若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

制度を利用しても構わないけど、制度を基本的人権と勘違いしてはいけない ~生活保護水準を巡る訴訟で請求棄却~

2020年06月26日 | 政治
(2020年6月28日 冒頭部分で書いたものを一部省略)

青森市 市民の声 生活保護を見直ししてほしい 2017年11月6日
======【引用ここから】======
 生活保護にも色々な形があるようですが、生活実態は毎日のように買い物に出掛けたり、宅配牛乳、水の購入など年金生活を送っているかたからは考えられないような事が多々あります。生活保護を受けているかたには灯油代、デイサービス利用料、病院代など、どうして全部支給されるのでしょうか。生活保護費より少ない年金生活のかたがたくさんいて、全部自分の年金から支払いをしています。体の不自由なかた、入院しているかたを除いて、その他のかたは保護費だけでその他の費用はその中から使うようにはできないでしょうか。私も3度ばかり生活福祉課に出向いた事がありますが国で決まっているからという回答でした。いくら保護生活でもパチンコをしてお金を使ってしまうかたなど、普通に一生懸命はたらいているかたは不満に思っていることをご存知なのでしょうか。本当に生活保護が必要なのか一度調べたらいかがでしょうか。ずるい人が多いんです。たくさんのかたがたの意見だと思ってください。生活保護全般の見直しを要望します。
======【引用ここまで】======

〇制度を利用する事自体は悪いことではありません、が

世の中には、政府・地方自治体が設けている様々な制度があります。
生活保護もそうですし、各種補助金制度もあります。
最近では、新型コロナ対策で二転三転した「10万円給付」なんかもあります。

こうした各種制度の条件に当てはまっている人が、利用し給付を受ける事自体は悪いことではありません。
使えるものは使おうとするのは人間の性ですから。

生活保護を受給しながらパチンコ台に1000円札を突っ込み続ける行為は制度上許容されており、受給者は制度を利用しているにすぎません。
問題は、そうした人々の反感を煽る行為を可能としている制度設計にあります。

生活保護制度への不満は根強いものがあります。

生保批判側「保護を貰いながらパチンコに行くなんてけしからん」
生保擁護側「パチンコは不正受給じゃありません。不正受給は件数で言うと全体の2%程度でしかありません」

という生保擁護側の返答は、制度上正しいのですが、制度そのものへの不満を募らせる結果を招きます。
納税者の多くは
「私の払った税金が生活に困っている人のために使われるなら納得できるが、その金をパチンコに突っ込むのは許せない。他に遊びにいくのを我慢して税金払ってるんだぞ」
と思っていることでしょう。
そうした人にとって、制度上、パチンコをはじめとするギャンブル(表向き「娯楽」)をすることが可能となっていることそのものが不満の原因であって、この制度上の抜け穴を放置しているから生活保護へのバッシングが強まるのです。
もし、生活保護の重要性を強調する擁護側が、せめて、
「保護受給者のパチンコ通いについて、支給する行政や支援するNPOによる監視を強めたり、支給方法・形態を見直し制度を改める必要性は認める」
くらいのスタンスを示していれば、バッシングはそれほど強まらなかったんじゃないかと思います。
ところが実際には、

生活保護費等をパチンコや競輪、競馬などに浪費する受給者の情報提供を市民に求める、というひどい条例が兵庫県小野市で成立し、4月1日より施行されています。この条例は受給者の人権を侵害し、生活保護等に対する差別と偏見を助長するおそれがあります。直ちに廃止されるべきだと思います。

といった形で、擁護側は制度の見直しや修正を妨げてきました。
火に油を注ぐようなものです。

こうした不満の蓄積が政府を通して保護基準の引き下げという形となって現れ、
擁護側が反発して引き下げの取消を求めた訴訟を起こし、
地裁では請求棄却され
いつもの界隈が騒ぐ(いまここ

〇生活保護は基本的人権ではない

さて。

歴史上、政府は様々な形で個人に対し権力を行使してきたわけですが、こうした政府の権力行使に制限をかける一つの手段として誕生したのが憲法です。
課税、刑罰、身体拘束、検閲、規制、こうした政府の権力行使に制限をかけることで、個人の権利を守るというのが、本来的な意味での憲法、立憲主義的な憲法の考え方です。

生活保護は、こうした立憲主義的な憲法の考え方に馴染みません。
富は無から生じるわけではありませんので、

「政府がAに対し課税し、その金からBに対する保護費を捻出する」

という構図を経ることになります。
Bへの給付を拡充すればするほど、Aへの課税は強化されます。
Aへの課税は、すなわちAへの人権侵害(財産権制約)を意味します。
Bへの給付拡充は人権保障どころか、逆に、Aへの人権侵害の度合を強めるものとなります。

