ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

175日目 伊豆大島・波浮と元町散策

2017-06-24 23:53:15 | 南関東
平成29(2017)年3月10日(金)


↓何はともあれ波浮(はぶ)港を見渡そうと「みはらし休憩所」へ。

波浮港はかつては火口湖で「波浮の池」と呼ばれていたそうですが、元禄16(1703)年の大津波によって海と繋がってしまったという。
そして寛政12(1800)年に港が完成して以来、遠洋漁業・沿岸漁業の拠点や避難港としての役割を果たすようになる。

このまま高台をぐるっと廻り、向こう岸の集落に向かいます。
正面に見えるは利島(としま)→
いずれはそこへも行く(つもり)。

↓旧甚の丸邸
 
明治に建てられたなまこ壁のお屋敷で、かつてはなまこ壁の続く美しい街並みだったそうな。
そして多くの網元があり、その屋号には「~丸」と付けられていたそうです。

高台を下ります→

↓すると、その途中に立派な建物がデンと構えています。

「旧港屋旅館」で、今は「踊り子の里資料館」。

ガラス越しに覗いてみる→
げっ、人がいるじゃん!
と一瞬焦るも、実は人形であります。
波浮港は川端康成の小説「伊豆の踊り子」の舞台となった場所で、建物の中にはそのモデルとなった旅芸人一座の人形が展示されているようです。

↓昔は大賑わいだったようで、特に時化の際の退屈しのぎの為の?遊郭があったというこの通りは、今も情緒溢れた街並み。


ウラ通りもまたよし→
特に生活感溢れた様が。

大島の中心である元町にやってきました→
左側のシートに覆われている建物は「東海汽船船客待合所」。

↓その日の波によって船の発着する港がここか岡田港に変わるのですが、この日の出入港は夜行船で到着したが如く岡田港。

なので中はひっそり。

これじゃあな、着岸はしんどいな→
風がムチャクチャ強く、かなり離れているのに飛沫が顔に当たるし・・・。

ちょっと離れた場所から→
体が飛ばされそうです。

(643)東京都大島町(まち)役場
伊豆諸島最大の島・大島全域を占める大島町には約8,000人が暮らしています。
が、「過疎地域」に指定されていて、目下人口が激減中。

観光・農業・漁業・畜産が主産業。標高758mの三原山は有名だし、特産品の大島椿も知られています。
でも、それだけじゃ若者を島に留まらせるようにはならんようで・・・。

因みに伊豆諸島の町や村には「○○郡」というのはありません。
それに「伊豆」諸島とあるくらいだから、本来は伊豆国の一部、つまり静岡県に属すべきかもしれませんが東京都です。

実は明治維新後幾つかの変遷を経て、明治9(1876)年に静岡県になるも、古くから伊豆諸島は江戸との結びつきが強く、それは明治になっても変わらなかったため、島民は東京府への編入を望んだという。
それが僅か2年後に叶い、島民は大喜びしたといいます。

為朝館跡→
為朝とは源為朝で源頼朝の叔父。
保元元(1156)年の保元の乱に敗れ、大島に流されて居を構えた場所。
為朝の為に許されたという朱塗りの門から「赤門」と呼ばれているそうです。

警察署にて。ナゼ半旗?→
東日本大震災の弔意なら翌日ですし・・・。
あーそうか、この日は東京大空襲のあった日なのだな。
合掌。

長根浜公園にあるゴジラの像→
ゴジラにしては、ちっぽけすぎ。「ミニラの像」の間違いじゃないのか?
この公園内には、昭和61(1986)年の三原山噴火によって湧き出た温泉「元町浜の湯」があります。

それよりも大島とゴジラとの関係は?
私はゴジラ映画を見た事はないのですが、何でも昭和59(1984)年の映画では、最後にゴジラが三原山の火口に落っこちてしまうみたいです。
でも、たったそれだけで大島では三原山は「ゴジラの聖地」になってしまっているようです。
だから町は昨年大ヒットした「シン・ゴジラ」に便乗すべく、ドでかい像を造って島に観光客を呼ぼうとしたのですが、島民の猛反対を食らい、残念ながら幻となってしまったとか。

さて、これよりその大島観光の大看板である三原山へ行きます。
実は波浮からのバスを降りて、すぐに三原山へ行くべく、「東海汽船船客待合所」前の三原山頂口行きと表示されているバス停で待っていると、たまたまいた他のバスの運転手さんに声を掛けられる。
「どこへ行くんだ?」「山」「この時間にはないぞ」
この日の三原山行きのバスは朝一番を除いて全て岡田港からなのでした。
確かに時刻表にははっきりと「発地」が「入港地」とあり、つまりこの日のバスは岡田港が始発で、その場合には元町には寄らないのですが、私は勝手に寄ってくれるものと思い込んでいたのでした。
はい、アホでしたね~。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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174・175日目 初めて行く伊豆諸島・大島

2017-06-19 23:49:52 | 南関東
平成29(2017)年3月9日(木)・10日(金)


あ~、アレはまだやっていたのかあー。
そう思わずつぶやいたのは、一度も足を踏み入れた事のない伊豆諸島にそろそろ行ってみたいなと、東海汽船のサイトを覗いていた今年2月中頃。
眺めているうち、行った事がないのもあるけど、アレを逃すのは勿体ないんでないかい?という貧乏性が頭をもたげ、終いには今のうちに行っちゃお!と俄かにその気になってしまいました。
ところで、そのアレとは?

平成25年10月16日、台風26号によって伊豆大島では大規模な土石流が発生し大きな被害を受けたのを受け、観光振興と経済復興を目的とした東京都による伊豆大島観光復興支援事業。
そのお蔭で、船や高速船、宿が通常価格より安く利用できていたのですが、今年の3月末で終了してしまいました(大島への船は3月26日まで)。

その気になってからというもの来る日来る日も天気予報とのにらみ合い。
何故なら、東京湾を出て外洋は波が荒れている事が多いので、比較的穏やかな日を窺っていたのです(仕事を持っている身なので行けそうな人の兼ね合いもある)。
でも季節柄ほぼ毎日のように波浪注意報警報やらが出ている有り様。

そんな悠長にしていたら大盤振る舞いが終わってしまうよ!
↓意を決して22時発の夜行船に乗るべく、ビルの間から覗く東京タワーが美しい浜松町駅から歩いて、マストがシンボルの竹芝客船ターミナルへ。


 

早速切符を購入→
どうせ一人身だし、ケチ臭く最底辺の2等船室で充分。
それより、通常であれば4,270円であるのところ1,500円もの値引き。
これで結構満足していたのですが、ところがどっこいさらに10%も安くなる技があったのだ

それを知ったのは帰りの時。
後でそれはお話ししますが、ま、以後東海汽船には幾度かお世話になるだろうから、永遠に知らないよりかはマシだろうと、自らを慰める(窓口で注意を払っていればよかっただけの話しなんだけど)。

因みにこの日(3月9日)も強風波浪注意報が出ており波の高さ2.5mの予想でしたので、窓口の人に「大島、波どうですか?」と聞くと「大島は大丈夫」と返ってきたので一安心。
こんなにも波に対して神経質なのは、ひとえに長崎でのトラウマなのです。

さて今後ですが、翌日島を観光してその日のうちに帰宅する予定。
ですので、船中泊するとは言え、実質日帰りです。

出航時刻20分前から入船→

定刻、船らしくドラが鳴っての出帆→

初めて見る船からの夜の東京港→
光り輝く摩天楼にレインボーブリッジ、うっとりするな。

右手にはオレンジ色の工業地帯→
工場萌え~、な光景です。

レストランで晩酌をしてから寝る体勢に入るも、最悪な事に大騒音を発する人がすぐ横。
おまけに大音量のテレビは誰かがつけっぱなしで、消そうにも船内は消灯していてリモコンがどこだか分からん。
そんなこんなで神経質な私はなかなか寝付けず、比較的静かな場所を探しあて何とか寝付く。
恐れていた波ですが、どうだったかな、覚えていません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

起きたのは5時過ぎ。
↓うすら明るい5時50分、穏やかな岡田港に到着→

 

↓バスが船待ちをしていたので、すぐに乗って車内でコスパよろしき「大島バス1日乗車券(¥2,000)」を購入。


バスの中から見ただけですが地層大切断面→
昭和28(1953)年に道路建設工事中に偶然発見された、別名バウムクーヘン。
長さ600m、高さ30mあり、過去2万年に及ぶ噴火での火山灰などが100層ほど積み重なった美しい地層。

6時半過ぎに波浮(はぶ)港へ→
これよりしばらく波浮の町を散策します。

 
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173日目 浜名湖東の旧東海道を満喫して締めくくる

2017-06-13 23:57:53 | 東海
平成29(2017)年1月1日(日祝)


