代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

大河「真田丸」が描こうとするもの ―室賀氏の紹介などをかねて

2015年08月07日 | 真田戦記 その深層
 来年度の大河ドラマ「真田丸」への期待が高まっているようだ。先月に「真田丸」の主要キャストが発表になった。主に俳優たちの豪華な顔ぶれが話題になっていたようだったが(いちばんの話題になっていたのは本多忠勝役の藤岡弘さん?)、それにもまして実在した主要登場人物たちの顔ぶれも意外性が高く、かなり興味深かった。

 まずドラマのヒロインが、真田昌幸の家臣の高梨内記の娘で真田信繁(後の幸村)の側室の「きり(実際の名前は不詳。演じるのは長澤まさみさん)」と発表された。これはビックリだった。信繁初恋の人という設定で、地侍・堀田作兵衛の妹も主要登場人物になっていた。「初恋の人」と書いてあるが、要するに側室の一人である。主要登場人物にすでに側室が二人・・・・・。

 歴代大河ドラマで、側室がヒロインになったことはあったのだろうか? 私の記憶にはない。初めてなのではないだろうか。そもそも近年のNHK大河は、側室をなるべくドラマに出さずタブー視する傾向があった。今回はそのタブーを破って、側室をヒロインにする ――「側室」という言葉も使わず、「信繁の生涯のパートナー」とか「初恋の人」といった現代的な自由恋愛をイメージする表現を使って・・・・・。

 信繁(幸村)正室の竹林院は大谷吉継の娘であり、他の側室には関白豊臣秀次の娘である隆清院もいた。大河ドラマでは、それら中央政界のきらびやかな有名人たちよりも、地方の地侍層などの民衆の姿に焦点を当てようということだろう。

 正室の竹林院は豊臣秀吉が信繁に紹介した多分に政略的な結婚と思われるが、他の信繁の側室は、罪人である前関白秀次の娘の隆清院も含めて、自由恋愛だった可能性も高い。地侍の娘から関白の娘まで・・・・身分の格差を超えて、人間として平等に女性と接しようとした信繁の愛が描かれるのであろうか。あえて側室タブーを破って、NHKがこの大河ドラマに賭けたチャレンジングな姿勢が伝わってくる。

 じつは、上田にある私の母校の関東地方の同窓会の会長さんがヒロインの父の高梨内記のご子孫である。6月27日に行われた母校の同窓会で、「真田丸」のチーフプロデューサーの屋敷陽太郎さんにご講演いただいた。屋敷さんは「会長さんのお名前が高梨さんなので、もしやと思ったのですが、やはりそうだったのですね。会長の御先祖さんの高梨内記は重要な役どころで出ます。役者さんが誰なのかはまだ言えないのですが、会長さんにそっくりな方です」と「極秘情報」をひとつ漏らして行かれた。その高梨内記を演じるのは中原丈雄さんであることが後に分かった。

 ちなみにその講演会の様子、同窓会のHPからリンクしています(2015年6月29日配信の記事)。
 http://uedakant.sakura.ne.jp/
 高梨会長の写真もリンク先にあるので、本当に中原丈雄さんに似ているかどうかも確かめられます(^^;。

 さて、これら主要登場人物の顔ぶれをみると、脚本の三谷幸喜さん、戦国の村々で文字通り「一所懸命」に生きていた地侍層など民衆の姿を躍動的に描き出そうとしているのだということが伺われる。

 ちなみに真田昌幸は、豊臣政権下でも検地を実施せず、兵農分離も行わず、元来からの地侍(=ふだんは百姓)の土地所有権はそのまま、石高制も採用せず貫高制のままであった。以前の研究では、在地掌握ができていない真田領の「後進性の現れ」と指摘されることも多かった。私は、真田昌幸は「人民平等」の意識をもって意図的にそうしていたのだと思う。だから二度の対徳川戦では百姓・商人・職人も含めた全領民が籠城戦に参加ないし協力するという体制が可能だったのだ。そんな戦国の人々の郷土愛と人間愛を描くのが、ドラマの意図なのではないだろうか。

 付言すれば、真田昌幸が希求した平等主義の理想は、幕末に日本で初めて議会制民主主義と人民平等の原則の憲法構想を提唱した上田藩士の赤松小三郎に引き継がれていると思う。

