ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

169・170日目 年末は関西へ、まずは大阪市巡り

2017-04-22 23:43:43 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月28日(水)・29日(木)


関東の桜はすっかり散ってしまい、ゴールデンウイークを目前にしてようやく年末年始旅に辿り着きました。
昨年4か月間ブログをサボったツケがあまりにデカすぎでしたな・・・。
今回は年末の3日間は関西、正月1日だけ東海の計4日間旅始末記です。

↓激烈なる争奪戦?を勝ち抜いてもぎ取った指定券を片手に「快速・ムーンライトながら」東京駅23時10分発で西へ。

使う切符はもちろん財布に優しい期間限定発売のアレです。
それを買ったのは平成26年の夏以来久し振り。

用意周到、新たなドラマ押しの浜松駅にて→
この時は開始前だったけど、今となってはもう既に3分の1を消化してしまったんだよな~。
正直、見たり見なかったり見なかったり見なかったりで、今現在どのような展開になっているのかすら分かっていない状況。

↓長い時間浜松で停車するので「ちょっとコンビニに買いたいものがありまして・・・」と言って外に出させてもらう。

本来、改札を出たら指定券は無効になるのですが、そこは駅員さん黙認のご慈悲。
3時だというのに驚きのタクシー待ちの長蛇の列。
仕事納めでついついという人達なのでしょう。

翌朝8時頃、大阪駅に到着→
これまで個人的には大阪市内は素通りばかりで、知られた名所の、そのほとんどへは行った事がありません。
加えて「ゆっくりのんびり旅」では、これまで5つの区はクリアしているものの、どこかテキトーな感じだったので、市内(一部ですけど)巡りにこの日1日を費やすつもりでおります。

↓荷物をロッカーに入れ、駅の立ち食いうどん屋で「鶏天うどん」をかき込んでからJR大阪環状線内回りに乗って西九条駅へ。

ここを起点にまずは此花(このはな)区を散策します。

駅から南300m程歩きますと、こんなハコが姿を現します→
ハコの向こうには安治川(あじがわ) が流れていて、行く手を阻んでおります。
ここはそれまでの「源兵衛渡船」という対岸への渡し船に代わって昭和19(1944)年に完成した、人と車が通れる全長81mの安治川隧道出入り口。

↓右側のエレベーターで下に降りれば(階段もあるので、それでも下へ降りられます)、隧道で対岸の港区へ行けます。

一日中通れる事ができ、向こう側には「源兵衛渡船」という交差点があります。
狭く薄暗いので、日が昇っている時間帯はともかく、夜になれば一気に危険なカオリがプンプンな隧道。

左側にも2つの扉っぽいのがありますが、ここが車の出入り口。
ただし、現在では閉鎖されております。

↓隧道から西へ向かいますと、大阪駅から僅か4km程の位置にして普通に郊外っぽい光景。

右の建物は、近年徐々に増えてきている中高一貫の公立校で、長ったらしく変わった感じの校名→
これに関しては後で触れる事にします。

六軒家川(ろっけんやがわ)を下流方向に見る→
走っている電車はJR桜島線(ゆめ咲線)。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)へ行く時に乗るあの路線。

上流方向を歩いて朝日橋の近くに来ると、こんな石碑がありました→
この碑については区のHPに詳細に載っているのでそちらをご覧戴くとして、ここでこれを取り上げたワケは、この碑文を書いた人について触れかったから。
マスコミによくお出ましの、大阪市長・大阪府知事を務めたあの超有名弁護士の書。
さすがに口はとっても達者。けれども、字はお世辞にもうまいとは言えないね。

阪神電鉄・千鳥橋駅近くのアーケード商店街→
いよいよ正月!という雰囲気は・・・全くないし。

〔50〕大阪府大阪市此花区役所
これも区のHPに書かれていますが、区名の由来として大正14(1925)年に新たな区が設置される際に、渡来人・王仁(わに)が詠んだとされる難波津の歌「難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」によると。
先の学校もここから引用したんですね。
臨海部に市内随一の重化学工業地域を形成して発展。

公園建設のため暗渠化工事中の正蓮寺川→

↓川の上はまだ橋っぽい姿を留めていますが、いずれ「ここ橋だったの?」なんて状態になるんだろうな。


淀川左岸側に、一見漁港らしき港を見つけました→
で、実際に漁港なのでありまして、「大阪市漁業協同組合」の建物も見えます。
何とビックリ、大阪市内に漁港があったりする
伝法(でんぽう)漁港というそうです。

↓桜島線・安治川口駅まで歩いて、そこからUSJへ行く人達でごった返して騒々しい電車に乗って終点の桜島駅へ。


↓対岸は、日本で2番目に低い山とされている築山の天保山や世界最大級のでっかさを誇る超ド級水族館・海遊館がある一帯。

無料の大阪市営渡し船があってそちらへ行けるのですが、それに乗るのは今度天保山に行く時までの楽しみに取っておきます。

ほんのちょびっとUSJ→
以前、同級生が経営する会社の社員旅行に拉致された付き合った事をこのブログで書いたことがある(最初2回目)のですが、その同級生はGW明けて早いうちに社員旅行としてUSJ遠征を企んでおりまして、私も当然?誘われました。
なのですが、そこには1度も入ったことはないけど、そもそも興味がこれっぽっちもなく目下断固拒否しているところ。果たしてどうなることやら?

大阪駅方面に戻って、その一つ手前の福島駅で降ります→
何を獲物としているのかは知りませんが、ホームの端っこに群がる鉄の塊には笑えてしまいました。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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168日目 人のいない旧宿場町・二本松と矢吹の商店街

2017-04-20 22:46:50 | 南東北
平成28(2016)年10月11日(火)


バスで再び二本松駅に戻ってきましたが、せっかくなので、かつては旧奥州街道の宿場町でもあった駅チカ市街地をブラブラしてみます。
↓戊辰戦争で灰燼に帰してしまいましたが、町割りはその当時と変わりません。


↓日本三大提灯祭りの一つらしい「二本松提灯祭り」とはこんな感じなのね。

3日間開催されますが、何故だか初日にクライマックスを迎えるのだとか。

旧奥州街道のメイン通り商店街→
平日だからなのか分からないけどかなり苦戦気味。

中でもこの仕舞屋が非常に気になりました→
これまでそれなりの数の廃墟も観察してきた私にとってピンときたものがありまして、早速このウラへの侵入を試みます。
するとどうでしょう。

まさに大当たり!
 
そこは過疎の山村によく見られる打ち捨てられたボロ家のパラダイス。
趣味悪いですけど、こういうものを見ていると妙に興奮してくる私は神経がおかしいのでしょうか?

別の仕舞屋ですけど、戸が開いていたので思わず撮ってしまった写真→
文具屋さんですかね、奥に掲げられている右から読みの「ライトインキ」の額がいい味出していて、それを盗んでいきたい衝動にかられる。

太鼓屋さん→
このご時世、太鼓でメシを食っていけるのか気になります。

↓そこで副業?なのかもしれませんが、これらが糊口の足しになるように全く見えません。

好き放題言ってばかりでスミマセン。是非何とか「和」の伝統を守り抜いて欲しいものです。

そんなこんなで商店街が意外にも楽しかった二本松を去り南に反転、その途中、寄り道したのが矢吹町(やぶきまち)。
降りた矢吹駅の自由通路→
矢吹町は日本三大開拓地の一つ。
日本三大開拓地とは、戦後の大規模国営開拓事業が大成功したとされる三か所の開拓地。
他には青森県十和田市、宮崎県川南町があります。

因みにこの垂れ幕のド真ん中に立って右腕を高らかに上げている御仁は、この町出身で「絶好調~~っ!」のフレーズで有名だった野球選手(横浜市を本拠地にする某球団の監督でもあった)。

駅の東口(左)と西口(右)→ 
丸い部分は飛び出ていて展望台?になっておりまして、1個だけだと巨大望遠鏡か戦艦の大砲程度にしか見えないのですが、2個並ぶとアラ不思議!、蚊やトンボ、或いは宇宙人になってしまいました(笑)。

東口から伸びる「四季のプロムナード」の路面には、鉄道に関するパネルがいくつか埋め込まれています。
私が仙台に住んでいる頃、東京への行き来によく乗った特急→
あの頃は上野までがっつり4時間余りかかりましたからね、そのお蔭で?忍耐力が備わりました(苦笑)。

始期は1982年だけどな~→
ウソはいかんな、ウソは。

新幹線開業前後でもよく見られた超オンボロ客車列車→
デッキなんかはドアもなく吹き抜け状態で、うっかりすると走行中線路に真っ逆さま。
こんな怖いの、よく乗っていたのぉ。
クッション性が全くなく、振動がモロ伝わってくる硬い木のバリバリ座席が懐かしい。

