ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

151日目 日本列島のド真ん中に立つ

2016-05-25 23:59:35 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月4日(水)


今日5月25日は平成になって10,000日目なんだとか。
もうそんなに経ったのかあ、道理で歳取ったワケだ(苦笑)
昭和最後の日・平成最初の日は何をしたのか覚えているけど、10,000日目はこれといって記憶に残るような事はなかったな・・・。

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↓ガマの大合唱がBGMの「道の駅北はりまエコミュージアム(西脇市)」を7時頃発ちます。

夜は時折風雨が激しかったものの、何事もなかったような晴れの爽やかな朝。

まず先に加東市に向かったのですが、また西脇市に舞い戻ってきたので、本編では西脇市の事について触れます。
最初に訪れたのは「日本へそ公園」→
看板には、北・宗谷海峡の北緯46度、南・波照間島の北緯24度、東・択捉島で東経147度、西・与那国島で東経123度をそれぞれ東西南北の端とすると、その中心にあたる北緯35度と東経135度が交差する場所、つまり「日本のへそ」にあるのが西脇市だとの説明がある。

敢えてツッコミを入れるなら、日本の北端は択捉島(北緯45度)だし、東は南鳥島(東経153度)、南はドコゾの国が岩だと難癖つける(というか、客観的に見ても岩にしか見えないんだけど)沖ノ鳥島(北緯20度)なので、それに基づけば、本当の「日本のへそ」は遠州灘の遥か南洋上。
寧ろそんな事よりも、東と南の端が東京都というのが驚きかも。

さて、「日本のへそ」を標榜する都市は西脇市以外にもあります。
他には人口の重心で考える場合もあって、その場合は岐阜県関市辺りらしいです。

↓ここは大正12(1923)年に旧陸軍によって計測された北緯35度と東経135度の交点。

いわゆる「大正のへそ」ですが、加古川の河川敷にあって、鬱蒼とした中、埋もれて忘れ去られた感ある石碑。
碑は道路橋(その名も経度橋という)の袂下にあります。
その橋に上がってみる(上流側)→
奥は黒田庄といい、あの軍師の出身地とされる場所。

JR加古川線・日本へそ公園駅→
つまり日本のド真ん中にある駅で、後ろの丘が公園。
駅前の建物は今もご健在という西脇市出身の世界的な画家・横尾忠則氏の作品を展示保存している岡之山美術館。
でも美術に全く興味ないのでパス。

↓国土地理院がGPSで測量した「平成のへそ」。
 
こちらは大正のとは違って、目立つように4本のモニュメントが立ってます。
あたかもこっちが正しいものと言わんばかり。
せっかくなんで、記念に交点にシッコでもひっかけてやろうと思ったけど(ウソです。良い子はそんな事しないように)。

「平成のへそ」からの眺め→

↓にしわき経緯度地球科学館(テラ・ドーム)、入場料は\510(JAF会員は\410)。

プラネタリウムがあり、気象・自然現象などを学べます。
が、外見が子供向けだし、実際入ってみたらやっぱり子供向け。
多くの子供の中に大人がポツンと見物している様は何となく恥ずかしい。なのでさっさと出てしまう。

(586)兵庫県西脇市役所
西脇は市内を流れる加古川支流の杉原川(写っていないけど写真左に流れています)の水質の良さを背景として播州織が発展したので、比較的第2次産業従事者の比率の高い町。
平成17年に黒田庄町を合併し、現在の人口は約42,000人。

後は市内を軽く散策。
↓古い建物が佇む街並み。




ギザギザ屋根が特徴の織物工場→

仕舞屋となったらしき料亭→

横尾忠則氏「Y字路」の原点・椿坂→
「原点」の意味がその時には分からなかったけど、横尾氏のライフワークとしてY字路の風景を描いているようで、そのシリーズの最初に登場する場所がここらしい。

豊川町交差点→

ここの商店街も苦戦しているよう→

↓交差点近くの国登録有形文化財「旧来住家(きゅうきしけ)住宅」。

大正時代に地元名士によって建てられ、犬養首相らのお偉い方が泊まったことのある邸宅で、米価比較で現在の価格で2億4千万円を費やしたという。

頃はちょうどお昼。
そこで、ご当地グルメ「播州ラーメン」を味わいに、その元祖とされる「西脇大橋ラーメン」へ。
するとどうだ・・・→
諦めようかと思ったけど折角来たのだし、私にしては珍しく食い意地が勝つ(食べ物屋で並ぶ事は滅多にない)。

小一時間後、ようやく・・・→
見た目醤油ラーメン、ですが一番の特徴は甘い感じの汁。そしてこれが実に旨い!
さすが長蛇の列ができるだけあるわ。西脇に行ったなら是非ご賞味あれ!

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150日目 ドでかい算盤と寺院と地球儀

2016-05-23 00:51:54 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月3日(火)


「おの恋ホルモン焼きそば」でちょっぴり充電(寧ろ放電したかも)して、約5万人が暮らす小野市の中心部へ。

(583)兵庫県小野市役所
好古館(こうこかん)という歴史博物館が市街地にあるのですが、そこがかつての陣屋。つまり小野は陣屋町って事。

↓役所駐車場にある、西暦9億9,999万9,999年まで使えるオブジェ。


小学生の時、とってもイヤだったそろばんの授業。それも「1+5」とか「4−2」とかしかできないお粗末ぶり。電卓が当たり前の時代に生まれたヨカッター!

調べてみたら小野市だけで年間7万丁も作っているらしく、それは全国生産の70%を占めて日本一。
でも寧ろ、昨今のデジタル時代にそれだけの需要があるのにびっくりぽんだわ。
他に有名なものとして「雲州そろばん(島根)」があります。

↓予想はしていたけど、やっぱり存在した特産を拝借した食べ物。

現物を見ずとも形は容易に想像できるし。

役所そばの池「大池」→

↓神戸電鉄粟生(あお)線の小野駅へ行ってみる。
 
立ち込めだした黒い雨雲も相俟って、寒々しい印象が否でも増す駅前。
三木市もそうでしたが、この地域は神戸にそこそこ近いので、来る前は大都市近郊としての賑わいのある所だと思ってました。
何でも粟生線は赤字を垂れ流し続け、存続の危うい路線らしい。電車でなく車でやって来た事に少し罪悪感。

↓駅近くの商店街。
 
気の毒すぎるくらい大苦戦しているよう。
左の建物の看板は上書きされすぎだけど、それがかえって歴史を感じさせるというか、味なものに化けている。
このお店にあるとおり、小野のもう一つの特産として草刈り鎌を主とした家庭用刃物があったりします。

↓どこの廃れた商店街でも、どういう訳だか繁盛していそうで綺麗な店構えをした和菓子屋さんが一軒や二軒あったりする。


↓心配した雨が降り出した中、国史跡・広渡廃寺(こうどはいじ)跡歴史公園へ。

7世紀末頃に建立された寺院。基礎が残っているだけの広っぱで特に面白い所ではない。

実はこれが見たかったのだ→
縮尺20分の1の伽藍模型を見て、気の遠くなるような遥か昔の姿を想像してみる。
ところで「日本一の模型」とパンフレットにはあったけど、どういう点が日本一なのか全くの不明。

↓県道23号線で加西(かさい)市に向かうも、途中で迂回を余儀なくされる。

ここにあった加古川に架かる粟田橋は、3年前9月の台風18号で川底が洗われてしまって沈下してしまったようです。

(584)兵庫県加西市役所
人口は約45,000人。昭和42(1967)年に北条・加西・泉の3町が合併して市制。

市役所のある旧北条町の中心部を歩いてこの日の街巡りは終わりにします。
丸山総合公園の世界一地球儀時計→
直径5mで、重さ14tであるという。

これはオブジェではありません→
北条鉄道の北条町駅。

北条地区は姫路・丹波・但馬・京などの街道が集中する宿場町で、今でも多くの寺院や昔の街並みが残っています。

五百羅漢→
北榮山(ほくえいざん) 羅漢寺にある450体の石仏。
それぞれには異なる表情の顔が彫られているけど、これだけいっぱい並んでいるとかえって気味が悪い。

↓江戸初期築の多宝塔がある酒見(さがみ)寺。


↓虫籠窓、卯建、格子戸などが見られる横尾街道(旧丹波街道)。




さて、疲れを癒しに行くか! それなら温泉が一番。
↓という訳で、西脇市の「官兵衛(かんぺ)の湯」へ。


そして同じ西脇市の「道の駅北はりまエコミュージアム」で車中泊。
この日の走行距離161km、千葉を出てから704km。

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150日目 両兵衛ゆかりの地・三木市を歩く

2016-05-20 23:59:49 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月3日(火)


