かくれて咲く花

~凛として~

"The hard is what makes it great."

2014-02-23 22:27:33 | Weblog

ああ、なんてなんてなんて我らが真央ちゃんは素晴らしいんでしょう

私「うめ」は、真央ちゃんの演技を見ては泣き、真央ちゃんの会見を見ては泣き、記事を読んでは泣き、バンクーバーに続いて泣きっぱなしでございます

銀メダルのときにも書いたのですが(こちら)、本当に真央ちゃんは常に最高レベルを目指して努力を重ねて、ジョアニー・ロシェットさんのことばを借りれば、一生忘れられない素晴らしい演技を私たちに見せてくれた。我々がどんなにことばを尽くしても、やっぱり同じ競技者として真央ちゃんを応援し、賛辞を送ってくれた海外の選手のみなさんの言葉のほうが、真央ちゃんにとっては何より嬉しかったんじゃないかなあと思います(→まとめ記事)。とりわけ真央ちゃんも会見で「憧れの選手」と認めたロシアのプルシェンコさんが“real fighter”と評したとおり、そしてタラ・リピンスキーさんのことばをお借りしながら付け加えれば、"This is the Mao we know, and this is the Mao we will forever remember”だと思います。

もう私なんかがあれやこれやことばを綴るよりも、この荒川静香さんのインタビューに答える真央ちゃん(その1その2)を是非ご覧ください。試合を終えて、フリーの演技は100%満足だと言い切る真央ちゃん。しかしそれは「望んではなかったけど、ショートがあったからこそ」であり、また「やることはやってきた」「たくさん練習してきた」からであったことが、真央ちゃんの表情にすべてが凝縮されていて、「本当にこの4年間の努力が実ってよかったね真央ちゃん」という思いでいっぱいです。もちろん結果として、メダルを持って帰れなかったことは「日本代表として申し訳なかった」と言う責任も真央ちゃんは感じているのですが、だけど私はファンとして、真央ちゃんにこれ以上のプレッシャーや心の負担をたとえほんの微量であってもかけてしまうことは自分も苦しくなるくらいだったので、「金メダルを取ってほしい」と口に出すことはできなかったです。「真央ちゃんが一番」といつも思っていますし、実力的には真央ちゃんが世界一だと思っていますが、NHKのフィギュア解説委員がおっしゃってたように、金メダルが取れるかどうかというのは運というか、名選手でも金メダルを取れなかった選手はミシェル・クワン選手など何人かいて、でも彼らは記憶に残る演技をたくさんのこしてきたと。このNHKの方は「女子フィギュアスケート史に残る最高傑作のひとつ」と評してくださり、次のオリンピックにも出て「キムヨナの前で金を獲ってほしい」とまでおっしゃっていて、よくぞ言ってくださったとも思ったのですが、だけど真央ちゃんにとってはあくまでも「自分との戦い」なんですよね。「バンクーバーの時の自分にリベンジできた」という真央ちゃんのことばを聞いて、「倍返し」とかいうおぞましい考え方が流行するような世の中で、もうそんなことばを使うことすら恥ずかしいと思う人が増えてくれればいいと願います。

この記事のタイトル"The hard is what makes it great.”というのは、映画「プリティ・リーグ(原題:A League of Their Own)」のセリフから。この映画は第二次世界大戦中、男は戦場へ行ってしまっているので、銃後の(アメリカでこういう表現をするのかどうかはわかりませんが)婦人たちによる「女子プロ野球」が編成され全米を興行するというお話。そのなかで、飲んだくれの監督(トム・ハンクス)が、家庭の事情で大事な試合を前に去ろうとするナンバーワンプレーヤー(ジーナ・デイビス)に言うんです。ジーナは「私がいなくても試合はできるし、それにこれくらい誰だってできることよ」と言うけど、本当は野球が大好きで辞めたくないし、彼女の実力は突出していて誰もまねできることではない。そこでトム・ハンクスは「誰もができるような簡単なことをやってるんだったら値打ちはない。誰もができないこと、難しいことをやるから価値があるんだ」(記憶ではこんな字幕だったと思います)と。それを"The hard is what makes it great.”という短い、だけどとてもパワフルなひとことで表現する英語の魅力もあわさり、私はこのセリフに真央ちゃんを思い、そして自分自身でもやっぱり難しいことに挑戦しなきゃ意味ないな、と今年はじめにこの映画を観て改めて思ったのでした(この世に「たまたま/偶然」なんてなくて、ちょうどいい具合にケーブルでこの映画をやっていて、もう20年くらい前の映画なので、当時観たときとはまた違うたくさん響くところがあって、いい映画でした)。

フリー後のインタビューで真央ちゃんは、ショートの演技を「取り返しのつかないことをしてしまった」と言って悔やみながらも、だけどフリーで「できると信じて、自分が目指してきた演技ができた」と、本当に凡人には到底わからない域の困難や葛藤を乗り越えて、そして自分が納得できる演技ができた喜びが内側から溢れていて美しかった。こんな最上のものを見せてもらって、真央ちゃんは「恩返し」なんていう言い方をしてたけど、私たちファンにとっては真央ちゃんの笑顔が輝くだけで幸せです。そしてなにより真央ちゃんは未来のスケーターに最高のお手本を、目指すべき最高峰を示して、完璧にその高みを登ってみせてくれました。 真央ちゃんは神様がお与えになられたギフトを努力して磨きをかけて、困難を乗り越えて、自分にとって最高の演技をやってのけたことで、世界にも素晴らしいギフトをのこしてくれました。本当に、what a gift!!!