基本的人権は全ての人に生まれながら保障された権利ですが。
他方で、全ての人に一定額の給付を保障するためには相当な額の税を当然のものとして誰かに負担させなければなりません。
このように誰かの負担を前提とした制度を、基本的人権と呼ぶのは相応しくありません。
「代表なければ課税なし」
という言葉がありますが、課税には少なくとも納税者が代表者を選び、代表者が課税額を決める必要があります。
生活保護は、課税という犠牲で得られた財源の範囲内で行使される給付制度の一つに過ぎません。

実際には、Aへの財産権制約で得られた税金を、Bへの生活保護費の他、
Cへの医療保険公費負担、
D地区の道路整備、
E地区のゴミ処理、
Fへの教育費
・・・といった形で山分けしています。

Bの権利性を強調することは、納税者への権利侵害を強め、あるいは他分野の予算を圧迫することになります。

このように課税や予算配分を考えた時、生活保護の根拠とされる憲法25条についてはそもそも人権と捉えず、ある種の指針と取り扱う考え方が妥当です。
あくまでも予算制約の下にある、無数にある制度の中の一つにすぎません。
政府は、税収の見込みを立て、この税収を様々な制度・事業に振り分けているのですが、この一連の作業は裁判所の権限外と言っても良いでしょう。

日本国憲法
第25条 すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


という規定は、健康的で文化的な生活を営もうとする国民の幸福追求権と、これを政府は妨害してはならないという不作為義務、そして、予算制約の中で社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上に努めましょうという政府の方針を謳ったものと理解すべきです。
憲法第25条から給付水準を導き出すことはできませんし、私は「制度改悪は憲法違反の人権侵害」という主張には賛同できません。

〇生活保護制度擁護派こそ、市民の声に耳を傾けろ

上記の「青森市 市民の声」に見られるような生活保護制度への不満は、オンライン・オフラインを問わず様々な場面で耳にします。
こうした不満に対し
「生活保護は当然の権利なんだ!」
「保護費を削るなんてとんでもない!」
「パチンコに行っても制度上問題ない。不正受給じゃない!」
などと擁護すればするほど、生活保護制度への批判が高まり、制度を利用する人はかえって肩身の狭い思いを強いられることになります。

擁護派の左翼のみなさん、いつも自分で言ってるじゃありませんか。
「市民の声に耳を傾けろ」
ってね。

藤田孝典氏の言説は社会福祉士の主流的な考え方なのか

2020年06月10日 | 労働組合

【非審判的態度】

藤田孝典先輩,大丈夫ですか???~岡村隆史さんの騒動を受けて思ったひとりの後輩社会福祉士の戯れ言~ かんねこ(弁護士、社会福祉士)
======【引用ここから】======
しかし,社会福祉士が守るべき原則としては「非審判的態度の原則」というものがある。社会福祉士が人を裁いては(審判しては)いけないというものだ。藤田さんの岡村さんに対する叩き方は,この原則との関係でも社会福祉士の行動としては不適切である。

一人の社会福祉士としても,藤田さんの投稿は「社会福祉士というのは善悪を押しつけてくる存在なのか。あんまり安心して相談できないな。」という印象を与えるものだと感じている。

======【引用ここまで】======

仕事上、社会福祉士・ソーシャルワーカーに接する事が多くあります。
この人たちは、あまり他人を非難しません。

貧困になった理由がどうしようもないだらしなさであったとしても、
保護費の大半を支給日にパアッと使ってしまっても、
親の介護を施設に任せっきりなのに無理な注文ばかり付けてくる親族であっても、
あまり表立った非難をしません。

気長に話を聴き、
過去を責めず、
これからどうしたら生活がより良くなるか、
必要なのは見守りなのか就労支援なのか介護なのか保護なのか、
どこの機関につないだら良いか、
つないだ後の対応をどうするのか・・・

社会福祉士・ソーシャルワーカーでない私から見ると、
「よく短気を起こさずに対応できるなぁ」
と感心してしまいます。

これが、かんねこ氏が言及した
社会福祉士が守るべき『非審判的態度の原則』
の表れなのだと思います。

【他者非難型社会福祉士】

ところが、藤田孝典氏は違います。

自分の中にある善悪・正義の感情に立脚して弱者となる属性を設定し、その属性を持つ集団の代弁者を自称し、自分の中の正義感情に反する他者を非難します。
自分の正義感情を満足させるため、非難対象が謝罪しても、それを形だけの謝罪(彼らが「日本型謝罪」と呼ぶもの)に過ぎないとして容認せず、非難対象の発言を歪曲までしてしまいます