いよいよ年末年始旅もフィナーレ。
その掉尾を飾るに相応しい場所が(というか、結果的にそうなってしまっただけなんですが)、以前から歩いてみたかった旧東海道・浜名湖のほとり。

外がよう見えん・・・→
砂塵を身にまとった電車が相当の確率で走っているような気がするJR東海。
この時期です、東海道新幹線のお掃除が先決のようで。

降りたのはムダに広いホームの弁天島駅→
横では新幹線がビュンビュン飛ばしていて見てて楽しい。
だけど、全部同じ車両というのは面白くない。

駅からを東に歩くと浜名湖の弁天橋。
橋の北側、弁天大橋と東海道線と新幹線→
水面に映える赤い色がとてもいい。

↓弁天橋南側
 
鳥居のある弁天島と舞阪漁港
水が鮮やかでとても眩しく、寄ってみてよかったなと思える風景が広がってます。

元々淡水湖であった浜名湖は、明応7(1498)年の大地震による津波によって湖と海を隔てていた地面の部分が決壊してしまって以降、約4kmを「今切の渡し」という渡し船で行き来するようになる。
wikipediaより拝借→
奥に架かる浜名大橋下がキレキレになってしまった所。

その渡し船が出ていたのが、東海道30番目の宿場町であった舞阪。
今でこそ舞と表記されていますが、以前は舞
変わった理由は大阪と同じ。

↓舞坂宿には3ヶ所の渡船場があり、そのうち主に大名や幕府公用役人が利用のがこの北雁木
 
雁木とは階段状になっている船着場のこと。
一般的には「がんぎ」と読むも舞坂では「がんげ」と呼ばれています。
石垣が白いのと汚いのとでクッキリ分かれていますが、白い方は昭和28(1953)年の台風によって崩れたのを積み直した部分。

北雁木の南にある本雁木→
最も多く利用された雁木で、お武家さん用。
一番南側には荷役・庶民向けの渡荷場跡(とうかば)があります。
奥に続くは旧東海道。これをさらに東に向けて歩きましょう。

脇本陣→

見附石垣→
舞坂宿の東はずれにある見張所。

松並木→
慶長9(1604)年、徳川家康の命により街道を整備し黒松を植えたのに始まり、正徳2(1712)年には見付石垣から馬郡までの道の両側にあった堤約920mに1,420本の立木があったという。
堤を崩して現在のような両側に歩道が付けられたのは昭和13(1938)年。

馬郡の交差点で東海道から外れて北に向かい、線路の北側に出ます。
スッポンの養殖池らしきの多いこと多いこと→

↓よし!初夢では見てはいないけど、実物を見たぞ。こりゃ縁起がいいハズ・・・?。


宇佐見橋の東側から見る湖→
橋を渡ると、以前は雄踏町(ゆうとうちょう)と呼ばれた地区に入ります。

中村家住宅→
貞享5(1688)年頃築とされる建物。
もちろんお休みで入れませんので、塀の上から盗み撮り。

〔54〕静岡県浜松市西区役所
10年以上も前から、浜名湖畔にある舘山寺(かんざんじ)温泉で白焼きうなぎを満喫したいという願望があるのですが、いつになったら叶うのやら。

西区役所の前には「とびっこ公園」→
元気があっていいのお、子供たちは。
それにしても、自分が小さい頃には必ず上がっていた凧が全く見えないのは残念な事です。

弁天島駅からずっと歩き詰めでとてもくたびれました。
↓でも幸い?近くにイオンモール浜松志都呂があり、そこからバスで舞阪駅へ。
 
そしてひたすら東へ東へ・・・。

本当はですね、磐田市への訪問も予定にあったのを白状しておきます。
初動がユルユルだったのに加え、舞阪でのんびりしすぎてしまった私の大ちょんぼでございます。
しかも2日続けての連ちゃんで・・・。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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173日目 チャリで巡る元日の安城市 

2017-06-09 23:36:50 | 東海
平成29(2017)年1月1日(日祝)


お正月を迎えました。
元旦くらいは少しのんびりしようよ、との油断があったかどうか分からなけど、寝坊してしまい起きたのがいつもよりもかなり遅い7時半頃。
しかも出立支度も相当にユルフンだったので、活動開始時間が私にしては異例の10時になってしまう。
いくら何でも遅すぎです(反省)。

宿泊地が安城市でしたので、平成29年の口開けもそのままの流れを引き継いで安城巡りに。
↓JR安城駅と駅前通り。
 
普段なら人通りは多いと思いますが、さすがにこの時ですらまだ街は眠りに落ちたまま。

ですが、駅の駐輪場はお正月もクソもないようで・・・→
そのお蔭で中にある貸しチャリ屋もやっているので、誰も使わないだろうから是非使わせて貰います。
おまけに無料だし。

でもこれら全部は行けないけどね→

(642)愛知県安城市役所
明治14(1881)年に明治用水を引かれて以降、果樹・野菜・養豚・養鶏などの多角的農業を行った事により、昭和初期まで「日本デンマーク」と称される程の農業地域となたものの、戦時中に強制的にイモとかに替えられてしまったおかげで、すっかり農業が衰退してしまったようです。
戦後は自動車関連・機械工業が進出し、人口も急増し現在では約187,000人。

さて、安城と言えば・・・。
↓まずは市民が「日本三大七夕」の一つであると、死んでも譲らないらしい昭和29(1954)年に始まった「安城七夕まつり」があります。

今年(平成29年)は8月4~6日開催。
さて、石碑の前に「ぬーぼー」と突っ立っているゆるキャラは、平成21年に登場した安城七夕公式キャラクターである願いごとの精「きーぼー」。
七夕と言えば願い事。願い事とはつまりは希望だからだそうな。

↓駅周辺には「南吉ウォールペイント」という壁画があちこちにあります。
 
安城高等女学校の教師で、童話作家でもあった新美南吉(にいみなんきち)という人の売り込みを積極果敢に図っています。

オブジェ「南吉語らいの椅子」→

モニュメント「南吉回想の窓」→
みんなの知っている有名な作品としては「ごんぎつね」があります。

安城市には他に、バーベキューや地ビールなんかが楽しめるという「日本デンマーク」をもじったと思われる「デンパーク」が気になりますが、お正月はやっておりません。

市役所横の安城神社→
初詣客は今一つ。
なのでさっさと去ってしまったのですが、本殿右には全国でも七夕神社を名乗るのはここだけという「安城七夕神社」があるのを後で知りました。

↓南明治八幡社
 
こちらはどうだ、安城神社のすぐ東にあるこちらの神様には大勢の人、人、そして車。
安城神社との差は一体・・・。全く分かりません。

↓「なんでワシがこんな事せにゃいかんのじゃ・・・」とボヤきまくりだったおっちゃん。

自ら交通整理を買って出ていましたが、案外楽しそうだったので、実はこういうの好きなのだろう。
かなり手慣れた感じだったので、昔工事現場で旗でも振っていたかな?

せっかく無料チャリを借りたので、せめて一か所遠い所の名所へ行ってみましょう。
名鉄西尾線・南安城駅の高架を潜る→

↓安祥城址公園と大乗寺。
 
安城は昔は安祥、安静、安詳などと表記されていたようです。
永享12(1440)年に築城された天守を持たない平山城で、大乗寺に本丸があったという。
ま、何てことなかったな。というワケですぐ駅に戻ります。
おっと、鈴木さんの秘密基地を発見!→
なワケないし。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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172日目 京都府南部の長閑な2町村

2017-05-31 23:16:49 | 近畿(滋賀・京都)
平成28(2016)年12月31日(土)


関西線をさらに東へ東へ→
奈良駅から3つ目の加茂駅で気動車に乗り換えて、木津川の渓谷美を堪能し始めるや否や早速一つ目の笠置(かさぎ)駅で降りねばなりません。

この加茂駅から東、三重県の亀山駅までは田舎な区間でありながら概ね1時間に1本の運転があるので、この沿線にある2自治体はそれぞれ1時間滞在することにします。
本音を言えば、訪ねた所は出来れば1時間半程度はいたいのですが仕方ありません。

笠置駅→
桜と渓谷美で知られる駅みたいです。

↓駅前には、後醍醐天皇の倒幕を目的とした鎌倉時代末期の戦い・元弘の変(元寇にあらず)の笠置合戦を再現したものがあります。

笠置山に籠った後醍醐天皇側は僅か3,000余人、そこを取り囲む幕府軍は完璧にイジメであろう25倍、75,000人で包囲する。
これではいくら何でも天皇側は歯が立たないだろうと思いきや、山は巨石・怪石で覆われた「天然の要害」、再現にあるとおり弓で狙い撃ちするわ巨岩を投げつけるわで幕府軍は相当難儀したという。
最終的には天皇は捕えられ隠岐へ流されてしまったのですが。

