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★自分たちの盗作を隠している自由社=「つくる会」

当ブログは「新しい歴史教科書をつくる会」主導の自由社版中学校歴史・公民教科書(平成24年度版)の欠陥について20回にわたって連載しました(★南京事件への疑問を削除した自由社版教科書-記述検証〈1〉←クリックなど)。
 
もうないだろうと思っていたら、先日、近畿地方の中学校の先生から「また見つかりました」と連絡がありました。
 
自由社版歴史教科書141ページで東洲斎写楽が「東斎写楽」になっています
 
この教科書の誤植や間違いについては、もはや言葉は見つかりませんが、この「東州斎写楽」の前後をあらためて読んでみて恐るべき事実に気付きました。「東州斎写楽」の誤植以外はほとんど扶桑社の教科書(平成18年度版)の丸写しなのです。他の文化史の単元でも非常に悪質な盗用が確認されました。
 
その自由社=「新しい歴史教科書をつくる会」は、一昨年の教科書採択で自分たちが惨敗し教科書改善の会(屋山太郎代表世話人)のメンバーが執筆した育鵬社の教科書が大躍進すると、扶桑社の教科書を継承している育鵬社の教科書は扶桑社の教科書を盗作している―というわけの分からないデタラメ宣伝を始め、「しんぶん赤旗」や「週刊金曜日」を呼んで記者会見し、反日文部科学相・田中真紀子に泣き付き、議員会館を回って国会議員に吹き込み、本まで出版して育鵬社や日本教育再生機構、教科書改善の会を非難してきました。
 
その理屈は、扶桑社教科書は「新しい歴史教科書をつくる会」に残留した西尾幹二、藤岡信勝、高森明勅と教科書改善の会の田中英道氏、亡くなった坂本多加雄氏の主に5人が分担して執筆し、育鵬社は田中氏が執筆した文化史の単元以外は流用できない―というものです(育鵬社教科書は扶桑社教科書を継承していますが、著作権侵害はしていません)。
 
自由社は田中英道氏が執筆した文化史の単元は使えないとの認識で、最初に検定に合格した平成22年度版(20年度検定、21年度採択)では松本謙一という人に執筆させました。しかし仲間割れで松本氏を追放したため、24年度版(22年度検定、23年度採択)ではまた新たに書き直しました。
 
その書き直したはずの記述で田中英道氏執筆の文章を盗用しているのです。私たちプロジェクトJが差分表示ソフトを使って解析したところ、下記の結果が出ました。赤い字が扶桑社の記述と同じワードです。

○扶桑社 平成18年度版 p48~49 飛鳥・天平の文化 
奈良時代には、仏教は朝廷の保護を受けていっそう発展した。平城京には大きな寺院が建てられ、遣唐使を通じてもたらされた唐の文化の影響を取り入れながら、高い精神性をもった仏教文化が花開いた。この文化を、聖武天皇のころの年号をとって天平文化とよぶ。
天平文化を代表する建築には、東大寺の法華堂、唐招提寺などがある。…東大寺の正倉院には、聖武天皇の愛用品が多数納められて今に伝わっている。その中には、中国や西アジア、中央アジアなどとの結びつきを示す工芸品も多い。
…また、東大寺の大仏は銅でつくられた世界最大の仏像である。

○自由社 平成24年度版 p65 飛鳥・天平の文化
奈良時代になると、仏教は朝廷の保護のもとにいっそう発展した。平城京にはいくつもの寺院が建ち並び、渡来人の子孫や唐から帰国した人々の指導のもとに、高い精神性をもった仏教文化が花開いた。この文化を、聖武天皇のころの年号をとって天平文化とよぶ。
天平文化を代表する建築には、東大寺
唐招提寺などがある。また、東大寺の大仏は銅でつくられた世界最大の仏像である。
東大寺の正倉院には、聖武天皇の
身の回りのが多数おさめられて今に伝わっている。その中には、や中央アジア西アジアとの結びつきを示す国際色豊かな工芸品多い。

「愛用品」を「身の回りの品々」に、「中国」を「唐」にしたくらいで、完全なパクリです。次を見てみましょう。
○扶桑社 平成18年度版 p82~83 室町の文化
室町時代には、幕府が京都に置かれたこともあって、公家と武家の文化がとけ合った、簡素で深みのある文化が生まれた。…3代将軍足利義満が京都の北山に建てた金閣は、…義満の保護を受けた観阿弥と世阿弥の父子は、平安時代から民間の娯楽として親しまれた猿楽、田楽を、能楽として大成した。能や狂言は、武家や庶民のあいだに浸透していった。義満のころの文化を北山文化とよぶ。
8代将軍義政は、東山に銀閣を建てて、風雅な生活を送った。この時期の、わび・さびとよばれる落ち着いた雰囲気をもった文化を、東山文化とよぶ。…禅宗寺院では枯山水とよばれる石を用いた庭園がつくられた。…
戦乱をのがれた公家や僧によって、地方に文化が広められたのもこの時代の特色である。雪舟のいた大内氏の山口など、各地の城下町が栄え、下野(栃木県)の足利学校は学問の中心となった。各地の寺院では、武家や庶民の子どもの教育も始まった。
…味噌やしょう油の使用、村祭りや盆踊りといった年中行事なども、このころ始まったものである。

