かくれて咲く花

~凛として~

手にした真珠 PartI

2011-08-30 21:14:18 | Weblog


8月後半にかけて、この夏の疲れがドドっときたのか、心身ともに疲弊し切ってしまい、書きたいことはたくさんありながらも、集中することができなかった。これだけ身体に負担がかかるほどの暑さも、朝夕はすこしだけ、吹く風に涼しさを感じるようになってきた。季節はめぐる。まもなくまた、秋がやってくる

私にとって「書く」ということは、起きている時間のほとんどの間に頭のなかをめぐる思考やら思いやらを紡いで、それを整理してかたちにする作業。それは継続した思考という、程度の長さはあれ時間をかけたプロセスのなかで無から有を生み出すというcreationにほかならないものであって、あることを考え続けてひとつの結論や答えに辿りついたり、あるいは自分のなかにあるさまざまな思いをぐるぐるとめぐらせているうちに、ふと「こういうことなのかな」と視界がひらけるようなブレイクスルーが起こったりする。だから「書く」ためには、いつもなにかを考えていたり、あるいはあることを考え続けているという耐久力と、そのかたちになりかけたものをすくい上げ、ことばにするという瞬発力と集中力のどちらも必要とするので、疲れ切った状態ではインプットもアウトプットもままならなくなってしまう。本当はこれじゃいけない。よくない状態でも、ある程度のものは出せるというのがプロであるというなら、「変なものは出したくない」という意識に逃げ込みたくない。そのためにも、体調管理が一番大切ということを思い知る。身体の声に耳を澄まし、より一層ケアとメンテナンスをしていかなきゃと思っている。

8月中旬に、羽海野チカさんの原画展を見に行った。私にとっては『3月のライオン』の作者、世の中的には『ハチミツとクローバー』の方が知られているのかもしれない。私はライオンしかまだ読んでないけど、彼女の描く世界は心の深奥にしまいこんで忘れてしまったような記憶を呼び覚まし、それはそれはもう心がぎゅーっと締め付けられ、掻きむしられ、身もだえする一方で、その痛みや傷ついた心を優しく包み込む繊細な愛に満ちている。原画展を見て、改めて全巻再読して、心の深いところまで潜り過ぎて戻ってこれなくなった海女さん状態になっていた。真珠を探しに行ったのに、お魚の先導にまかせるまま潜って行ったら、そこは自分が忘れていた、あるいは閉じ込めていた過去の記憶があり、それは深いところで現在進行形の感情に影響を与えるものだったんだ・・・と発見してしまったという感じ。そこへ沈み、“上がって”きた海女さんは、涙を流していた。自分でも理由のわからない、自分の深いところで見つけてしまった涙を。

『ライオン』により引き出された自分の感情に整理がついたものから書こう、なんて思っていたらいつまでも書けないから、少しずつでも整理をつけるためにも書き始めていくと。6巻で進展のあるひなちゃんの「いじめ」。もう本当に自分がひなちゃんの立場なら、いたたまれないと思う。自分が仲良しで大好きな友達が、あるグループからいじめられていて、みんな自分もやられるのが怖くて見てみぬふりをする。担任の女教師に相談しても、「川本さん(ひなちゃんの名字)の思い過ごしじゃないの?」と責任逃れをするだけで、教室内で起こっている事実を直視しようとしない。ひなちゃんは大好きな友達がそんな状況に置かれているのを見過ごすわけにはいかなくて、「あの子と一緒にいると、ひなちゃんもやられるよ」というクラスメイトからの忠告というのか、自分が巻き込まれずに済ませるにはそうするしかないんだよという立場からの意見を聞かされても、友達のそばから離れなかった。それでも優しいがゆえに傷つき過ぎてしまった友達は、中学3年の大切な時期に、転校してしまう。自分たちの所業で転校に追い込んだにもかかわらず、それをあざ笑うグループの言動にひなちゃんは激怒し、つかみかかる。やり場のない怒りと義憤に突き動かされて。それからいじめのターゲットはひなちゃんに移り、クラスメイトは関わらないように、いじめているグループに遠慮しながら過ごしている。ある日登校したひなちゃんを待っていたのは、黒板いっぱいに書かれた自分の悪口。誰も消さないし、誰も何も言わない。その状況を見て喜ぶのは、例のグループ。そんな正義も救いもない状況になっていても、担任の女教師は言い放つ。「川本さん、あなたみんなとうまくやれてないの?」「どうしてそんなに協調性がないの?」

