もう1か月もたつが、先月の今頃は都知事選のボランティアをやっていた。反原発統一候補の宇都宮健児氏は歴史的な大敗を喫したが、わたしなりの総括を書いておきたい。
石原慎太郎・前都知事の突然の辞任表明が10月25日(木)、やっと13年の悪政から1320万都民が救出される日がやってきた。そして宇都宮健児さんの出馬表明は11月9日の金曜だった。どうせ出るなら湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)、海渡雄一さん(前・日弁連事務総長)、国谷裕子さん(NHK)のようなもう少し若い人が出てくれればとは思った。ただ早くから石原に「世襲」を約束された対立候補の猪瀬直樹氏も今年66歳、同じ1946年生まれである。だから年齢面でのハンディはない。
翌週11月14日(水)に中野ゼロでキックオフ集会が開催された。1400人も支援者が集まりあの広い大ホールがいっぱいになった。じつは浅野選挙のときも選挙の1年前に同じ中野ゼロの小ホールで集会が開催された。会場は人がまばらでとても悲惨な光景だった。これだけ見ても本当によかったと思った。
宇都宮さんの出馬の理由は「東京に民主主義を取り戻したい」ということで「法律家なので、憲法を守る東京をつくっていきたい」とのことだった。なぜわたしたちがこれほどまでに石原を忌み嫌ったのかクリアになった気がした。また、高校無償化からの朝鮮学校排除問題、外環道建設、築地市場移転、オリンピック誘致など個々のイシューに対する見解も明快だった。
この日スピーチした人は雨宮処凛、落合恵子、田中優子、佐高 信、鎌仲ひとみ、山本太郎、海渡雄一らの各氏で、会場で出会った知人が「まるで週刊金曜日の読者会のようだ」と言っていた。いい得て妙な表現である。北島肇・前編集長の顔もみられた。
この週の土曜日にははじめてボランティアに行った。まだ選挙事務所はなく、宇都宮さんの弁護士事務所がある銀座のビルの下の方のフロアだった。三越の東側にある文具店に買い出しにいった。場所柄驚くほど高く、一緒にいった女性が「来週家の近くの100円ショップで調達してきますよ」と言っていた。次の土曜はじめて四谷三丁目の事務所にいった。ここはかつて民主党の小川敏夫参議院議員が選挙事務所として使った場所だそうだ。部屋の飾りつけなどを手伝った。
11月27日(火)夜、日比谷野音で「宇都宮けんじさんとともに東京から脱原発を!大集会」が開催された。1時間ほど遅れて参加した。スピーチをしたのは広瀬隆、笠井亮
手みやげ代わりにチラシを1人40枚程度渡され、帰りに近所の団地でまいて帰った。また丸ノ内線で帰るので、せっかくなので途中下車して事務所で公選はがきを数十枚もらって帰った。夜はせっせとはがきの記入だ。
11月29日(木)告示日 第一声は有楽町マリオン前だったが、もちろん日中は行けないので、夜の高円寺北口に行ってみた。「東京なのにウツノミヤ! 弁護士なのにケーンジ!」の連呼。ドラム隊の熱狂の演奏と寒いのに半裸のサンバ隊の踊り。車台の上のジョニーさんがかなり浮いていた。せっかく「高円寺の乱」の地元でやるのだから若者向けイベントにすればよいのに、周りはおじさんおばさんだらけで、ちょっともったいなかった。
なお地域の勝手連の活動は浅野選挙で相当やり「勝手連は何でもできるし何をしても構わない。ただし選挙運動だけはできない」と言われたり、顧問弁護士から「あんたたち、勝手なことをしたんじゃないの? 選挙は上の人のいうとおりにやらないといけない」と説教されたりしてすっかり懲りたので今回は選対事務所のボランティア活動一本に絞った。とはいうものの法定チラシのポスティング500枚を2回自宅周辺で手伝った。
告示後は、チラシの折りや証紙貼り、段ボール詰め、発送作業が主になった。これまでの選挙ボランティアで出会った人、都高教の方々の顔をたくさんみかけた。
そのうちに電話入れが主になった。シナリオを書いたS区議のOさんは、ほさか選挙や川田選挙でも電話入れのシナリオをつくった方なのでとても話しやすい。安心して電話入れができた。
12/15(土)選挙の最終日、午後どうしてもはずせない集会があり、終わると同時に四谷三丁目にかけつけた。しかし「もうやることはないので新宿駅西口に行ってほしい」と言われた。西口広場はすごい人出だった。街宣車では、板橋、八王子、荒川、三鷹、東村山、日野、杉並など各地の勝手連のメンバーのスピーチが次から次へと続く。たしかに地域的な広がりはあったようだ。ただ浅野選挙のときには学者・ジャーナリスト勝手連(略称・がじゃ連)などがあったが、そういう重層性はなかった。ただ宇都宮候補担ぎ出しの立役者はある編集者だそうで、実際にはいろんな人がいろんな場所で支援していたのは確かだ。それから川田選挙の最終日のような熱気は感じなかった。街頭活動は8時で終わったが、神楽坂近辺のポスティングがまだ残っているというので、少しポスティングを手伝った。20時以降も駅で頭を下げたことがあるが、こういう体験は初めてだった。