稲美町(いなみちょう)の後は、5市1町からなるいわゆる北播磨と呼ばれる地域を潰していきます。

ところで、最近は復権著しい大相撲に「きたはりま(一部漢字表記ができないので、平仮名にしておきます)」という力士がおり、彼はてっきり北播磨出身かと思いきや、兵庫は兵庫でも西播磨と呼ばれる地域の出身。名に偽りあり。

それはさておき、訪問地のトップバッターは三木市。
トイレ休憩に寄った「道の駅みき」→
連休中につき、いろいろな催しが行われているせいでかなりの激混み、止める場所探しの車がウロウロしている(私は入ったら幸運にも一区画ポッカリ空いていた)。
人もウジャウジャで、あたかも味噌も糞も一緒状態。

(582)兵庫県三木市役所
神戸のベッドタウンで人口は約8万人。
一方で、観光案内所で奪ってきたパンフレットによると、「日本標準時東経135度線の通る町・名所旧跡が多く古い歴史文化の薫る町・色々な特産品がある町・多彩なレジャー施設がいっぱいある町」とまあ、要約すればこういう様々な顔がある都市で、目標は大きく「日本一美しいまち」。

ここから徒歩で町を歩きます。
三木市立金物資料館・金物神社→
市役所もそうですが、ここはかつての三木城内に建つ施設。
金物で有名な町と言えば、燕市・三条市(新潟)がありますが、三木市も同じで、毎年11月には「金物まつり」という町をあげてのイベントが開催されます。
金物が何故三木市の伝統産業になったのかは後程。

三木城本丸跡→
織田信長の家臣であった城主・別所長治は天正6(1578)年に毛利側に翻意したので羽柴秀吉に攻められ、約2年にわたり大軍に包囲され干乾しにされてしまう。
俗に言う「三木の干殺し」で、「鳥取の渇(かつ)え殺し」と共に秀吉の代名詞的兵糧攻め。
終いには土塀の藁をも食べていたほどの飢餓状態となったので、長治は城兵・領民の助命と引き換えに一族とともに自刃する。

その長治さん→

因みにこの合戦は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の軍師二兵衛が顔をそろえた唯一の戦さであったのですが、半兵衛は合戦中途で死亡(三木市に半兵衛のお墓もあります)、官兵衛は荒木村重に囚われの身となる(2年前の「大河ドラマ」を見ていた人のための復習です)。

戦さでボロボロとなった三木のため、秀吉は復興策として免税をした事で町には大工職人や鍛冶屋が集まり、以来、金物産業が栄えたのだという。

知名度は決して高いとは言えず、城跡もちっぽけですが、いざ来てみると戦国時代のロマンをふんだんに感じ取れてやまないお城でございました。

お城から眺めた市街地→ 
川は美嚢(みのう)川。

神戸電鉄・三木上の丸駅(東側)→
三木城の最寄駅。

↓半兵衛が病気療養のため通ったとされる「湯の山街道」を散策。



昔ながらの街並みが見られるこの街道は、有馬温泉に通じているのでこう呼ばれ、合戦中には秀吉は湯を運んでこさせ負傷兵の療養をさせたりしたのだという。

↓三木上の丸駅・西側の高架線をくぐると「ナメラ商店街」に。

「ナメラ」とカタカナで表記されているので何語で、どういう意味だろ?と思ったのですが、かつては「滑原(ナメラ)町」という地名(今は本町2丁目)だったのだと。

↓連休中だからなのか分からんけど、見事なシャッター商店街と化しております。

商店街が兵糧攻めを食らっているかの如く。

旧玉置家住宅(国登録有形文化財)→
文政9(1826)年築の切手会所(いわゆる銀行)で、その頃の三木は何の因果か、今の群馬県の館林藩の領地であって、藩財政の立て直しを目的に建てられたらしい。
秀吉に散々な目にあったけど、その頃には税を吸い上げられる程に豊かな所になっていたと思われ。

ひめぢ道→
ここも古い建物多し。

↓三木鉄道記念公園





平成20年まで走っていた三木鉄道・三木駅で、駅舎は当時の場所から15m移築されているという。
三木市訪問の事前の下調べで「こんな鉄道が最近まであったのか!」とようやく知った程の、私にとっては存在感の薄かった三木鉄道。

次はお隣り小野市へ突撃!
神戸電鉄・樫山駅→

↓駅に隣接するレストラン「ゆうゆうの里」で、ご当地グルメ「おの恋ホルモン焼きそば(\600)」を戴く。

こんなメニューを注文したのだから当たり前なんだけど、よりによって私が非常に不得意な玉ネギがたっぷりでホトホト参りました。俺ってバカすぎだわ・・・。

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150日目 田舎の神戸と稲美のまつりと

2016-05-15 15:51:32 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月3日(火)


淡河(おうご)PAで寝て(というよりほとんど仮眠)、5時前に起床。
この日は朝からやたら風が強く、おまけに午後から雨が降るという。
旅に出ると毎度訪れる試練。いい加減にしてくれ。

↓6時頃PAを出て、布施畑(ふせはた)ICで長かった高速道路とのお付き合いを解消し、近くの神戸総合運動公園(神戸市須磨区)に何となく行ってみる。

初めて目にするオリックス・バファローズ準本拠地・生の「ほっともっとフィールド神戸」。
でも、「グリーンスタジアム神戸」のイメージが抜け切れません、私が古い人間だからか・・・(苦笑)。
それにしても、プロ球団の球場の場所にしては辺鄙すぎ。

手持ちの地図を見ると、私の立っている所は須磨区と西区の境界で、地下には山陽新幹線が通っております。

次に、これまた割と近い所の神戸市唯一の国宝を抱える太山寺(たいさんじ)というお寺さんへ。
参道→

本堂が国宝→
弘安8(1285)年に焼失後、1300年頃に再建されたと、案内板に書かれておりました。

江戸時代初期に建立された三重塔→

神戸のイメージを覆す大自然、鶯の鳴き声以外は一切何も聞こえない静寂。心洗われるなあ。
秋には秋ならではの風景となって、それもきっと美しいんでしょう。
温泉がそばにあるので、ブラブラした後に湯に浸かるのもまた一興。

グリコピア神戸
お菓子や食文化について楽しく学んでいただける施設。
但し対象は「お子さま」なので、私はお呼びでなし。

↓ずっとこんな田んぼだらけの中ばかりを走っております。

一応、神戸なんだけど・・・。

〔46〕兵庫県神戸市西区役所
昭和57(1982)年、垂水(たるみ)区から分区。
区役所のある場所は、第二神明道路の玉津ICの真ん前なのですが駅はありません。
鉄道が走っている明石市にとても近く、そこまで行くバスが多いようです。
ところで、「六甲のおいしい水」の取水地があまり六甲のイメージが沸かないここ西区であると、以前のラベルに書いてあったけど、今はどうなっているんだろ?

↓再び田園風景の広がる中を走って、お隣・稲美町(いなみちょう)へ。

左の池は溜め池。
稲美町に限った話しではありませんが、東播磨・北播磨と呼ばれる地域には360度見廻すと、必ず溜め池を目にするくらいの、あたかも「溜め池銀座」の様相。
実は兵庫県の溜め池数約4万はダントツで日本一、ただその半分以上は淡路島にあるようですが。
ま、それだけ干からびた地域であるのが分かる一方、先人達の知恵と苦労が偲ばれます。

↓播州葡萄園跡という国の史跡があるというので行ってみる。そしてガッカリ。
  
広っぱの中、ポツンと看板があるだけ。しかも、元からこうなのか錆てこうなってしまったのか分からないけど、とても読みにくい。

明治13(1880)年に国の殖産興業政策の一環として開設された国営ワイナリー。
ところが、虫・台風などの被害により頓挫、民間に払い下げられた後、1896年(明治29年)には廃園状態となり跡形もなく消え去ってしまう。
近年になって遺構が見つかったので、発掘調査が行われたという。
それにしても国史跡なのにこの冷たい扱われ方

↓強風の中、体勢を崩しながらも踏ん張ってひたすら国史跡を汚す(?)黒ワン。


葡萄が植えられております→
葡萄園を復活させるつもりの公園らしき。

(581)兵庫県加古郡稲美町役場
昭和30(1955)年に3つの村が合併して誕生、現在3万人余りが住む町。
古来、この地域が「稲日野(イナビ野)」「印南野(イナミ野)」と呼ばれていた事に因んでの命名。