↓駅から木津川までは、中々味わいのある街並み。
 

笠置大橋を渡って木津川の右岸側へ。
橋から見る川→
川辺にはこのクソ寒い時期でもかなり人が寄ってきているキャンプ場。
近くには「天然わかさぎ温泉笠置いこいの館」という天然温泉施設もあるので、冷え冷えになったら一時しのげるし。
尤も温泉は大晦日・元日は休みみたいですが。

(640)京都府相楽(そうらく)郡笠置町(ちょう)役場
日本で2番目に人口の少ない町だそうで、その数僅か1,400人程。
1位は以前登場した山梨県早川町
町HP内には町長さんのあいさつとして「3年前は出生児ゼロ、最近の国勢調査では府下最高の人口減少(中略)ワースト面がマスコミに取り上げられ(中略)駅前商店街もあと5、6年すればシャッター通りになってしまう(中略)2040年には人口は693人になると予想(後略)」と、涙目に(?)語っています。

この町は川遊びには良さげだし温泉もあるし、特産品はキジ肉・しいたけ・鴨肉・鮎などで、郷土料理はぼたん鍋・きじ鍋くらいしかなさそうなのが少々弱いけど、要は自然豊かな町。
ほんの休暇には持って来いなんでしょうけどね、現実的には長い事はいられないよね・・・。

町西部に隣接する木津川市に笠置町の飛び地があるのですが、気持ち悪い程グチャグチャした形をしています(地図を見てもらえれば分かります)。

役場背後の高台から→

ところで、笠置町にはその手のマニアには超有名な建物があるそうです。
↓てっきり川の左岸側にあるこの旅館がそれかな?と思ったのですが・・・。


↓実際、一見仕舞屋っぽいんだけど、一部明かりが灯っていたりと、よう分からん旅館。


浴室が開けっぴろげになっていたので、ちょっと侵入させてもらいました→
やっぱり仕舞屋だよな~。

それはそれで、実際には有名物件はこれではありませんでした。
↓駅を出てすぐ左手の山腹にある、ポツンとドでかいホテル跡。

昔の「笠置観光ホテル」で、特に夜なんかはかなりヤバイ場所だとか。
なお、笠置山もそれで有名なスポットみたいです。
怖いもの知らずとか命知らずの人向けでもある笠置町。

次、またまたお隣の大河原駅→
宮城県にも大河原駅がありますが、あちらは「おおわら」。
こちらは「おおわら」。

関西線と木津川に挟まれた国道163号線→
車が全く走っていません。
これまでどんなに人がいない市町村でも車だけは元気に動いていたものですが・・・(離島や山奥なんかは除く)。
そんなに落ちぶれた所なのかと思いつつ、駅から東に向けて歩きます。

(641)京都府相楽郡南山城村(むら)役場
一応「村」ではありますが、笠置「町」よりも多い人口の2,800人余り。
ま、数は村に相応しいけど。
特産は建物にあるとおり日本三大銘茶の一つである宇治茶。

車がないのはこういう理由からでした→

↓失礼ながら、ここを買いたいという業者は、どんな目算があるんだろう?


役場からそう遠くない所に、日本建築学会による「全国の建物2000棟」にも選ばれ、土木学会推奨の土木遺産に認定されている大河原発電所という大正8(1919)年に運転開始の水力発電所があるのですが、それを知ったのは帰った後の事です。しまった・・・。

駅の西側にも行ってみましょう→

恋路橋は沈下橋→
橋の向こう岸の小字は「北海道」。
だからと言って北の大地とは何の関係もなさそう。

向こう岸には「恋志谷(こいしだに)神社」という縁結びの神様があります。
名前が「恋を志す」とあるくらいですからねえ、名前はかなりいい。
実際、後醍醐天皇に纏わるお話しがあるそうです。
ところがこの神様のお守りは、春と秋の大祭(4月2日と9月2日)じゃないと買えないのだという。
なので、このレアお守りを手に入れられればめでたく恋愛成就するかも
人はいないけど、見る所は結構あるやん、南山城村!

↓14時頃発の気動車に乗り、亀山で乗り換えて一気に名古屋へ行く予定。

三重県に入って大勢が下車する伊賀上野駅でハッとする。
伊賀上野駅は伊賀市の玄関口。そしてまだ伊賀市はクリアしていません。
日没までまだ2時間程あるので、そこそこの町歩きができます。
ただ、この日は愛知県安城市での宿泊予約しているので今更変えられません。
何で伊賀市での年越しを考えなかったのだろう・・・。
一年の最後の最後で大ポカをやってしまった私めでございました。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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172日目 2年前の夏のリベンジを果たしに

2017-05-27 23:56:01 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月31日(土)


大晦日、つまり平成28年の最終日です。
そんでもって関西も最終日にして、千葉への帰路につきます。
尤も2日間をかけての「のんびりゆっくり」したものですが。

この日の出立は新大阪駅から→
天王寺駅へ向かい、JR関西線に乗り換えて奈良県入り。

8時すぎに三郷駅にて下車→
関東の人なら「みさと」と呼びそうな駅ですが、さんごう駅。

これより三郷町(さんごうちょう)と王寺町(おうじちょう)をウロウロするつもりですが、これらは2年前に訪問しようとしていたところ、大雨で関西線が麻痺した煽りを受け断念した町
敢えて早々と再チャレンジの機会を設定しました。

駅ホームの立て看板にもある「龍田大社」へ行きます→
ま、言わば1年のお礼参りですな。

朝廷からも深く信仰された由緒ある神社で風の神様。
でもまだ神様はお眠りになられていたのか無風。
時期も時期ですし早朝ですから元気元気していたらとても困っていたわ。

「ぼけけ大祭」かと一瞬思ってしまう→
みんな一斉にすっとぼけた事をやるお祭りかと。私の方こそかなりぼけていました(苦笑)。
「いつまでも健やかに心楽しく過ごしていただけるようにと祈願するお祭り(神社HP)」なんだそう。
お祭り当日は大根料理が振舞われるそうなんですが、なぜか絵はカボチャ。

初詣でに向けて用意は万端のよう→

拝殿→
今年(平成28年)もありがとうございました。全く冴えない年ではありましたが。

大和川のほとりに来ました→
一頃「日本一汚い川」として名を馳せていましたが、近年は汚名返上とばかりだいぶ改善してきているようです。
恐らく汚いのは大阪府の方で、奈良県側は見た目全くそんな風に感じません。
向こう岸は王寺町。

視線を左にやると近鉄生駒(いこま)線→
鉄橋の上を轟音を響かせて走る列車姿はいいな。

(638)奈良県生駒郡三郷町役場
明治22(1889)年に3つの村が合併したので「三郷村」となる。
でも元々は「みさと」だったらしく、町になった時に今の呼び方になったようですが、「みさと」の方が言い易くない?
約23,000人が暮らす町。

↓役場とは目と鼻の先にある、近鉄・信貴山下(しぎさんした)駅。


大和川の明治橋より→
信貴山はどれかな?と適当に写してみましたが、2つコブがあるのがそれでしょうか?

関西の信仰を集める朝護孫子寺があり、大学1年の奈良でのサークル合宿の時に、先輩に拉致られ車でそこへ連れて行かされた事があります。
でも何を見たのか全く覚えておらず、当然阪神タイガースの選手が必勝祈願するという有名な虎も・・・。

橋を渡れば王寺町。商店街を抜けて王寺駅へ→
昭和57(1982)年8月1日、台風10号によって葛下川(かつげがわ)が氾濫して王寺駅周辺が水没し大災害となったようです。
この日、当時住んでいた仙台から姫路の親戚の家に遊びに行くため、特急「ひばり」と新幹線と乗り継いで移動していたのですが、確かに雨降りでした。
でもすぐ近くでこんな大事があったなんて全然覚えていません。
姫路で合流した愛媛のいとことの山陰旅行をこの後に控えていましたし、よっぽど浮かれていたのだな。
この年には長崎でも大水害があったし、よくよく雨に祟られた年だったんですね。

町のわりにそんじょそこらの市よりも遥かに都会の王寺駅周辺→

南口側の出入り口へ→

↓今の教育現場風に言えば厩戸皇子と、一匹のワンが描かれたパネルが迎えてくれます。

まずはこのワンですが、「雪丸」という王寺町公式マスコットキャラクターで、ゆるキャラにはあまり興味のない私にとって数少ないお気に入りの一つ(単に私がイヌ好きだからか?)。
イヌだけあって、翌日(1月1日)になれば1つ年齢を重ねます。
かつては「ゆるキャラグランプリ」でも全国11位に入った事のある実力派?で、地上だけでは飽き足らず最近ではドローンの世界にも進出して「雪丸ドローン」として空をも闊歩するようになったんだとか。

その「雪丸」ですが、パネルにもあるように厩戸皇子=聖徳太子の愛犬で、日本最古の犬のペットとされていて、雪のように白くとても賢い犬だったらしいです。
足跡がありますが、王寺駅から達磨寺までの約1kmのウォーキングコース「雪丸ロード」を示すもの。
そして王寺町と聖徳太子との関わりですが、それは後ほど。

では、足跡を辿ってみましょう。
(639)奈良県北葛城郡王寺町役場
大阪市のベッドタウンですが、正直、市になっていないのが意外で、人口は三郷町と同じくらい。
地名は、葛下郡品治(ほむち)郷の地から転訛されたものだという。

間には葛下川が流れてます。
左は平成元年に設置された「和(やわらぎ)の鐘」。
十七条憲法の「以和為貴(和を以て貴しと為す)」の精神に由来した鐘との事ですが、もうちょっと見栄えのするものを造っても良かった気がする。
町のキャッチフレーズも南口階段にもあり、文字が小さくて見にくいですが役場建物に書かれているとおり「和の鐘が鳴るまち王寺」。

いたずらされないようにね→

足跡の終わりはこの達磨寺→
ここは聖徳太子が飢人伝説に基づいて開かれたとされるお寺さん。
そしてその伝説とは何ぞや?ですが、それについては寺のHPにはマンガが掲載されていますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

本堂→
達磨大師のお墓と伝えられる古墳の上に築かれているそうです。
お寺さんには、木造達磨坐像・木造聖徳太子坐像などの重要文化財があるのですが、恐らく本堂の中にあるのでしょう、見ることができませんでした。

でも雪丸クンはしっかりといましたよ→

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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171日目 紀州路での様々な発祥地巡りを終える

2017-05-23 23:53:00 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月30日(金)


↓湯浅駅から電車に揺られること10分程、紀伊由良駅に到着。

この駅のある由良町(ゆらちょう)の名所の一つとして、寺院の形をした赤錆びた立て看板の興国寺(こうこくじ)。元々は鎌倉3代将軍源実朝の菩提を弔うために建てられたお寺さん。

開山として迎えられた法燈国師が宋で習得した金山寺味噌の製法を伝え、その製造過程から醤油を生み出されたといいます。
また虚無僧の総本山でもあり、法燈国師が宋からの帰国の折に虚無僧を伴い、そのうちの一人が尺八の元祖とされているようです。
おまけに長さ2.4m、幅2.7mのでっかい天狗のお面が見られるようです。

そんな由緒ある興国寺ですが、午前中に有田(ありだ)市訪問ができていれば駅からそう遠くない所にあるなので恐らく行けたのでしょうけど、この日のうちに何が何でも有田市をクリアしたかったので、お寺さんへの大いなる未練を抱えつつもアッサリ切り捨てます。

「日本のエーゲ海」とも呼ばれる白崎海岸という風光明媚な場所もあるようですが、そもそも駅から遠いので端っから眼中になし。

駅前の道を海の方へ向かって歩きます→

(636)和歌山県日高郡由良町役場
人口は6000人程。手前の川は由良川。
町のキャッチフレーズは「“生き活きと暮らせる幸せ”を求めて」で、名物は温州みかん等の柑橘類や美味で知られるクエといったところ。

由良港に架かる由良港橋へ→

↓由良港と漁港。
 
広川町同様、海のド真ん前で高く架橋されているので見晴らしがよく、おまけに晴れているのでなおよろし。
沖に浮かぶ小さい島は蟻島。形は蟻というよりクジラっぽいけど。

↓海に向かって左手には「海上自衛隊由良基地分遣隊」が覗き見できます。
 
天然の良港である由良、ここに帝国海軍の紀伊防備隊が設けられた流れを継いでいるようです。

↓由良川北側・網代地区には集落・商店街が広がっています。
 
区画がきっちりなされていて、およそ漁村らしくない漁村。

確かに「家」なのだけど(笑)→
空き家なのか、売り家なのか、あばら家なのか。車庫・倉庫っぽいけどね。

↓次は大阪方向に引き返して、午前中に降り損ねた箕島(みのしま)駅とその駅前。
 
既に16時半頃なので、駅周辺をうろつくしかする事がありません、残念ですが。

箕島高校→
高校野球で超有名な学校。
よく知られるのは、昭和54(1979)年の星稜高校との激戦ですが、夕飯を食べ終えてテレビのチャンネルをガチャガチャ回すと(懐かしい笑)、真っ暗になってもまだやってるよ!と驚いた記憶が微かにあります。
ですが、私自身にとっては、今年の選抜にも出ていましたが、その2年前の選抜での中村高校との決勝戦ですかねー。

箕島の真ん中を貫く有田川→

(637)和歌山県有田市役所
昭和29(1954)年に箕島町・保田村・宮原村・糸我村が合併して有田町となり、その翌々年に市制施行。
人口は約29,000人。
佐賀県にも焼き物で知られる有田がありますが、あちらは「あり」。
こちらは「あり」で、広川町もそうですが、どうもここらは濁点を付けるのがお好きな土地柄のようです。

昭和28年に県内最悪の気象災害と言われる紀州大洪水の氾濫原となった水田はことごとく果樹園となりました。
というワケでこの町の特産は何と言っても「有田みかん」。
ところがドッコイ、有田市の名物はこれだけに留まりません。
ここは市役所近くの「有田市文化福祉センター」の花壇→
除虫菊とやらが植えられているやに聞いていたのですが、これなんでしょうか?

明治18(1885)年にアメリカから輸入された防虫菊が日本で初めて栽培されたのがここ有田市。
そして有田市出身の上山英一郎氏がその菊を使って発明したのが「日本の夏」に欠かすことのできない、何とも懐かしい匂いのする、グルグルと渦巻いたアレ。
つまり有田市は「蚊取り線香発祥の地」で、和歌山県は蚊取り線香の生産高国内第一位。
因みに上山氏は大日本除虫菊株式会社の創業者です。そんな会社知らないよ、って方が多いとは思いますが、「金鳥」ならご存知でしょう。その会社です。

以前から原料は外国産ばかりを使っていたのを「石井除虫菊工業所」さんが、平成23年から国内で唯一、国産(地元産)の防虫菊を使って蚊取り線香を製造し始めたのですが、残念な事に3年前にその製造をやめてしまったようです。

↓有田大橋を渡って左岸へ行きます。
 
一日の〆に相応しい美しい光景ですなあ。

この橋南詰にある「たちうおのモニュメント」タッチーです→
沿岸漁業での水揚げ量は県内一位の有田市です。

↓どっぷりと暮れて真っ暗となって気味悪くなった「有田市本町商店街」を通って箕島駅に向かいます。


↓せっかく太刀魚の漁獲高日本一の町に来たのだからと、駅前の食堂にて「たちうお丼(¥690)」を戴きます。

ま、普通に白身魚のから揚げでしたね。

やっぱりがっついてしまった和歌山駅の丸美商店「中華そば(¥680)」→
たちうお丼が祟って?、ラーメンスープで煮込んだ「おでん」にまたしてもありつけんかったなぁ

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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171日目 「稲むらの火」の舞台となった防災意識の高い町

2017-05-16 23:56:04 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月30日(金)


この広川に架かる広橋を渡ったのであっさり広川町に→
紛らわしいのですが、川の名前は「ひろわ」なのに、町名は「ひろわちょう」。
尤も昭和25(1950)年に発足して以降、平成8年までは「ひろかわちょう」だったようですが、どちらかと言えばその方が言い易いとは思うんですけどね。

広橋を河口方向を見る→
なぎ大橋が架かっており、上に行けばさぞ見晴らしがよかろう。

というワケですぐさま行ってみます→
うん、なかなか眺め良し。ただ、いつの間にか曇ってしまったのが実に恨めしい。

養源寺堀→
写っていませんが、堀の右には養源寺というお寺さんがありましてそれが由来のようです。

なぎ大橋の山側を背にして左側は役場。
(635)和歌山県有田郡広川町役場
町の産業としては、漁業はシロウオ漁が名物で、農業はご多分に漏れず蜜柑栽培が中心ですが、他の種類の果物や花卉の栽培も盛んなようで、紀州三大窯の一つ・南紀男山焼の産地。
人口は約7,200人。

さて、役場の前からこのような土手が伸びています。

無論イヌが立ち小便するために作られたワケでもないし、石田三成が忍城攻めの如く築いたのでもありませんし、向こう側に川や海があるワケでもありません(海は右側)。

では何か?
ここからさらに歩くと説明板があります→
「広川村堤防」じゃないのか?
ですが、これができた当時は広村で、広町となった後に2つの村と合併して広川町となります。
高さ5m、根幅20m、長さ640mで、安政2(1855)年に着工し安政5年に完成。

前編でも触れました旧暦の嘉永7(1854)年11月5日に発生した安政南海地震で、広村は大津波によって大きな被害を受け、それを目の当たりにした濱口梧陵(はまぐちごりょう)さんという方が私財を投げ打って築いた堤。
彼は『こんこん昆布つゆ昆布をぎょうさんつこてるの♪』のCMで有名なヤマサ醤油の7代目に当たります。

近くには防潮扉→

こちらの防潮扉は赤門と呼ばれてます→

土手から海を見る→
築堤後、いくたびかの押し寄せる魔の手から町を守ることに成功しています。

GoogleMapでは「名も無き神社」と表示されている神さま→
そういう神社名なのか、本当に無名の神社なのかどっちなのだろう?