 戦国当時は、村の地侍が大名化する可能性もある時代だった。真田氏にしても、もともとは真田郷の一角で馬を育てる牧場を経営していた地侍である。

 現在の真田町に行くと、ほぼ一つの集落ごとに一つの城がある。この小天地になんでこんなに城があるのだろう驚くほどである。真田氏の松尾古城の他にも、横尾氏の横尾城や曲尾氏の洗馬城などがあり、一つの集落ごとに土豪(というか村のリーダー)がいて、城がある。地方豪族の城というより、いざとなれば村の衆みなで立て籠もる「村の城」という感じだったのだと思う。真田家も、真田郷全体も掌握できていない、一集落のリーダー的存在に過ぎなかった。

 そんな上田地方の土豪層の中で、主要登場人物として挙げられてビックリしたのが、室賀郷のリーダーの室賀正武(演・西村雅彦さん)である。

 よほどの歴史好き・戦国好きでも「室賀正武」という武将は聞いたことがなかったのではないかと思う。狭い上田盆地の中にあって、最後まで真田昌幸の支配に抵抗したのが室賀正武であり、悲劇的な最期を遂げた。ちなみに、室賀正武の名は、ウィキペディアにもなかったが、「真田丸」の配役が発表になるや否や、早速どなたかが作って下さっていた。

 「真田VS室賀」などという、狭い上田盆地内の極超ローカルな抗争に大河ドラマでスポットを当てようとは、私も予想できなかった。ちなみに、この抗争の背後には徳川家康が絡んでいて、丁寧に描けばすごく面白くなると思う。史実がはっきりしないところは脚本家の腕の見せ所となろう。この辺を描こうとするあたり、三谷さんの並々ならぬ意欲を感じる。

 「真田太平記」では、依田信蕃や屋代秀正や室賀正武などなど、真田と因縁のある地方豪族たちの活躍はすべてスルーされていた。「真田丸」で、こうした知られざるローカル武将たちの「一所懸命」な姿を描くのであれば、「真田太平記」を超えるドラマになる可能性もあるだろう。

 かつて大河ドラマの「風林火山」では、相木市兵衛という地元の人間でも知らなかった超マイナー武将を発掘し、史実に基づいてドラマで大活躍させた。室賀正武にスポットを当てようという意気込みも、これに匹敵するもので、すばらしいと思う。

 室賀氏の依拠した室賀城(別名笹洞城)、私も行ったことがなかった。大河ドラマの一つの見どころということで、先日、帰省したついでに訪問してきたので紹介したい。

 

 室賀城(笹洞城)。正面の山のいちばん高いところが本郭である。
 


 山城である室賀城の麓にある原畑城本丸跡。

 原畑城と称しているが、要は室賀氏の居館である。真田氏の館跡とその背後にある真田本城の位置関係と同様である。

 室賀城には登山道が付いていなかった。室賀城という看板も標識も何もなかった。よほど誰も訪れない城なのだろう。さすがに今回の大河ドラマをきっかけに、看板などがこれから整備されることになるのだろうが・・・・・。
 道がないので、とにかく尾根づたいに灌木をかき分けて登った。本郭に着くまでに、蜘蛛の巣をいくつ壊したか分からない。
  
 

 写真は室賀城の二の郭方面から本郭を見上げたもの。

 何と本郭の周囲が石塁で囲われていた。これには驚き、感動した。
  


 上田地方の山城に石塁があるのは珍しい。ちなみに幸隆以前の真田氏が築いた松尾古城の本郭も石塁で覆われていて、室賀城の石塁に似ている。他に例が少ないので興味深い。



 本郭裏の搦手の堀切。かなり深い堀切だが、写真でうまく伝わるかどうか。




 室賀城の本郭から上田盆地(塩田平方面)を望む。

 この山間の扇状地のわずかばかりの田畑が室賀氏の所領。扇状地の下部は、すでに他の土豪である浦野氏の所領になる。まさに小集落のリーダーという感じである。
 村上軍や武田軍の中にあって活躍した室賀隊というのは、要するに村の地侍(ふだんは百姓)の中の屈強な若者たちを動員したものだったのだろう。これだけの農地しかないので、村上氏時代の室賀郷の総世帯数は100~200世帯くらいでしかなかったのではなかろうか。「土豪」といってもこの小規模である。