(630)福島県西白河郡矢吹町役場
源義家の奥州征伐時に、八幡社を造営し屋根を矢柄で葺いたため「矢葺」の地名が起こったという。
「日本三大開拓地」らしく農地が町の面積の半分以上を占めており、平成29年3月1日現在の人口は17,300人。

「あゆり祭」とは何ぞや?→
10月1日~11月30日までの長~い期間開催される矢吹町民による文化祭。
町の北部にあって住民に恩恵をもたらしてきた「大池」が昔、「あゆり沼」と呼ばれたことに因んだものらしい。
おまけにその「大池」には、我らが千葉市から譲り受けた約2000年前の古代ハスで知られるオオガハス(千葉市の花でもある)が生育しているのだと。
ひょんなことで縁を感じた矢吹町。
 
駅西側が町の中心商店街となっております→
矢吹も旧奥州街道の宿場で、この通りがまさにそれ。

贅沢すぎる立派すぎる町営団地→
すぐにここに移住したい!タダで住めるのなら。

町のマスコットキャラクター→

↓地方のおもちゃ屋にはよく飾られているんだよなあ、ヒーローものの人形。


東日本大震災で被害を受けた修復中の「大正ロマンの館」→
昨年11月30日(水)にめでたくオープン!したそうです。

↓宿場の名残りを留める建物を期待して来てみたワケですが、目ぼしいものはこんな程度しかなく残念。
 

↓郡山のホテルで見ていたテレビ番組でたまたま絶賛紹介されていたので、食べてみたくなった郡山駅弁(¥900)。

東京駅の駅弁屋「祭」でも売られているそうですが、あっという間に完売してしまうのだという。
「祭」にはよく行くにもかかわらず全く気が付きませんでしたが、そういう理由だったのね。
それだけの超人気駅弁、酒のつまみにもなかなかよかったわ。
千葉駅にも「祭」がやってきましたが、そこにも置いてくれないかな?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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168日目 長丁場の宴を迎えた二本松

2017-04-18 23:59:01 | 南東北
平成28(2016)年10月11日(火)


本宮市の次に向かいしは、北隣りにある二本松市。

残念ながら毎年10月4~6日に開催される「二本松提灯祭り」は終わったばかり。
さぞ祭りの後の虚しさで満ち溢れているものだと思いきや、そんなことでおとなしくなる二本松市ではありません。
↓間、髪を入れず前日より「第62回菊の祭典 二本松の菊人形」が絶賛開催されたばかり。

これは11月23日までのロングラン。この2ヶ月間でどれくらいのお金が落とされるんだろ?

さて、疲れているのもあってチャリを借りようと、ここに声をかける→
当然借りられるものと余裕をかましていたのですが、思いもよらぬ言葉にクラクラする。
すみませ~~ん、全部出払っちゃいましてねえ・・・(汗)

菊へ向かいそうな人はそれなりにいたけど、この日は普通に平日。たいした数ではない。
だけど、10時半頃にノコノコやってくるのはあまりにも舐めすぎか。

本宮ではなく最初にここに来るべきでしたが、仕方ない、かくなる上は極めて原始的移動手段を使わざるを得ません。
その代わり行くつもりだった「智恵子記念館」はバッサリ切る事に・・・。

駅前の文化ホール→
ここで密かに楽しみにしていたものがあったのですが・・・。

よくあるパターン→
とことんツキに見放されております。

気を取り直して、まずは線路越えて駅の南側へ。えっちらおっちら坂道を上ると市役所。

(630)福島県二本松市役所
その名のとおり、「二本の松」に由来したと思われる地名ですが、日本辞典の中の「地名由来辞典」によると、『昔、山王寺山にあったとされる「鶴松」と「亀松」の二本の霊松に由来か』らしいです。
室町時代からの城下町と、意外にも歴史のある町で、戊辰戦争の際は町は焼けてしまう。
現在は約56,000人が住む市。

役所のある辺りはかなり縁起のいい地名→
でも市の財政力はぱっとせず、県内でも59市町村中第22位(平成23年度)。

さあ、これから坂を下りて市街地を通り抜けて菊会場である二本松城へ→
役場とお城の距離は直線にして1.2~1.3km程度なのだけど、途中、意地悪く山が立ちはだかっており、先行きが思いやられます。

とりあえず適当に歩いて行くと、やがて鮮やかな赤に映えるお寺さんに来る。
だけど、目の前は山が行く手を阻んでいて、あたかも通せんぼ。
横には山を上る階段があるのだけど、「そこからお城に行けるんかなあ」と困っていたら、実にナイスタイミングで寺主さんらしきが用事先から車で帰ってきたではないか!
しんどい思いをしていたのを神様、いやいや仏様は見ていてくれたようです、ツキを取り戻したか?

↓「階段を上って、ああ行って、こう行って・・・」と教えてもらったその階段を登る途中。


やれやれ、ようやくお城が見えてきました→

日本100名城の一つ、二本松城→
別名は霞々城(かすみがじょう)といい、応永21(1414)年に畠山満泰により築かれたお城。
戊辰戦争であえなく落城してしまう。

二本松少年隊群像→
「少年隊」だからと言って、ご当地アイドルグループではありませぬ。

戊辰戦争時、迫る新政府軍と相対すべく、出陣を志願した数え13~17歳までの少年達62名で構成され、うち14名が戦死してしまう。
一方で、同じ少年兵でも有名な会津の「白虎隊」に比べるとほとんど知られていないのが哀しい。
像は激戦地・大壇口での奮戦姿と、出陣服を仕立てる母の姿だそう。

お城の一部を間借りした会場でございますが・・・→
菊はちっとも咲いておりませぬ。

でもメインは祭り名にもあるように菊人形。
こんな感じでたくさんの人形が突っ立ております→
罰で立たされている感じのお偉い方。

↓八重さん人形よりも津田梅子さん人形の方が、大河ドラマ「八重の桜」で八重さんを演じた女優に似ている気がする。


真ん中のお人形さんはモノホンの人間かと見間違えるくらい→
私のお好みの顔立ちに仕立ててくれた本名はナゾの紫式部でございます。

首のない少年隊→
見れば見るほど不気味。

菊を羽織らせてくれなかった人形→
目をいきなりかっぴらいて怪光線を発するビックリ人形だったら面白いんだけどね。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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168日目 ほんとの空を見に来たというのに

2017-04-10 23:58:25 | 南東北
平成28(2016)年10月11日(火)


郡山から東北線を北に進むことからこの日はスタート!
早速、安達太良山と(右)と和尚山(左)が姿を現します→
むかーしむかし、智恵子さんという方がいしゃっらいまして、曰く、この山の上がほんとの空らしい。
そして、私が普段見ている千葉、というか広い意味での東京の空はほんとではないと真向全否定される。
ホンモノを見に来たというに、雲がかっていてお天道様は何て意地悪。

この日最初の訪問地は本宮(もとみや)市。
本宮駅→
かの野口英世博士が故郷・会津の三城潟(さんじょうがた)から約40kmを歩いて来て、東京へ向かう列車に乗った駅がここ。
博士が上京を目前にして生家の床柱に刻んだ文「志を得ざれば再び此地を踏まず」。
このホームでその思いを秘めながら列車を待っていたのかと思うとなかなか感慨深いものがあります。

駅前広場→

↓「福島のへそ」を自称している本宮市ですが、どちらかというと郡山の方が真ん中な気が・・・。


明治5(1872)年創業の大天狗酒造さんの煙突が目立ちます→

駅前通り→

まだ眠そうにもかかわらず、行儀よくお出迎え→

メイン通りを外れ、怪しい裏路地へ→

↓そこにはますます怪しげなその手のマニアが大喜びしそうな廃墟っぽい建物があったりする。

大正3(1914)年築の本宮映画劇場で、一見キレイだけど、よく見るとバリバリな外装。

↓廃墟と思いきやまだ現役らしく、テレビにも紹介されたなかなかいい味を醸し出している映画館ですな。
 

(629)福島県本宮市役所
平成19年に本宮町と白沢村が合併し誕生。人口は約3万人。
古くは会津街道の起点で、三春街道と相馬街道が交差する宿場町。

ところで、この旅に出る前の事前準備の段階から気になっていたのが、この学校名→
「本宮まゆみ」さんという偉い人が昔いて、その記念に建てられた学校だと思っておりました。

ここで由来が判明→
「まゆみ」という木なんて初めて聞いたわ。

安達太良川のほとりへ→

秋らしくススキが伸びて、散策には実にいい堤→

鉄路を越えると水色にあしらわれた公園→
名前もやっぱり「みずいろ公園」。
本宮市には多くの川が流れているので、「みずいろの町」でもあるという。
で完璧に安達太良山上空は見る事できなくなっています。

さらに川を歩くと、阿武隈川との合流部→

これから秋祭りが目白押しの本宮市でした→

 

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167日目 二人の美女に会いに・・・

2017-04-06 23:54:52 | 南東北
平成28(2016)年10月10日(月祝)


磐越東線・小野新町駅には14時頃到着→

↓何でだか分からないけど、ホームには何人かのポリさんが眼光を鋭くしていらっしゃいます。

辺りはピリピリ緊張のある重苦しい雰囲気。
彼らを見て「まさかオレを捕まえに来たんじゃないよな?」と一瞬でもビビッてしまう私は小心すぎますか?