つらいとき、真央ちゃんはこんなふうに自分に言い聞かせながら苦しい道を歩んできたのだという。

どんなに辛くても、試合はやってくる。自分が浅田真央であることから逃れられない

私はこのことばが一生忘れられないし、自分の魂に刻み込んで、尊敬する真央ちゃんに少しでも近づけるよう、自分自身と戦い、向上の努力を続けていきます。「できる」と信じて。そして、難しいことをクリアしてできたときの喜びもまた格別であることを思い出し、だからこそ挑戦は楽しいという牡羊スピリットですすんでいきます

8トリプル。荒川静香さんがおっしゃっていたように、これまで誰も成し得なかった、そしてこれからもできる選手が出てくるかどうかわからないような難しいプログラム。これが真央ちゃんが4年間目指して、「自分がやりたかった最高の演技」だったんですね。本当に気高く美しく、最高でした。真央ちゃん、あなたは世界一のスケーターであり、そして私の心のヒーローです

ありがとう真央ちゃん We love you!!!


あれから4年

2014-02-18 21:42:53 | Weblog

 

病み上がりでちょっと無理したら、またすぐ具合が悪くなってしまい、そろりそろりと社会復帰中の「うめ」でございます。かなり良くなってきたと思ってたのですが、自分でも思っていた以上に身体は弱っていたようで、ちょっとしばらくはおとなしくしていようと思います

実はまた具合が悪くなっているのは、いよいよソチの地で真央ちゃん登場の緊張からなんじゃないか・・・との説もあるほど、直前までできるだけオリンピックのことを考えないように努めてきたのですが(→心臓持たないので)、先週末くらいからはいよいよさすがにカレンダーが気になり、もう緊張を通り越して真央ちゃんのことを思うと既に涙が出てしまう状態あのバンクーバーから早や4年。この間に真央ちゃんが迷い、悩み、苦しみながらも歩んできた道のりを思えばなお感慨もひとしおで、本当になんてこの子は素晴らしいんだろうとこれまでも何度も真央ちゃんへの熱い思いを綴ってきましたが(こちらこちらなど)、もういまはこれまで真央ちゃんが練習してきたこと、目指してきた高いレベルの、集大成のパーフェクトな演技ができますようにとお祈りするばかりです。どうか真央ちゃんが納得のできる、そして試合が終わったあと、心からうれしくて、思わずぴょんぴょんと可愛らしく飛びはねてしまうような、そんな素晴らしい結果としてこれまでの努力が結実しますように

上の写真は、最近ではいちばん好きだった“I Got Rhythm”(2012のSP)の真央ちゃん。悩み苦しみのなかにいた真央ちゃんのために、ローリーさんが真央ちゃんが再びスケートを楽しめるように、笑顔になれるようにとの思いをこめて曲を選んで振付けをしたというバックグラウンドもあって、私もファンとして祈るような気持ちであったので、このプログラムは特に思い入れがあります。そしてこのNHKの特集ページを見て、また泣いているのでありますが、特にここ。

 

そして最も苦しんだジャンプ。練習では6種類すべてを跳べるようになり、スピードがあって流れるような美しいジャンプに変わってきました。
今、全種類の3回転ジャンプをプログラムに入れているのは、浅田選手ただ1人です。あとは「自分にしかできない最大の武器」とこだわってきたトリプルアクセルを成功できれば、求めてきた最高の演技が完成します。

 

いまの自分のレベルに満足せず、常に高みを目指して努力を続けてきた真央ちゃん。4年前からすべてのジャンプを見直し、スケーティングをさらに磨き洗練させてきた結果、6種類すべての3回転ジャンプを跳べるようになった。4年前のあのバンクーバーのときから、一時は止まってしまっていたようにみえても真央ちゃんはずっと進化し続けてきたのは、常人には想像もつかないほどの努力があったからこそで、真央ちゃんの努力と向上心に私はいつも魂が感応して泣いてしまうのです

