『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**1920年代(大正・昭和初期)における日本の内政・外政についての雑感**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月02日 | 北部水源池問題連絡会

1920年代(大正・昭和初期)における日本の内政・外政についての雑感

林 素行(執筆時;京都大学理学部3年)

 いきなりですが、1920年代と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。大多数の人はおそらく何も思い浮かばないというでしょうが、それは置いておくとしてこれまでの「進歩史観」的見方では明治期の政界を支配していた藩閥勢力の力が衰退し、代わって第一次世界大戦中・後から盛り上がる民主主義的・社会主義的・民族主義的運動を受けて、日本でもデモクラシーの機運が高まり、普選運動・女性運動・社会運動等が活発になり、労働争議・小作争議が頻発するようになった。

 これに対して、都市の新興商工業者といったブルジョワジーは普選法を通したり、労働条件の改善等を行う一方、治安維持法により社会主義者等を弾圧し、英流の立憲君主的方向を目指しました。一方で陸海軍の急進派や民間右翼はこうした風潮に反発し、ファシズムにひかれ不景気や政財界の腐敗等を理由に国民の支持を広げクーデター・暗殺により支配していきます。更に左翼によると大正デモクテシーは不完全でありしょせん徒花でしかないとみる人もいます。

 一方、中韓等の靖国・教科書等の「圧力」に反発し、戦前は暗黒であったという見方を見直そうという勢力も明治あるいは1930年代の歴史に注目し、賛美することはあっても20年代に関してあまり興味を持っていないようです。更に英米から押しつけられたワシントン体制の中、国民全体が堕落したと極端にみる人もいますし、あるいは日露戦争で勝利し「坂の上」にのぼりつめた後、ひたすら30年代の軍部独裁へ少しずつ転げ落ちていったとみる人もいます。

 しかし私はそうは思いません。確かにそういった面もあったでしょうが、第一次世界大戦後の国際情勢の激変の中で、明治期から苦労してやっと自分達の手で民主主義的な政治を勝ち取り、短い期間だったとはいえ運用してみせ、また東アジアのわき上がるナショナリズムや米国との関係に苦悶しつつも何とか道を見出そうとした事実は簡単に捨てるべきものでありません。よく左右を問わず出される意見として、満州事変から日中戦争、対米開戦へのルートは不可避だった。なぜなら20年代の外交政策が国際協調であったとしても所詮帝国主義的意思の一形態であり、また排日移民法等、米の日本「敵視」があった以上、結局こうなる他なかったということを唱える人が多いですが、あまりにひどい戦争における日本、東アジアの惨禍をみるにつけ、いかにこれを回避しえたかを歴史の可能性の中から見出そうとするのは、現在北朝鮮・イラクで揺れる日米関係を再考し、将米の日本外交の助けとする点でも有益なことと考えます。

 さて1920年代の内政・外政を語る上でまず外せないのが原敬でしょう。以前は最初の本格的政党内閣の首班となるも、普選運動・社会運動には冷淡でまた積極政策により政界の腐敗を招いたとして従来あまり高い評価はされてこなかったのですが、最近は彼が山県有朋の率いる保守的な陸軍・官僚・貴族院と妥協しなから漸進的に日本に民主政治を根付かせていったとして評価されてきています。

 まず山県系勢力が衰えてきた理由を考えてみると、(1)日露戦争に勝つことにより、明治維新からの目標である列強との対等な関係・独立が達成されて理念を失ったこと (2)デモクラシーの潮流 (3)帝大出の官僚 (特に内務省)が政友会・同志会に取りこまれたことがあげられます。更に彼らは日露戦争に勝った後、弱体化した日英同盟に代わり獲得した満蒙権益を守り中国本土に進出するため、四次にわたる日露協約を結び露と連携することで( 独とも考えられていた) 門戸解放をかかげる米と対抗しようとしました。しかしロシア革命でこの構想は瓦解し、中国の政権の一つ(段政権)を援助し直接乗り出そうといった政策も失敗し、英米の警戒心の中、東アジアで孤立するという完全な手づまり状態の中、原に国をゆだねる他ありませんでした。

 原はアメリカの存在を重要視し対米英協調を軸とする一方、これまでの軍事的政治的圧力により大陸に進出していこうという政策を修正し、内政不干渉の原則のもと経済的に進出していこうという政策に切り替えました。そして欧米とのこの経済「戦争」を勝ち抜くために国民経済の国際競争力をつけるべく、積極政策と称される四大政綱が設定されましたそれは (1)第一次大戦の近代総力戦に備えた軍備の近代化 (2)産業の育成、それを支える (3)交通機関等インフラの 全国的な整備と (4)人材育成としての高等教育の拡充という内政に重点を置いたものでした。そして原は山県の機嫌を取りつつも選挙権の拡充や積極政策により国民的支持基盤を広げて政党(政友会)、議会の権威を高め、それらを背景に山県系官僚の基盤である郡制の廃止、植民地総督の文武官併用制の採用、貴族院の最大会派である研究会を自らの支持基盤にとりこむ両院縦断政策、司法官僚の力をそぎ国民の司法の意識を高める陪審法等により山県系宮僚閥を突き崩していきます。