ところで、何かのイベントがあるらしく、その目的らしき車で道は溢れて進みが悪くなっている。
役場にいたガードマンに聞いてみると、稲美中央公園で「稲美ふれあいまつり」というのがこの日の10時から15時まで開催されるという。

ちょっとだけ御呼ばれになってみよう!→
「地域の連帯と活力あるまちづくりを推進するため、住民、町内の各種団体、企業が一丸となり、ふれあいの場をつくる」のがお祭りの目的。よそ者の私に参加資格ないじゃんという声が聞こえてきそうですが。

↓屋外イベント会場にて。風が強いので、時折砂埃が舞います。


↓そんな悪天候でも食欲は萎えません。朝食をロクにとっていないので・・・。
 
姫路駅名物「えきそば」と姫路のご当地グルメ「姫路おでん」。
と言いたいけど、生姜醤油がないので普通の「おでん」か・・・。

↓こういうイベントでは必ずお目見え、ゆるキャラ。
 
稲美町特産品である米がモチーフの「いなっち」(左)に、自衛隊兵庫地方協力本部「ひょうちん」。
「ひょうちん」は迷彩服を着ているのは当たり前と思いきや、中に入っているのが背の高い人の時だけに羽織るようです。
着ぐるみの間から足が出てしまうので、それを隠すためなんだとか。

↓しきりにスカートの裾を気にしていた司会のお姉さん。


米が特産の稲美町ですが、麦畑もよく目にします。
風に揺れる麦穂がまたいい→
黄金色に染まりし麦秋を迎えるまであと僅かでございます。

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149日目 ゴールデンウイークは愛車で西へ

2016-05-13 23:59:29 | 複数地域
2016年5月2日(月)


この日、3ヶ月間の(私にしては)長〜〜い旅絶ち(?)を打ち破って、ようやく重い腰を上げてのこの時期恒例・ドライブ旅をスタートさせました。
そして目的地は、「ゆっくりのんびり〜」旅でもクリア数があまり芳しくない兵庫県とし、その中でも個人的にも過去ほぼ手付かずで未体験ゾーンである内陸部をターゲットにします。

今年のゴールデンウイークは平日を休めば最大10連休となり、実際私もフルに行かないまでもそこそこ長い旅を楽しもうかと思ってましたが、出発した2日にどうしても外せない仕事が・・・。
仕方がないので、午前中だけ千葉県松戸市で仕事を済ませて半ドンにし、戻って急いで旅支度をして14時半頃出発でございます。因みに帰宅は6日の予定。

走行ルートは、長距離運転ゆえ心身ともに極力負担のかからぬよう、京葉道路→首都高速→東名高速→第二東名高速→伊勢湾岸道→東名阪道→新名神高速→名神高速→中国道→山陽道と、至極平凡そのもの。
そして、いつものように休憩したサービスエリア・パーキングエリアを紹介して今編は終わります。

↓足柄SA(静岡県駿東郡小山町)・出発して134km(以下同じ)。16時38分着、17時6分発。

富士山の眺めがいいのですが、この日は残念ながら全く見えず。
その他セールスポイントとしては、9箇所あるお風呂に浸かれるサービスエリアの一つ。

↓「エヴァンゲリオン」とのコラボイベント開催中。

当初は昨年12月23日に終了だったはずが延長されるも、この8日に本当に終了してしまったようです。

「エヴァンゲリオン初号機」というらしい→
6mを超える世界最大の立像なんだとか。でも、どれもこれも私は全く興味はないし。

↓長篠設楽原(ながしのしたらがはら)PA(愛知県新城(しんしろ)市)・303km。18時56分着、19時53発。

今年2月13日に開通した浜松いなさJCT・豊田東JCT間にある、出来立てホヤホヤのパーキングエリア。

ところで、新東名高速は御殿場JCT・浜松いなさJCT間はとっても道幅が広く快適そのものが、浜松いなさJCTから先しばらくは一転、普通の高速道路に成り下がっている上に圧迫感もあってお世辞にも走りやすいとは言えない。どうせなら同じ規格にして欲しかったところ。

PA建物横には櫓があります。
そこからの眺め→

「長篠」とくれば、「長篠の戦い」。
「長篠の戦い」とくれば、これですな→

ここへ歩いて行けます→

晩は「陣屋そば」(\680)→
「陣屋」などと洒落た名前が付けていたけど、至って普通のラーメン。しかも麺の量はかなり少なく、汁は脂っこいし。注文して失敗した一品。

↓草津PA(滋賀県草津市)・475km。21時52分着、22時26分発。

これより先の大山崎JCT付近にて事故渋滞が発生しているので、渋滞解消を待つべく小休止。
周りからイヤでも聞こえてくる関西弁が、関西に来た事を実感させる。

↓淡河(おうご)PA(兵庫県神戸市北区)・563km。23時41分着。

日の出まで5時間ほどこのパーキングエリアで一眠りでございますzzz。
全てのトラックが揃いも揃ってエンジンをかけたままで休憩しているので、うるさくてかなわんが。

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148日目 ゆいレール沿線そぞろ歩き

2016-04-30 00:28:24 | 南西諸島
2016年2月2日(火)


沖縄の旅日記はこれで最終回。締めは沖縄唯一の鉄道(といってもモノレールですが)、ゆいレール沿線を中心に話しを進めます。

今回の宿泊地は、那覇新都心・おもろまち。
↓背後に、おもろまち駅(前日撮影)。

左の道は国道330号線で、戦前は沖縄県営鉄道嘉手納線がここを走っていたというのだけど、今ではそれを偲ぶものは一切なし。

右の盛り上がった所は、沖縄戦中に米軍が「シュガーローフ」と呼んだ丘のごく一部分で、そこは日米で5,000人もの戦死者が出たとされる最大の激戦地。
この場所で僅か70年前にそんな事があっただの想像し得ない現在。

↓首里城・首里金城町石畳道・栄町市場の後は、安里駅からモノレールに乗って県庁前駅へ。



安里駅下の通りは「ひめゆり通り(国道330号線)」。
国際通りへ行くつもりであったのですが、安里駅から歩いて行っても大した労力でもないけど、せっかく「ゆいレール1日乗車券」を持っているので、少しでも使い倒してやろうとケチ臭い魂胆。

県庁前駅ホームより→
そこらの県庁所在地の地方都市に比べてもかなりの都会。このホームからの街の眺めは私のお気に入り。

↓果たして実現するのか沖縄の鉄軌道。

今年中にルートを確定させるようですが、他にもいろいろと課題が多いらしく、私が生きている間にお目にかかれるのかなあ。因みに「沖縄鉄軌道計画案づくり」のサイト

沖縄県庁(正面の建物)→
琉球王国は、慶長14(1609)年以降薩摩藩に服従し、清にも朝貢してましたが、明治5(1872)年に琉球藩となり、その7年後に沖縄県が置かれる。
特殊合計出生率は全国1位で、少子化が叫ばれる昨今、人口が増加し続けているので、国立社会保障・人口問題研究所によると2010年から比較して2030年時点で唯一人口増加が推計される県。

(580)沖縄県那覇市役所
約32万人が住むも、県庁所在地都市の中でも面積が一番狭いので、首都圏・関西にある市町村を除けば人口密度1位の自治体。
古くは琉球王国の貿易港で、明治12(1879)年より県庁所在地となるも沖縄戦によって完全な焦土と化す。
因みに県庁と市役所は目と鼻の先にあります。

県庁北口交差点→

国際通り→
戦後、畑や湿地帯が広がっていたこの道に闇市が広がり、「アーニーパイル国際劇場」という映画館ができたのでこの通りの名前がついたという。
いち早く復興を遂げた事と、通りの長さがほぼ1マイルなので、別名「奇跡の1マイル」とも。
ただ、土産物屋や飲食店ばかりの金太郎飴みたいな通りなので、正直つまらん。

↓むつみ橋交差点に「味の時計台」がありましたので(前編写真参照)、沖縄で北海道のラーメンを食べるのもなかなかオツだなと思い入ってしまう。


牧志駅から再び乗車→

国場(こくば)川を渡る→
この川沿いの光景もかなり好き。

ところでこの反対側には、大きく広がった干潟というか、湿地帯があるのですが、その名を漫湖といいます(湖とありますが、実際は河川としての扱い)。ですが敢えてルビは振りません。
なぜならそれ、(東に住む人間にとっては)放送禁止用語の、とんでもない名前だったりする。
とは言っても固有名詞なので、テレビ・ラジオはその名前通りに読んでいるのか、大いに興味あるところ。

↓奥武山公園(おうのやまこうえん)駅から丸見え、沖縄セルラースタジアム那覇。

2月16日〜25日まで、読売ジャイアンツ一軍の二次キャンプ地。

ここから旧海軍司令部壕へ歩いて行ったのですが、その時の事はコチラをご覧下さい。

ゆいレールには2つの日本最端駅があります。
最南端の駅・赤嶺駅→

↓最西端の駅・那覇空港駅。
  

↓帰りの成田行き(19時25分発)は、強風で折り返し便が遅れたので、20分程定刻を過ぎて出発。


沖縄から帰ってきて以降、極度の引き籠もりを発症してしまったので、とうとうネタが尽きました。
この大型連休でそれを仕入れてまいるつもりでおります。
もう始まってしまいましたが、では、皆さん良いゴールデンウィークを!