 室賀峠より葛尾城を望む

 室賀城を横目に峠に山道を上ると、室賀峠という小県郡と埴科郡を結ぶ要衝に出る。室賀峠から坂城町を望む。写真左に黒枠で囲ってある辺が、名将・村上義清が本拠とした葛尾城の本郭である。
 かつて村上義清はこの峠を通って坂城から上田へ出て武田軍と戦った。上田原の合戦で村上義清が武田晴信(信玄)を破ると、帰りがけに村上義清はこの峠で小休止して峠の松に兜をかけて休んだという伝承がある。

 室賀正武の先代の室賀信俊はもともと村上義清に仕えた土豪であった。村上義清が武田晴信に敗れると武田家に仕え、長篠合戦にも出陣し、その際に負ったケガが原因で死去したと言われている。正武は信俊の息子なのか弟なのかはっきりしない。

 武田は、村上を破ると、村上方で武田を苦しめた室賀や浦野を対上杉戦の先兵として活用した。武田軍が、上杉軍と戦う川中島合戦に赴く際にも、必ずこの室賀峠を通った。村上義清も武田信玄もこの峠から坂城を見下ろす風景を眺めたのだ。当時の風景とあまり変わっていないと思う。




 室賀城の近くにある平城の岡城と山城の浦野城。

 写真手前の平地は、室賀氏の所領のすぐ下に隣接する浦野氏の所領の浦里(上田市と青木村の境付近)にあり、川中島に向かう武田軍の兵站基地として利用されていた岡城の二の丸である。戦国期には珍しい平城であり、普請したのは馬場美濃守信房と言われる。
 写真左手の樹林が岡城の本丸。その右奥の小山の頂上が、浦野城の本郭である。室賀氏とは隣村の村長同士という関係である浦野氏も、もともと村上義清傘下で、負けると武田に属した。いずれも己の村を守るための「一所懸命」の行動であった。
 
 ちなみに岡城の縄張りは、その周囲の三方向に丸馬出と三日月堀を張り巡らせるという(いまは残念ながらほとんど原型をとどめていない)、武田流築城術の典型例であった。

 後に真田昌幸が武田勝頼のために普請する新府城にも、さらに後に築城する上田城にもこの城と同じコンセプトが見られる。また真田幸村が大阪城に築いた真田丸そのものも武田流の丸馬出を巨大化したものと言われている。武田信玄をして、真田昌幸と共に「我が両眼のごとき者」と呼ばしめた知将・曽根昌世は、後に蒲生氏郷に仕え、会津鶴ヶ城の縄張りをする。よって鶴ヶ城もじつは武田流であり、この岡城の縄張りと同じ発想が見られる。ちなみに、岡城の縄張りは以下の図参照。



 室賀正武は、武田が滅びると徳川につき、徳川から上杉に乗り換えようとする真田昌幸と争うことになる。室賀正武が真田昌幸に謀殺されると、室賀氏のあるものは徳川に仕え、室賀残党のある者は真田に仕え、別々の運命を選んだようだ。
 
 浦野氏の場合、武田が滅びると、ある者は真田の家臣になり、ある者は上杉を頼って越後に行き、ある者は保科家(後の会津藩主の保科)の家臣になり・・・と、全国に四散していったようである。

 戦国期、一所懸命に生きた地侍たちの運命はそれぞれであった。「村のリーダー」としての土豪たちは、結局は土地から引き離されていった場合が大多数である。真田も結局、秀忠の時代に上田から松代に国替えになって土地から引き離された。徳川政権にとって、領主と領民の郷土愛を通しての在地結合はいちばんの脅威だったのであろう。その脅威を痛感せしめたのは、まさに徳川が上田で喫した二度の敗戦だったのかも知れない。
 戦国から幕末まで一貫して所領を保持し続けた島津が最終的に徳川政権を倒すことになるのは、その意味でも象徴的である。徳川家康生涯最大の失敗は島津を薩摩から国替えさせなかったことかも知れない。
 
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-03-06 20:47:45
側室がヒロインって、義経の静御前がありますよ。
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Unknown (Unknown)
2016-03-09 21:00:35
島津のほかに毛利もですね。
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