1920年代(大正・昭和初期)における日本の内政・外政についての雑感
林 素行(執筆時;京都大学理学部3年)
いきなりですが、1920年代と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。大多数の人はおそらく何も思い浮かばないというでしょうが、それは置いておくとしてこれまでの「進歩史観」的見方では明治期の政界を支配していた藩閥勢力の力が衰退し、代わって第一次世界大戦中・後から盛り上がる民主主義的・社会主義的・民族主義的運動を受けて、日本でもデモクラシーの機運が高まり、普選運動・女性運動・社会運動等が活発になり、労働争議・小作争議が頻発するようになった。
これに対して、都市の新興商工業者といったブルジョワジーは普選法を通したり、労働条件の改善等を行う一方、治安維持法により社会主義者等を弾圧し、英流の立憲君主的方向を目指しました。一方で陸海軍の急進派や民間右翼はこうした風潮に反発し、ファシズムにひかれ不景気や政財界の腐敗等を理由に国民の支持を広げクーデター・暗殺により支配していきます。更に左翼によると大正デモクテシーは不完全でありしょせん徒花でしかないとみる人もいます。
一方、中韓等の靖国・教科書等の「圧力」に反発し、戦前は暗黒であったという見方を見直そうという勢力も明治あるいは1930年代の歴史に注目し、賛美することはあっても20年代に関してあまり興味を持っていないようです。更に英米から押しつけられたワシントン体制の中、国民全体が堕落したと極端にみる人もいますし、あるいは日露戦争で勝利し「坂の上」にのぼりつめた後、ひたすら30年代の軍部独裁へ少しずつ転げ落ちていったとみる人もいます。
しかし私はそうは思いません。確かにそういった面もあったでしょうが、第一次世界大戦後の国際情勢の激変の中で、明治期から苦労してやっと自分達の手で民主主義的な政治を勝ち取り、短い期間だったとはいえ運用してみせ、また東アジアのわき上がるナショナリズムや米国との関係に苦悶しつつも何とか道を見出そうとした事実は簡単に捨てるべきものでありません。よく左右を問わず出される意見として、満州事変から日中戦争、対米開戦へのルートは不可避だった。なぜなら20年代の外交政策が国際協調であったとしても所詮帝国主義的意思の一形態であり、また排日移民法等、米の日本「敵視」があった以上、結局こうなる他なかったということを唱える人が多いですが、あまりにひどい戦争における日本、東アジアの惨禍をみるにつけ、いかにこれを回避しえたかを歴史の可能性の中から見出そうとするのは、現在北朝鮮・イラクで揺れる日米関係を再考し、将米の日本外交の助けとする点でも有益なことと考えます。
さて1920年代の内政・外政を語る上でまず外せないのが原敬でしょう。以前は最初の本格的政党内閣の首班となるも、普選運動・社会運動には冷淡でまた積極政策により政界の腐敗を招いたとして従来あまり高い評価はされてこなかったのですが、最近は彼が山県有朋の率いる保守的な陸軍・官僚・貴族院と妥協しなから漸進的に日本に民主政治を根付かせていったとして評価されてきています。
まず山県系勢力が衰えてきた理由を考えてみると、(1)日露戦争に勝つことにより、明治維新からの目標である列強との対等な関係・独立が達成されて理念を失ったこと (2)デモクラシーの潮流 (3)帝大出の官僚 (特に内務省)が政友会・同志会に取りこまれたことがあげられます。更に彼らは日露戦争に勝った後、弱体化した日英同盟に代わり獲得した満蒙権益を守り中国本土に進出するため、四次にわたる日露協約を結び露と連携することで( 独とも考えられていた) 門戸解放をかかげる米と対抗しようとしました。しかしロシア革命でこの構想は瓦解し、中国の政権の一つ(段政権)を援助し直接乗り出そうといった政策も失敗し、英米の警戒心の中、東アジアで孤立するという完全な手づまり状態の中、原に国をゆだねる他ありませんでした。
原はアメリカの存在を重要視し対米英協調を軸とする一方、これまでの軍事的政治的圧力により大陸に進出していこうという政策を修正し、内政不干渉の原則のもと経済的に進出していこうという政策に切り替えました。そして欧米とのこの経済「戦争」を勝ち抜くために国民経済の国際競争力をつけるべく、積極政策と称される四大政綱が設定されましたそれは (1)第一次大戦の近代総力戦に備えた軍備の近代化 (2)産業の育成、それを支える (3)交通機関等インフラの 全国的な整備と (4)人材育成としての高等教育の拡充という内政に重点を置いたものでした。そして原は山県の機嫌を取りつつも選挙権の拡充や積極政策により国民的支持基盤を広げて政党(政友会)、議会の権威を高め、それらを背景に山県系官僚の基盤である郡制の廃止、植民地総督の文武官併用制の採用、貴族院の最大会派である研究会を自らの支持基盤にとりこむ両院縦断政策、司法官僚の力をそぎ国民の司法の意識を高める陪審法等により山県系宮僚閥を突き崩していきます。
更に田中義一陸相の協力のもと山県の力の源泉でもあった陸軍も自らのコントロール下に置き始め、皇太子(後の昭和天皇)の渡欧や摂政就任等を通して宮中をもコントロール下に置きだしました。このように首相を中心とする立憲君主制の確立にほぼ成功した原敬でしたが、1921年11月東京駅で暗殺されました。そして翌年2月には原の最大の敵であった山県も病死しました。山県の死を評して石橋湛山いわく「 死ぬことが彼の国家になした唯一最大の貢献であった」といわれた通り彼の死は当時歓迎され、山県系官僚閥は崩壊することになります。