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148日目 観光客の訪れない昭和的那覇(2)

2016-04-24 00:59:01 | 南西諸島
2016年2月2日(火)


前編の最後に載せた「壺屋うふシーサー」は、窯元が軒を連なる観光名所「壺屋やむちん通り」の入口にあります。
平成25年に設置されたこのシーサー、口や台座からミストが噴き出るらしいけど、冬の時期もそうなのかどうかは知りません。

↓シーサーから南東に向けては一本の通り「神原大通り」が走っています。

一見ごく普通の道路。
つい最近までは道幅はもっと狭い上に、建物が両側にひしめいて建っていたらしい。
さて、変哲もないこの通りがどうしたの?と思うでしょう。

戦後、那覇中心部はアメリカ軍に接収されて市民は生活の場所を失ったのですが、それが最初に解かれたのがここら一帯。
必然この通りは繁華街となり、デパートや映画館、商店が立ち並ぶようになり、今となってはウソみたいですが、沖縄一の繁華街だったという。
1950年代後半にその座を「国際通り」に譲ったのですが、いくら50年以上も前の事とは言え、ちっとはその名残りがあってもよさそうなものだけどねえ。

↓上の写真の左手にある、鮮やかな(?)青色の、継ぎ接ぎだらけで今にも壊れそうな、戦後の昭和そのままのバラックがイヤでも目に入る。



これは素晴らしい!文化財にしてもいいくらい(と個人的に思う)。
驚くべきは営業しているらしきお店が数軒あること。
しかも、正面左側にある「おでん六助」は、かの筑紫哲也氏が贔屓にしていたお店らしい。

↓ネコもたくさんいて、彼らの格好の雨露しのぎの場にもなっています。


↓この周辺は「神里原(かんざとばる) 社交街」という赤線地帯だったようで、嬉しいことにまだその名残りを感じさせてくれます。






↓そば屋は営業しているようで、実際安いのですが、でもこんな中じゃあ食欲沸かんがな・・・。




↓上の怪しく汚いウラ通りの先を左に折れると、それまで暗渠だったガーブ川が顔を出します。

この両岸にはこれまた最近まで、今にも川に崩れ落ちんばかりに小汚いバラックがひしめいていたという。

↓そのバラックとは「農連市場」の建物で、幸いにしてまだ残滓があるので、周辺と中を見てみましょう。


↓入口前の道路を挟んだ正面にあった自販機。
 
安すぎるが故にかえって怪しいのですが、売り方も怪しすぎる。

建物脇の路地→

↓市場の中ですが、既にもぬけの殻状態。



とにかくボロボロ。その一言に尽きます。でもこれがいいんだな!
深夜1〜2時頃始まって夜が明ける頃には店仕舞いしてしまう「沖縄一朝(?)の早い市場」なんだそうですが、さすがにその時間に市場の様子を見に来る気は起こりません。
でも、もしかしたら面白い或いは驚きの光景を見ることができるんじゃないかなどと思ったりもします。

↓再び暗渠「ガーブ川」沿いの商店街を抜けて、「国際通り」の方に向かいます。





全国どこへ行ってもシャッター商店街ばかりが目につくので、賑やかな光景はとってもいい気分にさせてくれます。そして、有名観光地に行くよりも、こうした住民の日常を見ている方がやっぱり楽しいわ。

ところで、ガーブ川流域一帯は再開発を計画しているらしく、実際「農連市場」も一部破壊されております。
ガイドブックに載っている那覇しか知らない人にはカルチャーチョックを受けるだろう、こうしたディープな那覇を残して欲しいなあと思っているのはきっと私だけではないハズ?。

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148日目 観光客の訪れない昭和的那覇(1)

2016-04-21 23:58:01 | 南西諸島
2016年2月2日(火)


ちょうど一週間前、9時のNHKニュースを見ていた時に突然の緊急地震速報。
まさかこんな事態になるとは第一報時点では全く想像していませんでした。

これまでそれほど熊本へは行ったことはないですけど、訪れた所では、見るも無残な姿となった熊本城はもちろんショックでしたが、それ以上に宇土市役所庁舎が倒壊寸前に追い込まれたのが衝撃的でした。
落ち着いた状態になったら、熊本へ行きたいなあ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この日はおおまかに、「泊埠頭ターミナル(とまりん)→首里城→首里金城町石畳道→国際通り→旧海軍司令部壕→沖縄空港」、そして帰路と行動したので、さも普通の観光客が行くような所しか行っていないかのごとく見えますが、実は男のロマンを探求する趣味の人(?)、或いは妖しい所好きには、かなり魅力的な場所も行って見たのでございまして・・・。

さて、今回強烈な印象を私に残してくれた那覇とは?

↓とまりん周辺


  
仕舞屋・あばら家が並ぶ、怪しい雰囲気の廃れ感タップリ飲み屋街。

↓首里城へ行く途中に寄ってみた、これぞ昭和レトロ!を思わせる場末の素晴らしい建物。

沖縄で一番古い映画館です。
昭和25(1950)年にオープンし、その当時は芝居・時代劇を始め、邦画・洋画も上映されていたらしいのですが、今では映画だけ。
中は入らなかったのですが、このホームページには内部の写真がありますので、興味のある方はどうぞ。

肝心の、今現在上映されている映画とは?→
まだこんなの生きていたんだ?と驚いたけど、映画館として営業しているのだから、それなりに見に来る人もいるのだろう(車も止まっているし)、そっちの方にもっとビックリしたわ。
学生の頃には時間潰しのためこういったのに何回か入った事があったなあ。
途中から飽きて寝落ちしていたけど(笑)

↓安里(あさと)駅近くにある市場。





那覇市民の日常がここにはありました。
この「栄町市場」は戦後闇市の発展形らしいですが、戦前は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校があった場所。ん?、その学校、どこかで聞いたことがあるぞ?
そう、有名な「ひめゆり学徒隊」を輩出した学校。そのためか、安里駅の下を通る道路(国道330号線)は「ひめゆり通り」といいます。

市場近くの「栄町社交街」→
社交街とは、アメリカ統治下時代に米軍を相手にしていた繁華街の事で、飲み屋街の場合もあるし、置屋街の場合もあるらしい。
この「栄町」は飲み屋が多かったけど、怪しげな安宿もあったし、ようわかりません。

国際通り「むつみ橋交差点」(頑張れ!くまモン)→

それはそうと、交差点名に「橋」がついているのに、辺りを見回しても「橋」はおろか、「川」すらもありません。
実は、「むつみ橋通り(左)」と「市場中央通り(右)」の間に川(ガーブ川という)が流れていて、その上を店舗が蓋をしている暗渠状態となっています。
因みにこの間の店舗をその名も「水上店舗」というようです。

まずは「むつみ橋通り」へ。
↓国際通りに近い所こそ観光客向けっぽいお店が並んでいますが、次第に市民向けの顔に変化します。
  



↓右側へ進む青い線は水路を示すそうです。
  

↓そのまま「新天地市場本通り」へとつながります。
  

↓なかなかディープな那覇商店街、でもさらなるディープインパクトを求めてもっと奥へと歩いていきます。


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148日目 逆ナン(?)で始まった朝

2016-04-15 01:14:16 | 南西諸島
2016年2月2日(火)


緊急地震速報、連発です。さながら5年前のあの時のように。
阿蘇大噴火の前触れか?! 心配です、熊本。被害が軽くで済めばいいのだけど・・・。

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沖縄最後の日の朝は、あたかもちっぽけな台風が来たかのような不穏な天気。

