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代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

幕末の議会思想と赤松小三郎の位置づけ ―『講座明治維新 第2巻』の紹介

2013年04月09日 | 赤松小三郎
 ブログ「本に溺れたい」の管理人のrenqingさんから「幕末の議会思想小史」という記事のTBをいただきました。渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』(4)(平凡社東洋文庫)より「公議政体希望の思想」の部分を紹介されています。下記記事をご参照ください。

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2013/04/post-fa77.html

 渋沢は、坂本龍馬に先立つ幕末の公議政体論の系譜として、阿部正弘、横井小楠、大久保一翁、フランス人モンブラン、そして赤松小三郎を紹介する。

 渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』といえば、私は飛鳥山の渋沢栄一記念館で展示品を見たのみで、その中身を読もうと思ったことは全くなかった。renqingさんの記事を読み、その記述内容の公平さに感嘆し、さすがは渋沢栄一だとあらためて尊敬の念を抱いた。

 渋沢は、日本人の議会思想を概括し、「蓋(けだ)し気運の然らしむる所、欧洲思想の模倣とのみは言ふ能(あた)はざるなり」と総括している。この記述にも拍手喝采を送りたい。赤松小三郎の政体構想が、決して西洋思想の受け売りではないことを私も前に書いたが、渋沢栄一もそのことをよく理解していた。

 さて、不思議なことがある。渋沢栄一ほどの実力者が、大正時代に正しく評価し位置づけていた赤松小三郎の建白書、なぜ戦後になって歴史学者は忘れ去ってしまったのだろう。

 狭い学者のコミュニティの中で、ひとたび主流派による「言説」と「物語」が形成されると、「正統的」学説にとって都合の悪い事象は、忘却されざるを得ないのだろうか。これは歴史学のみならず、他の学問分野でも見られることだ。私が現在苦闘しているところの森林保水力問題に関する「言説」形成も同じ構造である。
 

 最近、明治維新史学会(編)の『講座明治維新 第2巻 幕末政治と社会変動』(有志舎、2011年5月刊)を読んだ。この本は、既存の学説で、「言説化」されてきた事象の理解を問い直す内容の野心的な論文集であった。例えば「幕府」や「藩」という言葉も多分に言説だという。これは驚きであったが、読んでみると「なるほどそうだ」と思った。ぜひ、多くの方々に読んでもらいたい。

 私は、2010年に江宮隆之氏の小説が出版されたのを契機に「なぜ歴史学者は、赤松小三郎の建白書の存在を無視するのだろう」と愚痴りながら、紹介記事を何本か書いた。それ以前に、この本が出版されていたら、私は決してあのようには書かなかっただろう。

 管見の限り、この本は、戦後に書かれた明治維新研究者たちの手による正当な歴史書の中で、初めて赤松小三郎の建白書の持つ明治維新史上の意義を、積極的に位置づけたものである。

 
 編者の青山忠正氏は「土佐の提案に含まれる上下両院による議院制について、薩摩側がどう受け止めていたか、といった政体構想の内容的な理解の仕方やきっかけについては、まだ見落とされていた部分があったように思う」と率直に述べられた上で、「この点について大きなヒントを与えるものが、・・・・・五月に赤松小三郎が、久光および春嶽に呈した建言書である」と述べ、当時の政局に赤松の建白書が与えた影響を論じている(前掲書、225頁)。

 どうしてもひいき目になってしまう私の解釈以上に、青山氏は赤松建白書のインパクトを大きく評価している。正直驚いた。詳しくはぜひ現物を読んでほしいが、少しだけ内容を紹介させていただきたい。
 

 私も不明であったが、小三郎は、春嶽のみならず島津久光にも、ほぼ同じ内容の建白書を提出していた。既存の赤松小三郎に関する文献は、春嶽への建白書ばかりが取り上げられ、島津版に関しては取り上げてこなかった。私も島津版を知らなかった。

 青山氏が紹介する久光への提出版(「玉里島津家資料」)は「数件御改正の儀申し上げ奉り候口上書」となっており、「御改正之一二端申し上げ奉り候口上書」という春嶽への提出版と、タイトルが若干異なっている。