「ゆっくりのんびり旅」では一度登場した事のある、ここ小野町(おのまち)ですが、以前この町出身の人とたまたま話す機会がありまして、その人が言うには「真夏の8月でも寒いからコタツを出している」ようなお寒い土地柄なのだと。
冗談だと思ったけど当人は至ってマジな目つき。どんだけ極寒地なんじゃ

じゃあ10月なら耐えられない位の寒さなんじゃないかと、密かに(小野だけに)恐れおののいていたのですが・・・。
実際全く暖かくはないのだけど、さして寒くもない。やっぱりあの人は話しを盛っていたのでしょうか?

駅前にはいきなり何やら由緒ありげな石碑→
9世紀前半の漢学者・遣唐副使であった小野篁(おののたかむら)のお屋敷跡の碑。
ですが、館は実際には奥の山裾にあったようなので、非常に紛らわしい人迷惑な碑であります。

彼は遣唐大使と良船を争うといった子供じみたケンカをした挙句、隠岐に流されてしまったことで名を残す。
さらには超有名なあの人のじい様(父親という説もあるよう)であるらしいけど、そのお話しは後で。
思いっきり察しは付くと思いますが、小野という地名は彼の由来らしい。

↓市街地へ。
 


古い時代から浜通りと中通りを結ぶ盤城街道の要衝で宿駅。
少ないながらも古い建物があり、それらしい雰囲気は一応醸し出しております。

(628)福島県田村郡小野町役場
戦前は馬産地。その後、葉タバコ生産・畜産が盛んになるも、近年小野町が力を入れているのは「ミネラル野菜」。
人口は1万人余り。

仙台屋さん→
大盛ラーメンを提供することで地元では有名なお店。

右支夏井川(うしなついがわ)のほとり→
きっと現地の人は咲くのは今か今かと待ち遠しいんだろうね。

しばらく川沿いを歩くと、この橋に来ます→

↓小野町が御自慢の麗しき女性二人の像がここにはありますが、誰だか分かりますか?
 
左は世界三大美女の一人とされているあのお方。
既にモロバレでしょうが、先に出てきた小野篁の孫?娘?で、当時の男のアイドル・小野小町。
さらに小野町で産声を上げたのだという伝説があるので、「小野小町生誕の地」に手を挙げております。
だた、「生誕の地」を名乗る地は他にもたくさんあるようなので、私は同じ「小野」という事でムリクリこじつけたのではないかと勝手に推測しております。
それに今じゃ小町=秋田のイメージが定着してしまっているので、「ここで生まれました」と言ってもどうもピンときません。
蛇足ですが、世界三大美女の一人として小野小町を加えているのは日本だけのようです。

さて、右のお方ですが、名前は香山リカさん。
あ、メディアによく出てくるあの女医さんではないですからね(笑)。似てないでしょ?

橋の目の前にあるこの建物は、香山リカさんに関係のあるお城→
リカちゃんキャッスルといい、女のコの永遠のアイドル・リカちゃん人形のテーマパーク的施設です。

↓この日宿泊は郡山。駅前ではコンサートが行われ、非常に騒がしくなって賑わっておりました。
 

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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167日目 避難指示が解除されたその後を訪ねる(2)

2017-04-01 00:49:30 | 南東北
平成28(2016)年10月10日(月祝)


昨日今日と、立て続けに四つの町村(富岡町・飯舘村の大部分と浪江町の一部、川俣町山木屋地区)に出されていた避難指示が解除されました。
あれからもう6年も経ってしまったのですね、でも以前の姿を取り戻すには相当大変だろうな。
先に解除されても、もぬけの殻のような状態が解消されない楢葉町を目の当たりにしてしまったので余計そう思います。

さて、福島第一原発から南20~30kmの所に位置し、震災から一年後の平成24年3月31日に避難指示が解除された広野町(ひろのまち)はどうなっているのでしょう?

町の玄関口である広野駅→

駅東側(海側)→
福島県広野町東日本大震災の記録Ⅰでは水浸しとなった駅東側の写真を見ることができます。

一面の荒野に似つかわしくない建物は「広野みらいオフィス」。
コンビニや各種事業所が入っていたりします。

後でも触れますが、広野町は震災前の約50~60%しか人が戻らないので、町活性化のカンフル剤として投入されたのが「広野駅東側開発整備事業」。
ゆくゆくはここに医療機関を移設したり、宿泊施設や集合住宅の誘致も企てているのだという。

ハコ造りだけはお手の物の行政ですが、これを造っても活性化する保証はない。だけど、ハコがないと活性化に繋がらないと言われればそうかもしれない。
でも安全面もさることながら、やっぱり地域の発展には働き口を増やせるかどうかなんだと思うんですけどねえ。
いずれにせよ、広野駅東側開発整備事業のイメージ図では立派な街並みが描かれていて、果たしてそうなっているか数年後またここを通るのが楽しみ。

跨線橋から北側→
楢葉町との境にある広野火力発電所の煙突がやたら目立ちます。

童謡「汽車」の碑→
「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと~」で始まる童謡の碑で、その歌の舞台がここ、広野駅周辺であるという。なぜか?
続けて歌うと「思う間も無く トンネルの 闇を通って広野原」。
なるほど、最後に「広野」が出てくるわい。だかららしいんだけど、こじつけ感がある。
実際、歌の舞台には諸説あるらしいし。
「山 浜 鉄橋 トンネル 広い野原」なんて列車に乗っていれば日本中にたくさんありますからね。

寧ろ「汽車」で真っ先に頭に思い浮かぶのは、かつて広島東洋カープに山中潔というキャッチャーがいて、その選手の応援曲に使われていた事かな。
昔の選手応援歌(曲)なんて、歌謡曲を使ったり、アニメソングを使ったりと案外適当なのが多かったよなー。

駅舎→ 

線路に並行する商店街→
あまり人は歩いていません。目立つはやっぱりシャッター。

(627)福島県双葉郡広野町役場
右の平べったい低い建物が役場。その横には「ひろのてらす」と呼ばれる公設商業施設があります。
町のキャッチフレーズは「東北に春を告げる町」。それくらい温暖な地域なのだと。

↓さすがにこれを見た時は何をハッタリこいてんだ・・・と思ったけど、本当に作っているらしい(失礼しました)。

ま、要は暖かいんだね。

さて、原発事故直後、緊急時避難準備区域に指定され、その年の9月30日にそれが解除されて比較的恵まれているように見える?広野町ですが、
ふくしま復興ステーションによると、「平成23年3月11日現在の住民登録人口5,490人」、
町役場のHPでは「平成29年2月末日現在 総人口5005人、平成29年2月24日現在 町内居住者数2949人」と、やっぱり苦しい状況。
因みに一時お医者さんがいないと大騒ぎになった「高野病院」はこの町です。

町おこしに童謡を起用しています→
「汽車」だけが理由ではないのですが、そのワケは後ほど。

役所横の「ひろのてらす」ではサッカーイベントの最中→
地元資本のスーパーを誘致できなかったんでしょうかねえ、またぞろあのスーパーが進出していて残念。

遠くに海を見る→
堤が見えますが、その上は県道。
実は堤の奥には従来の防潮堤(高さ6m)があるのですが、津波はその遥か上(9m)だったという。
そこで、念には念を入れて多重防衛としてもう一本、高さ10mの新しいこの堤を築き、内陸側はなだらかな下り斜面としています。
いわゆる某政権時で「スーパー無駄遣い」とされたスーパー堤防のようなものですな。
約6万本の苗木が植えられているようです。

この左側は築地ヶ丘公園。
その中にこれがあります→
誰もが知っている童謡「とんぼのめがね」は広野町発祥。

↓でも噴水の音だけが響き渡るだけの、誰もいない寂しすぎる公園でした。


↓広野駅を去り、まだどうにもしっくりこない「いわき駅」に来て磐越東線のディゼルカーに乗り換えます。

かつて呼ばれていた平(たいら)のイメージが未だに強いのは、私が古い人間だからか?(まあ、実際そうだし苦笑)。
3年後には「仙台方面」の表示が磐越東線から常磐線に変わると思うけど、それまでにもう一回この浜通りに来よう!