不安を抱いた中、前日と同じくとまりんへ。
建物に入るや、めまいでクラクラする→
どいつもこいつも枕を並べて欠航。離島行きはあっけなく夢幻となる。
前日の渡嘉敷(とかしき)行きのキップ売り場のオバちゃんの、「午後から晴れてくるみたい」の言葉でこの日の船は大丈夫だろうとタカをくくっていた私は本当におめでたいわ。

恨めしくフェリーを眺める→

しばし呆然としていたものの、ずっとこうしていられるワケでもなく、これからどうしようか思案投げ首となる。
はたまた車を借りるか、それとも那覇市内をうろつくか・・・。

しょんぼりガイドブックをめくっていると、傍から「座間味(ざまみ)へ行くんですか?」と若いおねえちゃんの声
!? 振り向いて思わず「いやあ。渡嘉敷へ行こうと思っていたんですけどねえ」と答えると、ガッカリした表情(何で「そうです」と言わなかったんだ!)。

せっかくの暇潰しのいい話し相手ができたと思って、福岡から来たというその女性としばらく話しをする。
彼女は「座間味島の綺麗な景色を見たくて」、その為に10日も(!)有給休暇を取ったものの、那覇に来てみたらあいにくこのさま。

空港で座間味へのヘリコプター便があるとの情報に接したはいいけど、それは一回飛ばすと15万円かかるという(通常30万円なのですが、船が欠航すると半値になる)。それは最大5人乗りなので、うまくいけば割り勘して3万円で済む。
そこで船に乗れずに困っている人がいるのでは?と、とまりんに来たのだと。
3万円でも結構なお金。急いで行かなくても、長い休暇があるんだから那覇で1泊してから行けばいいのに、と言うも、彼女は何が何でもこの日のうちに島へ渡りたいと言う。そんなにそこは魅力的な所なのか?
でも座間味に行きそうな人はたったの一人もいないどころか、人自体がおりません。

 「車借りて、そこらをブラブラしません?」
誘ってみる(ナンパ目的では決してない)。すると、
「実は座間味に住んでいる彼がいるんです・・・」とやんわり拒否
島に一刻も早く行きたいのはそういう事ですか・・・。

しぶとく一所懸命同乗者を探すおねえちゃん(右)。

人生、諦めが肝心だよ。

結局、何だかんだで一人寂しく那覇市内をブラブラに決めました。
やっぱり島は晴れた時に行きたいよね、って事で自らを何とか慰める。

↓美栄橋(みえばし)駅からモノレールに乗って、儀保(ぎぼ)駅で降ります。




↓取り立てて行きたいワケではないのだけど、駅から歩いて那覇の鉄板スポット・首里城へ。


↓用意よろしく、不人気2000円札を取り出しての守礼門。

1年前くらいだったか、コンビニで2000円札を出したら、レジにいたのは若い女性店員でしたが、札に書かれている「弐千円」の「弐」という字に指さして、「これ、何て読むんですか?」と聞かれたのには思わず仰け反りました。
その女のコは外国人ならいさ知らず、れっきとした(?)日本人でした。
「この紙切れ、何ですか?」と突き返されなくて良かったかも(苦笑)。

さすが、平日と言えどもなかなかの混み様。
でも、日本語は全然聞こえません。そう、大陸から来た人ばかりです。ここが日本とは全く思えません。

お城の正門・歓会門→
ここでシナ大陸からの皇帝使者を歓待したから名付けられた門。

歓会門を潜る→
城壁には不格好な石が積まれています(芝にも横たわっています)。
これは戦争でお城が木っ端微塵に破壊される前からのもの。

首里城は詳しくは分かっていないようですが14世紀頃築かれたらしく、1406年に尚巴志(しょうはし)が居城として、1879年に明治政府に明け渡すまでの間の琉球王国の政治・外交・文化の中心地となる。
平成4年に復元されて、平成12年には城跡が世界文化遺産に登録される(復元建物や城壁は世界遺産ではない)。

↓湧き水「龍樋」が手前にあることに因んだ瑞泉門。


瑞泉門近くからの眺め→

奉神門→
御庭(うなー)と正殿への最後の門で、ここから先は有料。ですが、入らずにさっさと去ります。
こんな感じでサラッとお城は流しましたが、今年2月27日に放送された「ブラタモリ・首里編」が1か月早くやっていればもっと一所懸命見たのだろうけど。

↓首里城よりも寧ろ行きたかったのはこちら、お城からすぐの首里金城町石畳道。





沖縄戦では破壊を免れた石畳道。
お城と違って人もあまりおらず、落ち着いた雰囲気でのんびり散歩するのにとってもいい。

↓虫がいっぱい湧いていそうで、見ているだけで痒くなりそうな佇まいの「あばら家」。

平成13年のNHK朝ドラ「ちゅらさん」ロケ地の今です。

城の地下には誰も見向きもしない旧陸軍「第32軍司令部壕」という戦争遺跡があるのですが、見忘れた!

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147日目 東海岸側へ車を走らせる

2016-04-11 23:37:27 | 南西諸島
2016年2月1日(月)


日没の時間が迫ってきました。
手近に行ける所として、北中城村(きたなかぐすくそん)・中城村(なかぐすくそん)の2村へ行くことにします。

↓まず最初に訪れたのは、北中城村にある国重要文化財「中村家住宅」。

今回初めてここへ来たのですが、入るや「あれっ? 何かのテレビ番組で見たことがある建物だぞ??」
そう思いつつ、切符売り場(入場料\500)でその事を告げると「鶴瓶さんの・・・」。
あ〜、そっか。いつだったかその番組をチラ見していたんだったわ。

↓280年前に建てられたとされ、室町時代の日本建築とシナ大陸の建築様式を併せ持った豪農屋敷。



そして、戦前の沖縄の住居建築の特徴が完備されていて、奇跡的に沖縄戦禍も免れた貴重な遺構。

↓豪農の家に相応しく(?)、厳つく怖そうな顔したシーサー。


↓折しも激しい雨降りとなる。



閑静な落ち着きのある佇まいに、石畳に落ちた時に響き渡る雫音が実に合っていて、とても心が穏やかになれたまったり時間を過ごす。

「いいものを見た」と満足して役場へ。
(578)沖縄県中頭(なかがみ)郡北中城村役場
すぐにでも町に昇格してもいいくらいの人口約17,000人を抱え、面積は約11.5k屬半さいので人口密度日本一の村(村としても日本第5位の人口の多さ)。
そして、女性長寿日本一の市町村(2010年時点・平均寿命89.0歳)でもあるようです。
以前は南の中城村の一部であったのが、北谷・嘉手納のケースと同じく、沖縄戦後に米軍施設が置かれた事によって南北が分断されたので昭和21(1946)年に分村。
東海岸部は肥沃な土地なため、農業が盛んな地域。

役場周辺を歩いてみる→

時期的に違和感大の注連飾り→

↓うろついていた中、思いがけず発見したものに衝撃が走る!

沖縄では滅多に他県ナンバーを見る事はなく、糸満で「横浜」ナンバーを見たときもビックリしたけど今回はそれ以上。こんな所でお目にかかれるとは!
家の敷地に止まっていたのですが、帰省中か、旅行中か、或いは転勤でここに来たのかを知りたかったのだけど、家の人が出てきてくれなかったので結局ナゾのまま。

↓モヤモヤした感情を抱いたまま、北中城村と中城村に跨る中城城跡に着いたのは18時頃。

標高160mに佇むお城で、1440年に護佐丸(ごさまる)という名築城家が国王の命で移り住み、改修・増築を行ったという。
6〜9月だったら入場制限時間が18時なので入れたんですが・・・。
ま、一度来た事があるからいいと言えばいいんだけど、ここは何回来てもいい所だから残念と言えば残念。

福泉寺付近から見る中城村の東海岸→
見るからに普通に田舎。とても日本で4位にランクされる人口(約2万人)が住んでいる村とは思えないんだけど・・・。

(579)沖縄県中頭郡中城村役場

役場庁舎がボロすぎ→
今まで見た中でも指折りのかなりショボイ役場建物。大地震でも来たらヤバいんじゃないか?
「村」の役場だからこんな感じが似合っている気がしないでもないけど。

役場前の通り(国道329号線)→

役場のウラ通り→

個人的には痛車に見えた護佐丸バス→
「地形的に分断されている村東側の平坦地区と西側の台地地区間を結ぶ路線の確保や、公共交通空白地域における村内移動手段の確保が課題(村HPより)」を解決すべく登場したバスですが、それに応えられているか分からない2系統・一日わずか10便。

