『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**山手幹線開通あれこれ**<2010.11. Vol.66>

2010年11月03日 | 芦屋道路問題ネットワーク

山手幹線開通あれこれ

池浦康子

 山手幹線が10月24日全線開通しました。計画決定から64年の長い年月でした。ずっと夢物語りのように語りつがれていたのが平成7年の震災で多くの家屋が倒壊し、この時とばかり建設計画の発表がありました。震災の痛手と環境破壊とになやまされました。翠ヶ丘町の中央を南北に走る稲荷山線の建設反対で、結束していた人が中心になって山幹建設反対の運動が起こりました。

 不安一杯の地権者、沿道住民が集まり学習会をしました。出来ることからやってゆこうとNO2測定を始めました。これは貴重な参考になりました。学習会は道路問題に詳しい方の公演を聞いたり、道路問題に取りくんでいる地区の見学とか、情報を求め乍ら阪神間道路問題ネットワークの仲間に入れて頂きました。藤井隆幸さんに公演をして頂き、以後、毎月一回の例会で会員の方々の率直な意見やアドバイスを受け、今日まで辿りつきました。

 住宅地の中を貫通する幹線道路の反対は今も変りませんが、反対、反対と言っていても行政は話し合いに応じないので、これでは一人相撲の空廻りしているだけなので、自治会で行動しなければならないと、会長さん中心に翠ヶ丘町と月若町、西芦屋町の3町が平成10年、地域環境を守る会を結成しました。以後、行政との話し合いが続きました。真剣に素直な気持で話し合うことで、お互いの信頼が少しづつ出来ていくのを感じました。

 最初発表された予測値が43号線沿道にあった深江局の測定値を基に、予測交通量25,000台による増加濃度を加えたものでした。何故深江なのか? 翠ヶ丘は静かな良い環境の街です。平成9年から毎年NO2の測定をしていたので予測値が納得出来ませんでした。それではと芦屋市が一年間3町の環境測定をして、私達と一緒に環境についての勉強会をしました。各町の測定値を基に基準値を更新して、これを越えた時には対策を講じる事等、環境保全協定を市長と締結しました。

 開通後も環境を守ることの注意を怠ることが出来ません。環境問題では音や振動は体で感じますが、空気の汚れは目に見えないので喘息等の公害が広がったら騒ぎ出すのです。住宅地は幼児や高齢者の弱者が一日の殆どを過ごしている所、そして人々の憩いの場であります。生き物にとっては、かけがいのない大切な空気です。汚れた空気はジワジワと生き物をむしばんでいくことを忘れず良い環境を保持しなければなりません。環境を破壊しない車の実現を切望します。

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『みちしるべ』**私の進むべき道を教えてくださいました**<2009.2. Vol.56>

2009年02月11日 | 芦屋道路問題ネットワーク

砂場徹 様 有難う御座いました
私の進むべき道を教えてくださいました

 

芦屋道路問題ネットワーク 三木 悦子

 

 阪神大震災の直後、芦屋市の都市計画発表を見てびっくり、50余年前の都市計画道路の復活です!

 狭い芦屋市の中に5路線の広い道路を新たに造る計画です、市民は我が家が壊れたり、家族が傷つき、或は命を失い悲嘆にくれている時です。

 当時、私は同志数名と『街づくり連絡会』を組織していました。その仲間の一人が「西宮でも道路問題の会がありますよ」と教えてくれたのです、「じゃあーその会に参加させていただき勉強しましょうか」と山手幹線道路計画に関心ある人々が揃って、西宮の会場に10数名、どやどやと押しかけたのです、当時は一生懸命で大変な意気込みでした。

 会の方々は、突然会合の仲間入りに押し寄せた私たちを快く迎えて下さいました。熱意が伝わったのでしょうか?嬉しかったです。

 その時が阪神間道路問題ネットワークの始まりでした。

 そして砂場さんとの出会いでもあったのです。代表を引き受けてくださり、物静かな中にも芯のすわったお人柄は感じていましたが、著書『私の「シベリア物語」』を読み、想像絶するご苦労のなかから人生観の一層の深みを知る事が出来ました。

 年々 敗戦の惨めな経験を身に滲みて感じた年代層はほんの一部になって来ました。亭主も私もその年代です、しかし戦争の辛かった経験は思い出したくもなく、喋りたくもない気持ちは今迄持ち続けていました、しかし砂場さんは過去を克明にお書きになったエネルギーにはタダタダ驚き、戦争の無惨さを後世に伝える努力は私たちの役目だと目からウロコ、はっと気づきました。

 偉大な存在の砂場さまの人生に、自分の人生を重ね合わせ見たとき、何と無駄な時間を費やして来たかと反省し悔やまれる事ばかりです。

 自分自身、残り少ない人生ですが、見習って有意義な時間を大切に社会に還元いたします。戦争のない平和が永遠に続きます事を願って!

 砂場様天国で見守っていて下さい、ご冥福を切にお祈り申し上げます。

合掌

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『みちしるべ』**砂場さんを偲んで**<2009.2. Vol.56>

2009年02月10日 | 芦屋道路問題ネットワーク

砂場さんを偲んで

芦屋市 池浦康子

  砂場さんから、初めて年賀状を頂きました。“ガンとの駆けっこをしている間に日がたってしまいました”と。これが最期の言葉になってしまいました。1996年から芦屋道路問題ネットワークとして参加し、砂場さん中心に会員の方々から多くのことを学びました。

 住民参加の基本は住民が主体であることを念頭においてやってまいりました。

 砂場さんは、青春時代の多感な時、四年間のシベリア抑留の過酷な体験に耐えられたことは、「私のシベリア物語」を読んで知りました。社会主義のソ連の収容所で民主教育があり、日本の国を見つめ直し、社会のあり方を真剱に考え、帰国後、労働運動に打ち込まれた記事は何度も読み返し、砂場さんの強い信念・生き方が伝わってきます。