それを聞いて「頭が真っ白になった」おねいさん、暴れまくって鼻血まで出たひなちゃん(帰宅後)。私は血の気が引き、憤死寸前になった。時に最高血圧80、最低60を記録するような低体温低血圧人間の心を抉ったこの女教師のことば。この世に蔓延る、事なかれ主義者の典型的な態度。それまで自分が体験し、見聞きしてきた理不尽や不正義に対する怒りが、束になってかかってきたようで、噴き出してくる感情を歯を食いしばり、必死になって抑えなければならなくて。この女教師やいじめグループの所業がトリガーとなり、実に自分の心のなかにはまだまだ現在進行形で血を流している、抑え込んでいたさまざまな感情が潜んでいたんだなあと知る。

この世で最も憎むべきものは、悪そのものよりも、悪が為されていても見てみぬふりをする事なかれ主義なのだと気付いたことも大きい。「何事もない」状況を至上の善とする者たちにとって、現状を変えようとしたり、いまある問題を指摘するような人は「波風立てる者」として徹底的に嫌う。この女教師にとっては、「自分の受け持つクラスには問題が起きていない」ということが大切なので、問題を起こしているグループの存在ではなく、問題を指摘したひなちゃん、正義を貫いたひなちゃんが「波風を立てる者」として、非難の対象となる。そんなことがあるなんて言わなければ、「何も起こっていない」ことになるから。自分が責任を取る事態になるのが嫌で、子どもの純真な勇気を否定する。この正義を貫いた子どもの話は、宮部みゆきさんの『英雄の書』でも考えさせられたけど、この場合はもっとひどくて、成績もよくスポーツもできる人気者の男の子ヒロキが、ひなちゃんと同様にいじめられている子をかばう。それでいじめはおさまるけど、このヒロキの「英雄的行動」を気に食わない教師が「これ以上調子に乗らせてはいけない」ということで、この教師子飼いの生徒(そんなやつらがいる!)に命じて、さまざまな嫌がらせをさせる。生徒たちは、教師がバックにいるのだからやりたい放題。ヒロキは家でも学校でも弱音を吐けない。自分のしたことに一点の曇りもなく、なんら非難されることではないのに、この世に巣食う嫉妬や、ヒロキのような「非の打ちどころのない」存在自体を憎むどす黒い感情のターゲットになる。なぜだ。そのうちに彼の心に「闇」が入り込む。あいつらが許せない。ヒロキはついに「黄衣の王」という「英雄」に魅入られ、ついにその教師の子分ふたりを殺害し、行方不明になってしまう。正義は正義だ。だけどそれが通じない場所に置かれた時、闇に呑み込まれてしまう人間もいる。まさに「器」が試される。

ひなちゃんの場合、救いはある。おじいちゃんが江戸っ子で、自分の孫が友達を助けたことを誇りに思い、「胸を張れ!!」と全肯定してあげたり、零ちゃんの元担任の林田先生がそれを聞いて激高し、殴り込まんばかりにその女教師に「同業者として言ってやりたいことがある」と熱い思いを爆発させたり、家族そして周りの大人たちがひなちゃんを大切にしていること。高橋君という味方もいる。ひとりじゃない。ひとりで抱え込んではいないから、たとえたったひとりで耐えなければいけない時間が長くとも、そのつらさ悲しさを受け止めてくれる「学校外」の世界がある。なんとかひなちゃんは、踏ん張っている。「逃げない」ために。そこで逃げたら、一生後悔する。いじめるやつらや女教師やクラスメイトではなく、自分に負けてしまうのが悔しいから。

世間の無理解や迫害に直面したとき、人は真価を問われる。自分のやっていることがまったく認められない。正義と思ってやったことが、「あなたが悪い」「周りに迷惑をかけているのがわからないのか」と責められる。自分の価値観が揺らぐ。どうしてこんなふうになったんだろう。だけど自分は正しいと思っている。譲れないし、もしもう一度やり直せるとして、自分がその後やられるということを知っていたとしても、ひなちゃんは大好きな友達を守るのだろう。その方が一生苦しいだろうから。あのときに友達を助けない代わりに、自分は「何事もなく」てよかった、と思えるような子なら、こんな苦しみは背負わないで済むのかもしれない。だけどそんな事無かれ主義者ばかりになれば、この世は光なき世になってしまうだろう。