 更に田中義一陸相の協力のもと山県の力の源泉でもあった陸軍も自らのコントロール下に置き始め、皇太子(後の昭和天皇)の渡欧や摂政就任等を通して宮中をもコントロール下に置きだしました。このように首相を中心とする立憲君主制の確立にほぼ成功した原敬でしたが、1921年11月東京駅で暗殺されました。そして翌年2月には原の最大の敵であった山県も病死しました。山県の死を評して石橋湛山いわく「 死ぬことが彼の国家になした唯一最大の貢献であった」といわれた通り彼の死は当時歓迎され、山県系官僚閥は崩壊することになります。

 だがこれまで彼の厳格なコントロールの下に置かれてきた陸軍は彼の死でたががはずれ、昭和初期の若手将校の暴走につながることになります。さてその後政党は権力を握ることになりますが、政権の座をつかむために、軍部と連携したり、「国体」を利用したり腐敗が高じたりして自らの支持基盤をほり崩すとともに一度自らのコントロール下 においた物を自由にしてしまい後に自らを滅ぼすことになります。ある先生がおっしゃっていたことですが、もし原が長生きしていたら日中を通じて陸軍をコントロール下におき続けていたとともに西園寺に次ぐ準元老的な立場から日本の民主化を進め、過剰な政党間抗争を抑え30年代の軍部の台頭を阻止できたかもしれないという意見に私も同感です。

 さて20年代の外交を語る上でもう一人欠かせないのが幣原喜重郎です。戦前は軍部・右翼・政友会から「軟弱外交」と非難され、戦後は一変して「平和協調外交」とかなり高い評価を得ることになりますが実際の所はどうだったのでしょう。彼は第一次大戦後の新しい潮流に乗り、通商の促進を主眼とする経済主義的な外交を推進にあたるに、中国の統一と安定の環境の整備を前提とし、そのことが国際秩序の安定を阻害しないようにという信条のもと、新しい東アジア秩序の形成を積極的に模索しました。そしてそのためにワシントン体制の熱心な守護者となりました。彼は中国各地に割拠する軍閥間の抗争に不干渉主義を貫く一方、列国( 英米)と協調し中国の不平等条約問題、特に関税自主権と治外法権を斬新的に解決するために1925年10月に北京で関税会議を開きました。しかしこれは軍閥間の抗争等により失敗に終わりました。一方南方では国民党とソ連・共産党の連合勢力が急速に力を伸ばしはじめワシントン体制を動揺させ始めました。これに対してワシントン会議のプログラムを列国と協調してあくまで史実に着実にすすめようとしましたが、これがある種の非妥協性を生むことになり、まず英続いて米がこの枠組から次第に離れていくことになります。

 幣原は最後までワシントン体制を守ろうとしましたが、彼が政策実行のため憲政会・民政党と結びつきを強めたことで政党間の争いに巻きこまれ、金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れると共に第一次幣原外交も終わりを告げました。代わった政友会の田中義一首相は自ら外相を兼ね、満蒙特殊権益の維持・拡大を図りました。 幣原は外相時代、満州を支配する張作霧が国民の信頼を失っていたことをみて彼の失脚と満州新政権の樹立、更にこれを国民政府に妥協・統合させることまで考えていました。だが田中外相はこのような大局的な見通しに立たず、中国ナショナリズムの高揚と列国との協調を無視した近視眼的なものとなり、結果として東アジアの国際的変動への対応に失敗し、英米等との中国における外交的孤立を招くことになりました。

 1929年7月民政党の浜口内閣のもとで再び外相に就いた幣原はもはや列国の協調との復活は難しいとみるようになります。英米に続いて1930年中国の関税自主権を承認した後、治外法権撤廃で共同歩調を求める英米両国とは距離を置き、蒋介石等の国民党穏健派と結んで過去の借款(西原借款等)の債務整理を進め治外法権の問題を解決していこうとしました。しかし債務整理はうまくいかないままで国民党穏健派はやがて国際連盟に資金援助を求めるようになり幣原から離れていきます。治外法権の問題も英米が本格的に交渉に入ったのをみて日本も交渉に入りますが中国はやがて関東州租借地の返還等不平等関係の清算を求めて交渉は暗礁に乗り上げます。こうして幣原外交が行き詰っていく中、国内では深刻な不景気等を背景に急進派が陸軍の主要部を占め満蒙問題の武力解決を目指し動きを強めていきました。そして1931年9月18日柳条湖事件が発生し、満州事変か勃発、幣原外交は終わりを告げます。この後日本は国際社会から孤立し、武力をもって独自の東アジア秩序を打ち立てようという方向に向かい、やがて破局への道をたどることになります。

 幣原外交が失敗した要因としては (ⅰ)国内の陸軍・右翼及びこれと結びついた政友会の反発 (ⅱ)日本が東アジアにおいて特別な立場であることを強く意識する余りややもすれば独善的になり柔軟性を欠いたこと (ⅲ)日中間の文化の違い、日本は不当な条約であっても守り、話し合いによって改正すべきという立場をとるのに対し、中国は正邪論の立場から不当な条件は破棄できる等が挙げられます。しかし彼が中国ナショナリズムの高揚を理解し、中国の不平等条約問題解決のため東アジアの新たな国際秩序の形成のため、日本が主導して積極的に列国に働きかけたこと自体はもっと評価されてよいのではないかと思います。

