その頃の私は、本当にボロボロだった。
自分の置かれた状況が、実はかなり切羽詰まった状態で、友人を「あんまりだ」と心配させて泣かせてしまっていた。
身を置いていたのが地獄だったと判ってしまうと、これまでの疲れを一気に自覚するし、この先の打つ手がないことに絶望するし、とにかく抜け殻のようになってしまった。
食事も満足に取れず、睡眠は細切れで、いろんなものを見失っていた。
そんな中で通っていた心理相談室の帰り。
帰宅したらあの日常が待っていると、少しでも家に帰るのを遅くしたくて出かけたのが、名都美術館だった。
道すがら、ふと目に入った、その小さな佇まいの美術館へ、私はなにも考えずに立ち寄った。
小さな美術館は、正直苦手だった。
なんというか、受付がもう、緊張する。
常連だけがやってくる小さな喫茶店へ初めていくときのような、そんな「場違い感」が恥ずかしくてならないのだ。
だから、扉が開くその瞬間からかなり緊張していたし、身の置き所がなかった。
それでも、ぼんやりしていたし、物事がきちんと考えられないような状態だったから、私はその美術館の扉をくぐることができた。
小さなカウンターで入館料を支払って、庭園を左手に回廊を進む。
突き当たりを左に入ると展示室で、その左右にガラスがはめられていた。
入り口の、左側だった。
背の高さほどもある屏風、二曲一双。
右隻には、女性が一人。
墨色の薄物の向こう側に、赤い七宝模様の襦袢が透けている。
鼻緒の緑が、ほんの少しだけ覗く裾が、ゆったりしているけれどだらしなくはない。
左隻には若く華やかな振り袖姿の女性が二人。
ゆったりと着つけた着物と、丸帯だろうか、柔らかな結び。
煌びやかすぎず、気品高く、けれど首筋に覗く襦袢の紅が色っぽい。
三人の女性は、決して視線を合わせない。
それぞれが、それぞれを気にしていないし、こちら側も見つめない。
好き好きに、自分の想うことを全うしているようだった。
美しい。
正直、「すっごく美人!」というわけではない。
けれど、ただただ、そう思った。
美しいものをそこへ写したいとだけ思って、個より美を徹底した画なのだと、そう思った。
世には、男性が定義した女性の「美」があふれている。
世が定義した「美」もあふれている。
けれど、女性が女性の美を考えた時、それはただの見た目ではなくて、内側から漂ってくるようなものではないのだろうか。
しなやかな優しさにつつまれた、ふとした瞬間にその存在を香らせる凛とした芯の強さ。
私はそれが「美しい」と、ただただそう思ったし、そう思ってきた自分をそこで思い出した。
こう、ありたい。
弱り切って、数分後の自分さえも見失い、どこへ向かってよいのかもわからない私には、その「美」は強烈だった。
私は美しくありたい。
決して媚びることなく、自分の芯を曲げることなく、強く、けれどその強さを誇示することなく、穏やかに笑っていたい。
そんな自分になりたい。
そんな自分を貫きたい。
そのためには、しっかり立って、自分の今に向き合おう。
そう心底思って、私は息を吸うことを覚えたようだった。
日本画家・上村松園氏とは、そのようにして出会った。
この『娘』という屏風が、高松宮家へ御輿入になる徳川喜久子姫の御調度だということも、まして上村松園氏が女性だということも、私は何も知らなかった。
自分の置かれた状況が、実はかなり切羽詰まった状態で、友人を「あんまりだ」と心配させて泣かせてしまっていた。
身を置いていたのが地獄だったと判ってしまうと、これまでの疲れを一気に自覚するし、この先の打つ手がないことに絶望するし、とにかく抜け殻のようになってしまった。
食事も満足に取れず、睡眠は細切れで、いろんなものを見失っていた。
そんな中で通っていた心理相談室の帰り。
帰宅したらあの日常が待っていると、少しでも家に帰るのを遅くしたくて出かけたのが、名都美術館だった。
道すがら、ふと目に入った、その小さな佇まいの美術館へ、私はなにも考えずに立ち寄った。
小さな美術館は、正直苦手だった。
なんというか、受付がもう、緊張する。
常連だけがやってくる小さな喫茶店へ初めていくときのような、そんな「場違い感」が恥ずかしくてならないのだ。
だから、扉が開くその瞬間からかなり緊張していたし、身の置き所がなかった。
それでも、ぼんやりしていたし、物事がきちんと考えられないような状態だったから、私はその美術館の扉をくぐることができた。
小さなカウンターで入館料を支払って、庭園を左手に回廊を進む。
突き当たりを左に入ると展示室で、その左右にガラスがはめられていた。
入り口の、左側だった。
背の高さほどもある屏風、二曲一双。
右隻には、女性が一人。
墨色の薄物の向こう側に、赤い七宝模様の襦袢が透けている。
鼻緒の緑が、ほんの少しだけ覗く裾が、ゆったりしているけれどだらしなくはない。
左隻には若く華やかな振り袖姿の女性が二人。
ゆったりと着つけた着物と、丸帯だろうか、柔らかな結び。
煌びやかすぎず、気品高く、けれど首筋に覗く襦袢の紅が色っぽい。
三人の女性は、決して視線を合わせない。
それぞれが、それぞれを気にしていないし、こちら側も見つめない。
好き好きに、自分の想うことを全うしているようだった。
美しい。
正直、「すっごく美人!」というわけではない。
けれど、ただただ、そう思った。
美しいものをそこへ写したいとだけ思って、個より美を徹底した画なのだと、そう思った。
世には、男性が定義した女性の「美」があふれている。
世が定義した「美」もあふれている。
けれど、女性が女性の美を考えた時、それはただの見た目ではなくて、内側から漂ってくるようなものではないのだろうか。
しなやかな優しさにつつまれた、ふとした瞬間にその存在を香らせる凛とした芯の強さ。
私はそれが「美しい」と、ただただそう思ったし、そう思ってきた自分をそこで思い出した。
こう、ありたい。
弱り切って、数分後の自分さえも見失い、どこへ向かってよいのかもわからない私には、その「美」は強烈だった。
私は美しくありたい。
決して媚びることなく、自分の芯を曲げることなく、強く、けれどその強さを誇示することなく、穏やかに笑っていたい。
そんな自分になりたい。
そんな自分を貫きたい。
そのためには、しっかり立って、自分の今に向き合おう。
そう心底思って、私は息を吸うことを覚えたようだった。
日本画家・上村松園氏とは、そのようにして出会った。
この『娘』という屏風が、高松宮家へ御輿入になる徳川喜久子姫の御調度だということも、まして上村松園氏が女性だということも、私は何も知らなかった。