若年寄の遺言

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「人権」を口実とした行政の介入と立憲主義の後退 ~ 川崎市ヘイトスピーチ禁止条例雑感 ~

2019年12月25日 | 政治
立憲主義、という言葉があります。
分裂した旧民主党の一派が、立憲民主党を結党する際に盛んに言及していました。
しかし、当の立憲民主党にすらあまり理解されていない理念です。

【立憲主義】

さて、立憲主義とは何でしょうか。
そのものズバリの記事があったので、ご紹介します。

立憲主義とは何か? | ハフポスト
======【引用ここから】======
憲法は、権力者をしばるためのものです。国民の基本的人権、生命や財産を守るためにあります。憲法99条では、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と書いてあり、国民には憲法を守る義務はありません。守られるのは国民なのです。
======【引用ここまで】======

このとおり、憲法とは、権力を縛るためのものです。

憲法に書かれた基本的人権は国民の権利なのですが、ではその権利の名宛人として義務に縛られ制限される対象は誰かというと、立法権・司法権・行政権に携わる議員・裁判官・大臣その他もろもろの公務員、その総体としての政府です。
(政府を国家と呼ぶ慣習がありますが、国家と呼ぶとイメージとして国民や領土も含まれてしまいピントがボケるので、できるだけ国家という文言は避けるようにしています。)

政府を縛るのが憲法です。
政府を「~~をしてはならない」という義務で縛り、政府の強制力に制限を課すことで、その裏返しとして国民は政府に対し「政府の強制や介入はお断り」と拒否することができるようになります。
こうした、政府の義務と、その裏返しに行使できる、国民の妨害排除請求権を、自由権と呼びます。
憲法によって政府を縛り、これによって自由権を守るのが立憲主義です。
立憲主義の中心にあるのは、自由権すなわち「権力からの自由」です。

『シリーズ憲法の論点⑧』人権総論の論点 高橋和之 2005年3月
======【引用ここから】======
しかし、それ(引用注:デモクラシーと「権力への自由」)がどれだけ重要視されるにいたろうとも、権力の他者性が存在するかぎり、憲法構造を「権力からの自由」から「権力への自由」に転換することは許されない。あくまでも自由権が基本であり、民主主義の名において自由権を制約するならば、それは立憲主義の死を意味する。
======【引用ここまで】======

こうした立憲主義の考え方を踏まえつつ、今回のテーマである

『川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例』

通称、川崎市ヘイトスピーチ禁止条例を眺めてみましょう。

【川崎市ヘイトスピーチ禁止条例は立憲主義的か】

条例の前文には、次のように書いてあります。


令和元年第5回川崎市議会定例会議案概要

議案第157号 川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例の制定について
======【引用ここから】======
前文
 川崎市は、日本国憲法及び日本国が締結した人権に関する諸条約の理念を踏まえ、あらゆる不当な差別の解消に向けて、一人ひとりの人間の尊厳を最優先する人権施策を、平等と多様性を尊重し、着実に実施してきた。
 しかしながら、今なお、不当な差別は依然として存在し、本邦外出身者に対する不当な差別的言動、インターネットを利用した人権侵害などの人権課題も生じている。
 このような状況を踏まえ、市、市民及び事業者が協力して、不当な差別の解消と人権課題の解決に向けて、人権尊重の理念の普及をより一層推進していく必要がある。
 ここに、川崎市は、全ての市民が不当な差別を受けることなく、個人として尊重され、生き生きと暮らすことができる人権尊重のまちづくりを推進していくため、この条例を制定する。

======【引用ここまで】======

「日本国憲法・・・の理念を踏まえ」と言っているのに、ここに出てくる「人権」は、憲法上の基本的人権や憲法の中心概念たる立憲主義の考え方に合致していません。

市民と市役所の関係で見た時、憲法上の基本的人権、立憲主義的な自由権は、権力(=市役所)を制限し拘束することによって守られる市民の権利です。
市民が持っている、市役所に対する妨害排除請求権です。
市民と市役所は、人権を間に挟んだ局面においては対立する立場にあります。
人権を間に置いて、全ての市民が権利者、市役所は義務者となるのが、立憲主義です。

ところが、この条例では

市、市民及び事業者が協力して・・・人権課題の解消に向けて、人権尊重の理念の普及をより一層推進

として、人権課題を解消するために市役所と市民が協力することを規定しています。
こうした姿勢は立憲主義からかけ離れており、人権保障のあるべき姿を歪めています。

川崎市の条例が立憲主義と人権を歪めている様子は、次の条文からも見てとれます。

======【引用ここから】======
(市民及び事業者の責務)
第4条 市民及び事業者は、市の実施する不当な差別を解消するための施策その他の人権に関する施策に協力するよう努めなければならない。

======【引用ここまで】======

行政権を行使する市役所が市民に対し

協力するよう努めなければならない

と努力義務を課すのは、立憲主義の考え方とは真逆です。

こうした市民の努力義務規定は、自治体の条例に頻繁に見られます。
例えば、市役所が環境保護条例を制定した場合、その中に

「市民は、環境保護に関する市の施策に協力するよう努めなければならない」

といった規定を設ける、そんなケースが多く見られます。
これはこれで問題だと思うのですが、特に人権については、この書き方をしてしまうと憲法上の基本的人権・立憲主義の考え方と矛盾を生じさせます。

