詠里庵ぶろぐ

詠里庵

シベリウス

2008-10-19 10:52:10 | 日々のこと(音楽)
のピアノ曲はなかなかすてきです。「ピアノは歌わないから好きでない」と言ったというのは本当?と思うほど。

ま、ピアノ曲のことは後日にして、ピアノ以外、特にオーケストラ作品が本領の作曲家ですよね。シベリウスを嫌いという人はあまりいないように思います。

しかし私は不思議な作曲家だと思うのです。大ざっぱに言って(I)はずかしいほどわかりやす過ぎるいい曲、(II)わかりやすく深い、いい曲、(III)わかりにくくて深い、いい曲、があると思います。(I)から(II)への変化は連続的で必然性が感じられますが、(III)はいったい何なのか、不思議なのです。

たとえば(I)はクレルヴォ交響曲、カレリア、フィンランディア、Sym.1第1楽章、Vn協第3楽章、Sym.2第4楽章、(II)はSym.1、Vn協、Sym.2、タピオラまで含む交響詩群があります。(III)はというと、俄然Sym.3~7です。(I)(II)は全ての音符の存在に納得が行き、それ以外の解はないだろうと思いますし、特に(II)は精神的にも大きな感銘をもって浸れます。でも(III)はというと、大好きなのですが、理解できないままなんとなく好き、という楽想や音符が非常に多くあるのです。

シベリウスの本当のマニアは、(I)はおいといて(II)の方を、しかしそれよりはずっと(III)を好むだろうと思います。その意味で私はまだ本当のシベリウス・マニアではないかもしれません。なにせ最初期のクレルヴォ交響曲なんかが好きなくらいですから。

しかしです。(I)と(II)の「好き度」が年と共に変わらないのに対し、(III)の交響曲第3~7番の「好き度」が年々上がって来ているのです。これを外挿すると、将来逆転する可能性があります。

まあ6番は元から好きです。5や7も血湧き肉躍るようなことはないにしても、美しく、のびやかで、雄大なところもありますね。3も不思議な冒頭ですがきれいな曲です。

問題は4です。若い頃これがさっぱりわからなかった。今でも楽譜を見ながらでないと、耳で聴いただけでは楽想が掴めません。小節線は何のために引いているのか、全く好き放題に見える展開。若い作曲家がいきなりこれを発表したら顰蹙を買うのではないか? Sym.1、2、V協の実績があればこそ許された唯我の境地ではないか、と思う一方、最も先鋭的なシベリウス・ファンはこの曲を一番好むんだろうななどと思ったこともありました。

それが最近「好き度」上昇の微分係数が一番大きいのがこの曲です。そこで昔買ったBreitkopfのスコアを取り出し、解説を読んでみましたが、面白いことが書いてありました。「ストラヴィンスキーやシェーンベルクをはじめとする最近の音楽の傾向に私は反発を感じる。そのアンチテーゼとして私は交響曲第4番を作った」のだそうです。

古典・ロマン派の語法を崩すというのがストラヴィンスキーやシェーンベルクが採った現代音楽確立派の道だとすれば、それに疑問を感じたシベリウスの感覚もわからないではありません。しかしシベリウスもロマン派にとどまることはせず、独自の方法で新しい道を探ったように見えます。方向はともかくロマン派にとどまることが許されなくなったあの時代から、作曲家は安心して頼れる太い指針を失い、分裂した小さな指針群に頼るか、自分ひとりで立てられる程度の小さな指針で作曲するしかなくなったようにも思います。シベリウスが約60才で創作をストップし、以後約30年間作曲しなかった(しては捨てた)ことはそのような状況と関係があるのではないかと思います。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9月にアメリカ | トップ | おいしいパスタ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日々のこと(音楽)」カテゴリの最新記事