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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167日目 避難指示が解除されたその後を訪ねる(1)

2017-03-25 22:06:37 | 南東北
平成28(2016)年10月10日(月祝)


日立駅からJR常磐線に乗りましてひたすら北へ向かいます。
でも、路線は続いているのに電車はここまでしか行かないという駅があります。
当時も今もそうですが、福島第一原発の事故の煽りで分断されてしまっているのが理由ですが・・・。

それが竜田(たつた)駅→
下車客は10数人程度。
何となく竜田揚げを思い出す駅ですが、その由来がここ・・・という噂は全く聞いた事ありません。

原発事故以来よく耳にしているかと思いますが、この駅は楢葉町(ならはまち)にあります。
平成27年9月5日に避難指示が解除され、1年経った町の様子が気になったので来てみたのでした。

駅舎→
止まっているバスは、帰還困難区域に突入して原ノ町駅(南相馬市)まで行く代行バス。
数人乗っていたかな?いずれも鉄ちゃんのような感じの人だったような。
私はというと写真撮影で駅前をウロウロしてましたので、「乗りますかあ~~~~!」と大きな声。
何せ次のバスは10時間後なので親切心もあるだろうけど、乗るのかどうなのかハッキリしてくれ、が正解かも。

↓Jヴィレッジというサッカートレーニング施設があるのでこの看板。

希望に満ち溢れた看板がある一方で、その横には除染のゴミ袋らしきが山積みされていて実に対照的。
モニタリングポストの値は1時間あたり0.159マイクロシーベルト。
これが高いのかどうかは分からん。
が、どことは言わんけど、世界中にはここより高い数値の都市がゴロゴロあるやんよっぽど外国の方が危険

↓駅前の住宅街と商店街。
 
ひっそり。これ以外言葉が思い当たらないです、正直。
家はあっても人のいない世界、そして生活感のない世界。
人はいなくても車だけは走っているというのはよくあることですが、ここではそれすらもない。
飯舘村(いいたてむら)でもそれを経験しましたが、やはりどこか異様です。

風を通しているのかと思いきや・・・→
窓・玄関の枠が根こそぎ剥ぎ取られているし。
敢えてそうしているのか、避難中のどさくさ紛れにやられてしまったのか分からん。

建物は新しそうなんだけど→
草ボーボーで入るにも難儀、というか最早入りたくないような状態。

真昼間から雨戸だらけの戸建て団地→
人の息吹を全く感じない団地は非常に不気味です。

ふくしま復興ステーションという原発事故周辺の自治体の復興状況が分かるサイトがあるのですが、それによると地震当日の楢葉町の住民登録人口は8,011人。
そして平成29年1月4日時点での帰還者数767人。
私が行った頃の帰還者は約6%だったらしいから、それよりは持ち直しているとは言え、非常に寂しく厳しい数字です。
実際、工事関係者にはそれなりにすれ違ったのですが、現地の人らしきとなると一組の老夫婦のたった2人だけでしたし。

高台から町を見下ろす→
ここらでようやく車の音が聞こえてくる。他には工事の音。

(626)福島県双葉郡楢葉町役場
昭和31(1956)年に木戸村と竜田村が合併して成立。
福島第一原発から南10kmに位置し、事故で全住民が避難した自治体のうち最初に避難を解除した町。

先日見た震災関連特集のテレビ番組では、存続が危うい事態に直面している自治体として楢葉町が取り上げられていました。
登場した町長さんが頭を痛めていたのは、今後の人口減の中での財源確保に関して。
当たり前なのですが、インフラなんかを始めとして、町自体の機能維持が困難になるわけだから。

そこで、帰還促進を促す切り札がコレ→
住宅・商業施設・診療所、その他便利な施設全てを一か所に集約したコンパクトタウンの建設に踏み切る。

災害公営住宅では既に入居が始まっているようで、来年春には商業施設などがオープンする予定。
だったのですが、番組では思うようにテナントが集まらないらしい様子が映し出されていました。
となると人もやって来なくなる可能性もあり得ます。

中にはコンパクトタウンから遠い住所、或いはそこに戻る予定の人もいるでしょう、その人達には不便を強いる事になりますし、この構想、かなり前途多難に感じるのは私だけしょうか?

役場の前には、平成26年7月31日にオープンした「ここなら商店街」という仮設商店街があります。
食堂もあり、それは工事関係者には重宝されているようです。
私も是非ここで食事を取りたかったのですが、時間の都合で断念。
ここでお金を落とせず申し訳ない。

竜田駅北にある踏切→

赤錆びて、草に埋もれてしまった線路は実に哀しいものです→
が、今年10月頃までに富岡駅までの約7kmは運転再開されるようです。

駅東側の工事→
町民や廃炉関連事業向けに、駅前広場として駐車・乗降スペースを造ったり、ホテルを建設したり(来年夏にオープン予定)しています。

建設中のコンパクトタウン→
笑(えみ)ふるタウンならは」と名付けられたようです。
文字通り、「笑」のあふれる楢葉に戻ることを願ってやまないのですが・・・。

工事はどれもこれもかなり大掛かりな感じ。
復興財源を元手にやっているのか知りませんが、完成後の維持管理の財源は大丈夫なんでしょうか?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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166日目 企業城下町・日立市へ

2017-03-20 23:45:46 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


※予めお断りしておきますが、写真は当日・翌日撮影分でゴチャ混ぜとなってます。

↓「この~木何の木、気になる木」とはよく知られたCMですが、その木があるという噂の・・・ウソです、そのCMを世に送り出した企業の創業地である日立市に降り立ちました。

その企業とは市名の字面から分かるでしょう、国内最大の電気機器メーカー日立製作所。

↓ですので駅前に出ると、日立製作所から寄贈されたというでっかい「タービン動翼」のモニュメントがイヤでも目に飛び込んできます。

そんなシンボル的タービンですが、これを恥ずかしがっている日立市民が少なからずいるやに聞きます。
意外ですな。なんでだろう?

日立市観光はのっけから駅にて始まります。
↓1番線(駅だけに)、「SEA BIRDS CAFE」(正面右側のスペース)。

「日立駅絶景天空カフェ」が謳い文句の喫茶店。
優雅にここで天空気分を味わいながら絶景を堪能するのもオツなのですが、時すでに16時近く。
お茶をすると晩酌がマズくなりそうなのでやめます。

2番線、駅通路→
これはたまたまだったのですが、当時は「茨城県北芸術祭」真っ只中で(昨年9月17日から11月20日まで)、駅通路がカラフルに覆われておりました。
なかなか幻想的、見られて超ラッキー(今行っても見ることができませんので悪しからず)。

3番線、この人だかり→
何だろ?と思い、近づくと・・・。

見た目フツーの望遠鏡→
何でこんなものに人が群がるのか意味不明でしたが、翌朝駅に来てみたら誰~もいなかったので覗いてみる。

 ナニナニ?! 上から腕がニョキッーと伸びてきたゾ!!→
てっきり望遠鏡だと思っていた物は「風景幻灯機」といって、海を背景に色々な映像が流れてくる装置。
もう半年も前の事なので何を見たのか忘れましたが、伸びてきた腕は何かを海から拾い上げていたような気がする。

他にこんな催しがあったりと、日立市はイベント三昧→

駅前にはナント!お台場某テレビ屋さんがあったりする!!→
とは、ガセネタですんで・・・。
これは「日立シビックセンター」という、プラネタリウムがあったり科学館があったりする多目的施設。
丸い部分がプラネタリウムで、天球劇場と呼ばれています。
何だパクリかよ、などと決して思わないで下さい。こちらの方が先輩建物なのですから。
街巡りを優先するので、中を見る時間を確保できませんでした。ここも今度リベンジじゃ。

この日の宿泊は駅前の某ホテルチェーン店。
↓ホテルの窓から(市街地の北方向)は「日立セメント」の工場が目を引きます。

特に左の建物は夜には輝いてキレイだったので、窓から撮影を試みましたがうまくいかず(私の持っているデジカメがショボすぎた)。
なお、このセメント屋さんは日立製作所とは何ら関係ないようです。

こちら「かねみ公園」の遊園地→
特におすすめは「ジェットコースター」なんだそうです。
何でも設備が古い上に、山の急斜面に沿って造られているので角度が急で、お墓の中に突っ込みそうな感じになったりと、かなりのスリルを味わえるのだと。
動物園もあったりします。