市役所が市民に対して努力義務を課すことで守られるものを人権と呼ぶことは、立憲主義に照らして不適切です。
言葉の濫用です。
人権のインフレ化と呼ばれる現象であり、本来の基本的人権の保障の程度を弱めてしまう危険な用法です。
この条例に出てくる「人権」は、憲法上の人権とは違う何か別物であると疑ってかかる必要があります。

【人権擁護局は憲法上の基本的人権を擁護していない】

この条例中で「人権」という単語を見て、しかも条例前文の

日本国憲法及び日本国が締結した人権に関する諸条約の理念を踏まえ

との記述をパッと見れば、ここでいう「人権」が日本国憲法における基本的人権だと多くの人が思ってしまうことでしょう。

しかし、それは勘違いです。
今回川崎市で成立した

川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例

と、そして、これに先立って国会で成立した

本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)』

の背景には、これを所管する法務省人権擁護局の事業である人権教育、啓発活動があります。

ちょっと立ち返って見ましょう。
憲法上の基本的人権に照らして、法務省が関与し、あるいは解消すべき課題はたくさんあります。

例えば、代用監獄。
例えば、違法な捜査や取調べ。
例えば、入管における外国人の収容。

いずれも、政府の強制力行使のあり方が疑問視されている「権力からの自由」の問題であり、法務省は当事者・関係者として速やかに解決しなければなりません。
憲法の人権規定に照らして法務省や警察、裁判所の公権力行使の在り方を自己点検し、不当な強制力の行使があれば速やかに是正、廃止すべきです。
その法務省が人権教育、啓発活動の事業をやっているのですから、当然、これらの解決を目指す取り組み内容が中心である・・・はずです。

ところが、法務省人権擁護局が人権啓発活動で取り挙げている人権課題を見てみると・・・

法務省:主な人権課題
======【項目ここから】======
主な人権課題(1)女性

主な人権課題(2)子ども

主な人権課題(3)高齢者

主な人権課題(4)障害のある人

主な人権課題(5)同和問題

主な人権課題(6)アイヌの人々

主な人権課題(7)外国人

主な人権課題(8)HIV感染者・ハンセン病患者等

主な人権課題(9)刑を終えて出所した人

主な人権課題(10)犯罪被害者等

主な人権課題(11)インターネットによる人権侵害

主な人権課題(12)ホームレス

主な人権課題(13)性的指向

主な人権課題(14)性同一性障害者

主な人権課題(15)北朝鮮当局によって拉致された被害者等

主な人権課題(16)人身取引(トラフィッキング)

======【項目ここまで】======

とあり、そのほとんどが

 「 私人 対 私人 」

の配慮不足、揉め事、争い事、犯罪です。

多くの人の理解や配慮によって解消されるのが望ましいもの、あるいは警察や裁判所によって解決されることが望ましいものが多く含まれていますが、これらは憲法上の基本的人権と直接関係があるわけではありません。
この16課題のうち、立憲主義に照らして、憲法上の基本的人権の課題(「権力からの自由」の問題)と呼べるのはハンセン病患者や拉致被害者の問題くらいでしょう。

法務省の人権感覚は、憲法上の基本的人権とはズレています。
法務省の人権啓発標語を見ても、

法務省:啓発活動重点目標
======【引用ここから】======
みんなで築こう 人権の世紀 ~考えよう 相手の気持ち 未来へつなげよう 違いを認め合う心~
======【引用ここまで】======

と、立憲主義や「権力からの自由」に基づく視点は皆無。
法務省人権擁護局の「人権」は、「道徳」とでも読み替えた方が実態に近いと言えます。

法務省は、自分達が憲法上の基本的人権を侵害する制度運用をしておきながら、そこには一切触れることなく、本来の趣旨を無視して私人間のトラブルや犯罪に「人権」という呼称を付けて啓発活動をして回っています。

こうした法務省の動きの背景には、何があるのでしょう。
一つには、所管分野に旨みのあるものが少なく、ろくな天下り先の無い「弱小官庁・法務省」という他所からの評価、待遇への不満があります。

法務省が様々な私人間トラブルを指して

「それは人権課題ですよ!」
「人権課題となれば、我ら法務省人権擁護局の管轄です!!」

と叫ぶことで、外務省や総務省、厚労省、経産省などなど、他所の官庁が管轄する分野に介入し口を出すことができるようになります。
そのためにせっせと「人権」の仮面を付けて回っているわけです。

法務省は私人間トラブルに「人権」の仮面を被せ、これを他省庁の分野に介入するための口実として利用しています。
同時に、私人間トラブルに介入する口実を増やし、私人間トラブルを「人権」課題として多く認定することで啓発事業予算を膨らまそうとしています。