私なんて、もう比べるのも失礼なくらい軟弱でわがままで、真央ちゃんの足元にも遥か及ばないけど、4年前から(そのずっと前からも)いろいろありながらもよくここまできたなあと、体調がアンニュイなこともあり、ちょっと感傷的な気分になっております。よく笑い、よく泣き、だけどよく頑張ってきたなと思う。でももうこれからは自分を追い込んで仕事をするのではなく、仕事も人生ももっと楽しむことに集中したいと思うようになりました。もちろん自分の向上のための努力は続けますが、実際のところ、以前のようにはもう身体がついてこないし、こういう自分に負荷をかける/がかかる働き方を続けることは難しいんじゃないかというかねてからの疑念も、これまでのようにその心の声に気が付かないふりをしてやり過ごすことはもうできないな、と認めたというか。仕事はほんとに大好きなんですけどね。しかしこれだけ心身に負担がかかる環境にいるのは、これ以上はもうちょっと限界かな、と正直思うのです。

どこに向かっているのかはまだわからないし、とりあえず体調を整えてから、どうするかじっくり考えるとして。

この体調と時差もあって、そしてあまりにも緊張しすぎてリアルタイムで真央ちゃんの試合を見ることは難しそうですが、真央ちゃんの笑顔が輝く結果となるように心からお祈りし、応援の気持ちをソチに向けて送りますね

ああ私の心のhero真央ちゃん憧れのプル様もびっくりするくらい、最高の演技になると信じてます


インフルエンザ・予防と対策(sort of)

2014-02-13 13:50:26 | Weblog

立春を過ぎて、気持ちはすっかり春に向かっているのですが、さすがに2月は寒いですね先週から体調を崩して、風邪だと思っていたら、なんと私「うめ」にもインフルエンザの魔の手が伸びていたのでした

お休みすれば4連休という月曜日のこと。約束があったので仕事に行くと、やはり咳が止まらなくて、「これは放置しておくと気管支へいく」と嫌な予感がしたので、くまさん先生の耳鼻科をすぐ予約夕方お伺いすると、くまさん先生は「そんなに高熱が出ているわけでもないし、咳が出るといっても喉もそんなに腫れてないし、咳止めと風邪のお薬を出しておきましょうか」と少し考えてから仰ったのですが、なんとなく先生も私もこのとき「なんか違うかも・・・」という気がして、「先生、念のためにインフルエンザの検査してもらっていいですか。このあいだ、近くで一人かかった人が出たので」とお願いすると、「うん、最近は熱の出ないインフルエンザもあるから、やっておきましょう」ということで、一瞬がまんして検査してもらう。久々にスーハー吸引などしながら結果を待っていると、くまさん先生が真剣な面持ちで「うーん」と考え込んでおられる。「ちょっと待ってね」とじっくり検討してくださった結果・・・

くまさん「ここ、薄く線見えるかな?見えるなら、偽陽性なんだよね」

うめ「ギヨウセイ?

くまさん「まだ症状は出てないけど、ウイルスには感染しているということ」

うめ「ということは、私はウイルスキャリアーなわけですか?

くまさん「そういうことです」

との診断。なんと!!!知らずにいろんな人にウイルスをまき散らしてしまったかもと心配していると、「これくらいなら感染力は弱いので大丈夫です」とのことなのでちょっと安心したのですが、昨年末、これまた嫌な予感がしてflu shot打っておいたのになあ・・・とがっかりしてしまいました。まあ予防接種を打ってても発症した厚生労働大臣がおられましたし、打ったから安心、というわけではないのはわかってはいるのですが、これまでflu shotを打たなくてもインフルエンザにはやられたことがなかったのに、せっかく打って備えていたら魔の手にかかってしまった、というのはどういうこっちゃと

ともあれ「一回勝負でいきましょう」とのくまさん先生の方針により、吸引タイプのお薬を処方してくれて、「家に帰って自分でやってきちんとできなかったらいけないので、お薬もらったらその場で薬剤師さんに聞きながらやってください。これ一回で抑えてしまって、で、あとはよく休んでね」と念押しされたので、「わかりました!先生に“その場で吸引してください”と言われましたと言います」と勇んで薬局へ向かうと、イナビルとかいうお薬を処方してくれた薬剤師さんが真剣な顔で「インフルエンザですか?」と。その真剣さにやや気圧されつつ「はい、でもまだ発症はしてないと言われたのですが・・・」と答えると、「いますぐここで吸引していきましょう。早い方がいいので」と、くまさん先生に言われたことを伝えなくてもすぐセットしてくれました。パウダータイプのお薬を吸引するたび、律儀に5秒カウントして息を止めている私をちょっと笑っていたような気はしないでもないけど、薬剤師さんの監督の下、ちゃんとお薬は体内に入ったはず。しばらくおとなしく寝ていて、その顛末をこうして記しておこうと思うくらい回復はしてきました。すごい高熱が出たわけじゃなく、咳も少し出るけど気管支まではいかなかったとはいえ、やっぱりかなりしんどかったし、いまもまだ本調子ではないですが、でも本格発症はなんとか食い止められた・・・かな。まあ油断禁物ですし、一応ウイルスキャリアーがウロウロしてちゃ周りも気の毒だということで、今週は休養回復に充てております。よって勉強もお休みで残念ではあるのですが、図書館で借りている本を読んでしまうのにちょうどいいかな。つい無理してしまう私の傾向をよくご存じの神様は、こういう休息をくださることで、「少しペースを落としなさい」というメッセージなのだと思いますし