市内散策に出ます。
駅前から伸びる、だだっ広い「平和通り」→
ただ、人車ともに極めて少なく持て余し気味。

↓駅を背にして「平和通り」をひたすら歩くと、国道6号線に突き当ります。

こちらは逆に、人はともかく、片側一車線で捌くのはちと辛すぎる位の車の量。
うまくいかないもんだ。

↓北方向へ歩を進めると、一部字が消えかかり、「平」が消えた?元々ない?こんな看板があります。

助川とは日立の市街地の古い地名で、駅も助川と呼ばれていたそうな。
随分昔から助川本陣の復元を声高にしているけど、賛同を得られていない様子。

その左隣には、同じ方が訴える実に哀しき看板→
日本創成会議発表「消滅可能性都市」との中に確かに日立市は入っていますし・・・。
今回初めて日立駅に降りたのですが、正直、駅前は寂れた感があるのにビックリしたのも事実。
減っているとは言え約20万人を抱える市なので、勝手にかなりの都会だと思っていましたんで。

(625)茨城県日立市役所
現在新庁舎を建設中で、来年度供用予定。

かつては茨城県でも1位の人口数を誇っていましたが、今では3位に滑り落ちてしまっております。
日立製作所はバブル期には約8万人いた従業員が現在は37.000人余りで、かなりのリストラをしたのが祟ったんでしょうかね?

昭和14(1939)年に助川町+日立町で今の日立市は成立したのですが、その日立町とは明治22(1889)年に「宮田村・滑川村」が合併して成立した日立村の後身。
ところで、日立製作所は大正9(1920)年に日立鉱山から独立した企業。
その日立鉱山は明治38年に創設されたので、実は「日立」は鉱山や製作所から起因する地名ではない。
では、日立地名の由来は?

名付け親は茨城県とは切っても切れないあの超有名人
さすがに全国を廻ったというのはウソっぱちですが、領内視察には熱心だった黄門様はこの地に来ての一言「この村は朝日が立ち昇るが如く繁栄するだろう」、これが由来だとか(本当に言ったかどうかの真偽の程は知りませんが)。
確かに大当たり。でも昇った太陽はやがては沈みます。日立市は今はそんな状況になりつつあるのだろうか。

因みに私の生まれた愛媛県新居浜市も鉱山が元に発展した住友の企業城下町。
そういう意味では個人的にはどこか親近感の湧く町なんですけどね~。廃れた感じも似てますし。

↓見た目明らかに苦しそうな昔からの商店街。
 

↓30年前には「いきいきとした楽しい街並み」で、賞を受けているのだけど・・・。

今の様子をその当時の誰が予想できただろう。

↓まだまだ人で賑わう日立シビックセンター前の新都市広場辺りに戻って参りました。


↓スーパーでダラダラと酒つまみを物色している間に、一気に夜の帳が下りてしまいました。

そして人も一気にいなくなってしまい、急に寂しくなった新都市広場です。

 

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166日目 徳川御三家城下町と原子力城下町

2017-03-19 01:07:10 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


水戸にはまだしつこく纏わりつきます。

あまりそんな雰囲気を感じさせないのだけど、水戸はれっきとした城下町。
最後は水戸城址を廻って終わりにします。

三の丸西側の空堀→
水戸城は鎌倉時代の初期に築かれ、豊臣秀吉の天下統一直後には佐竹氏54万石の城下町となるも、江戸時代になるとご存知徳川御三家・水戸家が治める。

↓三の丸に入りますと正面に立派な建物がありますが、これは昭和5(1930)年に建てられた茨城県庁の旧本庁舎。

今の本庁舎はやたら離れた地に移転してしまっていて、駅から遠い県庁としては、恐らくぶっちぎりで日本一でしょう。

対照的に、三の丸敷地の片隅に借りてきたネコのように佇むは水戸市役所の臨時庁舎。
(623)茨城県水戸市役所
前にも触れましたが、本庁舎は解体されていて各部署があちこちに分散されております。
となるとどこでもいいのですが、この建物を以て水戸市クリアとします。

かつては議事堂だっという「茨城県立図書館」→
愛媛の田舎の我が一族郎党のお墓に「常陸国・6万石の某城主○○豊前守を元祖とし、江戸時代初期に当地に移り住んだ」という碑文が書かれているので、その確証を得るべくこの図書館で郷土史を片っ端から調べたことがありました。
ま、はなっからその伝承は信じちゃあいませんでしたけどね(一族皆もそうだと思う)、結果もお察しのとおりでございます。

弘道館正門→
弘道館とは、第9代藩主徳川斉昭が天保12(1841)年に設立した藩校で、全国の数あるそれらのうちでも最大規模のもの。
ただ、その中には以前入った事もあって今回は入りません。

弘道館への道すがらにある、復元された「八卦堂」→
ここには建学の精神の象徴である弘道館記碑を納められているのですが、戦災で本堂が焼け落ちてしまったにもかかわらず、碑だけは(気合いで?)守りぬいたのだと。

二の丸へ。
水戸市立第二中学校門脇に建つ「大日本史編纂之地碑」→
偕楽園には「完成の碑」があったけど、途中で編纂場所を変えたってこと?

本城橋→
橋の下は空堀を走るJR水郡線。
向こう側はが本丸跡で水戸第一高校があって、その敷地には水戸城唯一の建築遺構である「薬医門」があるのですが、見忘れた!

坂を下りてくると、黄門様が生まれし「義公生誕之地」があります→

ようやく水戸駅に戻って参りました→

↓水戸駅北口のペデストリアンデッキから眺める「黄門さん通り」でございます。

多大な時間と労力をかけて廻った水戸市ですが、それだけの価値のある町だったというのが私の感想です。実に楽しい街でした。

電車に乗って、東海駅で下車→
東海村という自治体にある駅ですが、「東海」というと日本では愛知県あたりがイメージされるので何だか違和感を覚える。
当たり前ですが、「日本海ではないニダ、東海ニダ」とイチャモンを付けている某半島国家式の読み方でもない。
村名の由来は、水戸藩士・藤田東湖が詠んだ『正気の歌』にある「卓立す東海の浜」から。

それよりもここは何と言っても、昭和32(1957)年に「日本で最初に原子力の火が灯った村」。
そして「東海村」は世界的に知られた地名なんだとか(某事故があったからかな?)。

ただ、村で特に見たいものはなし。
沿岸部に行けば、名所案内にあるとおりのものがあったりするのだけど、なにぶん遠すぎ。
なので、駅周辺をぶらついてここは終わり。

山側の駅舎→

海側の駅前→

村役場近くの「原研通り」→
他にも「原電通り」「動燃通り」があったりと原子力押しはかなりのもの。

↓それはそうでしょう、役場にあったこれらを見る限り、村は原子力と一蓮托生だと宣言したのだから。
 
でもその揺るぎない思いは平成23年3月11日までで、ここから僅か北100kmの所で起こった事態に、現村長さんは考えを変えたみたいです。

(624)茨城県那珂郡東海村(むら)役場
村にしてはダブつきすぎの人口約38,000人。
おまけに財政力指数は、平成26年時点で全国第10位を誇る超リッチな村。

↓7人で構成される、村のマスコットキャラクター「イモゾーファミリー」の一員である「イモゾー」です。


 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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166日目 歩いてゆくんだ水戸漫遊記(2)

2017-03-15 23:55:24 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


水戸市散策はなおも続きます。
常磐神社→
水戸の誇る偉人お二方を祀るために、明治初期に偕楽園内に創立された祠堂に由来する神さま。
その偉人とは水戸藩第2代藩主・光圀公(黄門様です)と第9代藩主斉昭公。

↓んで、境内には義烈館(ぎれつかん)というのがあります。

光圀公が義公、斉昭公が烈公と呼ばれていることから名づけられた博物館で、両公の遺品などが展示されております。
入ってみましたが(入館料¥300)、残念ながら中の撮影は禁止。

少し離れたお寺さんに鎮座する「水戸大観音」→
お庭を見て、神社に行って、観音様を仰いで心穏やかに水戸を廻るハズなのに、あっという間にそれは吹っ飛び、次第に気持ちが昂ぶってまいりました。

↓これのせいじゃ。
 
建物の形といい、ツタに覆いつくされんばかりのサマといい、なにやら香しいニオイを醸し出ております。

名園・偕楽園から歩いてもそんなに遠くないこの場所ですが、近くにはしっかりと夜のお遊びどころ(真昼間でも営業してはおりますが)、まさに快楽園が用意されているのは、さすがは水戸。