 自分がそもそもこの時代に興味を持った理由は二つあります。一つはもともと大平洋戦争に興味があり、なぜこういう悲劇か起こってしまったのかを考えるうちにこの時代に行きついたからです。もう一つはこの時代の建築様式、アールデコ様式に理由はうまく説明できないのですが強く魅かれるからです。1929年にできた阪急百貨店を幼い頃からみてきたからかもしれません。この時代に建てられた大阪の建築物について知りたい方は、海野弘著『モダンシティふたたび』をどうぞ。(但し今は絶版)だが中山報恩会の入っている中山製鋼所ビルもそうだが、こういった建物は今急速に老朽化し姿を消していっています。建物に限らず20年代に生まれた方ももう後10年もすればほとんど世を去り、直接知っている人はまれとなるでしょう。だから今こそ20年代をもう一度政治・外交・経済・文化あらゆる面で見直してほしいと願います。

********************************

この原稿は、中山報恩会誌「星友」第46号(2003年)に掲載されたものです。著者は北部水源池問題連絡会の林 和好さんのご子息です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**神隠し考**<2019.冬季号 Vol.105>

2020年02月24日 | 北部水源池問題連絡会

神隠し考

北部水源池問題連絡会
林 和好

 昔聞いた話だから詳しいことは忘れてしまったが、神隠しは高度経済成長期の始まる前には各地でよく聞かれた話しらしい。

 富山県礪波郡東般若の散居村としても有名な在所で、ある日の午後、忽然と一人の若者が姿を消した。昭和2~3年頃の出来事らしい、丁度田植えも終わりかけた6月中旬頃であったそうだ。

 村は大騒ぎとなり、村中の人々が総出で鉦や太鼓を打ち鳴らし、山や川や野原をくまなく捜し回った。しかし、若者は見つからず、その内だれかれとはなしに天狗が連れ去ったのではないかという噂が立った。

 村外れの境界はいくつかに分かれており、その辺りは怪しみ恐れられていた。そこには昔から天狗が舞い降りるという大木があり、村の人たちはその大木に天狗が降りて来るのを何人も見ていた。夜、村人たちは提灯をかかげ大木を幾重にも取り囲み、かえせ、かえせと大声で叫びながら、天狗が下りてこないか見張ったそうだ。

 数日後、若者は信州の山奥で発見され、地元の警察に保護された。若者は天狗に引きずり回されたらしく着衣はボロボロ乱れ、全身傷だらけだったそうである。

 村から遥か遠く離れた信州の山奥まで幾つもの険しい山谷を越えて、数日で行けるのはやはり天狗の仕業に違いないと村人は思ったそうだ。

 神隠しは本当にあったのであろうか。民俗学辞典によると「人が突然行方不明になり、数日捜しても見当たらぬ場合、往々にして人々は神隠しにあったといった。ことに子供に多く、まれに大人の場合もあった」と記してある。

 大人が神隠しにあった記録は少ないらしい。「耳袋」には「神隠しというたぐいある事」というなかで、18~19才の大工の息子が神隠しにあった話しが、「現代民話考l」(松谷みよこ 編)には大人の神隠しの話しが収録されているが、文献として記録されている事例は極めて少ない。

 「近世神隠し考」(山本光正 著)には「家出の原因を神隠しとしたのではないか。家出人や欠落人や出奔人が無事帰村した場合、神隠しという救いの手段として用いられた。過去を水に流す方法 の一つだった訳である。」また「成人の神隠しについての記録は少ないが、これは実際起きた神隠しより、家出人の救いとして用いられた神隠しの方が多かったため、近世の記録や伝承として残 ることが少なかったのであろう」と 推察している。

  柳田国男の「遠野物語」に は「黄昏に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ」と書いてあるが、黄昏時に行方不明になることが多かったらしい。ある地方では、夕方のかくれんぼは戒められている所もあったと聞いたことがある。

 吉本隆明も共同体の枠組の強い時代の異種の共同体の男女間の交通のあり方、結びつきは「神隠し」や「物隠し」や「ひとさらい」の外に考えられないと語っている。

 内山節の著書「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」には昭和40年以降、キツネにだまされたという話が社会から発生しなくなった。魔物の住む場所、世界がなくなってしまったのか。天狗の物語と通ずるものがあるような気がする。

 小松和彦は「神隠し」の著書のなかで神隠しとは、要するに失踪時には、人隠しであると同時に、こちら側の現実隠しであり、帰村時には失踪期間中の体験隠しである。家族生活や学校生活、会社勤めに疲れきった私たちには、現代こそ実は「神隠し」のような社会装置、突然帰還した人を 以前と変わらぬように、自然と迎えてくれる、そうした思いを実現してくれる装置が必要ではな いかと述べている。

 話しを初めに戻そう。神隠しにあった若者は帰村し、どのように取り扱われたのか、残念ながらその顛末は知らない。その後聞いた話しでは、若者が失踪するその日の午前中、徴兵検査を受けたそうだ。また、その日の夕方、松本行きの貨物列車が高岡駅から出ていたそうだ。天狗の神隠しがそのことであったかも知れないという噂が一部に流れたとも聞いた。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**水問題のシンポジウムに参加して**<2011.7. Vol.69>