藤田氏は、マルクス主義に立脚した階級闘争の運動家であり、労働組合は善・資本家は悪という善悪二元論に依拠した労働問題活動家です。
こうした態度は、社会福祉士に求められる「非審判的態度」とは馴染みません。

「社会運動家と社会福祉士」の関係は、「公務員とリバタリアン」ぐらいに相反するものかもしれません。
私の思想は公務員としては異端ですが、同様に、藤田氏は社会福祉士としては異端者であると見るのが良いでしょう。
そう見なければ、リアルで見聞きしている社会福祉士の様子と藤田氏の言動との間の差異・違和感に説明がつきません。

もし、私の
「藤田氏は階級闘争の運動家であり、社会福祉士としては異端者である」
という見方が誤りであり、実は藤田氏のような考え方・手法が社会福祉士の主流だとしたら、社会福祉士は『Bullshit Jobs(クソどうでもいい仕事)』の筆頭候補に急上昇です。
(階級闘争を推進するための職業を国家資格として名称独占させるとかwwwww)

上で紹介したかんねこ氏の記事に対する、藤田氏の
https://twitter.com/fujitatakanori/status/1270060796282691586


https://twitter.com/fujitatakanori/status/1270068963028787200


こうした対応を見てると、高圧的で他者非難型の藤田氏の考え方や手法が、社会福祉士・ソーシャルワーカーの主流ではないと願わずにはいられません。

藤田氏は、形ばかりの謝罪を指して「日本型謝罪」と呼んでいますが、こうした用語法が許されるのであれば、芸能人をいつまでも非難し続け追い詰めようとする様は「韓国型追及」と呼べるでしょう。
韓国ではメディアやネットで芸能人を自殺するまで非難するケースが後を絶ちません。
藤田氏による岡村さんへの非難のしつこさは、韓国での芸能人非難を彷彿とさせるものがあります。

韓国型追及・藤田型ソーシャルワークの手法は、何も生みだしません。
分断と対立を煽るだけです。
ただ、対立を煽る事で注目を集める手法は、階級闘争の運動家としては合理的なのでしょう。

【社会福祉士と階級闘争】

藤田氏にとって、労働組合は正義、労働組合に入っている労働者は味方。
労働組合に入っている労働者であれば、非正規労働者を犠牲にして特権的に雇用を守られる正社員も味方です。
他方、資本家や収入の多そうな芸能人など、労働組合と無縁そうな人は敵。
どこまでも追い詰めるべき存在となります。

このように、藤田氏は、あくまで「労働組合 対 資本家」の構図に固執する論者です。
彼は、労働者個々人よりも、労働者という属性、そして労働組合という集団を重要視しています。

パワハラを熱心に糾弾していたにも関わらず、労働組合委員長による組合員へのパワハラ疑惑が浮上した際には
今できることは組織を信頼して見守ること
と労働組合側を擁護する発言をする程の、いわば労働組合至上主義者です。

労働者が会社と折り合いが悪くなった際には、
労働者が転職という形で逃げ回って泣き寝入りをして闘わないから、労働組合の意義も役割も軽視されるのです
と述べ、労働者に対し退職すべきでなく労働組合に入って闘う事を推奨していることからも、労働組合を至上のものと考えていることがうかがえます。

そんな藤田氏から見て、会社との関係に悩む労働者に「こうすれば退職できるよ」とその方法を公開し、労働組合の意義や役割を称賛せず、それどころか「組合」という文言の一度も出てこない
退職完全マニュアルnote
を書いたかんねこ氏は、憎き商売敵であり、労働者の労働組合への結集を妨げる反革命分子といった位置づけになるのでしょう。
本物のソーシャルワークを深く学ぶ機会が得られることを望みます
という藤田氏からかんねこ氏への発信は、先輩風を吹かせてマウントを取ろうとする意図とともに、階級闘争と結びついた藤田氏のソーシャルワーク観がかんねこ氏のそれと大きく異なる事を意味しています。

藤田氏の言う本物のソーシャルワークを深く学んだのがベテランの社会福祉士だとしたら、社会福祉士って怖い職業だなぁ。
うかつにベテラン社会福祉士に近づいたら、オルグされちゃうかも。