↓ツタの廃墟の向こう側にはこんな感じの怪しい風俗街があります。

名誉のために行っておきますが、私はここは歩いて写真を撮っただけですので。

そしてこの風俗街にはその手のマニアに超有名な建物があります。
威風堂々、お城っぽい建物がそれ→
クイーンの絵がやたら目立つ別名・トランプ城。
だからと言って、某国大統領の極秘別荘というワケではありません

元々は「クイーンシャトー」と呼ばれた「お風呂屋さん」で、なんでも8億円もの巨額をかけて昭和55(1980)年にオープンしたものの、昭和62年頃に敢えなくドボンしてしまったようです。
以前は侵入できたみたいですが、勝手に入る輩が相次ぎボヤ騒ぎなどもあって、今では封鎖されていて入れることができません。

外観もそうですが、8000万円のシャンデリアがあったとかでかなりゴージャスでバブルなものでしたが、当時はこんなものを平気で建てたんだから、昔のやることは豪気だよな~と、昭和が懐かしい。

↓木が塀を倒しそうで危なっかしい連れ込み宿らしきも魅力的でござった。


ディープでカオスなお話しはこれまで、真っ当な?水戸散策に戻ります。

「黄門さん通り(国道50号線)」に出てきました→
この通りは水戸駅から伸びる繁華街。
正面の古い建物は、昭和30年代に建てられたという昭和レトロ「泉町會舘」。

↓水戸駅に向かって左手にはクネクネした変な形の塔を見ることができます。

近くへ行ってみましょう。

スネークキューブですな→
水戸芸術館のタワーで、水戸市制100周年を記念して平成2年にオープン、高さも周年に合わせて100m。
勿論上へ行けまして、87mの高さには展望室があるのだという。

再び「黄門さん通り」。
何故か茨城にして「京成」の百貨店→

水戸市のゆるキャラ→
これが置いてある場所から水戸駅に向かって数軒隣りには空きとなったビルがあるのですが、外壁が崩れて非常に危険な状態になっているとの記事がこの旅の1か月前にネットにアップされていました
ですが、このほど行政代執行によって外壁が撤去されるようになったとの事。

↓水戸駅が目の前の東照宮鳥居と参道と奥の寂れた感じの商店街。
 
でもここへ来たのはこれが目的ではなく、鳥居の左にあるタバコ屋さん。
タバコを買いに・・・、ではなく、宝くじを買いに、でもなく、お店にいる人気者に会いに来たのであります。

ですが、お店を覗いてみてもいらっしゃいませぬ。
番をしていたじい様に「今日はいないのですか?」と尋ねると、「平日しかここには来ないよ」。

仕方ないので写真で会った気に・・・→
名物ネコの「ハチ」でございます。眉毛が「八」の字になっているからこの名前なんでしょう。
このニャンコが店頭に登場してからは、ここで買った宝くじが当たっただの、顔を見ていい事があっただのいう人が続出し、「幸福を呼ぶ猫」で知られるネコとして一躍有名になったのです。
せっかく来たというのにな・・・、平日に水戸リベンジせんといかんな。

 
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166日目 歩いてゆくんだ水戸漫遊記(1)

2017-03-12 23:59:43 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


雨脚が一段と激しさを増して始まった茨城県都・水戸市訪問です。
↓「出歩きたくないよなー」と、しばしボーゼンと雨を眺める。


さてさて、全国的に知られた水戸ですが、水戸と言えば?
助さん格さんを従えて全国を廻るじい様?→

或いは、臭くてネバネバした私の大嫌いなもの?
 
の2つが鉄板か?

意外にも1世帯当たりの納豆購入額は一昨年までの3年間は日本一ではなかったらしく、だからこんな横断幕なのですが、この呼びかけが功を奏してか、昨年めでたく日本一を奪い返したみたいです。

えっ?、あの女性ユニットも水戸??→
なワケないし。
白黒の石を打ちあうこの遊びは水戸が発祥なんだという。

見所という点では「水戸と言えばコレ」というのがかなり多くありまして、さすがに全てとはいきませんが、できるだけ廻ってみたいと思ってます。

ただ雨が降っていなければレンタサイクルを使うつもりでした。
でも傘をさしてのチャリは危険だし(そもそも違法)、片や歩きで通すと相当の時間と体力を費やします。

雨が止むまで待つか歩くか悩んだ末、後者を選びました(同じ場所に長い時間じっとしていられない私の性格も災いした)。人生楽ありゃ苦もあるさ~♪、と心の中で歌いながら。
果たしてこの選択は吉と出るか凶と出るか?

駅前から南に伸びる通り→

↓ちょっとまっすぐ歩いてから右に折れると、ここも工事中の市役所。

東北地方太平洋沖地震で使用不可となったので解体され、目下機能が分散されております。

↓そして来ましたるは、水戸市民の憩いの場である千波湖(せんばこ)。

「湖」と書きましたが、水深が浅いために実際は「沼」扱いなんだそう。

湖周辺一帯が千波公園となっていて、それと湖を見下ろす感じで隣り合っている有名な「偕楽園(かいらくえん)」を合わせた面積は、都市公園としては世界第2位の広さを誇っているとな。
街中に川があるのも羨ましいですが、こんな大きな水溜まりがあるのも羨ましい。
おまけにでっかい公園もあるのも、涎を出さんばかりに羨ましい。

ところで、うっとうしかった雨は10時頃にはほぼ止みました。
駅で一時間辛抱しさえすれば後はチャリを使えたので、悩ましかった選択は結果的にでございました・・・。

↓千波湖は水鳥たちの憩いの場でもあるよう。
 
人が近くを通ってもちっとも騒ぎません。悠然としたもんです。
平和でいい光景じゃありませんか。

時に高く水が吹き上がります→

JR常磐線の偕楽園駅を跨ぎます(右側が湖)→
この駅は、文字通り偕楽園の最寄り駅なのですが、下り(水戸方面)列車のホームしかなく、毎年行われる「水戸の梅まつり」期間中のみにしか機能しない臨時駅。
上り(東京方面)ホームがない理由として、おまつりの客を市街地に誘導して買い物をしてもらうために地元が設置に猛反対したんだとか。

↓偕楽園へ通じるつづら折りの坂道の途中の、ちょっと引っ込んだ所にある石碑。

かの大作の完成記念の碑にしては、こんな鬱蒼とした中にポツンと置かれた少々寂しい扱い。

史跡名勝・偕楽園→
入場無料なので、当然潜入を試みます。

偕楽園は「衆と偕(とも)に楽しむ場所」として、天保13(1842)年7月、水戸藩第9代藩主徳川斉昭により造られました。
金沢の兼六園・岡山の後楽園とともに日本三名園の一つ。

さて、先ほど触れた「水戸の梅まつり」ですが、先月18日より今月いっぱいまで開催されます。行くなら今!
今年で実に121回を数えるそうです。

↓この時は10月でしかも天候悪なので、色彩感は全くよろしくありませぬ。

もう一か月早ければ、萩で綺麗だったようですが。

↓偕楽園の中に好文亭(こうぶんてい)と呼ばれる素朴で、雅な建物がありますので入ってみましょう。

ここはさすがに有料(¥200)。
斉昭公は文人、家臣、領民をここに呼んで詩歌や慰安の会を催していたという。

↓左から桜の間、萩の間、紅葉の間。
  

千波湖が目の前に丸見え→
確かブラタモリだったと思うけど、偕楽園の中に大名庭園に付き物の「池」を作らなかったのは、大きなアレがあるからなんだとか。納得。

 
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166日目 秋のぐるっと常磐岩代巡り~石岡

2017-03-08 23:49:45 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


予定では中国行きだったのですが、それを9月に繰り上げたので、ぽっかり空いてしまった「秋の乗り放題パス(¥7,710)」発売シーズン。

どこへ行こうか思案した結果(出掛けないという選択肢は毛頭ない)、おおまかに「常磐線→いわき→郡山→東北線→千葉」、こんな感じで廻ることにしました。
被災地もご無沙汰だったというのもありましたし。

稲毛駅4時35分発の総武緩行線初電で出発→

↓西船橋→武蔵野線→新松戸→常磐緩行線で我孫子へ行き、5時42分発の勝田行きに乗り換え。

常磐緩行線に乗っていると、ドア上の画面に「石岡-高浜間で電車とタヌキが衝突して、上り電車が遅延」と表示されている。
シカやイノシシならたまに見るけど、こういう事もあるんだねー。
でも可哀そうに・・・。

