パレスチナ、ガザの何が問題なのか?(前編)
田中廉
現在、世界では二つの戦争が起きている。一つはウクライナで、もう一つはパレスチナだ。この二つの戦争には二つの共通点と二つの異なる点がある。
共通しているのは、国連で定められた国境を越え、他国が侵略している点である。ウクライナではロシアはクリミヤ半島や東部地域を自国の支配下に置こうとしている。パレスチナでは、オスロ合意でパレスチナ・イスラエルの二国家建設が約束され、国境が定められた。にもかかわらず、パレスチナ自治区の西岸地区ではその60%がイスラエルの支配下にあり、入植地が毎年拡大し、土地と水がイスラエルに奪われ続けている。もう一つの共通点は、ロシア、イスラエル共に、度重なる国連の非難決議を無視し、武力で他国を侵略する無法国家であることである。
異なる点は欧米、そして日本では、ウクライナ戦争ではロシアが強く批判されているのに対し、パレスチナではイスラエルの行為が黙認されていることだ。イスラエルのガザ攻撃は2月初めで死者が27,000人以上となり、その70%が女性や子供である。今回のハマスによる奇襲攻撃は、軍事施設だけでなく民間人・外国人も殺害し、人質としている点は厳しく批判されなければならない。が、イスラエルによる異常な大量殺害はイスラエルの主張するいわゆる「自衛権」を大きく逸脱しており、虐殺としか言いようがない状態である。このガザ虐殺や西岸地区での武力を背景とした入植地拡大について、欧米は一応非難はするが、口先だけで実際は何もしていない。
ロシアには経済封鎖、資産の差し押さえなどの制裁行為がとられているが、イスラエルには何ら有効な手立ては取られず、逆にアメリカの最大の軍事援助国はイスラエルである。これは明らかな二枚舌(ダブルスタンダ-ド)である。どれほど「民主主義を守る」と唱えても、自国に有利な場合だけ使用する手前勝手な念仏にしか聞こえない。
また、報道の量、扱い方もウクライナ戦争では些細なことを含め、大量の情報が連日流されてくるが、一方パレスチナ紛争では、次第に報道が少なくなり、西岸地区でパレスチナ人が武装入植者に殺されてもほとんど報道されない。(2/5付の毎日新聞は一面で報道)逆にイスラエル人がパレスチナ人に殺されれば報道されることが多い。それは、パレスチナ人とイスラエル人の命の価値に何倍、何十倍もの差があるかのようである。これは報道の主体が欧米(白人諸国)であり、潜在的な偏見が影響しているのではないかと思われる。
パレスチナに関するいくつかの疑問に2回に分けて答えたい。
1. パレスチナ問題はイスラム教徒とユダヤ教徒の宗教戦争なのか?
否である。ユダヤ人はBC11世紀に現在のパレスチナ地域にイスラエル国家を建国したが、幾多の分裂、紛争を経てBC6世紀にはバビロニアに滅ぼされ、以降はその地を領土とする国家の支配下に置かれた。2世紀にロ-マに最後の反乱を起こすが鎮圧され、エルサレムにとどまることが禁止され、離散(ディアスポラ)することとなった。
キリスト教国では、十字軍(11世紀)までは偏見はあったが貿易、商業、農業など比較的自由に活動できた。しかし、熱狂的な十字軍運動で異教徒であるユダヤ人に対する偏見、弾圧は加速され、第一次十字軍はゆく先々でユダヤ人集落を襲い軍資金を奪いエルサレムに向かい、エルサレムではイスラム教徒、ユダヤ人、東方系のキリスト教徒の大虐殺を行った。(シナゴ-グに逃げ込んだユダヤ教徒は外から火をかけられ皆殺しとなった)
中世以降、ヨ-ロッパ諸国ではユダヤ人は土地所有の禁止、ギルドからの締め出し、公職追放などにより、農業、手工芸ができなくなり、両替商、質屋、古物商などに従事し、キリスト教徒が嫌う金融関係で富を蓄えることとなる。
イスラム教は7世紀に成立し、勢力圏は中東、北アフリカ、スペインにまで及んだ。基本的には宗教には寛容でキリスト教徒、ユダヤ教徒は「啓天の民」(同じ聖書の信仰から出た民。主としてキリスト教徒、ユダヤ教徒をさす)として一定の税金(人頭税)を納めれば信仰の自由や、民族性が保証された。また、時の政権の高官になるものも多かった。
15世紀スペインのイスラム国家が滅ぼされた時、ユダヤ教徒はキリスト教への改宗か、国外追放を迫られ、多くのユダヤ人が再度「離散」した。この時、オスマントルコは大勢のユダヤ人を暖かく受け入れ、国の基盤を固めた。初期のイスラム国家ではユダヤ教徒、キリスト教徒への弾圧があったこともあるが、少なくとも中世から初期近代までは、イスラム教国の支配下で安全に暮らしていた。
2. パレスチナ人とユダヤ人の対立はいつごろから始まったのか?
シオニズム運動により、ユダヤ教徒のパレスチナ移住が加速した第一次大戦後から、小さな衝突はあったが、1929年の「西の壁事件」(西の壁を含むエルサレムは、数百年のイスラム教徒の統治の下、イスラム教徒が同地を管理していた。ユダヤ教徒は壁や周辺の現状を変えないことで礼拝を認められてきたが、力をつけたユダヤ教徒が幕を張り、シオニストの旗をたて、デモ行進をしたことが発端となり、双方に数百人の死傷者が出た。)以降、激しさを増し、第二次大戦後のイスラエル建国により決定的になる。
1791年フランスで「ユダヤ教徒解放令」が成立するなど、西欧ではユダヤ人に対する法的差別は徐々に廃止されていった。が、反ユダヤ感情は根強く残り、またロシア、東欧では19世紀末から20世紀初頭にかけ、「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人への襲撃・略奪が繰り返された。19世紀後半より、ユダヤ人の中に自分たちの祖国を作ろうというシオニズム運動が生まれた。「ポグロム」を逃れ、ロシア・東欧からのパレスチナへの移住が始まった。
第一次大戦でイギリスはいわゆる三枚舌外交で、オスマントルコの領有していた領土について、フランスとは領土の分割、アラブ人にはアラブ国家の建設、そしてユダヤ人にはユダヤ国家建設を約束した(1917年バルフォア宣言)。第一次世界大戦後ユダヤ人の移住は加速し、イスラム教徒のパレスチナ人の危機感は高まり1929年には「嘆きの壁事件」が起こった。
シオニズムによる移民が始まる前のパレスチナの総人口は約50万人で、イスラム教徒80%以上、キリスト教徒10%、ユダヤ教徒は5%(2.5万人)ほどだったと推定される。1922年は総人口(ベドウィンは含まず)約76万人でイスラム教徒78%(59万人)、キリスト教徒10%(7万人余)、ユダヤ教徒11%(8万人余)であった。その後、移住は加速し、1932年は総人口(ベドウィン含む)104万人でイスラム教徒73%(76万人)、キリスト教徒9%(9万人余)、ユダヤ教徒16%(17万人余)。そしてイスラエル建国前の1947年は総人口191万人でイスラム教徒61%(116万人)、キリスト教徒8%弱(15万人弱)、ユダヤ教徒31%(59万人)と、イスラエル人の比率は急上昇していった。
シオニスト団体は不在地主などから計画的にパレスチナの土地を購入し、その結果多くの農民は土地を追われた。(次回に続く)
【投稿日 2024.2.9.】