2011年07月02日 | 北部水源池問題連絡会

水問題のシンポジウムに参加して

北部水源池問題連絡会

 いささか旧聞に属して恐縮ですが、昨年11月27日、関西大学で「21世紀水が危ない!?知られざる水の真実 ~その時日本は生き残れるか~」というシンポジウムが開かれました。これは、読売テレビの朝の番組「ウェークアップ! ぷらす ライブ」として開催されたものです。我々の連絡会ではこれに参加すべく委員全員を二人一組で申し込みましたが、おそらく関西大学に入学するより難しい競争率をかいくぐり、1組だけ参加することができました。

 基調講演は地盤工学の権威でもある関西大学学長の楠見晴重氏。続いて建築家の安藤忠雄氏、前横浜市長の中田宏氏が登壇。司会はこの番組のキャスターであり、ベストセラーになった「日本のおそろしい真実」などの著者でもある辛坊治郎氏。読売テレビ特別解説委員の岩田公雄氏も交え、途上国における清潔な飲料水の確保や水ビジネスの将来、暮らしと水との共生など、水資源をめぐり様々な角度からの討論が行われました。

 日本では4人家族で1日約1トンの水を消費し世界1,2を争う水消費国。「湯水のごとく」という言葉が生まれるほどこれまで上質で豊富な水にめぐまれてきました。たとえば京都は平安京以来、井戸の町といわれ、井戸の遺跡が現在でも1万基以上存在し、地下水量は琵琶湖に匹敵すると言われています。また京都だけでなく日本各地に名水といわれる水を有しています。しかし、一見豊富な水を有する日本であっても、食料の自給率はカロリーベースでわずか40%弱。そのため、農作物輸入による間接水量は1年に438.6億㎥超に及びます。一方地球上の水は97.5%が海水、淡水はわずか2.5%。そして増え続ける人口。例をとると中国の人口は世界の4分の1を占めるけれども水は世界の淡水の6%しかありません。また、世界の多くは作物に地下水を使用していますが、地下水のくみ上げすぎで地盤沈下は深刻な問題になっています。では、海水を淡水化すればということになりますが、これについて日本は非常に高い技術を持っています。しかし、淡水化には莫大なエネルギーを必要とし、したがって高コストということになります。如何にコストをさげるか、そして、この高い技術と、水を飲料としてだけではなく地域保全としての水利用のノウハウをトータルマネージングし「日本の水文化」のパッケージとして輸出するのが日本の生きる道であるということなのです。

 現在、どの自治体も水道事業について経営の積極的な工夫はなされておらず、赤字になれば料金の値上げということが繰り返され、水道料金が庶民感覚からかけはなれたものになってきています。そこを打開する一つの考え方として水道事業を「公の独占企業」とし、発展途上国にインフラ整備の一環として輸出するということがいわれています。しかし、日本はこれまでの経過から公務員が水道事業のノウハウを持っているけれども現在の法のもとでは公務員は輸出ビジネスに関わることができません。その点、ヨーロッパでは早くからそのような思考回路を持ち、アジアでも韓国では積極的なインフラの輸出に努めているということです。

 先の東日本大震災の例を待つまでもなく、私たちは水の大切さを体験しています。このシンポジウムに参加し、深刻な水不足に陥ることが予想されている現状を直視し、限られた水をどのように保全し清潔な水を多くの国で享受できるようにするか、大きな関心をもっていきたいと考えた次第です。最後に「人間にとっての水は命そのもの。単純に水に対する畏敬の念を持つべきである」という言葉は印象的でした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**金仙寺湖からのたより**<2011.1. Vol.67>

2011年01月02日 | 北部水源池問題連絡会

金仙寺湖からのたより                   

北六甲台自治会環境委員会

  今回は、原水・船坂川クリーンキャンペーン、金仙寺湖オイルフェンス伸張訓練及び阪神高速道路(株)による一年間の阪神高速七号北神戸線金仙寺湖上付近の交通状況報告についてご報告します。

 十月十六日、恒例の第八回「原水(船坂川源流)クリーンキャンペーン」を実施しました。船坂第二堰堤を中心に、一昨年に続いて特別参加のボーイスカウト二六名を含む総勢五一名が四班に別れて一斉清掃を行いました。その結果、燃えるゴミや瓶・空き缶など三二袋及びタイヤ、廃材などの産業廃棄物も多数収集しました。昼食時には恒例の焼き芋大会を。そして今回新たにゲームやサプライズのお楽しみお菓子袋のジャンケン大会を加え、大人・子供たちが楽しく交流しました。私たちの飲み水の源である緑がいっぱいのこの素晴らしい自然を汚すまいと参加者全員が認識を新たにした一日でした。

 十一月二十五日午前十時より、金仙寺湖緊急時オイルフェンス伸張訓練が、西宮市(消防署、水道局、土木局、災害対策本部)、阪神高速道路(株)、阪神高速道路技術(株)によって行われ、今年もこの訓練に立ち合いました。訓練の目的は、金仙寺湖上を通る高速道路での事故等により落下した油状物質の湖面への拡散と水道取水口への流入を防ぐためのもので、北部水源池問題連絡会(註)<以下、連絡会>が提言し毎年実施されているものです。