看護婦の妹によると、せっかく予防接種打っておきながらかかってしまったけど、本格発症しなかったのは「注射打ってあったからかもよ」と。そう考えると、早めに手を打っておくことはやっぱり大切ですよね。そして直感ベースで生きている私「うめ」は、やっぱり「嫌な予感」がしたり、本能のアラームが鳴った時は絶対にそれを見逃してはならない、というマイルールを改めて肝に銘じております。あとはいい先生にかかること。ほんとに真剣に、じっくりと結果を検討してくださったくまさん先生でなければ、今回の結果は見逃されていたと思います。うっかり風邪薬なんかもらってたら、もっと大変なことになってましたもの。

というわけで、feeling dizzyになってきたので、少し休むことにいたします咳の風邪、インフルエンザと流行っているようですので、皆さまもくれぐれもご自愛くださいませ


だるまさんキティ☆

2014-02-09 22:23:08 | Weblog

東京はsnowyなweekend

雪が降ると街全体がしんと静まるのが好きで、白銀の世界を楽しみにしていたのですが、このところ薄着で外を歩き回っていたのと睡眠不足がたたり、風邪で寝込んでしまいました元気になったと喜んでいても、あんまり調子にのっちゃいけませんね。去年の秋からテーマを決めてintensiveに勉強しているのですが、このところ頑張っていたので知恵熱じゃないかという気がしないでもないのですが、あまりにも面白いのでどんなに朝早くてもワクワクしながら通っています。こういうintellectual stimulationがないと私は死んでしまうのですが、ちょっとドライブかけすぎて頭がショートしちゃったのかも?

ともあれ上の写真をご覧ください。キティちゃんのだるまさんですが、これがかわいいだけでなくvery specialなのは、黒羽だるまとのコラボというだけでなく、刑務所で作られたものであるということ。受刑者の方々が作業所でいろんなものを作っておられるのですが、サンリオが50周年事業の一環として、社会貢献活動としてこのだるまさん製作のコラボを決めたのだそうです。だかられっきとした正規のキティグッズ。クール・ジャパン(あるいは“キュート(カワイイ)”・ジャパン)の先駆けとして活躍し、いまや世界に羽ばたく我らが日本のキティちゃんは、こんなふうに「矯正」印にもなっているのでした。私はアイボリーのだるまさんをひとつ求めたのですが、日本全国には刑務所がこんなにあるのかとか、作業所ではこんなにいろんなものが作られているのかとか、ご関心のあるかたはこちらをおたずねください。「マル獄」製品は人気なのだそうです。「前掛け」なんかは、なかなか味がありますよね!

「矯正」ということばは、私にはちょっと息苦しく感じてしまいますが、受刑者の方は毎日どんなことを考えながらこうした作業に励んでいるんだろう、と思います。その前に、なぜ刑務所に入ることになったのか。どんな「罪」を犯したんだろうか、なぜそんなことをしなければならなかったんだろうか。もちろん悪いことをした人が罰を受けるのは、社会秩序を保つためにも、また社会正義の観点からも絶対に必要だと思いますが、罰することだけではなく、「なぜ」という疑問も同時に持たなければバランスが悪いと思うのです。

私はこの谷垣法務大臣の会見を読んで、死刑を執行するという、司法が決定した判断に基づいて行政の執行手続きを行う法務大臣の心のうちにふれて、涙が出てしまいました。死刑という制度に賛否はあっても、日本は最高刑として死刑がある方が秩序が保たれると考える国民の支持のうえに現行の制度が保たれている。死刑を執行するということは、人の命を断つ書類にサインをするという、語弊があるかもしれませんが、事務的な手続きをすすめるということであって、死刑を宣告することではない。これは行政ではなく、司法が判断すること。しかし歴代法務大臣のなかには、この“重い”手続きの実行をためらい、逃げる人も多かった。誰だってそんなことはしたくないのかもしれない。だけどその任に就いた者として、間違いがないように、死刑囚の記録にきちんと目を通され、その人がどんな人生を送り、なぜこんなことをしなければならなかったのだろう、とその人の事情や心に思いを寄せ、理解しようとされる大臣の誠実さと人としての温かさに、私はとても心打たれるのです。こんなふうに、その人に心をかける人がもっとまわりにいたら、もしかしたらこの人はこんなことをしなくてよかったのかもしれない。その人が悪人だったからだとか、生まれつき凶悪だったからだというわけではないんだろうと私は思いたい。人は誰も生まれたときは真っ白、ニュートラルだったというのは私の信念だし、たまたま自分はいまのところ何も凶悪事件なんかは起こしてないけど、努力してなければ、悪にたやすく堕ちてしまう可能性なんていくらでもあると思ってるから。