土手の隙間から耐久中学校が覗けます→
ちらりと古臭い建物が写っていますが、それは「耐久社」。
濱口梧陵らが江戸時代末期に開設し剣術と漢字を教えていた私塾で、その後身が現在の耐久高校・中学校。

この先で土手は終わります→

↓湯浅町ほどのインパクトはないのですが、ここらへんの街並みもなかなかどうして、見応えあります。
 

↓そんな住宅街の中にあるのが、開いちゃあいませんが「稲むらの火の館」。

ここのHPの言葉を拝借すれば、先に触れた地震津波の折、濱口梧陵が村民の命を救ったその偉業と精神、教訓を学び受け継いでゆくために建設された施設で、平成19年にオープン。
濱口梧陵記念館と津波防災教育センターから成っています。

そして濱口梧陵が村民の命を救った物語が「稲むらの火」。
これは、かの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英語での作品を出し、その後、耐久中学校卒業生である中井常蔵によって書き改められもの。
昭和12(1937)年から10年間、国語の教材として採用されていたそうです。

私がこのお話しを知ったのは、情けないのですが、あの東北地方太平洋沖地震直後。
今でもこれを学校の題材に使っていれば、あの時助かった人もいたんじゃないかと思ったくらい、価値のある物語に思いました。
ところで、実際あったことと物語とは違うようで、それについてはコチラをどうぞ。

「世界津波の日」と定められた津波のあった11月5日は、広川町では濱口梧陵さんの功績を讃え、町の安全を祈願するため「津浪祭」が行われるそうです。

このように常日頃から防災意識の高い広川町ですが、肝心要の役場は海に近いし低地にあるしで大丈夫なの?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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171日目 素晴らしすぎる街並みが残る醤油発祥の地

2017-05-14 00:16:11 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月30日(金)


↓ややもすると終点の御坊(ごぼう)駅まで「お逝きなさい」状態だったのを、黄泉の国の入口で寸止めできた湯浅駅。

初めから下車する予定の駅ではありましたし、この日の町巡りで一番の楽しみにしていたのが、何を隠そうここ有田(ありだ)郡湯浅町(ちょう)なのです。

さて、湯浅と言ったら何といっても「湯浅醤油」で全国に知られているように醤油の町、どころかその発祥の地
そして醤油・味噌醸造の建物や土蔵、瓦葺きの町家が見られる国指定重要伝統的建造物群保存地区が最大の見所の町。

一早くその街並みを拝見したところですが、まずはルーティーンをこなさなければなりません。
↓戦前っぽい長屋を尻目に駅東側に伸びる熊野古道を歩きます。


(634)和歌山県有田郡湯浅町役場
つい最近まで駅近くの街中にあった役場ですが、今では新しい場所に引っ越してしまっていて、お蔭でここまでの行って戻ってのおよそ2.5km程余分な労力を費やすことハメに(怒)。

地名は「海が今よりずっと中まで入り込み、水(ゆ)が浅く広がっていたことから、或いは、古名「温笠(ゆかさ)」から転じた(町のHP)」ようです。
古くから熊野詣での宿所で、江戸時代に紀伊徳川氏が支配するようになってから有田地方の中心地として賑わいを見せるようになる。

手前には、たわわに実るミカンの木がありますが、この辺りはイヤでも柑橘類畑が目に入ってきます。
和歌山に来た事を実感できる風景。

どちらかというと、かまぼこ板なんだけど・・・→
この踏切を越えると、いよいよ待ちに待った街並みです。

↓古民家や商家たち。
      
古い街並み好きにとっては天国のような、実に心地よい楽しい場所。
広い通り(といっても車がすれ違うので精一杯)でも細い路地(現地では「小路小路(しょうじこうじ)」というそうです)でも肩を寄せ合いひしめき合う建物の姿がとても素敵。

江戸後期の町家を改修した休憩所・お休処立石茶屋→

旗があまり似つかわしくない感のある深専寺→

↓この門前(左側)には「大地震津なミ心え之記(ママ)」の石碑があります。

嘉永7(1854)年、安政東海地震とその僅か32時間後に起こった安政南海地震と、マグニチュード8.5近くの大地震が連チャンし激しい揺れが和歌山を見舞い、この地域周辺が大津波に襲われて大きな被害となったことを受け建立された石碑。
この碑には地震と津波の様子や被害、津波が起こったときの避難経路なんかが書かれています。
もし、湯浅観光なんかで来ていて津波に襲われそうな状況になったら、このお寺さんの前を東へ通って山に向かえ!だそうです(お寺さんから遠くにいた場合は知らん)。
こうした先人の教えは大事にしないといけませんね。なお、この地震に伴う津波については次編でも扱うつもりです。

おもちゃ博物館→ 
入りたかったけどお休みじゃ・・・。

↓甚風呂(じんぶろ)
 
幕末から昭和60(1985)年まで営業していた銭湯。勿論お休み。
ここも入りたかった・・・(入浴じゃなく見学)。

せいろミュージアム→
蒸籠の中に湯浅ゆかりの古民具などを入れて、各家々の軒下に飾られています。

↓ハイライトはこの「北町通り」。
 

↓江戸後期築・太田久助吟製(おおたきゅうすけぎんせい)

江戸末期から戦前までは醤油醸造業を営み、現在は金山寺味噌を製造し、販売中。

角長(かどちょう)→
天保12(1841)年創業の醤油醸造業者で、当時は新参者でも今となっては老舗どころか、湯浅ではたった一軒しか残っていない貴重な醸造業者。

↓角長の職人蔵(慶応2(1866)年築)
 
昔の道具が展示されてますが、この価値観皆無なアホな私には我楽多にしか見えません(スミマセン)。
因みに醤油の起源ですが、ここは敬意を表する意味で角長さんのHPを載せますので、そこをご覧下さい。

大仙堀→
「醤油堀」とも呼ばれたかつての醤油の積み出し埠頭。
因みに私が立っている場所は以前の積荷輸送を担った有田鉄道線路跡の道路。

それにしても北町通り周辺には独特の匂い(もちろん醤油の)が漂ってます。
私にとっては慣れないせいか、あまり「いい匂い」ではなかったのですが、すれ違った現地の小学生達の会話「あ~、湯浅の匂いがする」を聞くに、やっぱり湯浅は醤油の町であることを実感する。

いいなあ、湯浅。
夕暮れになると街が吊行灯の灯りに包まれるというので、その時間までブラついていたいくらい。
でもそういうワケにもいかず、次に電車に乗らずとも行ける隣町・広川(ひろがわ)町へ。
↓その途中、湯浅町観光地図に載っていた広川町との境をなす広川の「弁天財堀」にも寄ってみる。

ここには平安時代の石垣積みの波止や紀文丸像があるというのですが・・・。

↓上の写真の右にある、ぱっと見、成れの果て感あるこれがその像なんだと。

うーん、何とも言えません・・・。おまけに案内板は何書いているのかサッパリ読めんし。
石垣はこの背後にあるヤツでしょうか? わざわざ来てみましたが、ここはよう分かりません。

 

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171日目 紀州への途中、一寸寄り道

2017-05-11 23:48:48 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月30日(金)


年末旅(実質)2日目。
↓宿泊したホテルは新大阪駅の近くでしたが、東淀川駅にも近かったので、どうせならとそこからスタート。

新大阪駅から僅か0.7km、大阪駅からたった2つ目の駅なのに、なにこのローカル駅?