 今回は連絡会の五名を含む約六十名の参加があり、金仙寺橋横のオイルフェンス格納庫の開錠・開庫、同フェンスの取り付けが参加三団体で順次行われ、最後に同フェンスの伸張(約百八十m)が交代でなされました。この後、残る二カ所のオイルフェンス設置場所に移動し、同フェンスの伸張を除く全訓練工程が実施され、午前十一時に終了しました。

  この後、阪神高速道路(株)より金仙寺湖付近の一年間(H21.9~H22.8)の通行台数、渋滞発生状況、事故発生状況の報告を受けました。この報告によると、通行台数は一日平均約一万五千台で一年前と変わらず。渋滞発生はゼロ。事故発生はトンネル内側壁接触二件、落下物接触一件の計三件で、この一年間の監視対象区間内での金仙寺湖の水質に与える特段の影響変化はないものと思われます。

  一方、今年六月に僅か先の西宮山口料金所直前の畑山トンネル出口付近で、二七台が絡む追突・接触事故が発生。六年前のH16年5月にも同じ場所で九台が絡む同様の事故が発生していることと、連絡会との監視対象区域外ではあるものの近接していることから、再発防止策を要求しました。改善計画ができ次第連絡会に提示するとの回答を得ました。

 また、この席上で、本日のオイルフェンス伸張訓練時に、迅速性を要求される伸張作業にもかかわらず、同フェンスへのロープ接続フック掛けに時間を要していたことから、異なるフック構造の使用を提案しました。

 なお、以上の活動は、近隣五自治会で構成する北部水源池問題連絡会の一員として参加したものです。

 **********************************

(註)北部水源池問題連絡会: 北六甲台、西宮すみれ台、新中野、名塩赤坂、緑が丘の五自治会で構成しています。

※ この記事は、『北部水源池問題連絡会』に参加する北六甲台自治会、その機関紙『とんがりぼうし』に掲載されたものです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**金仙寺湖からのたより**<2009.11. Vol.61>

2009年11月05日 | 北部水源池問題連絡会

金仙寺湖からのたより

北六甲台自治会環境委員会

 皆さん、盆踊り大会出店のジャンボ焼き鳥はいかがでしたか。お味は? 焼き加減は? 美味しく召し上がって頂けたでしょうか。私たち環境委員会は、金仙寺湖を主とした飲み水の安全と安定供給の監視・働きかけなどを行っています。盆踊り大会では、広く地域の皆さんとのコミュニケーションをはかり、より楽しんで頂くために焼き鳥店を出店しています。出店は当委員会発足1年後の平成6年からで、今年でもう15年になります。

 昨年、一昨年とも用意した1000本が8時過ぎには売り切れたため、今年は200本増の1200本を用意しました。それでも今回は焼そばが無かったこともあってか、順番待ちの長蛇の列が絶えることのない大忙し。夏の暑さと火の猛攻とのダブル暑さでスタッフ一同汗だくでした。奮闘の甲斐あって昨年より販売数が2割増えたにもかかわらず、逆に8時前には完売。そのため、後から来られた方にはご迷惑をお掛けしました。ジャンボ焼き鳥のファンの皆様、また来年も頑張りますので、これに懲りずに楽しみにしていてください。

**************************

 この8月にお隣の中国陝西省、湖南省で立て続けに発覚。合わせて2000人を超える児童の鉛中毒問題の記事を目にしました。近くの金属精錬工場の廃水垂れ流しによる河川や地下水への水質汚染が原因の健康被害です。子供の体調異変に気付いた親たちが暴動を起こして問題化したために表面化した希有なケースです。多くの発展途上国では、このような環境汚染が恒常的に行われており、この発覚は氷山の一角と言えるでしょう。 

 わが日本でも約50年前の高度経済成長期において、水俣病、イタイイタイ病、大気汚染によるぜんそくなどの産業公害が発生しました。多くの方々が健康被害に遭われ、そして、この環境修復には本来の対策費用の何百、何千倍もの多大な費用が発生しました。

 前号5月31日発行の「とんがりぼうし」の「金仙寺湖からのたより」欄にも記載しましたように、世界では5人に1人がきれいな水を飲めないと言われています。そして、この傾向は加速度的に悪化しています。

 一度失った環境を取り戻すには、膨大な費用と労力、そして長い自然回復期間が必要です。子々孫々の代まで安心して住み続けることができる持続可能な地球環境を、私たち一人ひとりが心掛けたいと思います。

 10月24日(土)に、北部水源池問題連絡会(註)主催の「第7回原水(船坂川源流)クリーンキャンペーン」を実施します。昨年は、新たにボーイスカウト21名の参加もあり、「安全で美味しい水」を守るための輪が着実に広がっています。好評の焼き芋大会は今年も予定していますので、ご家族・ご近所お誘いの上参加して頂ければ幸いです。詳しくは、後日、自治会回覧にてご案内いたします。

 *****************************************

(註)北部水源池問題連絡会: 北六甲台、西宮すみれ台、新中野、名塩赤坂、緑が丘の五自治会で構成しています。

 ※  これは北六甲台(西宮市)自治会の会報『とんがりぼうし』に掲載されたものを、著者の承諾を得て転載したものです。北部水源池連絡会のメンバーである北六甲自治会、その環境委員会の活動を紹介したものです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**金仙寺湖からのたより**<2009.7. Vol.59>