とはいえ、ひとたび悪に傾いてしまったのをどこまで「矯正」できるかどうかということについては、これについて私は楽観的ではなかったりする。どんなに言っても、教えてもわからない人がいる、ということもこれまた事実だし、そういう人が「変わる」ということはどんなに周りが努力しても難しい。でもそういうふうになってしまったのは、その人だけの責任ではなくて、家庭環境とか、もっと広くは生まれた国によってとか、どこでどんなふうに育ってきたかというのを反映しているだけともいえるわけだし。結局のところ、ここもその人の「意志」だと思う。自分のしたことを反省して変わろうとしているか、あるいは反省なんかもとより自分が悪いとも思ってなくて、変わろうなんて露ほども思っていないか。このどちらかなのではないかと。前者にはよい方へ変わる可能性と希望があるけど、後者にはそれはない。この二極分化の境目は何なのかはわからないけど、可能性がない方にエネルギーを投下するのは無駄であり、しかしながら後者をほっておけばいつまでも人に迷惑をかけ続けるだけだし、どちらもこの世界を構成していると考えると、切り捨ててしまうだけではさらに悪いほうへいってしまうだけなんだろうし。

矯正、ということばは息苦しいけど、よい方に変わっていく、進歩向上の方へいくというのは、私は人間として生まれてきたからには当たり前だと思っていたけど、これは誰もに備わるナチュラルな資質ではなく、やはり意志の問題ということも分かってきた。とても素晴らしい人に出会い、ああ素晴らしいなとか、あんなふうになりたいなと憧れたり感化されたり、そういう化学反応はその人のなかに感応するものがないと生まれ得ないもので、そんなものを持っていない人にはまったく響かないし、響き合うというお互いの心の交流も生まれ得ない。人間の相性がchemistryと表現されるように、それぞれの人の魂が共鳴しあうことがなければ、「無反応」というのもまた人間同士の化学反応のひとつの結果であるのだろう。それはただお互いに存在している次元が違いすぎて交差し得ない、というだけの話であり、ふれ合わないとかどんなに話してもかみ合わないということが悪いということではない。ただ違いすぎて交(混)われない、というだけのことだから。

この世でのこされた時間、自分がなにができるかと考えると、なにか世のため人のためになることをして天に帰りたいと思っている。小さなことから大きなことまで、いろいろ考えてはいるけど、だけど「なにも悪いことはしなかった」というだけで自分は善人なのだと思うような人生で終わりたくない。失敗したりいろんないやな思いをしながらも人のなかに分け入って、いろんな人に、いろんな人生を送っている人たちにもっともっと出会いたいと思うようになってきました。あんなに人をこわがっていた「うめ」なのに!!これまたwhat a change!!!ですが、それはきっと私がたくさん「いいもの」を見せて頂いたからだと思うんです。先日も、またまた神様から「ごほうび」を頂いたばかりで、だいたいは元気に頑張ってはいても、やっぱり日々心に澱のようにたまるものはあるわけで、ちょっと心が折れかけていたとき、私にとって最強の心のカンフル剤を投入してくれました。しかも2本も!!これで頑張らなきゃ、私ばちが当たってしまうよね、というような。逃げられないな、という追い込まれ感もないわけではありませんが、自分がここまできた道のりを考えれば、自分が見てきたもの、ふれてきたもの、その「素晴らしいもの」を体現するために努力するしかありませんもの。

風邪で寝込んだおかげで、心身ともに疲れを癒して、そしてこうしてものを書く元気もまた湧いてきて。インプットしたらアウトプットしないとバランスを崩してしまうし、バランスの悪いなかで一生懸命バランスを取ろうとして気疲れしてしまったから、そこはもうバランス悪いままでいいんだろうと思い直したし。「バランス」は取れるところは取ればいいし、取れないところは無理に頑張ることはない。こんなふうにbreakthoughが起こるときというのは、一度ガタッときてそこから立ち直るプロセスのなかで多くの気づきがあるというのもこれまでのパターン。この一連の学びのなかで出会ったこのだるまさんのキティちゃんは、私「うめ」のお守りになりましたし、また心のなかに生まれた新たな「誓い」を忘れないように、記念として大切にしようと思います


superbowl 2014 (halftime show)

2014-02-06 21:25:14 | Weblog

Superbowlでシーホークスが初優勝ということで、シアトルには人口より4万人多い()70万人のファンが優勝パレードに駆け付けたとのこと。アメフトで盛り上がる学校に留学していたし、どっかのキレイとは言えない川に飛び込むような野球チームのファンでもあるので、その喜び爆発熱狂感はとってもよくわかります。きっとみんなうれしいんでしょうねでも何度説明を受けてもアメフトがあまりわからない私は、Superbowlといえばハーフタイムショー専門なんですが。

