多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

「日の丸君が代」強制処分なんてぶっとばせ

2011年04月03日 | 集会報告
3月26日(土)、天気はよいが風が強くて寒い午後、「「日の丸君が代」強制処分なんてぶっとばせ」という集会が豊島区民センターで開催された(主催:「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会)。
渡辺厚子さん(北特別支援学校)は今年3月で定年退職、3月23日に行われた卒業式でも君が代不起立を貫き30日(水)に停職6か月処分を受けた。集会が開催されたのは式から3日後のことだった。なお、2週間前の10日には04年の不起立処分に高裁で逆転勝訴し、渡辺さんの減給1ヵ月処分も取消しといううれしいニュースもあった。ただし25日には根津さん・河原井さんの訴訟で、真逆の不当判決が出た。

この日は、渡辺さんの報告のほか、荻野富士夫さん(小樽商科大学)の講演、朴保(パクポー)さんのコンサート、連帯のあいさつというプログラムだった。荻野さんの講演は、内務省だけでなく文部省も治安維持の一翼を担い、「教学錬成」という名の思想動員を組織的に推進した戦前の文部省の「犯罪性」を明確にしたものだった。
当日の順序とは異なるが、渡辺さんの報告から紹介する。

渡辺厚子さんの報告

3月23日北特別支援学校中学部の卒業式があった。前日の22日に、十条駅前でビラを250枚まいた。23日の当日は約20人の支援者が校門前でビラをまいてくれた。
卒業式で「強制には従わない」と不起立し、「9時46分不起立現認」と副校長が宣告した。その斜め後ろには都教委の職員が見張っていた。そのほか、屋外には校門前ビラまきを監視する都教委の職員が2人(うち1人は中部支援センター)、あいさつをする職員が1人、計4人が来校した。
当日、卒業式のあと11時40分に校長から事情聴取を求められ、翌日午後都教委の職員が2人来校したが、いずれも聴取を拒否した。
定年退職する人間に停職6か月処分とは、どうしても見せしめのための処分をしてやるということなのだろう。しかし、わたしは「これには従えない」と、この先もがんばっていきたい。
わたしはこれまでずっと「日の丸強制はおかしい」と行動し続けてきた。
89年の指導要領改訂によりポールに旗が揚がり始めた。当時在籍していた学校ではみんなで反対したが、92年4月異動した府中ではじめて旗が揚がるのをみた。「わたしたちの力はこれくらいか」と情けなく涙がこぼれた。それ以来、人の心を縛り、職員みんなが反対していることを無視するこんなことは許せないと、反対を続けた。
2002年、大泉養護で鎖をまきつけられ泣きそうなハートの絵柄のブラウスを着たため処分された。03年には10.23通達が発出された。職務命令まで出して教職員を起立させることには従えない
わたしの父は旧満州に住んでいたが、家族をなくし日本に引き揚げてきた。一方日本は大きな加害責任がある。わたしは親の世代の天皇制国家の戦争加害責任を引き受けようと思った。その象徴だった日の丸君が代には服従できない。日の丸君が代の強制は、国家が個人の心を支配していくことだ。自分が、教員の一人として先兵になることは肯んじえない
今後のことをお話しする。4月から、田舎の母の介護をせざるをえない。しかし闘い始めたからには勝つまでやる。活動をこれまでより縮小しても、福井と東京を往復しながら基本的活動であるニュースづくり、集会の開催、ビラまき、学習会を続け、勝利の日をみたい。
3月10日、東京高裁で、アイムの組合員2人を加え169人全員の処分取消といううれしい判決が出た。ただ憲法判断は負け、損害賠償は認められなかった。それでも、日の丸君が代反対の歴史観はひとりよがりのものではなく国民のなかに少なからず存在していると認定し、不起立は真摯な動機に基づき、卒業式を混乱させた事実はなかったと認めた意義は大きい。「懲戒処分は重きに失する」という心強い判決だった。
職場の人に、不起立までできなくても、自分がいやだと思うことを実行しようと呼びかけている。なかには「週案を出すのをやめた」という若い先生がいる。
これまでずっと闘い続けられたのは皆さまのお力のおかげだ。これからもそれ以上のお力をお貸しいただき、こうした世の中はおかしいと、声をあげていきたい。