2009年07月04日 | 北部水源池問題連絡会

北六甲台自治会環境委員会

 金仙寺湖上に高速道路ができ、車が走り出してはや6年になろうとしています。その間、私たちは飲み水である湖の水質への影響を心配し、その変動を阪神高速道路㈱とともにチェックしてまいりました。また、約束どおり道路の維持管理が行われているかの確認を行ってまいりました。今のところ、水質に影響するような、道路上の大きな事故、渋滞なども起こっておらず、定められた水質検査項目には大きな変動は見られていないという結果になっています。だからといって、今の水に安心できるのでしょうか。道路から降り注ぐアスファルト・排ガス・タイヤの粉塵が浄水過程でどのような変化をするのか、細かい粒子は取り除けているのかなど、科学的知見のない心配の種は尽きません。北部水源池問題連絡会では、今後も子々孫々まで安全でおいしい水を飲めるよう、水質の確認や水源上流域の清掃活動、水に関する講演会など積極的な水質保全活動を継続していくことを、参加自治会一致のもと再確認しました。

 何よりも、原水をきれいにすることが、おいしくて安全で安価な水道水に繋がるのですから。

 ちなみに、西宮市水道局は、現在の金仙寺湖の水質を「循環装置(間欠空気揚水塔式)の運転により水質は比較的安定しており、富栄養化につながる窒素、リンの濃度も比較的低いレベルにある。しかし、最近では各地のため池や貯水池等で、冬期にかび臭物質が検出されており、金仙寺湖でも微量であるが検出されている。また、自然由来のフミン質によりトリハロメタン生成能がやや高い傾向にある。」と認識しているようです。

 話は変わりますが、バーチャルウォーターという言葉をご存知でしょうか。食物の輸入による換算水輸入量のことです。昨年、小麦、大豆などの穀物価格が高騰し食料品の値上がりが続きました。食料の輸出を禁止した国もあったと聞きます。あらためて食料の自給について考えられた方も多かったのではないでしょうか。日本の現在の食料自給率は、カロリーベースでほぼ40%です。この40%を得るために使われる日本国内の年間農業用水量は590億トンになります。穀物1kg作るのに、米では2700kg、小麦1200kg、大豆2300kg、とうもろこし450kgの水が、これらを飼料として与えて作る牛肉では16000kg、豚肉5900kg、とり肉2800kg、卵4700kg、チーズ5300kgの水が必要です。これらの農産物を残りの60%輸入することによるバーチャルウォーターは、640億トンにも及んでいます。日本は、農産物の輸入により水資源を節約できたことになり、輸出国は栽培のために水が消費されたことになります。

 今後、地球人口の増加に伴う食料不足に備え、自給率アップは必定となってくるでしょう。そのため農業用水の確保は当然重要な問題となってきます。現在、私たちが飲んでいる金仙寺湖の水もー庫ダムの水も一部が農業用水として使われています。食料増産のために、飲料用の水にしわ寄せがくることは十分に予想できます。

 世界では、安全な水を飲めない人は5億人から10億人と、5人に1人がきれいな水を飲めないと言われています。水には恵まれていると思われる日本ですが、今後はそうでもなくなるのかも。

 私たちのできることは節水、原水の汚染の防止、食料の地産地消の推進、廃棄食物の減少など限られたことかもしれません。皆様にも、いま一度、子供や孫のために、水について考えていただけたらと思っています。

北六甲台自治会環境委員会

 11月22日、北部水源地問題連絡会(※注1)はコミュニティーセンターにて講演会「北部地域の水事情」を開催しました。西宮市水道局施設部長、水質試験所長、北部水道事業所長の3人の方を招き、あらかじめ提出していた質問を踏まえたお話をしていただきました。

 この講演会のハイライトは水の飲み較べ。用意した水は ① 船坂川を水源とする丸山浄水場の水、② 猪名川水系(一庫ダム)を水源とする多田上水場の水、③ この二種をブレンドした、現在北部で使用している水道水、④ 西宮南部で使用している阪神水道事業団の水、そして⑥ ミネラルウオーターの5種類。種類をかくして参加のみなさんに飲んでいただき、一番おいしいと思った水を複数回答で挙手していただきました。

 その結果、1位は何と、いま私たちが飲んでいる北部の水道水でした。2位はミネラルウオーター、3位は高度浄水処理をした南部の水道水であったのも意外な結果でした。5種類とも、カルキ臭やかび臭はありませんでした。

 水道局としては、水の安全供給に力をそそいでおり、丸山ダムの老朽化に伴い耐震化や落雷による停電防止などの改修が行われるそうです。また、渇水危機管理体制として神戸市・宝塚市と強調体制を進めているということです。

 気になるゴルフ場対策ですが、ゴルフ場内に主として農薬の成分を除去する浄水設備を置き、浄水された水は金仙寺湖に流さずパイプで直接ダムの下手の船坂川に流しています。また、ゴルフ場には年二回の報告を義務付けるとともに兵庫県が聞き取り調査をしています。しかし、これで万全であるのか、抜き打ち調査などが必要ではないかという疑問は残りました。船坂川流域の3地点では水道局と環境局が共同で水質チェックをおこなっています。高速道路による水質変化は今のところ見られないということです。