だがこれまで彼の厳格なコントロールの下に置かれてきた陸軍は彼の死でたががはずれ、昭和初期の若手将校の暴走につながることになります。さてその後政党は権力を握ることになりますが、政権の座をつかむために、軍部と連携したり、「国体」を利用したり腐敗が高じたりして自らの支持基盤をほり崩すとともに一度自らのコントロール下 においた物を自由にしてしまい後に自らを滅ぼすことになります。ある先生がおっしゃっていたことですが、もし原が長生きしていたら日中を通じて陸軍をコントロール下におき続けていたとともに西園寺に次ぐ準元老的な立場から日本の民主化を進め、過剰な政党間抗争を抑え30年代の軍部の台頭を阻止できたかもしれないという意見に私も同感です。
さて20年代の外交を語る上でもう一人欠かせないのが幣原喜重郎です。戦前は軍部・右翼・政友会から「軟弱外交」と非難され、戦後は一変して「平和協調外交」とかなり高い評価を得ることになりますが実際の所はどうだったのでしょう。彼は第一次大戦後の新しい潮流に乗り、通商の促進を主眼とする経済主義的な外交を推進にあたるに、中国の統一と安定の環境の整備を前提とし、そのことが国際秩序の安定を阻害しないようにという信条のもと、新しい東アジア秩序の形成を積極的に模索しました。そしてそのためにワシントン体制の熱心な守護者となりました。彼は中国各地に割拠する軍閥間の抗争に不干渉主義を貫く一方、列国( 英米)と協調し中国の不平等条約問題、特に関税自主権と治外法権を斬新的に解決するために1925年10月に北京で関税会議を開きました。しかしこれは軍閥間の抗争等により失敗に終わりました。一方南方では国民党とソ連・共産党の連合勢力が急速に力を伸ばしはじめワシントン体制を動揺させ始めました。これに対してワシントン会議のプログラムを列国と協調してあくまで史実に着実にすすめようとしましたが、これがある種の非妥協性を生むことになり、まず英続いて米がこの枠組から次第に離れていくことになります。
幣原は最後までワシントン体制を守ろうとしましたが、彼が政策実行のため憲政会・民政党と結びつきを強めたことで政党間の争いに巻きこまれ、金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れると共に第一次幣原外交も終わりを告げました。代わった政友会の田中義一首相は自ら外相を兼ね、満蒙特殊権益の維持・拡大を図りました。 幣原は外相時代、満州を支配する張作霧が国民の信頼を失っていたことをみて彼の失脚と満州新政権の樹立、更にこれを国民政府に妥協・統合させることまで考えていました。だが田中外相はこのような大局的な見通しに立たず、中国ナショナリズムの高揚と列国との協調を無視した近視眼的なものとなり、結果として東アジアの国際的変動への対応に失敗し、英米等との中国における外交的孤立を招くことになりました。
1929年7月民政党の浜口内閣のもとで再び外相に就いた幣原はもはや列国の協調との復活は難しいとみるようになります。英米に続いて1930年中国の関税自主権を承認した後、治外法権撤廃で共同歩調を求める英米両国とは距離を置き、蒋介石等の国民党穏健派と結んで過去の借款(西原借款等)の債務整理を進め治外法権の問題を解決していこうとしました。しかし債務整理はうまくいかないままで国民党穏健派はやがて国際連盟に資金援助を求めるようになり幣原から離れていきます。治外法権の問題も英米が本格的に交渉に入ったのをみて日本も交渉に入りますが中国はやがて関東州租借地の返還等不平等関係の清算を求めて交渉は暗礁に乗り上げます。こうして幣原外交が行き詰っていく中、国内では深刻な不景気等を背景に急進派が陸軍の主要部を占め満蒙問題の武力解決を目指し動きを強めていきました。そして1931年9月18日柳条湖事件が発生し、満州事変か勃発、幣原外交は終わりを告げます。この後日本は国際社会から孤立し、武力をもって独自の東アジア秩序を打ち立てようという方向に向かい、やがて破局への道をたどることになります。
幣原外交が失敗した要因としては (ⅰ)国内の陸軍・右翼及びこれと結びついた政友会の反発 (ⅱ)日本が東アジアにおいて特別な立場であることを強く意識する余りややもすれば独善的になり柔軟性を欠いたこと (ⅲ)日中間の文化の違い、日本は不当な条約であっても守り、話し合いによって改正すべきという立場をとるのに対し、中国は正邪論の立場から不当な条件は破棄できる等が挙げられます。しかし彼が中国ナショナリズムの高揚を理解し、中国の不平等条約問題解決のため東アジアの新たな国際秩序の形成のため、日本が主導して積極的に列国に働きかけたこと自体はもっと評価されてよいのではないかと思います。
自分がそもそもこの時代に興味を持った理由は二つあります。一つはもともと大平洋戦争に興味があり、なぜこういう悲劇か起こってしまったのかを考えるうちにこの時代に行きついたからです。もう一つはこの時代の建築様式、アールデコ様式に理由はうまく説明できないのですが強く魅かれるからです。1929年にできた阪急百貨店を幼い頃からみてきたからかもしれません。この時代に建てられた大阪の建築物について知りたい方は、海野弘著『モダンシティふたたび』をどうぞ。(但し今は絶版)だが中山報恩会の入っている中山製鋼所ビルもそうだが、こういった建物は今急速に老朽化し姿を消していっています。建物に限らず20年代に生まれた方ももう後10年もすればほとんど世を去り、直接知っている人はまれとなるでしょう。だから今こそ20年代をもう一度政治・外交・経済・文化あらゆる面で見直してほしいと願います。
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この原稿は、中山報恩会誌「星友」第46号(2003年)に掲載されたものです。著者は北部水源池問題連絡会の林 和好さんのご子息です。