12/16投票日。わたしは1週間前に不在者投票をすませていたので、とくに何もやることはなかった。じつは事務所から「本日、夜8時ごろから、選挙事務所にて開票速報を宇都宮を迎えて見ますので、ご都合がよろしければお越しください」というお知らせをいただいていた。しかし浅野選挙のとき居酒屋に集合して速報を見始めたら、放送開始30秒後に「石原当確」が出て大いに落ち込んだ体験があったので行かなかった。今回はさすがに30秒ではなかったが30分ほどで猪瀬当確が出た。浅野選挙では281万対169万のダブルスコアでがっかりしたが、今回は猪瀬433万対96万と4倍以上の差で前回を上回る惨敗だった。この得票数は日本選挙史上、個人としては最多得票記録なのだそうだ。
そうなった理由はいくつも挙げられる。「社共共闘を実現できれば勝てる」と信じられていたのだが、もちろんそんなことはない。いまや参議院東京都選挙区で定数が4から5に増えたのに、小池晃で当選できない時代なのだから・・・。
また選挙で勝つにはどこで何票必要で、そのためには具体的にどんなことをすべきかという戦略や戦術がなかった。もしかすると上の人は考えていたのかもしれないが、下には伝わってこなかった。こんなことを繰り返していたのでは、そのうちだれも立候補してくれなくなるだろう。
たとえば東京は、原発好きな人が多く、かつ30代40代の男女や70代以上の女性にウヨクファンが多いことは、在特会の街頭活動などをみていて実感するところである。こういう層への対策は何か考えていたのだろうか。
サンバ隊とジョニーさん(写真は11月29日夜の高円寺)
猪瀬という人がどんな人なのかは、本当はよく知らない。一度街頭演説しているのをみかけたことがある。そのときは東京の地下鉄でネットやインターネットがつながるようになるということを延々と力説していた。所詮その程度の人物なのだろう。
猪瀬は石原後継の知事なので、おそらく東京の状況は最低4年間これまでと変わらないだろう。いや、同日に行われた総選挙で安倍、麻生、下村、稲田という最悪の内閣が成立し、おまけに自民党の政調会長が高市早苗なので、都教委の教育委員などはいまよりもっと悪くなる可能性すらある。
石原慎太郎・前都知事の突然の辞任表明が10月25日(木)、やっと13年の悪政から1320万都民が救出される日がやってきた。そして宇都宮健児さんの出馬表明は11月9日の金曜だった。どうせ出るなら湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)、海渡雄一さん(前・日弁連事務総長)、国谷裕子さん(NHK)のようなもう少し若い人が出てくれればとは思った。ただ早くから石原に「世襲」を約束された対立候補の猪瀬直樹氏も今年66歳、同じ1946年生まれである。だから年齢面でのハンディはない。
翌週11月14日(水)に中野ゼロでキックオフ集会が開催された。1400人も支援者が集まりあの広い大ホールがいっぱいになった。じつは浅野選挙のときも選挙の1年前に同じ中野ゼロの小ホールで集会が開催された。会場は人がまばらでとても悲惨な光景だった。これだけ見ても本当によかったと思った。
宇都宮さんの出馬の理由は「東京に民主主義を取り戻したい」ということで「法律家なので、憲法を守る東京をつくっていきたい」とのことだった。なぜわたしたちがこれほどまでに石原を忌み嫌ったのかクリアになった気がした。また、高校無償化からの朝鮮学校排除問題、外環道建設、築地市場移転、オリンピック誘致など個々のイシューに対する見解も明快だった。
この日スピーチした人は雨宮処凛、落合恵子、田中優子、佐高 信、鎌仲ひとみ、山本太郎、海渡雄一らの各氏で、会場で出会った知人が「まるで週刊金曜日の読者会のようだ」と言っていた。いい得て妙な表現である。北島肇・前編集長の顔もみられた。
この週の土曜日にははじめてボランティアに行った。まだ選挙事務所はなく、宇都宮さんの弁護士事務所がある銀座のビルの下の方のフロアだった。三越の東側にある文具店に買い出しにいった。場所柄驚くほど高く、一緒にいった女性が「来週家の近くの100円ショップで調達してきますよ」と言っていた。次の土曜はじめて四谷三丁目の事務所にいった。ここはかつて民主党の小川敏夫参議院議員が選挙事務所として使った場所だそうだ。部屋の飾りつけなどを手伝った。
11月27日(火)夜、日比谷野音で「宇都宮けんじさんとともに東京から脱原発を!大集会」が開催された。1時間ほど遅れて参加した。スピーチをしたのは広瀬隆、笠井亮