 生きていく上でなくてはならない水ですが、地球温暖化による水への影響など、水の環境は危険にさらされています。水に恵まれた日本の環境をそこなうことなく、将来にわたって安全な水が供給されるよう願ってやみません。

 水質保全の一番重要なことは住民が関心を持ち続けることです。水道局のホームページでもいろいろなデータを閲覧できます。このような機会をとらえて大いに関心を持っていただきたいところです。

(※注1)北部水源地問題連絡会
 北六甲台、新中野、名塩赤坂、緑が丘、西宮すみれ台の5自治会で活動しています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**西庄氏追悼**<2003.1. Vol.21>

2006年01月08日 | 北部水源池問題連絡会

西庄氏追悼

北部水源池問題連絡会初代代表世話人 K.O.

 11月30日故西庄勝治氏を偲ぶ会が、北部水源池問題に拘わる住民運動の同志達によって執り行われた。氏の急逝の報に接したその時、唯ただ驚愕の極みであり、まさに晴天の霹靂であった。体調不良と家庭事情も重なり遠隔地に転居して暫く、50有余年の生涯に自ら終止符を打った。まことに痛恨の限りである。平成5年から9年間にわたる取り組みを回想するに、氏は行政組織の中に役職を持つ立場でありながら、住民による、住民のための、住民運動に参加した。さまざまな戸惑いがあったであろうが、終始住民として水質保全を求める責務に徹したのである。また阪神間道路問題ネットワーク、更に道路公害反対全国大会へと参加した功績も称えたい。“氏は小柄ながらピリリと辛かった”まさにナイスガイであった。今は天国でお父上と杯を傾けながら何かを語りあっておられることでしょう。どうか安らかにお眠りください。

露の世は 露の世ながら さりながら  一茶

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**黒住 格 先生を悼む**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 北部水源池問題連絡会

黒住 格 先生を悼む

北部水源池問題連絡会 事務局 K.H.

 ネットワーク3月例会の案内をいただいたが、あっ、この日は行けないと思い不覚にも丁寧に葉書を読まなかった。机の上を整理していてその葉書の下の方に故黒住格先生…と書いてあるのに気付き仰天してしまった。そこへ、砂場さんからお別れ会と偲ぶ会のお知らせがあり、先生の最期のご様子をお聞きするに至って漸く先生の死が現実のものとなった。

 お別れの会と偲ぶ会は4月7日、ホテル竹園・芦屋で行われた。兵庫県眼科医会やアジア眼科医療協力会(AOCA)が主催であったため、ネツトワークの私たちには多少の違和感があったが、先生を偲ぶ思いは同じで、いろいろの関係の方がそれぞれに話される思い出も先生の人となりをよく伝え、その時の先生のちょっと当惑したような、恥ずかしがるような表情まで思い起こされた。

 もう、2年ほど前になるが、北六甲台の公民館活動と社協の行事の一環として先生にネパールでの医療活動について講演をしていただいたことがあった。先生はその講演の冒頭で「私はネパールが嫌いです。」と言われ、聴衆の驚きの声が会場を波のように走っていった。聞くほうには、ネパールで長年献身的に医療活動をされた方だから、当然、ネパールに傾倒している人であろうという先入観があったのだ。どうして嫌いなのかお話をお聞きするうちにわかってきた。先生は日本人。先生にとってはこのような活動に対してネパールの人たちが“恩に着てくれる”だけでよかったのである。ところが彼らは“その要求には際限が無い”“日本人の心をしっとりとうけとめてくれるものがうすい”のである。先生の著書「ネパール神々の大地」には、“納得のいくような返答が用意されない限り、私はこの仕事を続けていくことはできない”“ここ、何年間かを、実際意地だけでやってきた”ということが書かれている。先生ご自身をしてこのように言わしめるような心の葛藤をずっと内にかかえておられたのだろう。やがて先生は“ネパールに縁あって、付き合うようになつた”という答えを見付けられる。先生の心の葛藤は私たち日本人には理解できるような気がする。おそらく、答えを見付けられたとしてもなおネパールでの様々な出来事に心を痛め、傷つかれることも多かったにちがいない。そしてそれが、冒頭の言葉になって現れたのであろう。そこのところを決して美しく語られなかった先生に、人間的な深い魅力を感じたのは私だけではないと思う。

 この講演の際、「ネパール 神々の大地」を数冊お持ちになっていて、「私は、話すのは下手であるけれど、書くのは多少自信があるので」とおっしゃった。お話は下手どころかウイットに富んだとても味わいのあるものであったが、さらにご著書を拝読しそのおもしろさに引き込まれてしまった。その時は不明にして、先生がお若い頃から文学を志しておられたこと、同人誌を主宰しておられることなど知らなかった。お別れの会でその足跡を改めて知るを得て今更ながら先生の多面的なご活躍に感服しているところである。先生と文学との関りさえ知らなかったという浅い、短いお付き合いであったにもかかわらず、先生は強烈な印象を残して逝かれた。講演の際に購入した先生のご著書に書いていただいたサインが手のぬくもりを感じさせるものとして残された。先生のご冥福を心からお祈りするばかりである。

