POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





今回は夫がマクラをふるそうです。

(マクラ) 阮朝の4代皇帝「嗣徳帝(トゥドゥック帝、vua Tự Ðức)」は、1847年に帝位につきました。1883年に亡くなるまで37年間帝位にあり、阮朝最長の在位期間です。

しかし、その治世はフランスとの抗争に明け暮れるものでした。嗣徳帝は、儒教的な統治を理想としてキリスト教弾圧を強化し、1851年から1857年にかけてフランス人とスペイン人の宣教師を斬首刑に処します。日本のキリシタン弾圧(1597年の二十六聖人の殉教、1622年の元和の大殉教など)に較べて250年近く新しい出来事です。

フランスはスペインと連合してベトナムへの武力侵攻を開始し、1858年ダナンに侵攻・占拠し、1859年にはサイゴンを占拠。武力侵攻の根拠地とします。阮朝はフランスと講和し、1862年第1次サイゴン条約を締結しました。この条約で、阮朝は国内のキリスト教布教の自由を認め、戦費賠償金を支払うことになりました。

日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つ、日米修好通商条約は、1858年のことです。

1874年には、第二次サイゴン条約が締結され、この条約で、阮朝はベトナム南部6省のフランス主権を承認し、ベトナム北部のハイフォン(Hải Phòng)を開港し、紅河(Sông Hồng)の通行権をフランスに対し認めています。

明治政府が行った最初の海外派兵である台湾出兵が1874年のことでした。

1882年、紅河でフランス人がトラブルに巻き込まれると、フランス軍は軍事行動を起こし、ハノイを占拠しました。清朝の救援を受けた阮朝側はフランス軍を撃破。この敗戦でフランスは追加派兵を決定し、阮朝とフランスの間での緊張が高まりました。1883年嗣徳帝が亡くなりました。(マクラの終わり)



トゥドゥック帝廟(Lăng Mộ Vua Tự Đức、Khiêm Lăng)にやってきました。この蓮池の釣殿に立ったとき、なぜか中学時代に修学旅行で行った清水寺が思い出されました。涼しげな風に吹かれたからでしょうか。回廊を歩いた感じが似ていたからでしょうか。ベトナムも日本も中国の文化と深く関わっています。そのせいなのかも知れません。



「執謙殿」というところで、日本から来た親子にお会いしました(手前の母子です。奥の人たちはここで書籍を販売していた人です。)。しばらく、ベトナム情報の交換です。



奥に進むと、象と馬と役人が出迎えてくれました。



カイディン帝廟にも行きましたので、その話はまた、、、

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