○自由社 平成24年度版 p100~101 室町文化
室町時代には、京都に幕府が置かれたため、武家の文化公家の文化を吸収し、新しい文化が生まれた。3代将軍足利義満が京都の北山に建てた金閣は、義満の保護を受けた観阿弥と世阿弥の父子は、平安時代から娯楽として親しまれた猿楽や田楽を、能として大成した。能や狂言は、各地の寺社で演じられ、武家だけでなく庶民にも親しまれるようになった。義満のころの文化を北山文化とよぶ。
8代将軍足利義政は、応仁の乱をよそに、東山に銀閣を建てて風雅な生活を送った。義政は、身分にとらわれず技芸に優れた者を集め、のちの「わび・さび」に通じる簡素で落ち着きのある文化を育てた。これを東山文化とよぶ。…禅宗寺院では枯山水とよばれる石を用いた庭園がつくられた。
戦乱をのがれた公家や僧によって、地方に文化が広められたのもこの時代の特色である。雪舟のいた大内氏の山口など、各地の城下町が栄え、上杉氏が保護した足利学校(栃木県)は学問の中心となった。各地の寺院では、武家や庶民の子供の教育始まり、文字を知る人々が増えていった。
味噌やしょう油の使用、村祭りや盆踊りといった年中行事など、このころ始まったものである。

歴史教科書ですからある程度、単語は共通しますが、「戦乱をのがれた公家や僧によって、地方に文化が広められたのもこの時代の特色である。雪舟のいた大内氏の山口など、各地の城下町が栄え」…これを、たまたま似てしまったと言い訳できるでしょうか。子供でも分かる同一文章です。「幕府が」と「京都に」を入れ替えても駄目です。次を見てみましょう。
○扶桑社 平成18年度版 p122~123 化政文化
浮世絵では、錦絵とよばれる多色刷りの版画がくふうされ、豊かな表現が可能になった。喜多川歌麿は美人画に筆をふるい、東洲斎写楽は、活動期間は短かったが、人物の性格や表情をとらえた役者絵の傑作を世に送り出した。
その後、葛飾北斎が出て、奇抜な構図と華麗な色彩を用いた風景画で名をはせた。北斎の「富嶽三十六景」を見ると、西洋絵画の遠近法や陰影のつけ方を完全に消化したうえで、独自の空間表現を行っていることがわかる。歌川(安藤)広重は北斎の影響を受けながら、「東海道五十三次」などの情緒あふれる風景画をえがいた。これらの浮世絵は、19世紀後半、西洋にもちこまれて、西洋近代絵画の形成に大きな影響をあたえた。
浮世絵が江戸の町人に人気を博した一方で、武士や教養のある町人のあいだでは、池大雅や浦上玉堂らのえがいた、文人画とよばれる水墨画が愛好された。

○自由社 平成24年度版 p141 化政文化
浮世絵、錦絵とよばれる多色刷り版画って黄金時代をむかえ、表現豊かに世相を映した。喜多川歌麿は美人画に筆をふるい、東斎写楽は、短活動期間役者絵の傑作をえがいた。その後、葛飾北斎が出て、奇抜な構図と華麗な色彩を用いた風景画をえがき、「富嶽三十六景」などの傑作を残した。北斎の影響を受け歌川広重は、「東海道五十三次」や「名所江戸百景」など情緒あふれる風景画をえがいた。これらの浮世絵は、19世紀後半、フランスの画家たちに愛され、西洋近代絵画の形成に大きな影響をあたえた。
浮世絵
は庶民に人気があったが、武士や教養のある町人の間では、池大雅や与謝蕪村、浦上玉堂らのえがいた文人画とよばれる水墨画が愛好された。

冒頭に紹介した、東洲斎写楽が「東州斎写楽」になっているのはコピペミスと思われます。索引は正しく東洲斎写楽となっています。「美人画に筆をふるい」「奇抜な構図と華麗な色彩を用いた」「西洋近代絵画の形成に大きな影響をあたえた」などを書き直していれば少しは印象は違っていたでしょうに…。最後はこれです。
○扶桑社 平成18年度版 p174~175 明治文化の花開く
…大学では、何よりも西洋の学問を理想として、それを消化することに力が注がれた。…
日清戦争の前後には、人間の自由な感情を重視するロマン主義がおこり、島崎藤村、与謝野晶子らが活躍した。日露戦争のころには、人生や社会の現実をありのままにえがいた自然主義文学がさかんになり、田山花袋らが注目された。
また森鷗外は、ヨーロッパ文学を紹介し、晩年には歴史小説を書いた。夏目漱石は『吾輩は猫である』『こころ』などを書いて、日本の近代文学の隆盛に大きな役割を果たした。…
美術では、文明開化のころ、日本の古い美術や仏像は価値のないものとする欧米崇拝の風潮が強まった。しかし、日本美術のすばらしさに打たれた東京大学の外国人教師フェノロサが、岡倉天心とともに、伝統芸術の保存と復興に努めたため、その価値が再評価された。天心らが進めた絵画運動のもとで、狩野芳崖らは新しい日本画のあり方を模索した。
洋画では、高橋由一や浅井忠らが、写実的な油絵をえがこうとした。フランスで絵画を学んで帰国した黒田清輝は、明るい光に満ちた作品をえがいた。…
音楽では、洋楽の輸入によって、西洋歌謡をもとにした唱歌が小学校教育に取り入れられ、国民のあいだで親しまれるようになった。とくに、滝廉太郎は、「荒城の月」や「花」などを作曲して日本人の心をとらえた。