元々は戦前の弾丸列車における「新大阪」になるはずの駅だったのに、戦後の新幹線の際には反故にされ、廃止は免れたものの、こんな小駅に甘んじてしまったのには悲哀を感じます。

この日の主菜は和歌山県なので、大阪駅から「紀州路快速」に乗ります。
↓が、日根野で各駅停車に乗り換えて8時半すぎに新家(しんげ)駅で下車。

一気に和歌山入りせず、まずはこの泉南市で前菜を味わいます。

↓ここでは近くの熊野街道を歩いて、和泉砂川駅で和歌山行きの電車に乗ろうと思います。

ところで、この看板にあるとおり、すぐ目と鼻の先に国の登録有形文化財「山田家住宅」という庄屋・豪農の旧家があったのですが、まだ完全に脳は起き切っていなかったせいか見忘れてしまう。何をやっていたんだか・・・。
尤も中には入れないけど。

ミートツョップ?→
このお肉屋さんは空手ツョップ(チョップ)で肉を切るんでしょうかね?(笑)

一岡神社に寄ってみます→
この境内には1350年前に建てられたとされる古代寺院・海会寺(かいえじ)跡があるという。

遠い古に堂々立派なお寺さんがあったことを想像してみる→

↓熊野街道は京都から熊野三山へ詣でる街道で、ここらは信達(しんだち)宿と呼ばれた宿場。

そんな雰囲気がまだ残っています。

街道の左手は高台となっていまして、何があるのだか気になり登ってみる。

すると・・・→
何と!、意表をついたかなりでっかい池。
かの僧侶・行基が開いたとされる灌漑用の海営宮(かいこ)池です。

池から町を見下ろす→
イヤでも目に入る赤い色の建築物はパチスロ屋らしい。いかにも関西っぽい奇抜さ。

信達宿本陣跡→

熊野街道を去って、海側へ向かいます。
(633)大阪府泉南市役所
海岸部は紡織工場が立ち並び地域経済を支えてきたものの、昭和40年代後半以降、紡績業は右肩下がりとなり、苦境に陥っていた泉南市に神風が吹く。
関西国際空港の開港
泉南市だけが関空をガメている訳でもないのですが、これを礎に都市基盤も整備されていくこととなる。
現在人口は6万3,000人ほど。

目つきの良くない泉南市のゆるキャラです→

最初、こちらが市役所かと思いました→
上にある展望台?のようなドームが何なのか非常に気になった市役所前の学校。

↓商店街を通って和泉砂川駅へ。
 

↓和歌山を出たら晴れてきたし、美しい海を眺めながら次の降りる駅は箕島(みのしま)。


のハズが、いつの間にか寝落ち
箕島駅を乗り過ごし、目が覚めたら湯浅駅でドアが閉まる寸前→
慌てて降りる。当然スケジュールも狂う。

 

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170日目 大坂の陣で散りし日本一の兵に思いを馳せながら(2)

2017-05-08 23:44:57 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


真田幸村めぐルート」の天王寺エリアへ突入します。

まずは、四天王寺にほど近い幸村最期の地・安居神社→

大坂夏の陣の際、幸村は徳川家康の首めがけて本陣に突撃したものの、無念なるかな叶わず。
疲労困憊で休んでいる?幸村さん像→
後ろの注連縄のある木の下で、西尾宗次という鉄砲組頭に討ち取られたという。
松は当時の木ではないらしいですが。

像は堺雅人のようにカッコいいとは言えず普通にオッサン。
尤も、幸村が九度山にて隠遁生活をしていた頃にしたためた義理の兄宛ての手紙には「(前略)ことのほか病者になり申し候、歯なども抜け申し候、ひげなども黒きはあまりこれなく候」とあり、自虐して書いたのか分からないけど、本当だとしたら見た目爺さんで相当草臥れた風貌だったのでしょう。
そのとおりに像を作ったら幸村の颯爽としたイメージが台無しになりますけどね。

↓安居神社の正面は、入口がコワい一心寺。
 
冬の陣の時に家康が本陣を敷いた所なのだという。

ここにも抜け穴と、三光神社といい手抜かりなしの幸村さん→

冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が陣を敷いた茶臼山→
それだけ軍事的には重要な場所だったのでしょう。

登ります→
山頂には説明板があるのだけど、ここも実に読みにくい。何とかしてくれ。

余談ですが、全国的に茶臼山と呼ばれる山を見ますが、実は「ちゃうす」という言葉は古くは打つとか叩くとかの意味があって、それはつまり浸食地を示していて土砂流出がよくあるような危険な場所なのだという。
なるほど、ここの茶臼山も一たび大雨でも降れば地滑りが起きそうな感じがしないでもない。

これで幸村に思いを馳せる散歩はおしまい。
後は天王寺から阿倍野区を歩いてこの日は終わりにします。

山を下りると河底池(愛称ちゃぶいけ)→
延暦7(788)年に和気清麻呂が大和川の流れをこちらに変えるために、ここ上町台地を開削するもうまくいかず、この池はその失敗作品。
そして現代まで埋められることなく丁重に残され?晒されています。可哀そうな清麻呂さん、きっと天国で泣いているよ。
赤い橋も「和気橋」。
渡っていたらアベックが臆面もなく堂々と抱き合っていたので(幟に隠れている)、こちらが恥ずかしくなったわい。

和気清麻呂と言えば、僧侶・道鏡による皇位を乗っ取ろうとしたのを阻止し、後世、皇居前に銅像が建てられるほどの英雄。
さらには平安京遷都を進言するなど、カッコいいところを見せている一方で、道鏡事件の際「きたなまろ」と名を貶められ大隅国に流されたりと、かなり波乱万丈な人生を送った政治家。

昭和11(1936)年に完成した大阪市立美術館→

この動物園は日本で3番目に古い大正4(1915)年に開園→

遠目に見る天王寺駅周辺→
一つだけやたら目立つノッポなビルが妙にアンバランス。

「あべのハルカス」は300mあり、高さ日本一のビル→
く、首が痛くなるわい。

車ぎっしり天王寺駅前→
天王寺駅周辺は初めて眺めたのですが、大都会を想像していたもののここも思ったほどではなかったな・・・。

「あびこ筋」を進みます。
〔53〕大阪府大阪市阿倍野区役所

区役所の隣で思いがけず見つけたレトロな建物→
大阪市立工芸高等学校で、学校のHPによると、「大正12年(1923年)に創立された美術・デザイン・造形教育を行う学校です。(中略)本館はモダニズム様式の時計塔のあるレンガ造りで、ドイツのデザイン学校「バウハウス」の前身、ワイマール工芸学校を模したもので、(中略)平成20年には経済産業省近代化産業遺産に指定された貴重な校舎で学んでいます」なのだと。

↓周りはコンクリートのハコだらけの中にひっそりと佇む「寺西家阿倍野長屋」。

日本では唯一、国の登録有形文化財に指定されている長屋で昭和8(1933)年築。
ご飯やさんが多く入っており営業もしていましたが、年末なのにお客さんが来るんかいな?

JR阪和線・南田辺駅に続く商店街→
新大阪駅近くでこの日から連泊します。



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170日目 大坂の陣で散りし日本一の兵に思いを馳せながら(1)

2017-05-06 23:51:07 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


大阪環状線に乗って天王寺区の玉造駅へ。
ここで降りたのは、オマエさんに会いたかったからなのだよ!→
もっと言うならば、この年末の旅に大阪巡りを取り入れたのは、珍しく大河ドラマに熱を上げた「真田丸」の余韻に浸りたかったから。
夏にも長野県上田(初編2編)にも行ったのもあり、ミーハー感丸出し

路面にシールが貼られていますが、ここは「真田幸村めぐルート」といい、区のアピールのために天王寺区が設けた真田幸村(真田信繁)ゆかりの名所・旧跡11ヶ所を辿るお散歩コースで、真田山と天王寺の2カ所のエリアに分かれています。
区の設定通りのコースを忠実にとはいきませんが、なるたけ多く見て廻るつもり。

まずは「真田丸」があったとされている真田山エリアへ。
三光神社→
創建は5世紀初めとされていますが詳細不明。
大坂の陣後の寛文元(1661)年に別の地に移転し、宝永3(1706)年にこの地に戻ってきたという神社。
ここがどう幸村とかかわるかというと・・・。

威風堂々、勝ち鬨を上げる幸村さん→
像の左の六文銭の盾が並んでいる下、石塁のようなものは幸村が大阪城まで掘らせたとされる「真田の抜穴跡」。

鉄格子に鍵がかかっていて中に入れませんが、せめて覗いてみる→
古墳の石室のようで、別にどーって事なし。
「真田まつり」のある日だけ(毎年11月の第一日曜日)開けられるようです。

↓本殿
 
私の訪れた約2か月前の「真田まつり」にお目見えした「幸村ねぶた」が厳つい顔して睨みを利かせております。

ここって「ブラタモリ」で出てきた坂でしたよね?→

↓坂を上ると心眼寺があります。
 
三光神社もそうでしたが、ここも大河ドラマに触発された?ミーハー観光客で大賑わい。
このお寺さんは元和8(1622)年に白牟(はくむ)という和尚さんが幸村親子を弔うべく建立。

大坂冬の陣から400年の3年前に作られたお墓→
江戸時代は幕府直轄領だとして、作ることを許されなかったお墓。
400という切りのいい数字は分かるけど、明治になって以降作られなかったのは何故なんだろう?

