2016年1月31日(日)
↓喜屋武(きゃん)岬の次は、国道331号線沿いにある沖縄戦跡の代名詞とも言うべき「ひめゆりの塔」へ。
↓完璧に観光地と化してます→
何だかおかしい、変だと思うのは私だけではないはず。
紛れもなく悲劇があった場所なんですが・・・。
まずは「ひめゆり」から西へ行く事すぐの所にある戦跡に行きたくてそちらに向かうと、駐車場で車の誘導係しているおっちゃんに呼び止められる。「お~い、(ひめゆりは)そっちじゃないぞ~」
どうやらそれを見に行く人は全くいないようです。
でも「ひめゆり学徒隊」に関係のある所なんだけどなあ。
やっぱり私の他には誰もいませんでした→
「伊原第一外科壕」というガマで、「ひめゆり学徒隊」が配属された壕のうちの一つ。
中の様子→
ポツンと置かれているものは折り鶴だったか?、この壕でも亡くなった女学生がいたようです。
国道から見た「伊原第一外科壕」の茂み→
今では長閑な辺り一帯。夏なら「ざわわ」と、さとうきびが揺れている風景になるのかな?
恐らくまだ見つけられずに眠ってらっしゃる方も多いんでしょう。
↓次は「ひめゆりの塔」、ではなかった・・・、隣の駐車場の奥にある「梯梧(でいご)の塔」。
沖縄戦における女子学徒隊は全部で9つあり(「白梅学徒隊」「積徳学徒隊」(以上は前編で紹介)「ひめゆり学徒隊」「なごらん学徒隊」「瑞泉学徒隊」「梯梧学徒隊」「宮古高女学徒隊」「八重山高女学徒隊」「八重農学徒隊」)、そのうちの一つ「梯梧学徒隊」が組織された私立昭和高等女学校関係者で戦死した60名を祀っている慰霊碑。
ここもあまり人が来ることなく、ひっそり。建物一つ隔てた所は大賑わいなのだけど・・・。
今度こそ、人が多く来ている「ひめゆりの塔」へ→
何も知らなければ、後ろの白い大きな慰霊碑が「ひめゆりの塔」と思ってしまうでしょう。
ですが、写真真ん中のガマ「第三外科壕」の右にある小さい碑こそが「ひめゆりの塔」。
有名な「ひめゆり学徒隊」は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員された総勢240名(生徒222名、教師18名)からなる女子学徒隊。
沖縄県立第一高等女学校広報誌の名前「乙姫」と、沖縄師範学校女子部の広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合(ひめゆり)」となったらしいです。
彼女たちは負傷兵の看護などに当たるも、米軍の進攻により島南部へ撤退する。
そしてこの「第三外科壕」で突然の解散命令を受けた日の翌朝の米軍の攻撃で、壕の中にいた女学生や教師のほとんどの命が奪われ、荒崎海岸まで逃げ延びられた女学生らも手榴弾等で集団自決したという。
↓かなりの人が「ひめゆり平和祈念資料館」に吸い込まれていきます。
私は一度見学したのもありますが、他にも行きたい所がいっぱいあるので今回は入りません。
魂魄(こんぱく)の塔→
沖縄で最初に建立された最大の慰霊碑で、2番目にできたのが「ひめゆりの塔」。
写真左の石碑文には「(前略)戦後、真和志村(今は那覇市)民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。祭神3万5千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔(以下略)」とあり、住民はもとより、軍人・兵士も敵味方の区別なく祀っています。
遺骨は一箇所に集められて大きな穴が掘られその中に収められたが、それでも収まりきれず、積み上げられ一つの大きな骨の山が築かれ、周囲から石をかき集めて納骨堂が完成したという。
この塔の周囲には1都1道8県の慰霊塔が、沖縄県全体では1都1道2府42県の慰霊塔があるのですが、1県だけありません。その1県とは・・・。
沖縄県。
なので、ここが「沖縄県の塔」とも言うべき慰霊碑のようで、親族がどこで亡くなったか分からない人達はここにきて涙を流すという。
本来は「ひめゆり」などの他のどこよりも真っ先にこの塔を慰霊すべきなのですが・・・。
順序が逆になってしまいました、すみません。
昭和20(1945)年6月23日、第32軍司令部・司令官の牛島中将以下が自決して組織的な抵抗が終わった地・摩文仁(まぶに)の平和祈念公園へ。
↓ただ、ここに着いたのは16時半で、平和祈念資料館の「常設展示室」へ入れるのも16時半まで。
タッチの差でした、残念・・・。
↓エントランスホールの床の一部にはガラス張りになっています。
覗くと、狭い所に不発弾数発。
爆発したのは当然比べるべくもなくもっと多かった筈で・・・。
「鉄の暴風」と呼ばれた砲弾射撃の凄まじさがほんの少しわかるような気がする展示品。米軍に撃ち込まれた砲弾は約270万発だったらしく、想像しただけで恐ろしい。
建物を出る→
右の石碑は、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。
平和の広場→
周りにはシナ大陸から来た多くいて、ここを知ってか知らずか大騒ぎ。
さすがに「我々は小日本に勝ったんだぞ!」などと叫んではいないと思うけど・・・。
広場からの眺め→
喜屋武岬同様、今でこそ美しい眺めのここですが、逃げ場を失った兵士や住民らが身を投じたようで、それはさぞ凄惨極まりなかったのでしょう。
平和とは本当にありがたいもんです。改めて亡くなられた方々に合掌。
↓喜屋武(きゃん)岬の次は、国道331号線沿いにある沖縄戦跡の代名詞とも言うべき「ひめゆりの塔」へ。
↓完璧に観光地と化してます→
何だかおかしい、変だと思うのは私だけではないはず。
紛れもなく悲劇があった場所なんですが・・・。
まずは「ひめゆり」から西へ行く事すぐの所にある戦跡に行きたくてそちらに向かうと、駐車場で車の誘導係しているおっちゃんに呼び止められる。「お~い、(ひめゆりは)そっちじゃないぞ~」
どうやらそれを見に行く人は全くいないようです。
でも「ひめゆり学徒隊」に関係のある所なんだけどなあ。
やっぱり私の他には誰もいませんでした→
「伊原第一外科壕」というガマで、「ひめゆり学徒隊」が配属された壕のうちの一つ。
中の様子→
ポツンと置かれているものは折り鶴だったか?、この壕でも亡くなった女学生がいたようです。
国道から見た「伊原第一外科壕」の茂み→
今では長閑な辺り一帯。夏なら「ざわわ」と、さとうきびが揺れている風景になるのかな?
恐らくまだ見つけられずに眠ってらっしゃる方も多いんでしょう。
↓次は「ひめゆりの塔」、ではなかった・・・、隣の駐車場の奥にある「梯梧(でいご)の塔」。
沖縄戦における女子学徒隊は全部で9つあり(「白梅学徒隊」「積徳学徒隊」(以上は前編で紹介)「ひめゆり学徒隊」「なごらん学徒隊」「瑞泉学徒隊」「梯梧学徒隊」「宮古高女学徒隊」「八重山高女学徒隊」「八重農学徒隊」)、そのうちの一つ「梯梧学徒隊」が組織された私立昭和高等女学校関係者で戦死した60名を祀っている慰霊碑。
ここもあまり人が来ることなく、ひっそり。建物一つ隔てた所は大賑わいなのだけど・・・。
今度こそ、人が多く来ている「ひめゆりの塔」へ→
何も知らなければ、後ろの白い大きな慰霊碑が「ひめゆりの塔」と思ってしまうでしょう。
ですが、写真真ん中のガマ「第三外科壕」の右にある小さい碑こそが「ひめゆりの塔」。
有名な「ひめゆり学徒隊」は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員された総勢240名(生徒222名、教師18名)からなる女子学徒隊。
沖縄県立第一高等女学校広報誌の名前「乙姫」と、沖縄師範学校女子部の広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合(ひめゆり)」となったらしいです。
彼女たちは負傷兵の看護などに当たるも、米軍の進攻により島南部へ撤退する。
そしてこの「第三外科壕」で突然の解散命令を受けた日の翌朝の米軍の攻撃で、壕の中にいた女学生や教師のほとんどの命が奪われ、荒崎海岸まで逃げ延びられた女学生らも手榴弾等で集団自決したという。
↓かなりの人が「ひめゆり平和祈念資料館」に吸い込まれていきます。
私は一度見学したのもありますが、他にも行きたい所がいっぱいあるので今回は入りません。
魂魄(こんぱく)の塔→
沖縄で最初に建立された最大の慰霊碑で、2番目にできたのが「ひめゆりの塔」。
写真左の石碑文には「(前略)戦後、真和志村(今は那覇市)民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。祭神3万5千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔(以下略)」とあり、住民はもとより、軍人・兵士も敵味方の区別なく祀っています。
遺骨は一箇所に集められて大きな穴が掘られその中に収められたが、それでも収まりきれず、積み上げられ一つの大きな骨の山が築かれ、周囲から石をかき集めて納骨堂が完成したという。
この塔の周囲には1都1道8県の慰霊塔が、沖縄県全体では1都1道2府42県の慰霊塔があるのですが、1県だけありません。その1県とは・・・。
沖縄県。
なので、ここが「沖縄県の塔」とも言うべき慰霊碑のようで、親族がどこで亡くなったか分からない人達はここにきて涙を流すという。
本来は「ひめゆり」などの他のどこよりも真っ先にこの塔を慰霊すべきなのですが・・・。
順序が逆になってしまいました、すみません。
昭和20(1945)年6月23日、第32軍司令部・司令官の牛島中将以下が自決して組織的な抵抗が終わった地・摩文仁(まぶに)の平和祈念公園へ。
↓ただ、ここに着いたのは16時半で、平和祈念資料館の「常設展示室」へ入れるのも16時半まで。
タッチの差でした、残念・・・。
↓エントランスホールの床の一部にはガラス張りになっています。
覗くと、狭い所に不発弾数発。
爆発したのは当然比べるべくもなくもっと多かった筈で・・・。
「鉄の暴風」と呼ばれた砲弾射撃の凄まじさがほんの少しわかるような気がする展示品。米軍に撃ち込まれた砲弾は約270万発だったらしく、想像しただけで恐ろしい。
建物を出る→
右の石碑は、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。
平和の広場→
周りにはシナ大陸から来た多くいて、ここを知ってか知らずか大騒ぎ。
広場からの眺め→
喜屋武岬同様、今でこそ美しい眺めのここですが、逃げ場を失った兵士や住民らが身を投じたようで、それはさぞ凄惨極まりなかったのでしょう。
平和とは本当にありがたいもんです。改めて亡くなられた方々に合掌。
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