那覇に戻るべく、台地を登ってビックリする→
住宅街・ロードサイト店が広がり、およそ「村」らしくない光景となっておりました。

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147日目 西海岸を北上して沖縄本島中部へ

2016-04-08 22:00:11 | 南西諸島
2016年2月1日(月)


↓ヤシの木を眺めながら国道58号線を快適に走行。

右は東アジア最大の空軍基地(と、確か中学校の社会科で習った)である嘉手納(かでな)基地。

初めて沖縄に来た時の事。
北部から那覇へ向かった時に、この反対車線で渋滞のドつぼにハマってなかなか進まずにとても気を揉んだ事がありました。というのもレンタカーの返却時間が迫っていたから。

本島西側で南北を結ぶ道路は、基地が邪魔しているのでこの国道58号線しかなく、それでここに車が集中するのを全く知らなかったのでした。
結局、東側に逃れ高速道路を飛ばして、何とかギリギリ間に合ったんだけど。

↓(576)沖縄県中頭(なかがみ)郡嘉手納町(ちょう)役場

この町でキャンプを張る球団は、横浜DeNAベイスターズのファーム。

面積は15.12k屬函寧ろ小さいとも言えるこの自治体の約82%が米軍基地なため、ごくわずかな部分に約14,000人が押し込められている町。
元は南にある北谷(ちゃたん)村(今の北谷町)の一部であったのですが、昭和23(1948)年に嘉手納基地が立入禁止となって南北は分断され、嘉手納の住民は役場へ行くのに超大廻りしないとならなくなり著しい支障をきたすようになった情け容赦ないアメリカので、その年の12月に分村して嘉手納村がスタートする。

↓上の写真の所から先に進むと、大きく弧を描く道路があります。




沖縄総合事務局南部国道事務所HPより→
以前は日本最大のロータリーだったのですが、今現在は円になっておりません。

役場或いはロータリー付近に、昭和20年3月まで営業されていた沖縄県営鉄道・嘉手納駅があったらしいのですが、それは沖縄本島で最も北に位置する駅だったとの事。

↓これを最初に見た時は、このキャラの意味するところが全く分からなかったのですが・・・。

後で調べてみたら(私はスマホを持っていないので、すぐに情報を得ることができない)、慶長10(1605)年に野國總管という嘉手納の人が、シナ大陸からサツマイモを伝えて多くの人々を飢餓から救ったのだと。
そこで彼の功績を称えて、町ではサツマイモを「野国いも」と呼ぶ事にしたらしい。

新町通りの商店街→

↓さらに進むと、夜の帳が下りる前のひっそりした飲み屋街。




住宅街へ。
↓ロータリーといい、ここといい、交差点には凝っている嘉手納。


↓思わず笑ってしまった剽軽な(恐らく)シーサー。


南に踵を返して北谷町へ。

↓役場へ行く前に「浜屋」の浜屋そば(\630)を味わう。



鶏がらと豚骨をベースにしたという塩味の沖縄そばで、軟骨ソーキはとても軟らかい。
そして非常に美味!さすが沖縄でも上位に入る人気店だけあるわ!
だけど、店員はやや愛想がないのが残念。駐車場が狭いので2台しか置けないのも玉にキズ。

↓お店は海岸のすぐ近く。



波は結構シケてます。海鳴りもすごい。
これで船に乗っていたら、きっとダメージがハンパなかったのではないかな。

(577)沖縄県中頭郡北谷町役場
ここも嘉手納と同じくらいの面積のところに、米軍基地がおよそ半分を占める町。

海岸部には「美浜アメリカンビレッジ」といって、商業施設、レストラン、アミューズメント施設などが揃った人気スポットがあったりします。興味はないけど。
夜の姿の写真を見ましたが、映えていてなかなかいいかも。

↓役所の玄関では、ちょうど「節分の豆まきで「飲酒運転の鬼」退治大作戦」なるものをやっておりました。

ケチを付ける気は毛頭ないのだけど、ここでこんなことやって一体誰にアピールしているんだ?、というか何の意味があるのだろう?という気がしないでもない。

北谷町は中日ドラゴンズのキャンプ地→

↓役場の展望台からの眺め。


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147日目  狂いが生じ始めた沖縄滞在2日目

2016-04-05 23:28:42 | 南西諸島
2016年2月1日(月)


少女監禁で(悪い意味で)一躍知名度が上がった(?)我が稲毛で、今度はそこよりももっとウチに近い所(歩いて4・5分程度)でも事件発生! ますます稲毛のイメージが悪くなるなあ・・・。

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前日にレンタカーを返してしまった理由、それはこの日は粟国(あぐに)島、翌日は渡嘉敷(とかしき)島へ船で行くつもりだったから。
ところが前日の天気予報では、この日は曇りのち雨。それより心配は、波の高さ3〜5m
イヤ〜な予感

↓当日朝、船の運行はどうなんだ?と気が気でなく、飯も喉を通らんので、散歩がてらホテルから15分程歩いて8時半頃に泊埠頭(通称・とまりん)へ行ってみる。

するとどうだ?!

心配大的中



粟国島行きは一応出航し12時頃着くも、すぐに引き返してしまうんじゃあ意味なし!(通常なら14時10分に出航)この日の粟国行きはあっけなく露と消える。

ならば、渡嘉敷へ行こうか悩んでいたら、渡嘉敷行きの窓口にいたオバチャンが熱心に乗船を薦めてくる。
「どうしようか迷っているんです。粟国に行こうと思っていたんですけど・・・」
「粟国は外海だから、荒れると慣れた船員でも酔うよ」
そんなに恐ろしい所なのか・・・。粟国行きへのテンションがみるみるしぼむ

「明日の天気はどうなんでしょう?」と聞くと、「午後から晴れてくるみたい」。
その言葉で翌日の天気は大丈夫かと思い、「ちと考えます」と言って一旦ホテルに戻る。この日に島へ行くべきか、翌日にすべきか・・・(翌日の粟国行きの選択肢は既に頭から消えている)。

結論 今日・車、明日・渡嘉敷。
理由 もし今日車を借りれば返却時間まで思う存分乗れるし、明日車なら、19時半の便で沖縄を発つので、その分車で動ける時間・範囲が狭まる。

そうと決まったら早速、おもろまちのレンタカー屋に。
ところが手続きでミスを犯し、その処理の手間が増えたため出発は11時頃になってしまう。
旅先において一旦ケチがつくと、悪い流れからなかなか抜け出せない最悪のパターン。

問題はどこを廻るかなのですが、思いつきで西海岸に沿って北上することにする。
ただ、私はスマホといった気の利いたものは持っていないので、名所巡りの頼みの綱は手許のガイドブックのみ。

まずは、那覇市の北にある浦添(うらそえ)市へ。
(574)沖縄県浦添市役所
個人的にはずっと「うらえ」だと思い込んでいたわ。
12世紀から14世紀までの琉球の政治・文化・経済の中心地で、津々浦々を支配する意味の「ウラオソイ」が転訛して「ウラシイ」となり「浦添」を充てたのだという。
那覇市のベッドタウンとして人口も増加中の11万5千人程。
琉球政府時代の事ですが、豊見城市と同様に「村」から一足飛びに「市」に大出世を遂げる。

2月1日はプロ野球チームのキャンプインの日で、平成12年から東京ヤクルトスワローズが浦添市でキャンプを行っています。が、今年は初日から雨。出鼻をくじかれた格好。

↓庁舎に入ってみると、職員の人はスワローズのレプリカユニフォームを羽織っています。

車中、ラジオで聞いたニュースによると、選手たちはこの日の朝に市役所を表敬訪問したのだと。
もっと早く行けばその様子を見ることができたのか・・・。
因みにキャンプをする浦添市民球場は市役所のすぐ近く。

↓役所入口では雨の降りしきる中、(恐らく)役所に用事の飼い主に放置された(?)らしきワンが、ビショビショになりながらも健気に待ち続けている様子があはれ・・・。


なので少し相手する→
カワイイ。とても人懐っこいワンでした。

ガイドブックを見ても特に浦添で行きたいと思うような所はないのだけど、それでも「浦添グスク・ようどれ館」があるので行ってみる。

ですが、月曜日は博物館休館が多いんでした、忘れとった・・・。どうもうまくいきません。
「浦添ようどれ」とは、浦添グスクの崖下にある琉球王国初期の墳墓ですが、現在のは戦争で壊滅したものを復元したものらしい。