お寺さん正面にある明星高校・中学校脇の「真田丸顕彰碑」→
真田丸やそこでの戦いなどについて解説が書かれているのですが、文字が小さくてとても読みにくいし。

真田山を去って大阪上本町駅前を通ります→
近鉄のターミナル駅で、ここに来るのは初めて。
来る前は渋谷や浅草などの関東大手私鉄のターミナル駅周辺のようなものを想像していたのですが、思ったよりも都会じゃなかったのには拍子抜け。

↓〔52〕大阪府大阪市天王寺区役所
 
かなりレトロな建物。

↓天王寺区の由来となった「四天王寺」にもちょっと顔を出してみます。

聖徳太子が物部守屋との戦いに前に四天王に祈り、その結果勝ちを収めたので推古天皇元(593)年に建立。
台風や空襲などでの大被害を受けるも、そのたびに復興され、現在ではほぼ元の通りに戻ったという。
「和宗総本山」を名乗っている四天王寺ですが、その意味するところはどの宗派の人でも参詣できるという事。

↓四天王寺の代名詞とも言える中心伽藍に入るとお金を取られるので、ここは眺めるだけ(左・金堂、右・五重塔)。
 

夏の陣ではこの石鳥居前で決戦が行われたという→

それよりも、幸村とはあまり関係のない、こちらさんを拝んだ方がいいな→
一見なんてことない中小っぽいこの会社は、社寺建築を主目的とする「金剛組」さん。
でも失礼ながら見かけとは裏腹に日本が誇る偉大な会社なのでありまして、何とビックリ仰天、敏達天皇7(578)年に創業された世界最古の超ウルトラスーパーご長寿企業なのであります。す、素晴らしすぎるではありませんか!
私も一介の商売人なので、長く続くようあやかるべく人目もはばからずお店の前で手を合わせる。
通りがかった人はこんな所で何をやっているのだと、さぞかし訝しがったと思うけどね。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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170日目 大阪駅の南側、中之島を歩く

2017-04-28 23:49:28 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


前々編の終わりの方で、千葉駅にも「祭」がやってきました云々と書きましたが、確かに「祭」っぽいお店があるのは間違いないのですが、一昨日よく見たら屋号は「踊」でした。お詫びして訂正します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

福島駅を出るやビックリする→
いきなり真ん前に線路があって轟音を立てて電車が駆け抜ける。
これは迫力ある!というか、威圧感ありすぎ。
それにしても西日本には、こんなのっぺらぼうな電車が多いのは気のせい?

福島駅近くで外せない名所?がこれ→
ビルを貫く道路。ここに突っ込んでいく感覚とはどんなものなのか、一度この道路を走ってみたいものです。

以上は福島区で、次に歩くのは北区。
ビルをまっすぐ南に歩くと川に出ます。
堂島川→
左が大阪駅側で、右は中学校地理教科書の「近畿地方編」にお決まりのように写真が載っていた中之島。

中之島は堂島川と土佐堀川に囲まれた中州で、北岸側のビジネス街と南岸側の金融街と一体をなす大阪の経済・文化の中心地。
また、周辺にはレトロな建物が多く残っているのも特徴。
という事で、この中之島をひたすら東に歩きつつ、建物などをいくつか取り上げていきます。

錦橋→
昭和6(1931)年に架けられる。「橋」と名付けられていますが、元は可動堰。

住友ビルディング→
北側半分は大正15(1926)年、南側は昭和5(1930)年に竣工。
堂々と佇み貫禄を感じる建物で、現在は三井住友銀行大阪本店。
東京に本店があるのだけど、ここも何故か本店。
この建物周辺には住友系のビルが立ち並んでいるので、通称「住友村」というようです。

明治36(1903)年築の日本銀行大阪支店旧館→
真ん中のドーム型屋根と三角屋根(ほぼ見えておりませぬが・・・)が特徴の、ベルギー国立銀行をモデルにしたネオ・ルネサンス形式と言われる建築様式。

日銀の反対側にあるものがコレ。

(632)大阪府大阪市役所
ご存知、大阪府や近畿のみならず、西日本の政治・経済・文化の中心都市で、日本で2番目に多い人口を抱えている市。
日本書紀には「烏瑳箇(おさか)」と表記され、和銅7(714)年の地名二文字化で「小坂」となり、室町時代の蓮如によって「大坂」とされ、明治期に現在の表し方になる。

いわゆる大化の改新後に長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)が置かれ、日本の首都だった事もありました。わずか9年でしたけど。
遺構は発見されていませんが、仁徳天皇の時代にも「難波高津宮」が置かれたらしいです。

市役所・日銀のあるこの御堂筋「淀屋橋北詰」交差点を南に見る→
はるか遠くズラリ赤信号はなかなか壮観。
昭和10年に完成の淀屋橋は、江戸時代の豪商・淀屋さんが架けたのに始まり、それが由来の橋。

大阪市中央公会堂(大正7年竣工)→
どこかで見たことのある建物だよな~と思ったけど、設計者を知って合点がいきました。
辰野金吾さん、そう、東京駅を設計したあのお方。因みに日本銀行大阪支店旧館もそうなんだとか。

一度これに乗って、川面から大阪を眺めてみたい→
西方向に進む水上バス・アクアライナーです。

難波橋→
古くは奈良時代に行基が架けたとされ、現在の本体は昭和50年に架け替えられたもの。
橋の両詰には狛獅子というか、狛ライオンがあるので「ライオン橋」と呼ばれているのですが、何をボーッとしていたのか、その肝心のライオンを撮り損ねてしまう。
というか橋詰さえ見た記憶が全くないので(勿論ライオンも)、その時に限って足以外の部分は完璧に幽体離脱して夢遊病者が如き状態になってしまっていたようです。
一応かすかに写ってはいますけどね・・・。

中之島の東側突先には噴水があります→
毎時00分と30分に水が噴き出すので、あと5分待ったらその時間だったのでしたが、じっとしていられない性格が災いして天神橋を渡って北の方へ歩いてしまいました。

天神橋筋商店街の南端部→
ここには蓋はありませんが、この先一直線のアーケードに覆われた商店街となり、その長さ2.6kmは日本一。
あれっ?、以前、高松のアーケードを紹介した時に、ここが日本一と書いたような気がしたな・・・。
ウソを書くのはイカンのでWikipediaを拝見すると、「分岐を含まない連続的に連なったアーケードでの日本一は大阪府大阪市の天神橋筋商店街」なんだとか。
もっとも「完全に連続したものとしては長崎県佐世保市の三ヶ町商店街~四ヶ町商店街の約1kmが最長」ともあったけど。

再び川沿いに戻ります。
旧淀川である大川右岸側の毛馬(けま)桜之宮公園→
左には「桜の通り抜け」で知られる造幣局。
この道も桜並木となっているので、ちょっと前はさぞ大賑わいだったことでしょう。
私が訪れたこの年末にはブルーシートに覆われたホームレスの家が軒を連ね、多くのホームレスで賑わっていましたけど。

桜宮(さくらのみや)橋と新桜宮橋→
この上を走るのは国道1号線。
手前の橋が桜宮橋(昭和5年完成)で、鋼板が銀色なので「銀橋」とも呼ばれているようです。
奥は平成18年に完成の新桜宮橋で、左の茶色い建物は階段塔。

川を渡ると都島区。
関東の人なら「としまく」と呼んでしまいそうですが、「みやこじまく」です。
〔51〕大阪府大阪市都島区役所

↓こんな時間ですらネオンでキラキラ怪しい建物が居並ぶ街を通り抜け、人でごった返す京橋駅へ。
 

とても楽しかった大阪レトロ建築物巡り。今度は本腰を入れて見て廻りたいものです。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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169・170日目 年末は関西へ、まずは大阪市巡り

2017-04-22 23:43:43 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月28日(水)・29日(木)


関東の桜はすっかり散ってしまい、ゴールデンウイークを目前にしてようやく年末年始旅に辿り着きました。
昨年4か月間ブログをサボったツケがあまりにデカすぎでしたな・・・。
今回は年末の3日間は関西、正月1日だけ東海の計4日間旅始末記です。

↓激烈なる争奪戦?を勝ち抜いてもぎ取った指定券を片手に「快速・ムーンライトながら」東京駅23時10分発で西へ。

使う切符はもちろん財布に優しい期間限定発売のアレです。
それを買ったのは平成26年の夏以来久し振り。

用意周到、新たなドラマ押しの浜松駅にて→
この時は開始前だったけど、今となってはもう既に3分の1を消化してしまったんだよな~。
正直、見たり見なかったり見なかったり見なかったりで、今現在どのような展開になっているのかすら分かっていない状況。

↓長い時間浜松で停車するので「ちょっとコンビニに買いたいものがありまして・・・」と言って外に出させてもらう。

本来、改札を出たら指定券は無効になるのですが、そこは駅員さん黙認のご慈悲。
3時だというのに驚きのタクシー待ちの長蛇の列。
仕事納めでついついという人達なのでしょう。

翌朝8時頃、大阪駅に到着→
これまで個人的には大阪市内は素通りばかりで、知られた名所の、そのほとんどへは行った事がありません。
加えて「ゆっくりのんびり旅」では、これまで5つの区はクリアしているものの、どこかテキトーな感じだったので、市内(一部ですけど)巡りにこの日1日を費やすつもりでおります。