留学中、アメリカ人の親友に「この日の夜はみんな家でテレビを見てるから、絶対すいてるしごはん食べに行こう」と誘われて外出すると、大げさではなくほんとに町全体から人の気配が消えている。「ほんとにみんな家でテレビ見てるんだね。お客さんも私たちだけだね」とびっくりして言うと、彼女の「ほんとになんでみんなアメフト見るのかしら。私もアメフトが嫌いなわけじゃないけど、そこまで絶対見たいとは思わない。でもだいたいのアメリカ人はみんな見るもんなのよ」とパスタをつっつきながら説明してくれて、「だいたいうちの学校だって、アメフトはbig businessでしょ。チームのグッズの売り上げだけでもすごいし、それからホームゲームね。あれだけ儲けてるなら私たちのtuition(学費)に還元してくれればいいものを、観客をより多く入れるためにあのでっかいスタジアムを毎年増築したりしてるから、よけいに私たちが払わないといけないのはrip off(ぼったくり)だわ!!」と憤っていた。Superbowlというと、あの日の楽しかったgirl's nightを思い出す。そして、うちの学校のチームがホームゲームで負けた日、riot(暴動)が起こったことも

そのアメリカ人Ruthは、まさに“Sleepless in Seattle(「めぐり逢えたら」)”に出てくる主人公アニー(メグ・ライアン)の親友ベッキー(ロージー・オドネル)みたいな感じで、大好きな頼れる親友だった。最初に寮でのルームメイトとして出会った私たちは、とても気が合って、私の面倒をなにかとみてくれて、私たちはいつも大笑いしていた。寮を出てからも、アニーとベッキーのように、待ち合わせしてランチを一緒に食べたり、常に電話でお互いに報告し合ったり、“best freinds”や“thinking of you”のカードを送り合ったり、caringな彼女の気遣いは日本から誰も知らない小さな町に来た私の不安な心をほぐしてくれて、そしてアメリカ人らしくおおらかにいつも温かく包み込んでくれる、大好きで大事な特別な親友だった。あのシアトルの映画が私にとって一層特別なのは、ベッキーとアニーの友情に、いまはもう会えない彼女のことを思うからでもある。

映画のなかで、ベッキーとアニーが「めぐり逢い(原題:An Affair to Remember。邦題の「めぐり逢えたら」はこれにちなんでいる)」を観るシーンがある。もうセリフまで覚えちゃうくらいお気に入りのシーンにベッキーが感動しつつ、しみじみ“men never get this movie”というところも、いつも彼女を思い出す(ちなみにこれに対比して、サム(トム・ハンクス)が「めぐり逢い」のあらすじを親友の妻が泣きながら説明するのを聞いて、“that's a chick's movie”と言い放つシーンもあって、ほんとに芸が細かい)。日本に比べると、アメリカ人の方がmanly manが多いような気がするのですが、Ruthがよく言っていたのは“well, that's a guy thing”。アメフトなんかはまさにそうですが、あれは完全に男の世界というか、私たち女にはよく分かんないけど、なんで男の人はあんなに熱心になるんだろうねという、半ばあきれながら、だけどああいういつまでも“男の子”なとこはかわいいよね、という気持ちがベースにありながらも我々女の理解を超えている、男女の違いを実感するところというか

というわけでアメフトは男の人にまかせて私の専門(?)のハーフタイムショーについて。今年はブルーノ・マーズでした。前座のよくわからないバンドはさておき、Phillip Phillipsの“Gone, Gone, Gone”は改めて名曲だと思いましたね。これはカントリーに分類してもいいんじゃないかと思うのですが、ちょっとメロウな感じのメロディ。歌詞もいい。サビのAnd I'll do it for you for youのとこなんかは一緒に歌って盛り上がれました彼はアメリカン・アイドル優勝者(シーズン11)らしいのですが(ちなみに初代アメリカン・アイドル優勝者・Kelly Clarksonが2012年のnatinal anthemを歌ってます)、まったく気取らない服装(せっかくのスーパーボウルなのに、あんなに普段着でええんかというくらい)に、グリーンの瞳がすてきでした。ちなみに瞳の美しさでいけば、ジュード・ロウとロブ・トーマス(Matchbox 20)が最上だと思います。吸い込まれそうになる美しさ!!!

で、メインのBruno Marsですが、とってもentertainingで楽しいショーでした。ゴールドのジャケットで、バックダンサーもお揃いのスーツで、彼がドラムもダンスもこんなにできる人だとは思わなかったのですが、途中のレッチリ(Red Hot Chilli Peppers)の登場は、最後の名曲“Just the Way You Are”のしっとり感を盛り上げるためだけだったんじゃないかという感じがしないでもなかったなあ。レッチリのcrazy感があまりにも場違いというかステージのテイストと違いすぎて、なんでこの両者のコラボなんだろうという不思議な取り合わせでしたが、しかしその効果たるや抜群(?)で、歌の前に紹介された「この歌を愛する人に捧げます」メッセージがより崇高なものに。音楽はいろいろな気持ちを重ねながら聴くものでありますし、この歌は恋愛の歌ですが、世界各地に派遣されている米軍のmen and womenからのメッセージのなかには、愛する人たちだけでなく、子どもたちへのものもありました。愛する人の美しさを無条件に愛でているこの歌は、子どもたちへの愛をうたう歌にもなるんですね。この歌にそれぞれ愛する人への想いをのせて、遠い地で任務に就いておられるんだな、と思うと胸が熱くなりました。私にとってのこのブルーノの歌は、まえにこんな文章を書いているとおり、好きな人が自分のために歌ってくれたらもちろん嬉しい、cuteな歌ですが、でもやっぱりもうひと押しほしいなあという感じ。もちろん聴くたびに、好きな人を想いますですけどね

