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滝廉太郎記念館

2007-12-08 23:22:58 | 日々のこと(音楽)
に行きました(写真)。一週間ほど前大分大学に出張したときの話です(ボンバルディアに乗ったのはそれです)。帰る日4時間ほど空き時間があったので、豊後竹田(タケタ)市にある記念館に行ったわけです。行くまでは生家なんだろうと思っていましたが、そうではなく東京生まれで、この記念館は12~15才のとき住んだ家ということです。しかし「荒城の月」のモデルになった城跡があったり、短いながらも多感な時期を過ごした滝廉太郎としては思い入れ深い場所だったということです。

写真にあるようにちょうど紅葉が映える季節でしたが、その右にバラが咲きまくっています。バラって5、6月じゃなかったっけ? 何で180度位相ずれているの? と思いましたが、後で調べたら11月もバラの開花時期なんだそうです。

そのバラですが、「メンデルスゾーン」という品種なんだそうです。あるとき、荒廃の進んだメンデルスゾーンの生家を国際メンデルスゾーン基金が復興したとき、日本の後援会が多大な貢献をしたそうです。そのお礼として新種のバラ「メンデルスゾーン」が日本に贈呈されたのですが、植樹地に日本で唯一この滝廉太郎記念館が選ばれたということです。それは何故か? 彼が留学したのはライプツィッヒ音楽院。と言えばピンと来るでしょう。メンデルスゾーンの創立した音楽院として有名です。

知られているように滝廉太郎は留学中に結核を患い、文部省から帰国命令を受けて帰国、大分で23才で夭折しました。つまり彼の作曲のほとんどは留学前のものです。この派遣を当時文部省がどう総括したか、わかりませんが、報告書的には「発病により中断し成果は得られなかった」となるのが普通でしょう。そうだとしてもいたしかたありませんが、後世への影響はそれ以上のものがあったと言えないでしょうか? 研究プロジェクトの報告も「これこれの成果があった」と書くのは当然ですが、世の中へのその後の影響は、「これこれ」の意義は実際には大したことなかったり、「これこれ以外」での意義が見いだされたりするものです。それでいいわけですが、滝廉太郎の留学はどう考えるべきでしょう? 留学が無くても、今でも口ずさまれている彼の作品は全部存在しているわけです・・・

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