6時28分に茨城県石岡市の石岡駅に到着→
これまで天候は曇りだったのですが、着いたとたんに降り始める。
ここでも雨呼び寄せパワーはいかんなく発揮されました。

↓石岡市の「茨城県フラワーパーク」では「秋バラまつり・ダリアまつり」絶賛開催中ですが・・・。

すみません、雨男がやってきたせいで、せっかくの書き入れ時が・・・。

もっと、迷惑かけた(であろう)は、右に立っている二人のおっちゃん。
同じく石岡市の「サミットゴルフクラブ」というゴルフ場ではこの日、「日本プロゴルフシニア選手権大会」の決勝が行われ、その最終日なのですが、おっちゃんはそれの案内人のよう。
雨のせいでギャラリーは減るかも知れないし、そうなるとおっちゃんは暇になる可能性も。
ゴルファー達にしても、絶好のコンディションでやりたかったでしょう、重ね重ね申し訳ないのお。

忠犬がいたのは渋谷駅だけではなかった!→

犬好きな私にとっては、ここに書かれている文章を見ただけで涙の出る思いなのですが、肝心の、何故飼い主と離れ離れになってしまったのかが書かれていません。
でもネットで検索すれば詳しい事は分かりますし、『あした会えるさ―忠犬タローものがたり』という本が出版されているようなので、興味のある方は手に取ってみるのもよし(私は読んでいないけど)。
因みに名前は「タロー」となっていますが、元の飼い主は「コロ」と名付けていたようです。

↓石岡の町が熱気に包まれるのは、これらが町を練り歩く「石岡のおまつり」の時。
 
左・山車、右・幌獅子。
正式には「常陸國總社宮大祭」といい、毎年40万人もの人が訪れるお祭りで、関東三大祭の1つ。
昨年(平成28年)は9月17~19日に催されました。

駅前がゴチャゴチャした感の石岡駅→

↓お祭りの最大の山場は、山車12台・幌獅子30台が大行列をなす、駅前のこの「御幸(みゆき)通り」。

この通りを歩き始めると、誰だかジ~ッと動かずに突っ立っている人がいるゾ・・・(写真左)。
気味悪と思って見たら、なんじゃこりゃ?

いやらしい腰つきのメスのタヌキ→
おまけに抱えているウナギも意味わからんし。

御幸通りを真っすぐ進むと、丁字路になります。
丁の字の-部分に当たる道路は国道355号線で、「中町通り」と呼ばれる商店街。

↓この通りを中心にして、昭和レトロな建物が多く残っております。
 

 
黒壁に瓦屋根の商家、土蔵造りの壁が通常の土壁漆喰塗りではなくコンクリートでできている商家、洋風デザイン装飾を施した看板建築などなど。

そんな中、江戸末期に建てられた染物屋が異彩を放つ→
昭和4(1929)年に石岡は大火に見舞われたのですが、奇跡的に焼け残ったそれ以前の建物。

↓個人的には、「府中誉」という酒蔵のこの汚れた土蔵が気に入りました。

かつて石岡に常陸国の国府があったので、どうやらそれが酒蔵名の由来のよう。

国道6号線の、常磐線を跨ぐ橋より→
バスが走っている道は、ちょうど10年前に廃止された鹿島鉄道が走っていた所で、今ではバス専用道。

(622)茨城県石岡市役所
庁舎は仮のもので、その奥に古い庁舎があったようです。
1か月前に庁舎建設工事の入札があって、落札者も決まってようやく新庁舎を建設の運びとなりました。

気象庁の地磁気観測所が置かれており、スカイスポーツが盛んで地域でもあります。
そして日本一のダチョウ飼育数を誇る「ダチョウ王国」があり、だからか、ダチョウの肉が隠れた?石岡名物らしいです。
一体どんなお味なんでしょうね?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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165日目 ベタな呉を見て力尽きる

2017-03-04 22:34:25 | 山陽
平成28(2016)年9月18日(日)


全くお呼びでないのですが、生きていれば(恐らく生きていると思うけど)もう少しで勝手に1つの年齢がやってきます(法律的には誕生日前日の今日1歳加齢されます。ただし、24時00分になった時点でですが・・・)。
毎年の恒例行事ではあるんですけど、全然嬉しくないのもいつもどおり。
それに明日は日曜だから、誰かがお祝いと言ってどこかへ誘ってくれそうな気もしないし。
仕方ないから、一日愛犬と遊んでいようかな・・・。
と、ボヤいてみる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

呉中通商店街で雨露をしのぎます→
ここは36万個のレンガを敷き詰めているので、「れんがどおり」と呼ばれています。
雨が原因なのか、魅力的なお店がないのか、休日にもかかわらず人はまばら。
ただ、この通りの周りには飲食店が多いので、夜になればまた違った姿を見せるのでしょうけど。

↓上蓋が取れると、さらに輪をかけてうら寂しい場末のような雰囲気になります。


堺川沿いを出て、海の方へと歩きます→

↓呉線の踏切を渡って、さらに進んだその先には造船所を始めとする工場群。


↓そんでそこは、かの戦艦「大和」が産声を上げた場所でもあります。

そのドッグは今でも残っているのですが、どれじゃ?

↓というワケで、大和ミュージアム(常設展示の見学だけなら¥480)に入ります。

せっかく呉に来てここに行かないと、「何で入らなかったの?」といわれなき非難を浴びるのも不本意だし。

やっぱりこれでしょう!→

↓雨降りにもかかわらず、寧ろ雨で他に行くところがないからなのか、かなりの入り。
 



ところで、「大和」と「武蔵」の超ド級戦艦コンビは有名ですが、実はこれらは3姉妹になる予定だったのをご存知でしょうか?
もう一人の姉妹とは「信濃」。
戦艦として建造され始めるも空母に変更され、横須賀から呉への回航中に潮岬沖で沈められてしまう。
しかも、一度の実戦に出ることなく・・・。
ある意味「大和」「武蔵」よりも可哀そうで惨めな運命の軍艦でした。

↓ついでに「大和ミュージアム」の目と鼻の先にある「海上自衛隊呉史料館」へも。
 
愛称は「てつのくじら館」で、入場は無料。
「くじら」を名乗るだけあって、確かにまあ、この潜水艦のデカさには圧倒されますね。

↓ここもなかなかどうして、かなり人気があります。
 

これらを見終えて、最早疲労困憊目一杯、ただただ早く帰りたくなりました。
↓重い足取りでペデストリアンデッキを通って呉駅へと向かい、14時4分発の電車に乗ります。


市街地だけでも他にも、旧呉鎮守府庁舎やアレイからすこじま、大和神社、歴史の見える丘、「千福一杯いかがです♪」のCMで有名な醸造元・三宅本店に行かずに去るのは後ろ髪を引かれる思い。
でもそれ以上に、両城という場所にある超急斜面に張り付いた住宅地とそこにある200階段にはどうしても行きたかったので、これは断腸の思い。
でもでも、それ以上にそれ以上に疲れ果てました・・・。
もっと言うなら、安浦漁港の護岸として使われてるコンクリート船、音戸の瀬戸、大崎下島の御手洗集落へも行ってみたいしで、悩ましすぎるゾ、呉。

広(ひろ)駅で三原行きに乗り換え→
坂・呉・広、なにかと呉線には漢字一文字の駅が多く、おまけに仮名2文字駅はこれらに加え「やの」「あと」があったりする。

↓瀬戸内海を眺めながら東に移動。
 

↓重要伝統的建造物群保存地区に選定されたここの街並みは是非見たいし、


↓相撲取りのような地名のここから出ている船に乗って、うさぎと毒ガスで有名なあの島へも行きたい。

こんなに欲張って果たして両城に辿り着けるんかいな?

↓福山で酒つまみを買い漁って、17時59分発「のぞみ50号」に乗って長旅にやっと終止符を打ちます。
 

 
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165日目 ゲリラ豪雨でダイヤが麻痺した呉線

2017-03-02 23:54:30 | 山陽
平成28(2016)年9月18日(日)


まずはローカルネタから。
「さくら野百貨店仙台店」が破産したというニュースを耳にしました。
私が仙台に住んでいた頃は「丸光」と呼ばれ、一番よく利用したデパートでした。
仙台から千葉に引っ越して後に仙台に行ったときに、「ビブレ」やら今の名前に変わっていてビックリしたけど、今回の衝撃度はそれ以上。昨年、せっかく70周年を迎えたばかりだったのに・・・。
「丸光」同様よく入った「藤崎」はこれからもずっと頑張ってくれるよね?
知っているものがなくなるというのはとても寂しい事なので。

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夜行バス泊も入れての4泊5日中国旅もようやく最終日を迎えました。しかも雨で・・・。

これまでは珍しくコウモリの出番はなかったのですが、さぞ羽を伸ばしたくて荷物の中でウズウズしていた事でありましょう、コヤツの祈りはめでたく?通じてしまいました・・・。