2002年4月8日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**我田引水ならぬ我田引道**<2002.1. Vol.15>

2006年01月05日 | 北部水源池問題連絡会

我田引水ならぬ我田引道

北部水源池問題連絡会 北神 雄―郎

 ビートたけしの番組で、道路族の有力者と言われている松岡衆議院議員(熊本)が出演していた。途中から見たので、タイトルは不明だが松岡議員の発言から道路族の本音を聞く事が出来た。

松岡議員 「首相が道路計画の見直しを言っているが、国の計画を軽々に変更すべきでない。」

タレント  「じゃ。問題になっている第二東名高速道路は計画どおり造るのですか?」

松岡議員 「道路は必要なんだ。」

タレント  「第二東名高速道路は造るのですか?」

松岡議員 「イタリアではね、北の農村部に高速道路を造っているんだよ。」

ビートたけしが笑っていった。

ビートたけし 「イタリアに第二東名高速道路を造るんだってさ!」

松岡議員 「田舎には高速道路が必要なんだ。イタリアの北部では、どんどん道路を造っているんだ。」

タレント  「あなたが一番造りたい道路はどこなんです?」

松岡議員 「阿蘇の周辺が渋滞して困るんだよ。」

タレント  「ゆっくり観光すればいいんですよ。」

松岡議員 「そうはいかんよ。地元としては……」

タレント  「じゃ。熊本に高速道路を造りたいんですね。」

松岡議員 「………………」

松岡議員 「アメリカでもどんどん道路を造っているんだよ。」

タレント  「外国の事はいいんですよ。日本ではどうするかが大事なんです。」

タレント  「第二東名高速道路は造るのですか。まだ5キロ程しかできていないのに。あんなの中止したら。」

松岡議員 「都会と地方は違うんだ。第二東名は都会間を結ぶ道路だよ。どうしてもと言うなら民間で造ればいいんだ。計画決定された道路は国土の骨格部分にあたる道路なんだ。」

タレント  「熊本に道路を造りたいんだね。あなたは」

松岡議員 「………………」

タレント  「流通コストで突出しているのが高速道路の通行料金なんですよ。大型トラックで東京~青森間が1万5千円も必要なんですよ。」

タレント  「知っていましたか?」

松岡議員 「…………」

 松岡議員はまともに答えられず、突っ込まれると外国の例をあげて、しどろもどろの状態で、一見もっともらしい事を言っているが、地元に高速道路を建設する事が目的である事がはっきりと見えてきた。

 公共工事を選挙区に誘致することで、議員の力を誇示する手段に使っているだけ。これまでの公共工事のバラマキ行政が、既得権益化して巨大な利権構造をつくり出してきた。道路特定財源制度を生み出し、その頂点で力を誇示してきたのが田中軍国で、竹下~橋本と継承されてきた。

 来年度の予算編成の過程で、道路特定財源の一般財源化を主張する首相と対立することが予想される。うま味のある財源を、道路族がやすやすと手放すとは考えられず、道路関係の公団民営化は決定されたが、国民など眼中にない壮絶な利権争いが展開されるだろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**国土交通省の誕生に思う**<2001.1. Vol.9>

2006年01月03日 | 北部水源池問題連絡会

国土交通省の誕生に思う

北部水源池問題連絡会 北神 雄一郎

 新世紀のスタートが始まり、1月6日には省庁再編が実施され1府12省庁がスタートした。

 森首相は、省庁再編のための諸行事を終えて記者団に対し、「省庁再編によって国民の側に立った行政が行われるようになったと言われるものにしなければならない」という趣旨の発言をしたと伝えられている。

 新聞紙上では、建設省、運輸省が合体して国土交通省という巨大官庁の誕生にある種の不安感を持って見つめているようである。その省は公共事業予算の七割を占める巨大事業官庁の出現が、国民にとって望ましいものなのかどうかは、国土交通省の公共事業を進める際の態度がどのようなものになるかどうかにかかっている。土建国家と揶揄されるほど多くの予算を執行しながら、景気浮揚にはあまり貢献しないとエコノミストから指摘されながら、地元から支持されない事業を「まずは計画ありき」とごり押ししてきた体質がどこまで改善されるかどうか、国民として注視していかねばならない。他方では、地方分権の進行と情報公開の実施やさらには行政評価法の制定と、ひとり中央省庁の計画だけが罷りとおるとは思われないが、これらを本物にしていくための国民のたえざる監視が必要である。公共事業の全てが悪くて不必要なものばかりではないが、地域に支持されず問題の多い事業についてその歯止めを国民がかけられないと、旧態依然のバラ撒き行政の再燃となり、多くの担当領域を持つ巨大官庁だけに、以前よりも始末が悪い事にならねばいいがと思う今日この頃である。この7日に車を運転して気づいたことであるが、国道の側にある照明灯のポールに書いてあつた建設省という表示が国土交通省と書き換えられていた。それは白いシールに印刷されたものを張り付けたものであるが、全国一斉の表示変更がわずか数日で実施しうる力を、国土交通省は持っているという象徴的な出来事と感じたのは私一人だろうか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする