのパンパで大型絶滅動物の化石を目にして、またガラパゴス諸島では島ごとに異なる進化を遂げた近縁種の生物を見て衝撃を受けた。イギリス帰国後彼は「ビーグル号航海記」を著す。
ウオーレスは1848年から4年間、アマゾン河流域で探検、調査した。更に1854年から1962年までをインドネシアで過ごした。
自然淘汰説はダーウインの進化論の基本であり、生物学上の1大発見とされている。しかしその考えはウオ―レスの方が先に確立し、論文にまとめている。
ウオーレスの「種の変遷に関する論文」いわゆるサラワク法則は、1855年にイギリスの学会誌に発表されている。続いて彼は「変遷がもとのタイプから無限に達する傾向について」いわゆるテルナテ論文を1858年2月に書き、ダーウインに送った。そこには種の進化のメカニズムが解き明かされていた。
進化理論の創設者になりたかったダーウインはフッカー、ライエルなど有力者に相談をして、大急ぎで短い要約を書き、1858年7月1日、リンネの学会でウオーレスの論文とともに発表した。ダーウインの要約には特に目新しいことはなく、ウオーレスの論文はダーウインの考えより更に1歩進んでいたものだった。しかしダーウインは翌年「種の起源」を出版し、進化論の確立の名誉は彼が独占することになった。彼がウオーレス論文にひどい衝撃を受け、思い悩んだことは、有力者への手紙で明らかであったのに、「種の起源」にはウオーレスの業績には一言も触れていない。
ダーウインは富と名声の中で一生を終えたが、ウオーレスは貧乏のままであった。それでもダーウインの奔走で1881年からは200ポンドの恩給をもらえる身分になった。
読書: 「Down Under」 Bill Bryson
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