文部省の戦前と戦後――「思想統制」から「教学錬成」へ
              荻野富士夫
さん(小樽商科大学)

●文部省の治安機能への着目
戦前、社会運動の分野で学生の占める位置は大きかった。そこで学校当局が読書会や研究会を監視していたが、その元締めは文部省だった。内務省だけでなく、文部省が治安機能の一部を担っていたのである。
さらに強権で押さえつける思想統制だけでなく、思想動員も行った。1930年代後半の流行語は「教学錬成」だった。教育は極端な国家主義と軍国主義に塗りつぶされていったが「錬成」という言葉には、子どもをムチでひっぱたいて国家の望む方向に持っていくニュアンスを感じる。
●「思想統制」から「教学錬成」への大まかな流れ
戦前の教育は現在のように法律に基づくものではなく、1890年の「教育勅語」を大本にしていた。つまり教育は法律でなく、天皇が直接決めるということだ。
1928年の三・一五事件を契機に治安体制全般が強化された。たとえば治安維持法はそれまで最高10年の刑だったのが死刑になり、東京・警視庁だけに置かれた特高警察が全国に設置された。この年、文部省に学生課が設置(29年に学生部に昇格)され、課長は内務省からの出向者(特高経験者)を充てた。そして国立大学に学生主事を置いた。主事は掲示物や集会の監視を行い、学校警察と呼ばれた。
力で抑えることにメドがたつと、思想には思想をもって対処しようと、文部省は32年に国民精神文化研究所を設立し、マルクス主義に対する日本主義を確立しようとした。研究するだけでなく教育も行った。教育研究科は各県の師範学校の中堅教員を対象にマルクス主義批判を半年間合宿形式で教育し、修了者は地元の「国民精神文化講習所」の幹部になった。研究生指導課は「転向」学生を一対一で指導した。
33年に長野県教員赤化事件滝川事件が発生すると、政府は各省の次官・局長級をメンバーとする思想対策協議委員会を設置し、省庁間の連携を図った。文部省は34年に学生部を思想局に格上げし、対象を大学生・高校生だけでなく中学生や教員、社会教育分野まで拡大した。
35年の天皇機関説事件により36年に教学刷新評議会を設置し、学校を国体に基づく修練の施設とし、躾・修練を重んじることとなった。教育方針は新段階へと進んだ。
文部省は「国体の本義」(37)、「臣民の道」(41)という「聖典」ともいうべき副読本を大量に配布した。また37年に思想局は教学局という外局に格上げされ(その後大戦中の47年にふたたび内局に改組)、共産主義の温床ともいうべき個人主義や自由主義を排撃し、日本精神を根本にした「錬成教育」が始まった。
当時東京市教育局は錬成教育の最先端を走り、1万7000人の小学校教員を道場に集め「皇国の道」「惟神(かんながら)の大道」「八紘一宇」「神武天皇肇国の古(いにしえ)」を強調する二泊三日の「塾的鍛錬」を40年から実施した。これはやがて全国に広がっていった。43年度に沖縄で行った講習会で、教学官は「教育の任務は日本の戦闘力を強めることである。子どもらにもっと戦争ごっこをすすめて敵愾心を吹きこまねばならない」とまで発言した。教育は自壊していった。
●戦後教育への連続と断絶
戦争が終わっても文部大臣は「益々国体の護持に努むる」という方針を「新日本建設ノ教育方針」で示し、愛媛県のある学校長は「敵の教育監視があるので表面では民主主義的な教育を実施するが、裏面では密かに皇国民教育をしなければ将来陛下のため国家のために従容として死ぬという人物の再現は不可能である」と述べた。
文部省はGHQの教育指令をサボタージュして、旧教学局関係者を温存し、教育勅語に固執した。
しかしさすがに46年5月になると民主主義を取り入れた4分冊の「新教育指針」が刊行され、47年3月に教育基本法が成立した。その一方で、学生運動や教職員組合運動に対する新たな教育統制が始まった。
「思想統制」から「教学錬成」に至る流れを支えたものは、国家権力の施策の貫徹だった。しかしそれを実施し、工夫を加え展開したのは、官僚や教職員、学者だった。戦前でいえば国民精神文化研究所の研修に参加した地方の教員である。最初は無関心でもだんだん順応し、消極的参加から積極的参加、動員へと向かった。いまの都教委の公務員も同じだろう。
また、これまでみたように網の目を張り巡らせるような重層的な思想統制のため、抵抗の余地はほとんどないように見える。しかしそうした状況でも不服従や真理の探究は続けられ、それが憲法や教育基本法の内発的な下地となった。学問の分野でも、たとえば歴史学では戦時中の地道な実証的な研究が、戦後日の目を見ることになった。
いま「戦前」が復活している。しかし「戦前」がそのまま復活しているわけではない。それは記憶や教訓、それぞれの場での戦後の反対運動が有効であったからだと確信している。ただし、いうまでもなく決着がついたわけではない。いまもせめぎ合っている状況である。
    (なお、この講演の詳しい内容がこのサイトに掲載されている)