「友達がいじめられているのをかばった」と聞けば、それは素晴らしい、勇敢な行動だと誰もがたたえるだろう。しかしその結果は、必ずしもこの世では称賛されることばかりではない。逆にその行動を憎むような、そういう心根の者もいる。いじめるのは恥ずかしいことだという価値観を共有しない人間も多数この世には存在する。もし「いじめられている子をかばったら、その行動は必ず評価される」と分かっているとすれば、この世からいじめはなくなるのだろうか。なくなるかどうかはわからない。しかし、「評価を受けるために行動する」人間は増えるのかもしれない。本当の義侠心、惻隠の情からの行動ではなく、「人から見られた自分」を意識しての計算された行動。いいか悪いかではなく、美しいか美しくないかといえば、本当の意味で美しいとはいえないような人間が増えるのだろう。だってひなちゃんは、そんなのを求めて友達をかばったわけじゃない。ただ大好きな友達が悲しい思いをしているのを見ていられなかった。そばにいてあげたかった。「そうすることで周りからよく思われる」ことや、「学校での評価が上がる」ことなど思いもせず、ただそうしたかったからそうした。純粋な好意。だけどその美しい心を、残酷なほど周りは踏みにじり、傷つけてくる。その時に自分を貫けるか。周囲が無理解であろうが、報われることなかろうが、敢然と立っていられるか。本当にこれでいいんだろうかと繰り返し自問自答するなかで、自分の価値観が揺さぶられる。何かをすることが「絶対に正しい」だとか「こうすれば必ず報われる」という確証のない中で、あらゆる困難や誘惑があってもなお、自分が正しいと信じる道をいくこと。その先に何があるかはわからない。だけど自分の選択の結果は、自分が引き受けるもの。まわりのせいにするか、まわりの状況を言い訳にして「何事もなかったように」生きるのか、血を流しながらも信念を貫くのか。逆境のときこそ、人は真価を問われる。

むかし読んだ曽野綾子さんのエッセイに、もし善行をすれば必ず神の恩寵を受けられるというのであれば、神のご機嫌をとるために善行を行おうとするのが人間だというようなことが書いてあった。ヨブ記のような、全部読み通すのもしんどいような物語があるのは、自分はよいことをしていても、神が次々に試練をお与えになるのは、神様は人間の「それでもなお」という気持ちを見ておられるからなのかもしれないと思う。「報われる」ということがわかっていてやっているのではなく、報われなくとも、だけどそれでも自分が正しいと思うことをする。苦しい状況のなかで自暴自棄になり、神や世間を呪いたい気持ちになってもなお、踏みとどまって善きことをなそうとする。そこに人間の本当の美しさがあり、それを神様は見ておられるのだと思う。もし報われなかったとしても、それでも自分から逃げなかった、自分にできる限りの努力はしたと思えることは、それはやはりある種の「成果」であって、天に恥じない結果をのこしたということになるのだと思う。そして、思いがけない形で、予期せぬかたちで、自分を貫いた結果はもたらされる。誰も見てないようで、心ある人は必ず見ている。ギリギリのところで、助けはかならず差し伸べられる。本当に、血を吐く思いをくぐり抜けた人にしか分からない境地。

理不尽に立ち向かう強さを鍛え上げるためにあった道のりを思うと、「うまくやる」だとか「やりすごす」こともできず、不器用にしか生きられない自分をもどかしく感じたり、「大人だなあ」と心から尊敬する方から教えられ、至らないことが多すぎてイヤになることもある。自分の魂は守りぬきながら、毅然と、凛としながらもよりしなやかさを併せ持った人になりたい。ゆるぎなく、かつしなやかに。遠い目標でも、いつかそこへたどり着くためには、一歩ずつ、進み続けなきゃ。辛いことが多すぎたからといって、いいことがまったくなかったわけでもない。「最上のもの」にふれられる喜びは、流してきた涙が多かったぶん、より深く大きくなっているというのも事実だから。


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