さて、雨と言えば、前の晩の猛烈なゲリラ豪雨ですが、かなり凄まじかったようです。
このたっぷりと湛えた泥水でそれは推し量れます→
が、話しはそれに留まりません。
3時間に降った雨量は77.0mmで、それはナント、広島市での9月の観測史上最大を記録したというおまけつき。

さて、予定では8時7分広島発の電車に乗るつもりも、これまでの疲れからか、朝支度がやや緩慢になってチェックアウトが遅れしまい、駅に着いたのは8時45分頃。

手許にある切符の経由地は「広島・新幹線・東京」と表示されていますが、元々新幹線でも在来線の山陽線でもどちらでも乗っていい上に、山陽線と呉線のどちらも可というのは、鉄オタの常識としてはイロハのイのレベル。
そこで、今まで乗ったことのない呉線を経由して東京に帰ります。

さてさて、肝心のダイヤと言いますと・・・。
駅に来て30分後→
ずっと待ちぼうけ、呉へは通せんぼとなっております。
その間、山口県・徳山駅からやって来る8時40分発の普通電車は20分遅れの案内放送があったのですが、結局広島に辿り着いた気配は全くなし。

ようやく呉への表示が灯りました→
8時40分発の事などいつの間にやら忘れ去られ、9時10分発の普通電車が回送されてきましたが突如運休のアナウンス、いきなり9時28分発の快速電車に変身するゴタゴタぶり。
停車する駅に行く人はいいけど、通過する駅が行き先の人はさぞ怒り心頭だよな。

そんなワケで10時少し前に着いた坂駅→

↓坂駅とその周辺。
 
駅から繋がっている歩道橋は「あさがおロード」と呼ばれているのですが、実際は「あさがお」のカケラを微塵も感じさせない橋。

駅周辺は「平成ヶ浜」と呼ばれる地区。
まだそれほど全国的にあまり使われている感じのしない「平成」を使った地名。
そのものズバリは熊本にあって駅もあるけど、近く「平成の世」も終わりそうだし、そうなったら「懐かしき平成」を忘れまじと大いに用いられるのかも知れません。

(620)広島県安芸郡坂町(さかちょう)役場
広島や呉へ近くて利便性は高いけれども、意外に人口は少なく約13,000人。
山が海にせまっているので平地は少ないようで、それが故に「坂」なる地名になったのかな?

町にはいくつかのウォーキングルートが整備されています。
ここは駅南口近くの「頭部(ずぶう)ルート」入口→
コース途中の「みはらし公園」では、その名のとおり広島湾の美しい眺めが一望できるらしのですが、この天気ではね・・・。

この見晴らしで我慢して下さい・・・→

街中をもう少し歩いてはみたかったのですが、ウロウロしていて次のを逃すと呉散策に大打撃となりそうなので、駅でずっと待機して11時ちょっと前に来た電車(元々は10時14分発)に乗ります。

せっかくの瀬戸内海も、つまらん眺めに→

そんなこんなでやっとこさ着いた呉駅→
10時頃の予定が、大幅に遅れた11時20分頃になってしまいました。これは痛い。

ここでもコインロッカーを探すも、広島駅同様少なく、どれもこれもいっぱい。
でもしぶとい執念で、クレストという駅ビルの食料品売り場で空きを探し当てる。
案外食料品売り場の階のロッカーは盲点なのかも知れない。

呉駅舎→

駅前通り→

↓オマエさんの戦闘力でこの雨雲をどかして欲しいものだけど・・・。


(621)広島県呉市役所
明治23(1890)年に海軍鎮守府が置かれてからは、それまでのわびしい漁村が急速に姿を変え、海軍・軍需工業で発展する。
なので、戦前戦中は列車が呉に近づくと軍艦が見えないようにする為、海側の窓の鎧戸を下ろすよう命じられていたのはよく知られたお話し。
現在は23万人ほどが住んでいますが、大東亜戦争中は倍近い40万人もいて、当時としては全国十指に入る都市だったのだという。
戦後は重工業都市として変換する。

昨年4月、日本遺産の認定を受けました→
そもそも「日本遺産」とは何ぞや?、ですが、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するもの(文化庁HPより)。
そして呉がどう日本遺産に関わっているかといいますと、他の有名な軍港とタッグを組んでの「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」。

「日本遺産」一覧を見ると、結構たくさんあって、これらだけを巡る旅をしたとしてもかなりのボリュームとなります。
誰かこれに特化したブログを始めてくれないかな?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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164日目 原爆資料館を見て、川のほとりを歩いて

2017-02-26 14:07:43 | 山陽
平成28(2016)年9月17日(土)


原爆ドームとは川を挟んでの平和記念公園へ。

原爆の子の像→
石碑の上に立つは佐々木禎子さんの像。
手を合わせる人で絶えません。
折り鶴の話しは道徳だったか何だったか忘れたけど、小学生の時に授業で初めて知ったのですが、禎子さんの亡くなった年齢に近かったのもあり非常に衝撃を受けたのを覚えております。
それはそうと、以前は石碑の下に折り鶴が置かれていたような気がするんですが、私の記憶違いかな?

↓慰霊碑
 
こんな斜めった構図となっているのは・・・。

↓ここもお祈りする人が多くて、正面に這い入る余地がありませぬ。

奥にあるは原爆資料館(正式には広島平和記念資料館)で、これより入ります。
今回で3回目ですが、増築されてからは初めて。
入場料は200円。これでも充分安いのだけど、昨年(平成28年)4月にそれまでの50円から大幅値上げ。
凄まじいインフレ率ですが、元々赤字運営だったらしいし、赤字の削減分は原爆ドームの保存のために積み立てられるようなので、値上げしても全く問題なし。というかもっと取ってもいいような気がする。

これまでも何回かお話しした博物館実習、ここも見学コースに含まれていたのですが、展示品を見終えてボーッとしていていたせいか、気が付いたら周りに知った人は誰一人としておらず、慌てて探すもなかなか見つけられずに大学生にして迷子になったという恥ずかしい経験を持つ。
皆はとっくにバスの中で待機していて、乗り込んだ時の彼らの眼差しが実に痛かったな・・・。

↓ところで長崎の資料館も2度見学した事があり、そこは入るやズーンとした重い雰囲気になるのですが、ここはそれに比べるとそれほどではありません。

ですが、展示品というと・・・。
重い空気が体にのしかかったようになり、じゃんじゃん撮りまくるのが憚れてきます。
観覧者がいっぱいで、見るのもやっとだったというのもありますけど。
やっぱりこれは写真なんかより、実際に現地に行かれて自分の目で見るべきですね。

結局、館内で撮った写真は上とこれの2枚だけ→

外国、特に欧米の人がとても多く、とても熱心に見学していたのが印象的。
彼らに人気のある日本の観光地でもここは常に上位らしいです。

さて、そろそろ日没が近づいておりますので、残りは恒例行事をすることにします。
↓(619)広島県広島市役所・〔48〕広島県広島市中区役所

手前が市役所で、奥が区役所。
中国の政治・経済・文化の中心地。「札仙広福」に名を連ねるとおり、人口約120万人の支店経済都市。
明治維新までは浅野家42万石の城下町として発展し、今でこそ世界平和の象徴都市ですが、戦前は日清戦争時に大本営が置かれるなど軍事都市。
昭和55(1980)年に国内で10番目に政令指定都市となる。

↓国道2号線を東に向けて歩いていると、鮮やかな廃墟らしき建物が目に入る。

東千田公園にあるこれ、大学っぽい。

スマホを持っていないので後で調べてみたら、やはり「広島大学旧理学部1号館」であると。
昭和6(1931)年に竣工され、被爆したのですが倒壊は免れた模様。
何と素晴らしき廃墟ではないか!ぜひ入って中を見てみたいのですが生憎立ち入り禁止。
是非、管理者の広島市にはこれの有効活用を期待したい。

京橋川・平野橋下流方向→

〔49〕広島県広島市南区役所

↓昭和14(1939)年竣工の京橋川に架かる被爆橋梁・比治山橋。


橋のたもとにある道路票→

橋の東側は比治山→

よく目立っている多聞院という真言宗のお寺さん→
原爆投下の際、ここは臨時県庁的な役割を果たしたり、臨時救護所が置かれたりしたという。
知らなかったけど、倒壊を免れたここの鐘楼は、爆心地に最も近い被爆木造建造物なのだと。

再び広島駅へ行き、実家や知人への土産物を物色しているうちに真っ暗。
水面に照らされる光が美しい→

21時半あたりから突如として超ゲリラ豪雨に襲われる広島→
4回も避難勧告メールが届く。あの土砂崩れ災害があったが故、広島は特に大雨には神経質になっているのだろう。
ところで、この雨が翌日の行動に支障をきたすとは・・・。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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