そこから見る市街地→
モヤっていて景色は良くないし。

市街地のサンパーク通り→

こんな感じでアテなく浦添市街地を車でウロウロしてから、次に宜野湾(ぎのわん)市へ。
(575)沖縄県宜野湾市役所
辺野古沖への移設問題でしばしばニュースに取り上げられ、世界一危険とされる「普天間基地(正式には「海兵隊普天間航空基地」)のある市。
市域の真ん中にドンと基地があり、それを住宅地が取り囲んでいてあたかもドーナツのようになっており、基地だけでの市の面積の約4分の1を占めております。
ここも人口は増加の一途で10万人目前。

基地と同じ地名、その名も宜野湾市普天間へ何となく行ってみる。

奥の藪になっている箇所が基地→
米軍にも一応引け目があるらしく(?)、地元への配慮はそれなりにしているよう。

↓国道330号線に面した商店街。

市民がいかに飛行機騒音で苦しんでいるかが分かる「静かな日々を返せ!」の横断幕。
実際、やかましいのなんの。

廃れ感漂うビルが多いです→

↓アメリカ施政下時代の名残りっぽいお店が見られた商店街。


↓どなたかノミ・ダニの持ち帰り方、教えてくれんかの・・・。


向こう側にある非常に気になった食堂→
名前に偽りなし、V字の鋭角の所で営業しています。

↓飲み屋が多いこの辺を「ゴシャロ」というらしいです


普天間宮(拝殿)→
琉球古神道神を祀っている上に、熊野権現も合祀している神社。
普天満宮洞穴という鍾乳洞があるらしく、興味はあったのですが、探しても探しても探しても探しても入口が見当たりません。
後で知ったことですが、拝殿の授与所で申し込めないと穴に入れないらしいです。
ま、今度だな。

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146日目 激戦の地・沖縄に思いを馳せる(3)

2016-03-31 22:25:11 | 南西諸島
2016年1月31日(日)


2年間行方不明だった女の子、無事で良かったですね。
ところで、監禁されていたとされている千葉大学裏のマンションですが、大学とマンションの間の道路はしょっちゅう車で通っているし、以前1階にあったコンビニにはよく立ち寄ったのもあって当然知っていたので、とてもビックリしたわ。
まさか犯罪の現場だったとはね・・・。

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ようやく糸満市を脱出し、お隣の八重瀬町(やえせちょう)へ。
(572)沖縄県島尻(しまじり)郡八重瀬町役場
平成18年に東風平町(こちんだちょう)と具志頭村(ぐしかみそん)が合併して成立した約3万人が住む町。八重瀬岳という山が町の由来。

さて、この町が所属する島尻郡ですが、本島南部の他、東は台風が来た時によく聞く南・北大東島、西は久米島、北は本島最北端よりはるか北にある伊平屋(いへや)・伊是名(いぜな)の2島に及ぶ、異常すぎるほど広い郡。正直この大きさには驚きだわ。

↓役場前に立っていたガードマンに「無料なのでいかがですか?」と、この演劇を熱心に勧められるも無下に断る。

スマンのお・・・。
八重瀬町出身の沖縄自由民権運動の先駆者である謝花昇(じゃなはのぼる)の生誕150周年を記念した喜劇のようですが、興味がなかったのもあるけど、劇より是が非でも見たいものがあったからで・・・。

それは富盛(ともり)地区にあります。
↓案内に従って進んでいくと急坂になり、それを登っていくといきなり目の前に階段が現れて車道は行き止まり(私が立っているのは階段)。

あたりに駐車場はないし・・・。それに降りていくのは難儀だぞ、こりゃ。

私のお目当てとはコレ!→
沖縄で最大かつ最古のシーサー「富盛の石彫大獅子」(高さ約140cm、長さ約175cm)。
村火事が多かったので、それを治めるべく風水師の助言を受けて作られ、1689年にここに置かれた火除けの獅子。

ところで、像を間近に見ると所々に小さい穴があいております。
理由はこれ→
旧海軍司令部壕に飾られていた写真。
沖縄の守り神というより、あたかも米軍の守り神になってしまっているかのように見えるのが何とも切ない。
それに70年ほど前にここで激戦が繰り広げられていた事自体も信じられませぬ。

シーサーからほど近い「八重瀬公園」へ→
この日の一週間後(2月7日)に「やえせ桜まつり」が開催されるというので、どんなもんか咲き具合を見に来てみました。

ところで、ここにもひっそり戦争遺跡があります。
左側の階段を登って奥にある「白梅学徒看護隊之壕」で、前々編でお話しした「白梅学徒隊」が活動していた「第24師団第一野戦病院」跡。

ピンボケですみません→
岩が黒ずんでいるのは、米軍によって火炎放射を受けたかららしいです。

階段を登った先の上からの眺め→

↓ヒカンザクラはまだチラホラ咲きでござんした。

ま、こんなもんだろうね。

公園でガードマンをしていたおっちゃんに「夜、ライトアップされるよ」と言われ、「何時くらいになると暗くなるんですか?」と聞くと、「6時半くらいかなあ」という。
えっ?、そんなに日が長いの?
この日の那覇の日没は18時11分。その頃の東京は17時を過ぎるともう暗くなっていたのでね、それに慣れきっている身としてはビックリなのですよ。

18時半まであと1時間近くもあり、ここでずっと待っているのも苦痛なので、車を走らせ南城(なんじょう)市へと向かいます。

閉園後の「おきなわワールド文化王国・玉泉洞」→
人のいないテーマパークというのはとっても寂しすぎ。
でも、国内最大級規模を誇る鍾乳洞「玉泉洞」や、世界で唯一のハブの博物館「ハブ博物公園」、沖縄の古民家を移築した「琉球王国城下町」があったりと一度は行ってみたいお遊び処。

糸数入口交差点→
この先をまっすぐ行くと「糸数アブラチガマ」という戦争遺跡があります。
それは南風原陸軍病院の分室として、「ひめゆり学徒隊」も配属されたガマ。

(573)沖縄県南城市役所
沖縄では「城」を「ぐすく」と呼ぶのですが、何でだかここは「じょう」。
ここも平成18年に4つの町と村が一緒になって誕生した人口約4万人の市。

ようやく暗くなり始めましたし、行けたらいいなと思っていた琉球一番の聖地とされる「斎場御嶽(せーふぁうたき)」や雄大な眺めが売りという「ニライ橋・カナイ橋」は次回の楽しみに。

↓そこで、磯釣りの名所で一周約1.6kmの奥武島(おうじま)へ。


この島の名物は「沖縄風天ぷら」→
でも閉店してしまっていて、いと虚し・・・。

↓再びの八重瀬公園。




那覇市へ行きレンタカーを早々に返却します。
あれっ?、残り2日間車なしでどうするの?なのですが、どうしましょうかね?

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146日目 激戦の地・沖縄に思いを馳せる(2)

2016-03-26 23:33:54 | 南西諸島
2016年1月31日(日)


↓喜屋武(きゃん)岬の次は、国道331号線沿いにある沖縄戦跡の代名詞とも言うべき「ひめゆりの塔」へ。


↓完璧に観光地と化してます→
 
何だかおかしい、変だと思うのは私だけではないはず。
紛れもなく悲劇があった場所なんですが・・・。

まずは「ひめゆり」から西へ行く事すぐの所にある戦跡に行きたくてそちらに向かうと、駐車場で車の誘導係しているおっちゃんに呼び止められる。「お〜い、(ひめゆりは)そっちじゃないぞ〜」
どうやらそれを見に行く人は全くいないようです。
でも「ひめゆり学徒隊」に関係のある所なんだけどなあ。

やっぱり私の他には誰もいませんでした→
「伊原第一外科壕」というガマで、「ひめゆり学徒隊」が配属された壕のうちの一つ。

中の様子→
ポツンと置かれているものは折り鶴だったか?、この壕でも亡くなった女学生がいたようです。

国道から見た「伊原第一外科壕」の茂み→
今では長閑な辺り一帯。夏なら「ざわわ」と、さとうきびが揺れている風景になるのかな?
恐らくまだ見つけられずに眠ってらっしゃる方も多いんでしょう。

