代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」の比較 ―その1

2010年03月21日 | 赤松小三郎
 この間、赤松小三郎に関する記事を連続して投稿し、赤松小三郎が慶応3年5月に越前福井藩の前藩主で幕府顧問の松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書(以下、御改正口上書)」が、坂本龍馬の「船中八策」よりも早い、日本で最初の、選挙による民主的議会政治の建白書であり、もっと評価されるべきであることを論じてきた。

 現在、ネットで検索しても、赤松の「御改正口上書」を読むことはできない。そこでこのブログに掲載することにした。出所は『上田市史』(下巻、1251~1253頁)である。赤松直筆の原本は失われているが、全文が松平春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』に転載されているので、この文書の存在は確かのものである。

 管見の限り、幕末維新関係の史書を読んでも、この赤松の歴史的文書の存在は無視されている。とてつもなくおかしなことだと思う。信じられないことだが、文献の中で探そうとすると、『上田市史』や『長野県史』といった郷土史の書籍の中にしか見られないのだ。「いったい歴史学者は何をやっているのだろう」と不思議に思う。
 私は、たまたま上田出身なので、高校時代に『上田市史』を読んでいて、赤松の「御改正口上書」に接することができた。それを読んで、「これは『船中八策』などよりはるかにすごいじゃないか」と衝撃を受け、翌日、高校の日本史の先生に、「何でこんなすごい人物が全く無名なんですか! おかしいじゃないですか!」と抗議しに行ったものだった……。

 長野県外の人では、おそらくよほど歴史に詳しい人でも、赤松の「御改正口上書」を読んだことはないだろう。一般の人は、この歴史的文書に接することはできないのである。従って、拙ブログごときが紹介するのも意味があることだと思う。

 私の推測では、この「御改正口上書」が、おそらくは福井藩士の手を経由して京都に潜伏中の坂本龍馬に見せられ、「船中八策」および「新政府綱領八策」となった。また、「五箇条の御誓文」の起草した由利公正も、福井藩士であるから、当然、赤松の「口上書」を読んでいたものと思われる。由利公正が御誓文の原案を考える際にも、赤松の文書が影響を与えたのであろう。
 しかし、「御改正口上書」に比べると、「船中八策」、「五箇条の御誓文」とも、はるかに内容的に曖昧で、後退したものとなっている。

 赤松の「御改正口上書」は全部で七箇条あるが、まず最も重要な第一条を紹介したい。この条は、天皇、内閣(首相と大臣)、そして上下両院の二院制議会の役割を論じたものである。これは坂本龍馬の「船中八策」との対応で言うと、以下の三カ条の内容に相当する。

****<坂本龍馬「船中八策」より引用>***********

一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事

***********************

 坂本龍馬の構想は、内容的に赤松小三郎の「御改正口上書」と重複するが、以下に示すように、その子細は赤松案よりも後退してしまっている。おそらく龍馬の意見は、もっと小三郎に近かったのかも知れないが、薩長や土佐の勤皇派の人々でも受け入れ可能なように、天皇の権限を強化し、新政権の民主的性格を損なう方向に、内容的に妥協させてしまっているのだ。

 龍馬は、赤松の論を継承して実現のために奔走することは自分の生命を危険にさらすことも当然承知していただろう。「船中八策」の段階では小三郎はまだ存命であったが、龍馬が慶応3年11月、福井藩で由利公正らと議論した後にまとめた「新政府綱領八策」の段階では、既に小三郎は薩摩藩によって暗殺されていた。
 龍馬は当然、内容的に薩長でも納得可能なように妥協させることはやむを得ないと判断したのだろう。しかし薩摩にとっては、小三郎に比べて内容的に後退している龍馬の「船中八策」であっても、同様に許せる内容のものではなかったのである。

 それでは赤松の論を見てみよう。赤松は、大政奉還について以下のように論じる

*****<引用開始>***********

「御改正之一二端奉申上候口上書」     慶応三年 丁卯五月
                     松平伊賀守内 赤松小三郎

一、天幕御合体諸藩一和御国体相立候根本は、先ず天朝之権を増し徳を奉備、並に公平に国事を議し、国中に実に可被行命令を下して、少しも背く事能はざるの局を御開立相成候事。蓋し権の帰すると申は、道理に叶候公平之命を下し候へば、国中之人民承服仕候は必然之理に候。

*****<引用終わり>*********

 赤松小三郎は、天皇家と幕府と諸藩の融合を説いている。もっとも、「天朝の権を増し」と主張しているのを見ても明らかなように、公武合体の末に天皇の権力を増し、幕府に関しては自然消滅を考えていた。この点で、「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ」という坂本龍馬の大政奉還論と同様の内容である。
 
 しかし、小三郎らしいのは、勤皇派の志士たちの考えとは違い、天皇に対して神聖な絶対的権威を認めていない点である。天皇に「権の帰する」は、天皇が「徳を備え」「道理にかない」「公平の命令を下す」という三条件を満たさねばならない。そして、誰が見ても道理にかない、「公平に国事を議す」ために、天皇は「少しも背く事能はざるの局」を新たに設置せねばならない。この「局」とは、後に述べられるような二院制議会なのである。これをして「国中の人民は承服」するのであって、それなしに無条件に天皇の絶対的権威を認めているわけではないのである。

 龍馬の「船中八策」では、天皇の権威が何に由来するのかに関しては何も論じられていない。朝廷の権威は、無条件に与えられることになっていた。小三郎にあっては、あくまでも天皇の権威は、人民の信託に基づいて発生するものであった。この点、龍馬の論が小三郎に比べ後退している。

(つづく)
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