 春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』を見ると、小三郎が春嶽に会った慶応3年5月17日、春嶽は、島津久光、山内容堂、伊達宗城と会議を持ち、長州藩の寛大処分案を話し合っている(四候会議)。その会議の後、春嶽が帰宅したところに小三郎が訪れ、建白書を提出している。春嶽はさぞ疲れていたであろうに、よく小三郎と会ったものだと思う。
 
 このタイミングを見ると、小三郎は「四候会議」の日程に照準を合わせて建白書を準備したのであろうことがうかがわれる。久光には、この前後に同じものを提出していた(私の推測では、人間関係の近さから考えて、久光への提出は春嶽の前だろう。小三郎は、他の二候にも出したかったかも知れないが、土佐藩士や宇和島藩士に弟子はいなかったので容堂と宗城への提出は難しかったのだろう)。

 いずれにせよ、土佐が翌6月下旬に上下両院制の議会政治を取り入れた大政奉還構想を薩摩に提示した際、薩摩はすでに小三郎を通してその案を提示され、内容を十分に理解し、受け入れの準備ができていたのだ。

 さらに青山氏は以下のように推論する。小三郎がその案を5月の段階で薩摩・越前に提示していたということは、薩摩と越前の側から、土佐・安芸・尾張などにその案を伝えていた可能性が高い。つまり土佐藩の政体構想そのものが、赤松案を参考にした可能性も大きい(前掲書、229頁)。

 こうなると、坂本龍馬から後藤象二郎に船中八策が提示され、容堂もそれに同意して大政奉還構想を藩論としてまとめ、それが薩摩に提示されたという、これまでの「常識」がひっくり返る。
 

 青山氏は、「端的に言って、『船中八策』は史料として信憑性が低い」「(明治になって)『坂本龍馬像』が形成されるとき、そこには赤松の事蹟が少なからず投影されているように思われる」とまで述べている。(前掲書、230頁、231頁)

 青山氏の論文を読んで分からない点は、5月の時点で久光も小三郎案に同意していたのに、なぜ薩摩は小三郎暗殺に踏み切ったのか、そして、その間の薩摩の藩論の迷走の背後に何があったのか ―この疑問である。

 今後の研究の進展に期待させていただきます。   
 
 

 


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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青山忠正氏 (renqing)
2013-04-10 11:20:02
青山忠正氏、気骨のある研究者のようです。ご紹介ありがとうございます。青山氏には、単著の最新作もあるようです。下記。
青山忠正 『明治維新 (日本近世の歴史6)』吉川弘文館2012年10月刊
とりあえず、青山氏のもの何か読んでみます。
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renqingさま ()
2013-04-14 23:35:12
 コメントと興味深いトラックバックありがとうございました。やはり「幕府」というバイアスのある言葉を使っていた時点で、私も知らず知らずのうちに洗脳されていたようです。
 今後は、なるべく「江戸時代のご公儀」などと呼ぶように気を付けたいと思います。しかし、これだけ一般的な歴史学術用語になると、結構、実践するのは難しそうですね。「なるべく」ということで。
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一応、ということで (renqing)
2013-04-21 02:16:35
関 様

「江戸時代のご公儀」は、気を使いすぎかも・・・。
「公儀」「公儀権力」で十分でしょう。または、中立的に「徳川政権」でもよろしいかと。

むしろ、「江戸時代」という語彙が、見えないバイアスを仕掛けているかも知れません。史学史的に追いかけたことはないのですが、これも明治の学術体制が構築される中で、意図的に定着を図られた可能性があります。そのため、私はどちらかというと「徳川期」「徳川日本」と言うようにしていますが。それでも、気にしすぎると何も語れなくなりかねないので、程度問題の面もあります。
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renqingさま ()
2013-04-27 22:16:25
 了解です。
 最近出た三谷博他編『大人のための近現代史 ―19世紀編』(東大出版会)を見ていたら、幕府・朝廷という言説は使わずに、ふつうに公儀と禁裏という当時使われていた言葉で表現していました。この使い方に慣れれば、とくに違和感なくなるでしょうね。
 
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