↓次は「ひめゆりの塔」、ではなかった・・・、隣の駐車場の奥にある「梯梧(でいご)の塔」。

沖縄戦における女子学徒隊は全部で9つあり(「白梅学徒隊」「積徳学徒隊」(以上は前編で紹介)「ひめゆり学徒隊」「なごらん学徒隊」「瑞泉学徒隊」「梯梧学徒隊」「宮古高女学徒隊」「八重山高女学徒隊」「八重農学徒隊」)、そのうちの一つ「梯梧学徒隊」が組織された私立昭和高等女学校関係者で戦死した60名を祀っている慰霊碑。
ここもあまり人が来ることなく、ひっそり。建物一つ隔てた所は大賑わいなのだけど・・・。

今度こそ、人が多く来ている「ひめゆりの塔」へ→
何も知らなければ、後ろの白い大きな慰霊碑が「ひめゆりの塔」と思ってしまうでしょう。
ですが、写真真ん中のガマ「第三外科壕」の右にある小さい碑こそが「ひめゆりの塔」

有名な「ひめゆり学徒隊」は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員された総勢240名(生徒222名、教師18名)からなる女子学徒隊。
沖縄県立第一高等女学校広報誌の名前「乙姫」と、沖縄師範学校女子部の広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合(ひめゆり)」となったらしいです。

彼女たちは負傷兵の看護などに当たるも、米軍の進攻により島南部へ撤退する。
そしてこの「第三外科壕」で突然の解散命令を受けた日の翌朝の米軍の攻撃で、壕の中にいた女学生や教師のほとんどの命が奪われ、荒崎海岸まで逃げ延びられた女学生らも手榴弾等で集団自決したという。

↓かなりの人が「ひめゆり平和祈念資料館」に吸い込まれていきます。

私は一度見学したのもありますが、他にも行きたい所がいっぱいあるので今回は入りません。

魂魄(こんぱく)の塔→
沖縄で最初に建立された最大の慰霊碑で、2番目にできたのが「ひめゆりの塔」。

写真左の石碑文には「(前略)戦後、真和志村(今は那覇市)民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。祭神3万5千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔(以下略)」とあり、住民はもとより、軍人・兵士も敵味方の区別なく祀っています。
遺骨は一箇所に集められて大きな穴が掘られその中に収められたが、それでも収まりきれず、積み上げられ一つの大きな骨の山が築かれ、周囲から石をかき集めて納骨堂が完成したという。

この塔の周囲には1都1道8県の慰霊塔が、沖縄県全体では1都1道2府42県の慰霊塔があるのですが、1県だけありません。その1県とは・・・。
沖縄県
なので、ここが「沖縄県の塔」とも言うべき慰霊碑のようで、親族がどこで亡くなったか分からない人達はここにきて涙を流すという。

本来は「ひめゆり」などの他のどこよりも真っ先にこの塔を慰霊すべきなのですが・・・。
順序が逆になってしまいました、すみません。

昭和20(1945)年6月23日、第32軍司令部・司令官の牛島中将以下が自決して組織的な抵抗が終わった地・摩文仁(まぶに)の平和祈念公園へ。
↓ただ、ここに着いたのは16時半で、平和祈念資料館の「常設展示室」へ入れるのも16時半まで。

タッチの差でした、残念・・・。

↓エントランスホールの床の一部にはガラス張りになっています。

覗くと、狭い所に不発弾数発。
爆発したのは当然比べるべくもなくもっと多かった筈で・・・。
「鉄の暴風」と呼ばれた砲弾射撃の凄まじさがほんの少しわかるような気がする展示品。米軍に撃ち込まれた砲弾は約270万発だったらしく、想像しただけで恐ろしい。

建物を出る→
右の石碑は、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。

平和の広場→
周りにはシナ大陸から来た多くいて、ここを知ってか知らずか大騒ぎ。
さすがに「我々は小日本に勝ったんだぞ!」などと叫んではいないと思うけど・・・。

広場からの眺め→
喜屋武岬同様、今でこそ美しい眺めのここですが、逃げ場を失った兵士や住民らが身を投じたようで、それはさぞ凄惨極まりなかったのでしょう。
平和とは本当にありがたいもんです。改めて亡くなられた方々に合掌。

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146日目 激戦の地・沖縄に思いを馳せる(1)

2016-03-20 23:13:36 | 南西諸島
2016年1月31日(日)


糸満市は大東亜戦争における沖縄戦の最後の激戦地ゆえ、至る所に戦跡があります。
なので沖縄本島南部を廻っている以上、訪れる所はどうしてもそれらがメインになります。
もちろんそれはとても多く、シラミつぶしに行くワケにもいかないので、事前にいくつかピックアップしておきました。

さて、いわゆる沖縄戦跡と言えば一番有名なのは、恐らく「ひめゆりの塔」でしょう。さすが映画となっただけあります。
ですが、「○○の塔」などと呼ばれる慰霊塔は「ひめゆり」以外にもたくさんありますし、野戦病院や兵士・住民の避難場所として使用された洞窟(現地ではガマと呼ばれる)も多く残っています。

ところが世間の注目は「ひめゆり」ばかりに集まっており、それはいくら何でもなって事で、あまり知られていない戦跡を少しでも知って貰えればと思っております。

↓まずは、県立第二高等女学校の関係者149名が合祀されている「白梅の塔」。

従軍看護婦として働いたいわゆる女子学徒隊は何も「ひめゆり学徒隊」だけではない
他にもあった学徒隊のうちの一つ、県立第二高等女学校の生徒50名程で編成され、22名が戦死した「白梅学徒隊」は、糸満市の次に訪れますが、今の八重瀬町に八重瀬岳病院壕があり、昭和20(1945)年3月下旬からそこで活躍する。

米軍が迫ってきた6月に病院が解散すると、白梅隊も解散し、彼女たちは数人ずつに分かれ南部へ逃げる途中に見つけたのがこの塔がある洞窟。
16名が隠れていたという洞窟に、米軍は「馬乗り攻撃(洞窟の上から穴を開け、そこからガソリンなどを注ぎこんで火を付ける攻撃方法)」を仕掛け、6名が亡くなったという。

↓観光客で賑わう「ひめゆりの塔」とは実に対照的でひっそりとしていて、慰霊塔は鬱蒼とした木々の中(写真左側)にあります。

果たして戦時中はどんな光景だったのでしょうか・・・。想像すらつきません。
因みに近くには「山形の塔」「眞山の塔」などといった慰霊塔もあります(画像は略)。

↓突然のいきなりの洞窟ですが、ここは沖縄県庁最後の地と呼ばれる「轟壕」。

糸満市のサイト・観光部門の解説には「全長約100mの東西に延びる自然壕。壕内を川が流れる。名城の住民や他地域からの避難民が隠れていた。6月下旬に島田叡知事以下の県庁職員幹部が避難し、沖縄県庁最後の地とも言われている。18日ごろ米軍が壕を攻撃するが、日本兵は住民の脱出を許可しなかった。」とあります。
でも、24日頃に約600名の住民が米軍に保護されたという。

いくつか戦跡としての壕を見ましたが、ここは特に雰囲気が重く感じました。
下から見上げる→

↓一人の出入りがやっとのこの小さな穴から「全長約100mの東西に延びる自然壕」に繋がっているようです。

覗いてみましたが真っ暗だし、仮に入っても中にハブでもいたらイヤだしで、やっぱりガイドさん付きでないと入れないよなあ。

この壕は平和学習でよく利用されているらしく、実際私がここにいた時に、東京から若い教職員の団体が見学に来ておりました。

次に「陸軍病院糸洲第二外科壕」だと思って来た所→
実際には私の全くの勘違いだったのですが、「糸洲の壕」とよばれている洞窟。「ウッカーガマ」ともいうようです。
周りは一面畑で、その中にひっそりある戦跡。

第24師団第二野戦病院が、戦局の悪化により、元々は豊見城にあったのが、移動して来た場所がここ。それに従軍したのが私立積徳(せきとく)高等女学校の女生徒25名(積徳学徒隊)。
この部隊長は珍しく命の尊さを説く軍人だったお蔭で、犠牲者は3名で残りは生還できたという。

壕の中から外→

↓そして、カーナビがないと他所者にとっては辿り着くのが案外難儀な、沖縄本島のほぼ最南端の岬・喜屋武(きゃん)岬へ。

高さ10〜20mの断崖が切り立つ岬。
「きゃん」とは沖縄の方言で「極み、突端」という意味らしいです。

眺めはとっても抜群→
写真の海に突き出た部分は荒崎といい、そこが沖縄本島最南端。

景色の良いここも悲劇の場所であります。
平和の塔→
アメリカ軍が南に進攻するに伴い、それから逃れるため住民は南に逃げ、行き着いたここで多くの人たちが身を投げたといいます。

合掌。
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