↓荷物をロッカーに入れ、駅の立ち食いうどん屋で「鶏天うどん」をかき込んでからJR大阪環状線内回りに乗って西九条駅へ。

ここを起点にまずは此花(このはな)区を散策します。

駅から南300m程歩きますと、こんなハコが姿を現します→
ハコの向こうには安治川(あじがわ) が流れていて、行く手を阻んでおります。
ここはそれまでの「源兵衛渡船」という対岸への渡し船に代わって昭和19(1944)年に完成した、人と車が通れる全長81mの安治川隧道出入り口。

↓右側のエレベーターで下に降りれば(階段もあるので、それでも下へ降りられます)、隧道で対岸の港区へ行けます。

一日中通れる事ができ、向こう側には「源兵衛渡船」という交差点があります。
狭く薄暗いので、日が昇っている時間帯はともかく、夜になれば一気に危険なカオリがプンプンな隧道。

左側にも2つの扉っぽいのがありますが、ここが車の出入り口。
ただし、現在では閉鎖されております。

↓隧道から西へ向かいますと、大阪駅から僅か4km程の位置にして普通に郊外っぽい光景。

右の建物は、近年徐々に増えてきている中高一貫の公立校で、長ったらしく変わった感じの校名→
これに関しては後で触れる事にします。

六軒家川(ろっけんやがわ)を下流方向に見る→
走っている電車はJR桜島線(ゆめ咲線)。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)へ行く時に乗るあの路線。

上流方向を歩いて朝日橋の近くに来ると、こんな石碑がありました→
この碑については区のHPに詳細に載っているのでそちらをご覧戴くとして、ここでこれを取り上げたワケは、この碑文を書いた人について触れかったから。
マスコミによくお出ましの、大阪市長・大阪府知事を務めたあの超有名弁護士の書。
さすがに口はとっても達者。けれども、字はお世辞にもうまいとは言えないね。

阪神電鉄・千鳥橋駅近くのアーケード商店街→
いよいよ正月!という雰囲気は・・・全くないし。

〔50〕大阪府大阪市此花区役所
これも区のHPに書かれていますが、区名の由来として大正14(1925)年に新たな区が設置される際に、渡来人・王仁(わに)が詠んだとされる難波津の歌「難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」によると。
先の学校もここから引用したんですね。
臨海部に市内随一の重化学工業地域を形成して発展。

公園建設のため暗渠化工事中の正蓮寺川→

↓川の上はまだ橋っぽい姿を留めていますが、いずれ「ここ橋だったの?」なんて状態になるんだろうな。


淀川左岸側に、一見漁港らしき港を見つけました→
で、実際に漁港なのでありまして、「大阪市漁業協同組合」の建物も見えます。
何とビックリ、大阪市内に漁港があったりする
伝法(でんぽう)漁港というそうです。

↓桜島線・安治川口駅まで歩いて、そこからUSJへ行く人達でごった返して騒々しい電車に乗って終点の桜島駅へ。


↓対岸は、日本で2番目に低い山とされている築山の天保山や世界最大級のでっかさを誇る超ド級水族館・海遊館がある一帯。

無料の大阪市営渡し船があってそちらへ行けるのですが、それに乗るのは今度天保山に行く時までの楽しみに取っておきます。

ほんのちょびっとUSJ→
以前、同級生が経営する会社の社員旅行に拉致された付き合った事をこのブログで書いたことがある(最初2回目)のですが、その同級生はGW明けて早いうちに社員旅行としてUSJ遠征を企んでおりまして、私も当然?誘われました。
なのですが、そこには1度も入ったことはないけど、そもそも興味がこれっぽっちもなく目下断固拒否しているところ。果たしてどうなることやら?

大阪駅方面に戻って、その一つ手前の福島駅で降ります→
何を獲物としているのかは知りませんが、ホームの端っこに群がる鉄の塊には笑えてしまいました。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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168日目 人のいない旧宿場町・二本松と矢吹の商店街

2017-04-20 22:46:50 | 南東北
平成28(2016)年10月11日(火)


バスで再び二本松駅に戻ってきましたが、せっかくなので、かつては旧奥州街道の宿場町でもあった駅チカ市街地をブラブラしてみます。
↓戊辰戦争で灰燼に帰してしまいましたが、町割りはその当時と変わりません。


↓日本三大提灯祭りの一つらしい「二本松提灯祭り」とはこんな感じなのね。

3日間開催されますが、何故だか初日にクライマックスを迎えるのだとか。

旧奥州街道のメイン通り商店街→
平日だからなのか分からないけどかなり苦戦気味。

中でもこの仕舞屋が非常に気になりました→
これまでそれなりの数の廃墟も観察してきた私にとってピンときたものがありまして、早速このウラへの侵入を試みます。
するとどうでしょう。

まさに大当たり!
 
そこは過疎の山村によく見られる打ち捨てられたボロ家のパラダイス。
趣味悪いですけど、こういうものを見ていると妙に興奮してくる私は神経がおかしいのでしょうか?

別の仕舞屋ですけど、戸が開いていたので思わず撮ってしまった写真→
文具屋さんですかね、奥に掲げられている右から読みの「ライトインキ」の額がいい味出していて、それを盗んでいきたい衝動にかられる。

太鼓屋さん→
このご時世、太鼓でメシを食っていけるのか気になります。

↓そこで副業?なのかもしれませんが、これらが糊口の足しになるように全く見えません。

好き放題言ってばかりでスミマセン。是非何とか「和」の伝統を守り抜いて欲しいものです。

そんなこんなで商店街が意外にも楽しかった二本松を去り南に反転、その途中、寄り道したのが矢吹町(やぶきまち)。
降りた矢吹駅の自由通路→
矢吹町は日本三大開拓地の一つ。
日本三大開拓地とは、戦後の大規模国営開拓事業が大成功したとされる三か所の開拓地。
他には青森県十和田市、宮崎県川南町があります。

因みにこの垂れ幕のド真ん中に立って右腕を高らかに上げている御仁は、この町出身で「絶好調~~っ!」のフレーズで有名だった野球選手(横浜市を本拠地にする某球団の監督でもあった)。

駅の東口(左)と西口(右)→ 
丸い部分は飛び出ていて展望台?になっておりまして、1個だけだと巨大望遠鏡か戦艦の大砲程度にしか見えないのですが、2個並ぶとアラ不思議!、蚊やトンボ、或いは宇宙人になってしまいました(笑)。

東口から伸びる「四季のプロムナード」の路面には、鉄道に関するパネルがいくつか埋め込まれています。
私が仙台に住んでいる頃、東京への行き来によく乗った特急→
あの頃は上野までがっつり4時間余りかかりましたからね、そのお蔭で?忍耐力が備わりました(苦笑)。

始期は1982年だけどな~→
ウソはいかんな、ウソは。

新幹線開業前後でもよく見られた超オンボロ客車列車→
デッキなんかはドアもなく吹き抜け状態で、うっかりすると走行中線路に真っ逆さま。
こんな怖いの、よく乗っていたのぉ。
クッション性が全くなく、振動がモロ伝わってくる硬い木のバリバリ座席が懐かしい。

(631)福島県西白河郡矢吹町役場
源義家の奥州征伐時に、八幡社を造営し屋根を矢柄で葺いたため「矢葺」の地名が起こったという。
「日本三大開拓地」らしく農地が町の面積の半分以上を占めており、平成29年3月1日現在の人口は17,300人。

「あゆり祭」とは何ぞや?→
10月1日~11月30日までの長~い期間開催される矢吹町民による文化祭。
町の北部にあって住民に恩恵をもたらしてきた「大池」が昔、「あゆり沼」と呼ばれたことに因んだものらしい。
おまけにその「大池」には、我らが千葉市から譲り受けた約2000年前の古代ハスで知られるオオガハス(千葉市の花でもある)が生育しているのだと。
ひょんなことで縁を感じた矢吹町。
 
駅西側が町の中心商店街となっております→
矢吹も旧奥州街道の宿場で、この通りがまさにそれ。

贅沢すぎる立派すぎる町営団地→
すぐにここに移住したい!タダで住めるのなら。

町のマスコットキャラクター→

↓地方のおもちゃ屋にはよく飾られているんだよなあ、ヒーローものの人形。


東日本大震災で被害を受けた修復中の「大正ロマンの館」→
昨年11月30日(水)にめでたくオープン!したそうです。

↓宿場の名残りを留める建物を期待して来てみたワケですが、目ぼしいものはこんな程度しかなく残念。
 

↓郡山のホテルで見ていたテレビ番組でたまたま絶賛紹介されていたので、食べてみたくなった郡山駅弁(¥900)。

東京駅の駅弁屋「祭」でも売られているそうですが、あっという間に完売してしまうのだという。
「祭」にはよく行くにもかかわらず全く気が付きませんでしたが、そういう理由だったのね。
それだけの超人気駅弁、酒のつまみにもなかなかよかったわ。
千葉駅にも「祭」がやってきましたが、そこにも置いてくれないかな?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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