朴保さんのコンサート

朴保さんのコンサートは、「リムジン江」のピアノ弾き語りに始まり、みんなで歌って踊れる「鯨狩り」まで10曲に及んだ。集会で2-4曲のミニコンサートはときどき行われることがあるが、マイク、ミキサー、アンプ、スピーカーを持ち込む1時間の本格的なコンサートだった。
曲の歌詞は、父の祖国韓国への墓参、危篤の母の歌、体罰を受け電車に飛び込んだ中学生、代々木公園のガジュマルの木、傷痍軍人・松代大本営・従軍慰安婦など、メッセージ性の高いものが多かった。朴さんの歌はソウルフルだった。
なかに、どこにも核兵器を落としてほしくないという「HIROSHIMA」、原発反対の「もんじゅを止めよう」があった。
  もんじゅを、もんじゅを、もんじゅを止めよう 母なる地球が泣いている
もんじゅは福井県敦賀にある高速増殖炉で95年に大事故を起こした。東電福島の事故が現実に発生したいま、ピッタリのプロテスト・ソングだった。

☆地震から3週間あまり、大量放水で放射線は地下深くまで浸透し、敷地内の土壌にしみこみ地下水を汚染し続けている。また大気中に24時間放射線を拡散し続けている。いまだに今後引き起こされる被害の大きさは推測することすら不可能である。
東京電力はこれから背負う膨大な賠償金に再起不能の打撃を受けている。関東地方の電力供給のニーズがなくならなるわけではないので、企業が消滅することはない。しかし新旧会社に分離するといったかたちの実質倒産になるだろう。市場はこうした事態を予測し、東京電力の4月4日の株価の終値は449円、いわゆる額面を割り込んでいる。
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2 コメント

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Unknown (赤とんぼ)
2011-04-06 21:27:56
突然のコメント、失礼します。かれこれ2年前くらいからブログ拝見していました。

多面体さんの記事では、集会報告を楽しみに読んでいるのですが、事後報告でなく、集会などの予告の記事も書いていただけたら嬉しいなぁと思います。
自分は今、学生で、教育問題や憲法擁護についての集会などに参加したいと思うのですが、いつどこでやっているかの情報をどうやって得ればいいのかと思っていて、コメントさせていただきました。

自分の心の中にある思いをどこにぶつけたらいいのか、思っているだけじゃ何も変わらないのに、という心境です。
長々と失礼いたしました、ご返答いただけたら嬉しいです。
返信する
集会の情報 (多面体F)
2011-04-10 21:17:53
>いつどこでやっているかの情報をどうやって得ればいいのか

一番よいのは、集会の会場に置いてあるビラです。
その他、週刊金曜日
 http://www.kinyobi.co.jp/
の市民運動案内板は参考になります。また教育や教科書に関しては
子どもと教科書全国ネット21
http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/top_f.htm
の「集会・行事のお知らせ」も参考になります。
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