若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

アウトリーチと私的領域/公的領域の区別

2020年10月31日 | 地方議会・地方政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今回は、数年前の新聞記事がツイッターで流れてきたので、それをお題に「私的領域の保護とアウトリーチ福祉」について考えてみます。元ネタの新聞記事は、日本学術会議の任命拒否で話題となった6人の一人、加藤陽子氏が「私的領域と公的領域」について書いた文章です。(今回、日本学術会議には触れません。)

【私的領域の擁護】

国家が国民の私的領域を侵そうとしている 加藤陽子さん - 2017衆議院選挙(衆院選):朝日新聞デジタル 2017年10月6日
======【引用ここから】======
 世界中で国家と国民の関係が大きく変化しています。ここで国家とは行政府を意味します。世界では、国民の側が国家に「NO」を突きつけましたが、日本では国家の側から国民との関係を急速に変えた点が特徴的。今の混沌(こんとん)の理由も、ここにあります。
 戦後日本が培った原理に、「私的領域」と「公的領域」の明確な区別があります。近代立憲国家として必須のこの原理に、安倍政権は第一次の時から首相主導で手をつけ始めました。
 2006年に60年ぶりに改正された教育基本法では、前文の「真理と平和を希求」が「真理と正義を希求」に修正されました。「平和」は一義的ですが、「正義」の内容は価値観によって違い、国家が定義すべきものではありません。
 明治の日本が学んだ西欧の憲法は、過去の宗教戦争の惨禍に学び、国民の思想や信条に国家の側は介入しないという良識を確立していました。だから、教育勅語という精神的支柱の必要性が説かれたとき、明治憲法の実質的起草者だった井上毅(こわし)は「君主は臣民の良心の自由に干渉」すべきでないとして反対しました。
 結局、教育勅語は出されましたが、国務大臣が副署しないことで、政治上の命令でなくなった。国家は国民の「私的領域」に立ち入るべきではないとの良識が、この段階では保たれていたのです。

======【引用ここまで】======

日本が培ってきたはずの私的領域と公的領域の明確な区別が、近年崩れつつあります。

国家は国民の私的領域に立ち入るべきではない、全くもってそのとおりです。
私的領域と公的領域は明確に区別すべき、全くもってそのとおりです。
井上毅は、君主は臣民の良心の自由に干渉すべきでないと主張しました。

国家・行政府が国民の私的領域に立ち入ってはならないのです。

【私的領域の範囲は?】

ではここで、私的領域とは、思想・良心・内心の自由に限られるものでしょうか。それとも、財産権、プライバシー権、家族関係といったものも含まれる概念と捉えるべきでしょうか。

私的領域を思想・良心・内心の自由に限定して捉えた時、公的領域はそれ以外という事になります。財産権、プライバシー権、家族関係等が公的領域となれば、行政府の管轄となり、管理・介入・指導・干渉の対象となります。この考え方を採用した場合、行政府は、個人の思想には介入しませんが生活には介入することになります。

「行政府は思想・良心・内心には立ち入りませんが、あなたの所有地に立ち入り生活状況を監視し介入します」というのは、実際のところ、私的領域/公的領域の区別を無意味にします。行動は思想の表れであるので、行動を監視し生活に介入できるのであれば、結局のところ思想そのものへの介入が可能になります。

思想・良心・内心の自由は、私有財産の保障が無ければ空虚なものとなります。財産権が保障されていなければ、思想に基づく表現行為も容易に制約できてしまいます。表現の自由はそもそも財産権の派生でしかない、という見方もできます。また、私的領域という日本語からは、私的な生活空間が含まれると考えるのが自然です。こうした観点から、私的領域の保障のためには、思想・良心・内心に限らず、財産権・プライバシー権、家族関係等も含めて捉え、これらをひっくるめた私生活全般に対し行政府は立ち入るべきでない、という考え方が、私的領域/公的領域の区別の重要なポイントになってきます。(うろ覚えですが、ハンナ・アーレントも、私的領域をかなり広く捉えていたように思います。)

【アウトリーチ】

さて、昨今、福祉・介護分野においては「アウトリーチ」という考え方が蔓延しています。

アウトリーチ | 介護用語集 | 老人ホーム選びのパートナー ベネッセの介護相談室
======【引用ここから】======
本来は「手を差し伸べる」または「手を伸ばして取る」という意味。援助が必要な状態であるにもかかわらず要請をしない人たちに対して、支援者のほうから家庭などに出向いて手を差し伸べる「積極的な取り組み」のことをいう。
======【引用ここまで】======

福祉や介護の分野では、様々な論者が論者ごとに「あるべき生活水準」「あるべき生活様式」を設定し、これに適合しない生活をしているケースを全て掘り起こし、国民全員に漏れなく、健康で文化的な最低限度の生活をさせるのが行政の責務だ、という意見が幅をきかせています。そのための取り組みが、アウトリーチです。

こうしたアウトリーチの取り組みを、近隣住民や私的団体が行っている段階では、お節介で済むかもしれません。しかし、私的団体が自治体に繋いだり、あるいは、自治体が直接家庭を訪問して介入したりするようになると、私的領域/公的領域の問題が生じます。

アウトリーチ論が全面的に肯定された場合、全住民の生活が自治体の担当者の監視下に置かれます。プライバシーや自己決定権といったものが大きく後退し、個人の生活は公的領域に取り込まれてしまいます。

Aさん本人は現状を良しとしていても、第三者が
「私の考える『あるべき生活水準』に、Aさんの生活は達していない」
と判断し、Aさんの家の中に調査員が入り込み、行政や介護サービス事業者ら多くの人がAさんの生活に介入し、その費用を行政府に負担させるという事例が、介護分野を中心に多発しています。

また、特定の業種について、事業者に対し「廃業しろ」と声高に叫び、その業種の従業員に対し「辞めて福祉を使え」と主張する差別主義者・藤田孝典氏のように、独立生計を立てていた人の生活や仕事に干渉しわざわざ自治体に依存させようと斡旋し、その過程で手数料や補助金を得ようとする活動家も存在します。

アウトリーチの名の下に、私的領域は行政府の介入を受けています。個人の自由を守る防波堤が、アウトリーチ論によって穴を開けられています。

【申請主義の再評価】

アウトリーチを全面的に肯定した場合、行政府は網羅的に生活実態の調査し情報を収集する根拠を得ることになります。
「支援を必要とする人全てに、申請を待たず、行政の側から福祉サービスを漏れなく提供しよう」
という理屈は、優しいようでいて非常に危険です。支援を必要とする人全てに公的福祉サービスを提供するためには、全ての人の生活実態を把握することが原理的に必要になります。「サービスを必要としていそうな人」を洗い出すためには、全ての人の生活情報を持っていなければならないからです。

これに対し、私的領域/公的領域の区別という、戦後日本で培われた原理を福祉分野に適用したのが「申請主義」です。すなわち、個人の私生活へ行政は不干渉とするのを原則としつつ、税金を原資として行政府が用意した給付メニューを利用したい場合は、当事者からの申請によらなければならないとする考え方です。

この申請主義であれば、当事者からの申請がなければ行政府による生活への介入は行われません。給付要件に該当するかどうかの調査も申請者に対してのみ行われることになり、プライバシー権の侵害もある程度抑えられます。

申請主義に対しては、
「公的福祉サービスを受けたいのに受けられない人が出てくる」
「自分の受けられる福祉制度がどれか、有るのかどうか分からない」
といった批判があります。

これについては、
「制度や申請方法を知る手段を増やす」
とか、
「役所の営業時間を伸ばす」
といった対処法が考えられますが、あくまで申請主義の枠組みの中で取り組むべきです。

【行政府の肥大化】

申請主義の場合は、申請者に対し、役所が把握している基本情報と申請書に書かれた生活情報とを照らし合わせて、福祉サービスの条件に該当するかどうかが判断されます。

他方、アウトリーチの場合は、全住民に対し、福祉サービスの条件に該当するかどうかを役所が網羅的に調べることになります。

申請主義とアウトリーチとを比べると、福祉サービスの給付件数・金額ともにアウトリーチの方が増える事になります。加えて、網羅的に調べるのですから、人件費を中心とした調査費用が膨らむことになります。

もし、他の公共事業を見直しして、
「福祉サービスAをアウトリーチで実施するために、別の福祉サービスBを廃止し、そこで浮いた人手と費用をAに回そう」
といった予算の組み替えをするのであれば、歳出の膨張をある程度は抑えることができます。

しかし、アウトリーチを主張する人々から、そういった意見を聞いたことがありません。福祉予算総額は膨らむ一方であり、同時に、行政府の権限と裁量も膨らんでいます。福祉メニューはどんどん増えて細分化・複雑化しています。左派も民族右派も、「福祉を拡充しろ」「きめ細かい福祉を」の一辺倒です。

冒頭、加藤陽子氏は
「国家が国民の私的領域を侵そうとしている」
と嘆いていましたが、これは安倍政権下だから生じた問題ではなく、きめ細かな福祉行政を望む国民が自分の首を絞めていただけの話です。福祉分野を中心に、行政府による私的領域への介入を大幅に認めてしまい、むしろ国民が国家からの介入を積極的に求めた結果、国家による思想・良心の自由への侵害のハードルが下がってしまったのです。

市議会と居眠りに関するエトセトラ

2020年10月27日 | 地方議会・地方政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今回は、市議会開会中に議員が居眠りをしていて、市長がツイッターでつぶやく。これに議会が反発して全員協議会を開き市長を呼び出して・・・というニュースをお題に。

安芸高田市長、市議会から「どう喝」 ツイッターで市議の居眠り指摘後 「敵に回すなら政策に反対するぞ」 | 中国新聞デジタル
======【引用ここから】======
石丸市長は9月25日、一般質問で市議の1人がいびきをかいて寝ていたとツイッターで指摘した。今月1日には、前日の定例会閉会後の市議会全員協議会に呼び出されたとし、「議会の批判をするな、選挙前に騒ぐな、事情を補足してやれ、敵に回すなら政策に反対するぞ、と説得?恫喝(どうかつ)?あり」と投稿。「これが普通かどうかわかりませんが、実態なのは確かです」と書き込んだ。
======【引用ここまで】======

この話題についてツイッター上の反応をざっくり見た感じでは、
「議員は議会で議論をするのが仕事で、そのために高い議員報酬を貰っているのに、居眠りなんてけしからん」
という論調が多かったように思います。

けしからんとお怒りになるのも分からなくはないのですが、ちょっと違った視点を提示したいと思います。

【居眠り議員がいるから一般質問できる】

今回の居眠りが問題となった場面は、記事にもあるとおり、本会議における「一般質問」においてです。

一般質問とは何かというと、市議会の本会議において、市政における課題や特定の事業について議員側がテーマを絞って質問し、市長や幹部職員がそれに答えるというものです。この一般質問は、条例案や予算案といった議案とは異なり、議決の対象とはなりません。

一般質問の質問者となった議員は、議会ごとに定められた質問時間や発言回数の中で市長や職員に対し質問するのですが、では問題です。
質問者以外の議員はその質問時間中に何をしているのでしょうか?

質問した議員に対し反論しているのでしょうか。
質問した議員を後押しするための補足説明をしているのでしょうか。
回答した市長にダメ出ししているのでしょうか。

正解は、何もしていません。

何もできません。議論に参加できるわけではありません。質問者と市長のやり取りを聞いて、どちらが優勢だったかジャッジする場面が出てくるわけでもありません。ただただ、ひたすらジッとしているしかありません。
(ヤジが飛び交う市議会もあるかもしれませんが、それは正式な発言ではありません。)

質問者一人あたりの持ち時間が1時間とすれば、その間、質問者と市長とのやり取りを終わるのをただ待っているだけなのです。質問者である議員にとってその1時間は、市長に対し公の場で言いたい放題に言える貴重な1時間なのですが、他の議員にとってはする事の無い1時間です。

他の議員にとって、質問者の設定したテーマが自分も取り組んでいるものであれば、
「何を質問してどんな答弁が出てくるのだろう?」
「質問者はきちんと市長から言質をとることができるか?」
と意欲をもってやり取りを聞いていられると思います。

あるいは、会派(政党や支持団体、考え方ごとに集まった議員のグループ)の中で質問テーマを練って分担して質問している内容であれば、
「会派でテーマを練る際、私も気になっていた。市長はどう答えるのか?」
と、我が事として興味をもって聞いていられると思います。

しかし、質問テーマが興味のないものであったり、前の日に前の質問者が既に同じテーマで質問していたり、一般質問と言いつつ個別事例についての陳情活動であったり・・・・となると、他の議員からすれば、退屈でしかないというのは十分に理解できます。

※参照
議員はなぜ居眠りをしてしまうのか | 西東京市議会議員 田村ひろゆき | いいね!西東京
======【引用ここから】======
ただ、そうなってしまう理由もわからなくはないのです。というのも、3日目ともなると、同じ内容の質問が出てくることがあります。すると、一言一句同じ答弁が繰り返されます。原稿丸読みなので本当に一言一句同じです。別の会派が聞いたからやめますとしてもいいのですが、たいがい「すでに質問がありましたが」と前置きしつつ同じ質問を繰り返します。正直飽きます。
======【引用ここまで】======

そうすると、
「議論に参加できるわけではないし、その議論を経て採決が控えているわけでもないし、その場で何かすることがあるわけでなく、むしろ何もしてはいけない。なら欠席した方がマシだ」
という議員が出てきても、私は無理の無いことと思っています。

このように退屈な場面に嫌気がさして欠席してしまった議員が居たとします。そして、時には本当に体調等が悪くて欠席する議員も居るでしょう。欠席者の合計が半数を超えてしまうと、本会議は成立しません。議員の過半数が出席しなければ会議を開くことはできません。途中で退席してしまった場合も、過半数を下回れば本会議は止まってしまいます。

「質問議員の質問が程度の低い内容で、市長も通り一遍の答弁しかしないことも分かりきっている。退屈極まりない」
と思っている議員が、それでも本会議に出席し、目を瞑って質問中ずっと座り続けているからこそ、一般質問は成立しています。

【議員は有権者を映す鏡】

それでもまだ、けしからんと思う方も居ると思います。
「議員なんだから、ありとあらゆる市の公共事業、市政課題に関心を持って目を光らせておくべきだ。一般質問で他の議員が質問した項目、質問内容、答弁発言の全てを把握しておくべきだ。一般質問の最中に居眠りしている暇なんてあるか」
と。

しかし、市議会議員はそういった意識の高い有権者の票だけで当選しているわけではありません。市内の特定の地域の代表者、特定の業種の代弁者として、その地域、業種の票だけで当選する場合もあります、というか、その可能性が高いのです。国政でもワンイシュー政党が成立するように。

公立学校における教員の待遇改善・教育予算拡大を掲げ小中学校の教員票で当選する議員がいる一方で、公共工事の増加を掲げて建設業界の票で当選する議員がいます。他方、「うちの家の前の道路を舗装してくれ」といった声を届ける事を使命としてA地域住民の票で当選する議員がいて、B地域の経済振興を掲げてB地域住民の票で当選する議員がいます。

教員票で当選した議員にとって、公共工事増はそれほど関心あるテーマではありません。同様に、建設票で当選した議員は、教員待遇改善を、有権者からの付託を受けたテーマとは思っていないでしょう。合併前の旧A地域の票で当選した議員にとって、合併前旧B地域の事は他人事と思っているかもしれません。

そんな個別利害票を背負って議員になっている人に、自治体の行政課題全般に目を光らせろと要求しても、そりゃあなかなか難しいでしょう。そうした議員が一人で行う一般質問は個別業界・団体・地域の利害を代弁するものでしかなく、他の議員から見れば
「また自分の票田への利益誘導のための一般質問か。そういう事は個別に市長室で要望活動してればいいだろ。なんで一般質問の体裁で無関係な議員の時間を拘束するのか。」
ということにしかならないのです。

個別の地域、団体の要望のレベルから、議会と市長の二元代表制にふさわしい質問に脱皮させるためには、それなりの仕掛けが必要です。

【議員同士で勉強、議論を】

一般質問における居眠りは、今回の安芸高田市議会に始まったわけではなく、地方議会にとっては「あるある」ネタです。

【議員2万人のホンネ】同僚議員…この人、大丈夫か? | 注目の発言集 | NHK政治マガジン

この中から、私が注目する議員コメントをいくつか抜粋してみましょう。

======【抜粋ここから】======
「レベルが低い。居眠りは当り前、会議の欠席が多い人もいる。議案書や書類が読みこめない人、議場に置きっぱなしの人もいる」(40代男性議員)
「居眠りですが、一般質問の場合ですが、各議員が議題をつくり通告して持論を展開するので時々的外れや認識違いの内容のものがあり、黙って聞いているのが辛い時がある(居眠りしてしまうこと…)」(50代男性議員)
「会議で一般質問を4年間まったくしない議員がいること。質問もとんちんかんが多かったりと勉強しない議員が多い」(70代女性議員)
「『議員間討論』はほとんどない。更に、常任委員会での発言が制限された。また、本会議での『討論』も時間を1人20分に制限された。」
「議員間討論など、議員同士の活発な意見交換の場を、もっともっと増やしていただきたい」(60代男性議員)

======【抜粋ここまで】======

会派やグループで勉強会をして、市政のどの事業やどの予算支出に問題があるかを洗い出し、質問項目を整理して問い質すポイントを明確に絞り、内容の重複を避けるようにすれば、少なくともこの勉強会に携わった議員がこの一般質問の最中に居眠りをするような事はないでしょう。

私は、
「居眠りをする議員がけしからん」
という側面よりも、自分の支援者の個別利害を一般質問に持ち込む議員、一般質問の内容や焦点が定まっていないのでのらりくらりの答弁しか出てこないような質問をする議員、市長にヨイショしてお手盛りの答弁を貰って満足する議員、そうした質問者の側に大きな問題があると思っています。

定足数を満たすためだけにそこに座らされている議員を責めるのではなく、居眠りさせてしまう質問しかできない議員をこそ責めるべきです。そして、質問の水準や練度を上げるために有効な方法が、上記議員コメントで出てきた議員間の勉強会・意見交換です。

もし、市議会議員全員が一堂に会して勉強会を開いて議論をし、事務事業評価を行い、勉強会の内容を踏まえ議員ごとにテーマを割り振り、個別の議員ではなく議会として一般質問を行い、そこから出てくる市長側の答弁如何によっては市長提出予算案を大幅に減額する修正案を可決成立させてしまう・・・なんて事になれば、冒頭の安芸高田市の若き市長なんかは全く太刀打ちできなくなるでしょう。
ツイッターで
「説得?恫喝?」
なんて舐めた口を叩く余裕はなくなります。

就任直後の若い市長に舐められてネットで晒される、そんな態度を取られてしまうのは、居眠りする議員と居眠りさせてしまう程度の質問しか出来ない議員とがいて、
「そんな議員・議会に対してはのらりくらりとした答弁で躱せばOKだしテキトーな議会対応でOKだ」
と市長や幹部職員から思われていることの延長線上にあります。

安芸高田市議会の皆様、どうぞ議員間で勉強会をし、議論をし、市政に非効率・不公平な事務事業が山積している事を把握し、市長提出予算案・条例案に鋭く切り込んでください。市議選で当選したままでは、個別利害の代弁者から脱皮できません。個別利害を餌に切り崩して多数派工作が出来てしまえば、市長や幹部職員にとって市議会はお飾りでしかありません。そのレベルであれば市長や幹部職員から舐められっぱなしになります。

【追記:熊本市議会の緒方夕佳さんへ】

さて。

先ほども挙げた

【議員2万人のホンネ】同僚議員…この人、大丈夫か? | 注目の発言集 | NHK政治マガジン

の中に、面白いコメントがあったので最後にご紹介。

「・・・
また、いまだに、議員特権が横行していることも問題です。海外視察や、費用弁償(議会出席手当)、国保の助成上乗せした人間ドックの補助…これだけ市民の生活が苦しく、また市財政が逼迫している中、議員だからという理由で優遇される理由が分からない。
・・・」(女性市議)


メディアを利用して、市議である自分専用の託児室やベビーシッターを公費で用意しろ、と議会事務局に圧力をかけて特権的待遇を要求していた熊本市議会の緒方夕佳さん、大いに反省してください。

ゆるリバタリアン・蛭子さん

2020年10月26日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今日のお題は、私が好きなタレントの一人、蛭子さんのお話。

「蛭子さん」が語る認知症との闘い 襲い来る幻視、麻雀をやめた後悔、奥さんへの感謝(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

認知症であることを公表した蛭子さんのインタビュー記事。
基本的には意識がハッキリしていて会話も成立するけれど、ときどき、場所や持ち物の把握ができなくなったり幻視が見えたりといった、まだら模様な状態のようです。
そんな蛭子さんに対し、マネージャーが上手くスケジュール調整しつつキャラクターを活かしながら仕事を入れています。時間帯によって認知機能の良し悪しの波があって、マネージャーが状態を把握しつつ本人のしたい仕事、できる事を組み込むことで、蛭子さんの収入や生活が支えられています。そんな蛭子さんとマネージャーを交えたインタビューからは、高齢社会の一面を垣間見ることができます。

ぜひ記事全文をご覧ください。

【蛭子さんと麻雀】

さて。

おトボケ(キャラ?)な蛭子さんですが、彼にはもう一つの側面があります。

「ラーメン大好き小池さん」ならぬ「マージャン大好き蛭子さん」です。
自他ともに認める麻雀好き。

蛭子さんは記事中で、
麻雀に行く回数が減ったから認知症が進んだんじゃないか
そうですね、麻雀は好きですよ、本当に。回数が減ったのは世間体の悪さかな。麻雀をしている時は脳を使うから認知症予防にもなるはず。そういうことはやっぱり大事ですよ。
と述べていますが、これは蛭子さん一人が突飛な事を言っているわけではありません。蛭子さんと同じ発想で、認知症予防の観点から麻雀を取り入れている介護事業所も増えています。

麻雀の卓を囲みながら、雑談をしつつも手牌に目を配り、捨て牌に目を配り、他者の動向に気を配り、残り枚数や点数を数える、これが麻雀です。非常に頭を使います。頭にしろ筋肉にしろ、使わなければ衰えます。
「麻雀をする機会が減った事と認知症が進行した事とは繋がりがある」
と蛭子さんが思うのも無理ありません。

認知症予防の効果が期待される麻雀ですが、ネガティブな面もあります。
麻雀に伴うギャンブルという側面です。

蛭子さんは過去に賭け麻雀で現行犯逮捕され、罰金刑となったのみならず、仕事を失い収入が激減するという大変大きな社会的制裁を受けています。
蛭子さんへの扱いと対照的なのが、黒川弘務氏のケースです。蛭子さんと黒川氏とでは、現行犯逮捕かどうか、レートがテンリャンピンかテンピンかという違いはあれど、同じ事をしていて片方は刑罰を受け収入も激減、もう片方は不起訴・訓告のみ・退職金支給と、雲泥の差があります。

蛭子さんは
俺は麻雀の連載もやってたので理屈ばかり言って抵抗してたんですよ、警察に対して。「麻雀は頭に良いはずだ」とか、警察の考え方とは、全く逆の方向のことをどんどん言ってたら、ダメでした(笑)
と、警察に立てつきました。片や黒川弘務氏は、警察の身内である検察の上層部。蛭子さんと黒川弘務氏の取り扱いの差は、社会的秩序(という名の官僚機構の面子)なんでしょう。

【賭博罪の必要性は?】

賭博罪は、社会的法益に対する罪であると説明されます。
賭け麻雀で言えば、麻雀に参加しているプレイヤーが勝ち負けに応じてお金を払っても、参加者個人の権利侵害は生じません。その場のレートに同意して参加しているのですから。このため、個人の権利侵害ではなく、公序良俗という社会的な価値観を侵害しているという点を根拠に処罰しています。個人的法益に対する罪ではなく社会的法益に対する罪、具体的には「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」からギャンブルは悪い、だから処罰するんだ、という理屈です。

・・・蛭子さんがたまたま雀荘で賭け麻雀をしたのと、検察上層部の人が新聞記者と日常的に賭け麻雀をしていたのと、どちらが公序良俗に反しているでしょうか。さらには、蛭子-黒川問題から浮かび上がった、賭博罪を適用する対象者や摘発する場面に関する基準の曖昧さから「恣意的な運用がされているのではないか?」という疑いを招いた事の方が、よっぽど公の秩序に対する信用を揺るがしたんじゃないんですか?

そもそも、賭博罪における「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」という価値観は、政府の強制力を発動する理由として相応しいものなのでしょうか。公営ギャンブルやパチンコといった「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損なう」ものが氾濫している中で、賭け麻雀を違法とする賭博罪を維持する合理性がどれほどあるのでしょうか。

私は、賭博罪をはじめとする社会的法益に関する罪全般について、「当事者が同意して実施している行為を政府が禁止し罰する必要性があるのだろうか」という疑問を抱いています。

蛭子さんの
そんなに悪いことじゃないのになぁ、って思いますけど、でも、捕まるものは捕まるわけですから、しょうがないですね
というぼやきに、私は親近感を持っています。

そんなに悪いことじゃないのになぁ。

【蛭子さんのコロナ禍観】

さてさて。

蛭子さんは、新型コロナで騒がしい世間を眺めて、こうぼやきます。
コロナはめんどくさいなって思いますね。怖いってこともあるけど、なんでこんなに人が騒ぐのか。これに関してはよくわかんないな。

蛭子さんは著書『ひとりぼっちを笑うな』からも窺えるように、デモや政治運動が嫌いで、人に干渉せず、人から干渉されるのを避けようとするタイプの人です。

そんな彼から見れば、新型コロナを理由に政府が国民に対し新しい生活様式を示し、マスコミが声高に自粛営業の積極的実施を叫び、相互監視を強める中から自粛警察が発生し、国民の側からロックダウン等の政府の強制的な措置を求める様子は、「なんでこんなに騒ぐのか」と奇異に映るのでしょう。

蛭子さんは、個人の自由を尊重する人です。そして、政府がルールを定める事自体は仕方ないとしても、取り締まるのか取り締まらないのか曖昧で恣意的なルールを嫌います。


ひとりぼっちを笑うな』130頁
======【引用ここから】======
ルールは、”はっきりしたもの”、そして"現実に即したもの"であってほしいという願望があります。そう考えると、この日本という国には、ひどく曖昧なルールが多い気がしてなりません。
 たとえば、クルマやバイクのスピード違反。制限速度が60キロの道路を60キロで走っている人なんて、ほとんどいないですよね?みんな10キロくらいオーバーしているんじゃないかなあ。もし、みんなが60キロで走っていたら、どの道路も大渋滞ですよ。だからこれは、現実に即したルールだとは思えない。普通の道路でも、見通しのいいところだったら、70キロくらいでいいと思うんですよね。その代わり、全員にそのルールをしっかり守らせる。「道が空いていたから」とか「誰も見てなかったから」という言い訳はもちろん一切なしです。
 あとは、ソープランドもそう。売春防止法があるにもかかわらず、売春は依然として存在しているし、ソープランドも繁華街で普通に営業しています。"自由恋愛"という大義名分を理由にして、法律があるのにそれをかいくぐるように公然と営業している。つまり、それって社会的にも黙認されているわけですよね(僕の所属事務所がある渋谷なんて交番の後ろがソープランドなんていう場所すらあるくらいです)。人間の欲望というものがあって、需要と供給が成立している。大昔のように、無理矢理ソープで働かされているような人なんて、ほとんどいないですよ。だから、これもあまり現実に即したルールとは思えない。
 そして、やっぱりギャンブル。一応、「公営競技」という名のもとに、競馬、競輪、競艇、オートレースは認められていますが、パチンコや麻雀はグレーゾーンです。
 そうやってみんなが好んでやっているようなことに関しては、もう一回ルールをちゃんと見直してほしいというのが、僕の切なる願い。グレーゾーンが多いのはダメ。白黒はっきりつけて欲しいんです。
 そうでないと、どこか不安で自由に遊べないじゃないですか。”大人の遊び”みたいなものを、胸を張って自由にやらせてくれないところに、どうも僕は、日本の法律の矛盾を感じるんですよね。

======【引用ここまで】======

そんな蛭子さんにとって、何をして良くて何をしたらダメなのかがハッキリしない新型コロナ自粛要請は、苦手なんじゃないかなと思います。
東日本大震災の時に「絆」が強調された世情に違和感を感じていたのと、似たような感覚を抱いています。

ひとりぼっちを笑うな』18頁
======【引用ここから】======
あくまでもその人それぞれがやれることをすればよいのであって、「絆」や「がんばろう」というような言葉を、むやみやたらに強調しなくてもいいのではないかと考えているんです。あくまでも人は自由だから、絆の外にいる人、がんばらない人がいてもいいし、それを「間違った考えをするな!間違ったことをするな!」「それでもお前は日本人か!」「人でなし!」と説教や強要をするのは好ましくない。
======【引用ここまで】======

うん、蛭子さんが親戚のおじさんと言われても全然違和感ありません(笑)

社会のゴミは小泉進次郎環境相だけじゃない ~ 原田義昭の廃棄も有料ですか? ~

2020年10月02日 | 政治
スーパーで、レジ係員に
「ええと・・じゃあ・・LLサイズを2枚」
と告げたおじさん。
支払いを済ませた後で、レジ袋に買ったものが入りきらず、
おじ「もう1枚くれ」
係員「3円です」
おじ「1円、2円、3円がないから・・・100円で」
という不毛なやり取りをし、その間にレジに並ぶ行列が長くなる。
行列の中で、
「迷惑だわー、マイバッグ持ってくればいいのねー」
というおばさんが持っているマイバッグは、明らかに臭い。
数か月分の肉や魚の汁が染みているであろうその自前の袋は、すでに生ゴミ。

そんな経験、ありませんか?
どうもこんばんは、若年寄です。

本当に迷惑なレジ袋有料化ですが、世間では
「小泉進次郎が始めた世紀の悪法」
という声が強く、
進次郎大臣こそ社会のゴミだ
という批判が上がるほど。

全国民に膨大な時間・費用・手間をかけさせる実害を生じさせておきながら、
目的が違うんです。目的は、レジ袋有料化をきっかけに、世界的な課題になっているプラスチックに問題意識を持ってもらうこと
などと悠長な物言いを続ける小泉進次郎環境相は、「役立たずの世襲議員」を通り越して「社会のゴミ」だと思わずにはいられません。

私は、この「社会のゴミ」枠にもう一人追加したい。

それがこいつ。



「レジ袋の有料化」と私の決意 - 衆議院議員 原田義昭オフィシャルサイト
======【引用ここから】======
なお、敢えて言うなら、「レジ袋有料化」は、この私が大臣主導で決定したものです。
-----(中略)-----
大臣というのは非常に強い権限を持っており、政治的責任を取る覚悟さえあれば、ほぼ何でも決断できる強い立場にあります。強い決意で臨んだこと、それ故にその後もしっかりフォローする責任を持つことを感じたものです。
======【引用ここまで】======

「レジ袋の有料化」、7月1日から施行 - 衆議院議員 原田義昭オフィシャルサイト
======【引用ここから】======
昨年6月4日、私は環境大臣として「レジ袋有料化」の方針を発表した。長年に亘る社会的懸案であったのだが、有料化することで、国民全てにプラスチック使用の抑制とその意識付けになることを狙ったもの。
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前環境相にして、レジ袋有料化の導入を決めた張本人、原田義昭です。
小泉進次郎の悠長な啓発発言も、元を辿ればこの原田義昭の考え方に行き着くわけです。小泉進次郎は有料化開始時の大臣としてその責任は免れませんが、見方によっては、小泉進次郎はこの原田義昭が作ったレールの上を走る御輿でしかない、とも言えるわけです。

生ける老害、原田義昭。

レジ袋でまごまごするおじさんを見つけたら、
「原田義昭というまれに見る愚かな政治家のせいで、今、あなたは手間を取られてんですよ」
と教えてあげましょう。

久々の「フリードマン 予測の公式」を引用して、今回は終わりたいと思います。

○ミルトン・フリードマン著『政府からの自由』(中公文庫)152頁
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価値ある目的のための社会政策の数々、その実施結果やいかに。その疑問をもつ方々に、絶対間違いのない予測方法をお教えしよう。何でもいい、ある政策を強く推している公共心旺盛な善意の人のもとを訪れ、政策に何を期待しているかを尋ねるのである。そして、その人の期待と反対のことを言ってみる。実際の結果とピタリと一致することは、驚くばかりである。
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