【行政介入の口実としての「人権」】

川崎市の条例に戻りましょう。
川崎市の条例には、三つの問題があります。

(用語上の問題)

まず一つは、ここまで述べてきた立憲主義との兼ね合いです。

立憲主義は、権力に縛りをかけ、政府が私的領域に介入するのを防止することで人権(≒自由権)を守ろうとするものです。
他方、この条例は、市役所が私人の行為のあり方に介入することで、第三者の何らかの利益を守ろうとするものです。
こうした第三者の何らかの利益を、法律上保護すべきとする要請はあるかもしれませんが、これを「人権」と呼称するのは不適当です。

(司法プロセスで足りる)

二つ目は、無用な司法プロセスへの介入、お節介であるという点です。

川崎市の条例で禁止されている事項を確認してみましょう。

======【引用ここから】======
(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の禁止)
第12条 何人も、市の区域内の道路、公園、広場その他の公共の場所において、拡声機(携帯用のものを含む。)を使用し、看板、プラカードその他これらに類する物を掲示し、又はビラ、パンフレットその他これらに類する物を配布することにより、本邦の域外にある国又は地域を特定し、当該国又は地域の出身であることを理由として、次に掲げる本邦外出身者に対する不当な差別的言動を行い、又は行わせてはならない。
 ⑴ 本邦外出身者(法第2条に規定する本邦外出身者をいう。以下同じ。)をその居住する地域から退去させることを煽動し、又は告知するもの
 ⑵ 本邦外出身者の生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加えることを煽動し、又は告知するもの
 ⑶ 本邦外出身者を人以外のものにたとえるなど、著しく侮辱するもの

======【引用ここまで】======

居住する地域から退去させることを煽動または告知
生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加えることを煽動または告知
著しく侮辱

これらはいずれも、既存の強要罪、脅迫罪、侮辱罪などに当てはまる行為であろうと思います。
刑法犯に該当する行為であれば、警察が捜査し、検察が起訴し、裁判所が刑を確定させるという通常の司法プロセスで足りるはずです。

そこに、「人権」という仮面を口実に市役所が介入する・・・という構図は、法務省の手口と同じものです。
通常の司法プロセスで足りる所に行政が口を挟んでくるのは、蛇足です。
要らないのです。

(法内容の平等に反する)

そして三つ目が、この条例の禁止行為は、「本邦外出身者」に対する退居や危害の扇動・告知、侮辱に限定されており、日本国民に対する同じ行為は対象外となっていることです。

例えば、日本国民Aさんが現在住んでいるマンションでは、Aさんの他はほとんどが外国出身者だとします。
そんな中、外国籍Bさんが
「このマンションから日本人を叩き出そう」
「ゴキブリ日本人を駆除しよう」
というビラをマンション内の郵便受けに一斉配布したとします。

Bさんの退居扇動や侮辱は、川崎市条例の適用外です。
それはそれで良いんです。
そもそも川崎市条例は蛇足でしかありません。
AさんはBさんを相手に損害賠償を請求したり脅迫罪などで訴えるなどの方法があり、それは川崎市条例があろうが無かろうが、最終的には変わりません。

しかし、同じ行為をしても、逆にAさんが退居や危害の扇動・告知や侮辱をした場合は条例の対象となり、川崎市役所が介入してきます。
この状態は、憲法の平等原則で言われるところの
「法内容の平等」
に反しています。

条例前文では
あらゆる不当な差別の解消
を掲げていますが、こう書いた立案者本人が心底そう思っているのであれば、対象を本邦外出身者に限る必要は無いはずです。
条例で一定の行為を規制する高度な必要性が本当にあるなら、「本邦外出身者」に対する退居や危害の扇動・告知や侮辱に限定せず、全ての人を対象とすべきです。

実際のところ、この条例は、退居や危害の扇動・告知や侮辱に対する司法プロセスに行政が口出しする道を付けた蛇足でしかなく、条例化する高度な必要性があるわけではありません。
市役所が介入したいところに介入するための条例であり、今回の場合、その介入したいポイントが「本邦外出身者」への差別言論だったからそれを条例化したに過ぎません。

条例提案者たる市長や議決権者たる議員に「法内容の平等」という義務を課し、恣意的な条例立案から市民を守るのもまた、立憲主義からの要請です。
こうした点から見ても、この条例は立憲主義に反したものと言えましょう。

【立憲主義の死】

私は、いわゆる保守派の主張するような
「川崎市条例によって外国人がやりたい放題になる」
といったことが起きるとは思っていません。

他方で、いわゆるリベラル派が言うような
「外国人へのヘイト言論がこの条例で抑止される」
といった効果も期待していません。

ただ、「人権」という言葉の濫用と恣意的な内容の条例が増え、行政による介入の口実がどんどん増え、その都度、立憲主義が後退していくのが残念で仕方ありません。

民主主義における勝者が多数派を構成して権力を握り、多数派の意向に沿って適用対象を恣意的に取捨選択する条例の横行する現状は、まさに

民主主義の名において自由権を制約するならば、それは立憲主義の死を意味する

と言えましょう。