手みやげ代わりにチラシを1人40枚程度渡され、帰りに近所の団地でまいて帰った。また丸ノ内線で帰るので、せっかくなので途中下車して事務所で公選はがきを数十枚もらって帰った。夜はせっせとはがきの記入だ。
11月29日(木)告示日 第一声は有楽町マリオン前だったが、もちろん日中は行けないので、夜の高円寺北口に行ってみた。「東京なのにウツノミヤ! 弁護士なのにケーンジ!」の連呼。ドラム隊の熱狂の演奏と寒いのに半裸のサンバ隊の踊り。車台の上のジョニーさんがかなり浮いていた。せっかく「高円寺の乱」の地元でやるのだから若者向けイベントにすればよいのに、周りはおじさんおばさんだらけで、ちょっともったいなかった。
なお地域の勝手連の活動は浅野選挙で相当やり「勝手連は何でもできるし何をしても構わない。ただし選挙運動だけはできない」と言われたり、顧問弁護士から「あんたたち、勝手なことをしたんじゃないの? 選挙は上の人のいうとおりにやらないといけない」と説教されたりしてすっかり懲りたので今回は選対事務所のボランティア活動一本に絞った。とはいうものの法定チラシのポスティング500枚を2回自宅周辺で手伝った。
告示後は、チラシの折りや証紙貼り、段ボール詰め、発送作業が主になった。これまでの選挙ボランティアで出会った人、都高教の方々の顔をたくさんみかけた。
そのうちに電話入れが主になった。シナリオを書いたS区議のOさんは、ほさか選挙や川田選挙でも電話入れのシナリオをつくった方なのでとても話しやすい。安心して電話入れができた。
12/15(土)選挙の最終日、午後どうしてもはずせない集会があり、終わると同時に四谷三丁目にかけつけた。しかし「もうやることはないので新宿駅西口に行ってほしい」と言われた。西口広場はすごい人出だった。街宣車では、板橋、八王子、荒川、三鷹、東村山、日野、杉並など各地の勝手連のメンバーのスピーチが次から次へと続く。たしかに地域的な広がりはあったようだ。ただ浅野選挙のときには学者・ジャーナリスト勝手連(略称・がじゃ連)などがあったが、そういう重層性はなかった。ただ宇都宮候補担ぎ出しの立役者はある編集者だそうで、実際にはいろんな人がいろんな場所で支援していたのは確かだ。それから川田選挙の最終日のような熱気は感じなかった。街頭活動は8時で終わったが、神楽坂近辺のポスティングがまだ残っているというので、少しポスティングを手伝った。20時以降も駅で頭を下げたことがあるが、こういう体験は初めてだった。
12/16投票日。わたしは1週間前に不在者投票をすませていたので、とくに何もやることはなかった。じつは事務所から「本日、夜8時ごろから、選挙事務所にて開票速報を宇都宮を迎えて見ますので、ご都合がよろしければお越しください」というお知らせをいただいていた。しかし浅野選挙のとき居酒屋に集合して速報を見始めたら、放送開始30秒後に「石原当確」が出て大いに落ち込んだ体験があったので行かなかった。今回はさすがに30秒ではなかったが30分ほどで猪瀬当確が出た。浅野選挙では281万対169万のダブルスコアでがっかりしたが、今回は猪瀬433万対96万と4倍以上の差で前回を上回る惨敗だった。この得票数は日本選挙史上、個人としては最多得票記録なのだそうだ。
そうなった理由はいくつも挙げられる。「社共共闘を実現できれば勝てる」と信じられていたのだが、もちろんそんなことはない。いまや参議院東京都選挙区で定数が4から5に増えたのに、小池晃で当選できない時代なのだから・・・。
また選挙で勝つにはどこで何票必要で、そのためには具体的にどんなことをすべきかという戦略や戦術がなかった。もしかすると上の人は考えていたのかもしれないが、下には伝わってこなかった。こんなことを繰り返していたのでは、そのうちだれも立候補してくれなくなるだろう。
たとえば東京は、原発好きな人が多く、かつ30代40代の男女や70代以上の女性にウヨクファンが多いことは、在特会の街頭活動などをみていて実感するところである。こういう層への対策は何か考えていたのだろうか。
サンバ隊とジョニーさん(写真は11月29日夜の高円寺)
猪瀬という人がどんな人なのかは、本当はよく知らない。一度街頭演説しているのをみかけたことがある。そのときは東京の地下鉄でネットやインターネットがつながるようになるということを延々と力説していた。所詮その程度の人物なのだろう。
猪瀬は石原後継の知事なので、おそらく東京の状況は最低4年間これまでと変わらないだろう。いや、同日に行われた総選挙で安倍、麻生、下村、稲田という最悪の内閣が成立し、おまけに自民党の政調会長が高市早苗なので、都教委の教育委員などはいまよりもっと悪くなる可能性すらある。