○自由社 平成24年度版 p199 近代文化の形成
大学では、西洋の学問を理想として、それを学ぶことに力が注がれた。
日清戦争の前後には、自由な感情を表現するロマン主義文学がおこり、小説の樋ロー葉、短歌の与謝野晶子ら女性が活躍した。日露戦争のころには、人生の現実をありのままにえが自然主義文学がさかんになる一方、森鷗外夏目漱石は、流行にとらわれない優れた小説をき、日本の近代文学の確立に大きな役割を果たした。
美術
では、文明開化のころ、日本の美術価値を低く見、西洋崇拝の風潮がまった。
しかし、日本美術のすばらしさに
感動しアメリカ人教師フェノロサ、岡倉天心とともに、伝統術の保存と復興につとめた狩野芳崖や高村光雲は、絵師や仏師としての伝統の技をもとに、新しい日本画や彫刻探求した。そのいっぽうで西洋に学んだ新しい美術も生まれ、フランスに留学した黒田清輝は、明るい色彩の油絵をかいた。
音楽でも、西洋歌謡をもとにした唱歌が学校の音楽教育に取り入れられ、国民の間で愛唱されるようになった。特に、滝廉太郎は「荒城の月」や「花」を作曲して日本人の心をとらえた。

「打たれた」を「感動した」にしてみたものの、手抜きの盗用になっています。
 
これらの盗作行為は誰が行ったのでしょうか。自由社が文部科学省に提出した著作編修関係者名簿によると、文化史の執筆者は浦和実業学園中学校教諭の斎藤武夫(自由主義史観研究会副代表)となっています。

もちろん代表執筆者の藤岡信勝も責任者であり、最終責任は株式会社自由社(加瀬英明社長)にあります。
 
私たちはこれを指摘することで「どっちもどっち」と言っているのではありません。自由社は文化史の盗用がバレたからといって、交通事故の過失相殺みたいなことを考えないでください。あなた方が悪いのです。
 
自由社は平成22年度版で
 1.東京書籍の年表(日本史部分)をそっくり盗用←クリック
 2.扶桑社の図版や地図、表などを盗用←クリック
 3.扶桑社の索引を盗用(文部科学省から指摘される)←クリック
 
という行為を行った上に、平成24年度版で扶桑社の文化史の単元を盗用し、それを隠し、まさに「盗人猛々しく」扶桑社の教科書を継承している育鵬社の教科書は扶桑社の教科書を盗作している―というわけの分からないデタラメ宣伝を行い、本まで出版したのです。これは育鵬社に対する業務妨害、信用毀損行為です。
 
ところで、「新しい歴史教科書をつくる会」は育鵬社、日本教育再生機構、教科書改善の会に「盗作問題」を追及する文書を送り付け、再生機構や改善の会は「文通」に付き合っていますが、これは大変おかしなことです。「つくる会」も、再生機構も、改善の会も、教科書の著作権者ではありません。再生機構や改善の会が相手にするから「つくる会」は八木秀次理事長の辞任要求を行うまでにつけ上がっているのです。
 
「盗作の被害者」だと主張する西尾幹二、藤岡信勝、高森明勅はなぜ裁判所に提訴しないのでしょうか。まず第一に自由社側の盗作行為を認識しているからでしょう。そのほかに、育鵬社の執筆者に渡部昇一氏や渡辺利夫氏ら大物がいるから怖いというのもあるでしょう。その人たちを外して提訴すると裁判官から「なぜ外したのか」と聞かれて答えられない。そこで「悪いのは八木だ。あなたは被害者だ」と懸命に執筆者の分断工作を行ってきましたが、全く効果はありませんでした。だから提訴せずに「新しい歴史教科書をつくる会」の名前で宣伝戦を続けているのです。今後提訴するとしたら、育鵬社の採択を妨害するための「自爆テロ」でしょう。
 
西尾幹二、藤岡信勝、高森明勅は文句があるなら個別に育鵬社と全執筆者に申し入れるべきです。「新しい歴史教科書をつくる会」には何の法的権限もありません。再生機構や改善の会は「つくる会」を相手にする必要はありません。育鵬社は「つくる会」にではなく、西尾幹二、藤岡信勝、高森明勅に対し個別に「盗作は行っていない。交渉には応じない」と通告すべきです。
 
そして、育鵬社は業務妨害、信用毀損の被害に対して、扶桑社と田中英道氏は著作権法違反の被害に対して、法的手段をとってください。「文通」は終わりにすべきです。話し合う余地はありません。
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