自由を愛する私「うめ」は、やはりアメリカ国歌を聞くたび、特に最後のo'er the land of the free and the home of the braveのところにうらやましくなるのですが、ことしは私はほんとにbrave enoughなんだろうか、と自分の胸に問いかけてしまいました(→“Brave”これも名曲です)。来年のnational anthemはぜひHayley Williamsに歌ってほしいです。彼女の英語はとっても聞き取りやすいし、あの透明感のある伸びやかな声が大好きなので、アメリカ国歌をどんなふうに歌いこなすのか聞いてみたいのです。こんなにしっとりと、だけどこんなにパワフルで、だけどこんなにキュートにはじけて歌う彼女に敬意を表して、髪の毛ピンクにしたいと思ってるくらいですもの


「羊」なんかじゃない (part I)

2014-02-01 17:09:17 | Weblog

石井ゆかりさんの牡羊座の本を持っていたら(12星座シリーズで出ています)、ごはんを一緒に食べていた友人たちが関心を示して、しばし星座談義。改めて自分の牡羊ぶりに大笑いだったのが、「嫌いなもの」。この本によると、白羊宮生まれは「押さえつけられること、束縛されること、命令されること、そしてなにより負けることが嫌いです。決めつけられることも嫌いですし、単独で自由に動けないと、強い鬱屈を感じます」とのこと。まさにそんな人がおりましたですよね。自由を求めて、最近ついに脱走した人が

明るくて正義感が強いのはいいけど単純で猪突猛進、という、自分でもかなりこの描写に当てはまると思ってはいるものの、いまひとつ不本意だった従来の牡羊座のティピカルイメージが、ゆかりさんの手にかかるとこんな素敵な「いいところ」になる。

自分の権利も他人の権利も、堂々と大切にする力を持っています。
落ち込むときはどーんと落ち込み、弾むときは誰よりも弾めます。
ウソの一切ないエネルギーの持ち主であることが、牡羊座の役割です。
 
 
そう、「人は人、自分は自分」。これは私「うめ」が死んでも守り抜きたいと思っている、とてもとても大切にしている価値観の根幹。
 
「他の人がそうしてるんだから、あなたも同じようにしなさい/すべきだ」と、小さい頃から学校や職場で何度言われてきただろう。みんなと一緒、ということが重んじられる日本的社会では、マイペースに動く私のようなタイプは「自分勝手」「協調性がない」「和を乱す」とか言われるゆえんでもあるけど、だけど私は自分がそうしているからといって人も私と同じようにすべきだとも思ってないし(もちろん同じようにしたいと思ってるんならすればいいだけの話だし)、別に周りに「合わせない」のではなくて、自分のなかに「周りに合わせないといけない」という意識がないだけであって、「合わせなきゃいけない」と信じて人にもそれを強要する人たちが、私みたいなのを「なぜ合わせないんだ!!」と糾弾するような、自分とは違う価値観を持つ人を攻撃したりということもしない。しないというより、自分のなかにないんだから、彼らからすると「意識してそうしない」というふうに見えるのかもしれないけど、私にとってはそんなことを「する」という発想がもともとないので、ただナチュラルにいるだけで彼らがなぜそんなに怒るのかがわからない。
 
みんな自由に好きなようにやればいいと思ってる私からすれば、なんでそんなに周りが気になるのかなとか、そんなふうに周りの目を気にして監視し合う窮屈な横並び意識のなかにいるのかな、と不思議な気はするけど、それもまた彼らの生き方なんだろうから、別にみんなが自分と同じようにマイペースになるべきだとも思ってないし(なってくれたらいいな、とはちょっと思うけど、期待はしていない)。ただ自分が自由でいたいから、人も自由でいてほしいし、自分の自由と価値観を大切にしたいのなら、他人の価値観も自由も同じように尊重する。それが「人は人、自分は自分」の基本だと思っている。
 
人は人らしく、犬は犬らしくーーーというのは佐藤愛子さんのことばで、人間であろうと犬であろうと、すべての生命体はのびのびと自由でいるのが自然なんだというおおらかな世界観に、私は深く共感する。愛犬家の愛子さんが、現代の犬は人間の都合に合わせていろんな制約があって、自由に走り回ることもできない、それを見るのが忍びない、と仰るのにも本当に同感。実家の自由犬(ラブラドール・♂)も極めてフレンドリーで、人をみるとうれしくて近づいているだけなのに、なかには「こわい」「人に迷惑にならないように散歩させるべきだ」と怒る人たちもいるから、リードを付けないと外に出してあげられないのは本当にかわいそうでならない。時々近くの公園で誰もいないとき、リードを外すと、「いいの?」というようにちょっとこっちを振り返ってから(これがなんともかわいい)嬉しそうに元気いっぱい駆けていくその姿は、ちょっと太めではあるけど彼が最も輝くひとときであり、これが本来の姿なんだから、いつもこんなふうに広々としたところで自由に走り回れたらもっと幸せなのかもしれないなあ・・・とちょっと胸が痛む。
 
また自由を重んじるわが母の方針で、彼は「犬ならこれくらいのことはできるだろう」と人間からある意味期待されている“芸”を仕込まれていないので、その種のことはまったくしない。だからうちに来るお客さんのなかには、「お手」と言っても彼がなんの反応もしないので、「なんでできないの?」とか「なんで教えてないの?」と言う人もいるけど、こういう“人間中心”の発想を我々(母と私)は最も嫌い、そして内心軽蔑する。ああいうことをする犬は、できたらごほうびに食べ物をやるからできるようになっているだけであって、そんな餌付けのような“芸”には何の価値もない。「何かもらえるから」と期待して人間の言うことをきくような、そんな卑しい精神というかプライドのない犬になってほしくないのだ。なので好きなボール遊びをしていても、彼はポーンと高く放り投げたボールを器用にパクッとキャッチするまではなかなかなのに、こっちに持って来てくれるのかと思いきや、キャッチして終わり。その場でポロンと口から落としてしまうので、こちらがいちいち取りに行かなければならない。フリスビーであっても同じで、アンタほんまにレトリバーなん??(retrive=行って取ってくる)との疑念は湧くものの、彼が人間を喜ばせようというのではなく、ただ自分がしたいからそうしているという、なんの媚びもない自由犬であることを、我々は大変誇りに思い、だからこそなお愛しいんですよね
 
それから「主従関係」も死ぬほど嫌またうちの犬を引き合いに出すと、「人間と犬を同等に論じるな」と怒る人もおられるかもしれないけど、カリスマドッグトレーナーが、犬に言うことをきかせるため、人間より上だと思わせてはいけないというのが、私にはどうしても納得いかない。犬も大切な家族の一員であり、他の家族(人間)と同じだと思っているから、「飼い主(人間)に服従するのが犬」という前提で接することはしたくない。人間が地上で最も優れた生き物、とカンチガイしておられる多くの地球人たちに反発しているというのもあるけど、なにより「どちらかが上でどちらかが下」という“主従関係”が私にはway too uncomfortableなのですよ。人間対人間以外であってもそうだし、ましてや人間対人間であればなおのこと嫌でたまらない。みんなお互いにフラットだと思ってるから、服従するのもさせるのも嫌なんです。要は人に何かを強要するのもイヤだけど、強要されるのはもっと嫌ということに尽きるんですけどね。
 
こうして熱く「嫌なもの」について語りながら、まったくI'm so Aries!!と思わざるを得ないわけですが、まあ牡羊座生まれが全員こんなじゃないと思うし、牡羊座以外の人でも私のような人は、率直に言って日本にはそうたくさんはいないんだろうと思うけど、世界には多くの同志というか似たような価値観の人は存在しているはず。じゃあみんながアリエスだったらいいのかというと、こんな人たちばっかりでは世の中バランス悪いような気もするから(→理由)、地上がたとえばアリエスだらけ=自分と同じ価値観に統一されることがheavenなのではなく、いろんな人がいて、お互いの価値観の違いを認め尊重し合い、多様性を大切にまもりながら平和に共存している、というのが私の考える地上のheavenなんです
 
 
基本的に底抜けの明るさ(単純さ)を身上とする牡羊たる私「うめ」ではありますが、これまた牡羊らしく落ち込むときは本当に落ち込みますし。ほんと悩み苦しみながら書いたものって、徹底的にどん底というか、自分でも同じ人と思えないくらい暗いですものね「真珠」なんかPart I とか銘打ちながら、これ続き書きたくないというか、書けるのかなと自分でも不安になるくらい深海魚というか。
 
ただ、牡羊座の疑いのなさというか、「自分がこうだから、みんなこんなもんなんだろう」となんの疑問もなく思っているところは、よくも悪くもという面があるのかなと反省するというか、「世の中こんな人ばっかりではないんだな」という配慮がもうちょっとあったほうがいいのかな、と思うこともあったり。ねたむとか恨むとかいう感情が自分にはあんまりないから、そういう黒い情熱を向けてくる人が理解できないし、しかし一方で私のそういう面(なんでそんなふうに思うのかが分からない)がさらに逆恨みや反感を増幅させてしまうこともある、というところはあるのかもしれないな・・・とか。まあ長くなっちゃうので(既にこの記事長すぎですが)、これはまた改めて書きたいと思っています。嘘がなによりも嫌い、ということについてもね!!
 
ちなみに「『羊』なんかじゃない」というタイトルは、なつかしい名作「天使なんかじゃない」(矢沢あい)をもじったものであり、誇り高い牡羊座は「羊のように従順」では決してない、という思いをこめております