 世界中が大変な不況・失業に落ち込んだ今、ブッシュ政権をきびしく批判しているが、2001年の「みちしるべ」の砂場さんの投稿に“ならず者は誰か”として、鋭い意見を述べていらっしゃる。深く真直な洞察、そして厳しくやさしい心の砂場さんを尊敬し、信頼してまいりました。

 お別れは淋しく本当に残念です。

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『みちしるべ』**自転車の専用道を**<2007.3. Vol.45>

2007年03月03日 | 芦屋道路問題ネットワーク

自転車の専用道を

芦屋道路問題ネットワーク 池浦康子

 住宅地での道は、交通量の多い所以外は歩道もなくて、車、自転車、歩行者が同じ道を通っています。歩行者は道路端を車に注意し乍ら。山手幹線の建設で22mの道路巾になって歩道は植栽帯を含めて4.5mの広さになり増す。広い歩道が出来ればゆったりと楽しみ乍ら歩けると思い、完成した地域の歩道を歩いていますが、“さにあらず”スピードを出して合図もなく自転車がすぐそばを走り抜ける時の恐ろしさを何度か経験しました。速さの異なるものが同じ所を通ることは事故の原因です。そこで市の街路課に自転車道と歩道の分離を要求しましたが、自転車交通量が500~ 700台/日を超えるか否かが判断基準になり、翠ヶ丘の場合は出来ないと回答がありました。道路交通法に拠るものでしょうが、環境問題が世界中で叫ばれている時、車優先でなく環境にやさしく、健康的な歩行者、自転車の利用を応援する道路法が必要です。自転車の交通量が多いから専用道をつくるのではなくて、専用道をつくれば自転車の利用がふえるのではないでしょうか。

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編者より

 上の記事と自転車に関する記事が3編(1/21,2/8, 2/11)添えられています。編者も目に付いた記事(毎日新聞)をとっておいたものがあるので、掲載日順に列挙し、3月7日毎日新聞「投書デスクから」のまとめ的記事も併記します。

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1月17日 自転車の歩道通行 歩行者の安全確保が第一だ 社説

1月21日 なぜ今「自転車は歩道通 自転車活用推進研究会理事・疋田智 発言席

1月24日 自転車、ママチャリで回れるサイズの暮らしがいい 萩原浩 いきいき生活

1月31日 ドイツで痛感 自転車日本の幼さ 投書欄

2月8日 歩行者脅かす「自転車の歩道走行」 専用道を造れば矛盾解消 環境にも健康にもいい 西村浩一 記者の目

2月11日 今後の自転車対策について 警視庁交通企画課交通安全企画官 早川治 発言席

3月7日 自転車の歩道通行「一部承認」に反諭 毎日新聞「投書デスクから」

● 飲酒運転やひき逃げなどの厳罰化を柱とする道路交通法改正案が2日(閣議決定されました。その中で自転車の通行区分の一部変更も注目される改正の一つです。幼児・児童が運転する場合や車道での運転が危険な場合は自転車の歩道通行を認めるものですが、昨年末に警視庁試案が発表されて以来、この欄でも歩行者優先の立場からの反諭が寄せられています。

● 2月に入っても、歩道で自転車にぶつけられ、けがをした体験談(8、21日)や「記者の目」(8日)の提案を受け、歩行者が安心して歩ける歩道に戻すことを訴えた投稿(28日)が日に付きました。自転車は「車道通行」が原則で、歩道通行が認められる場合でも「左端を徐行する」と定められています。しかし、それらを無視して歩道を猛スピードで走行する人が多いのが現状です。市街地の安全性をどう高めていくか、車道を含めた環境整備について、さらに議論が必要でしょう。

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 さらなる議論の必要性はあるでしょう。しかし、車優先社会が産んだひずみの一つが人と自転車の関係に現れたのだということを理解しておかないと、むやみに人と自転車を対立させてしまうことになりかねません。このことに十分気を配るひつようがあります。

(編者)

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『みちしるべ』**常に生きがいを求めて**<2006.7. Vol.42>

2006年07月01日 | 芦屋道路問題ネットワーク

常に生きがいを求めて

芦屋市 三木悦子

 阪神淡路大震災のあとすぐ芦屋道路問題ネットワークそして、地域環境を守る会の一員また翠ヶ丘町の住民として山手幹線事業計画反対の活動をしてきました。

 芦屋市長に対しては、震災直後発表された都市計画道路建設に反対の意見書、要望書、請願、その他様々の行動を展開し、日夜忙しい日々を遇ごし、周辺からは過激だと批判を受けても止めることなく前進していました。

 こんなエネルギーはどこから出たのかなー?自分自身不思議な位でした。思い起こせば40数年前、芦屋市は内海清市長の時代です。何の前触れもなく市から突然翠ケ丘町各戸にはがきが届き驚きました。稲荷山線道路建設事業の説明会を翠ヶ丘集会所で開催の通達です。翠ヶ丘町民は怒りに震え、当夜集会所は満席、廊下にはみだし入れろ入れないで大混乱、説明会が始まっても怒号と野次で話の内容は伝わりません、仕方なく流会となりました。

 当時翠ヶ丘は名の通りみどりいっぱいの町でした。鴬や百舌鳥の鳴き声を聞き、若葉の香りで森林浴に浸り、美しい紅葉、自然が季節を教えてくれる環境に住まいする人々同じ想いで一堂に会したのでしょう。その当時の追力は忘れることは出来ません。その直後から10数名が住民運動の会を発足させました。市当局も手こずっていたのでしょうか進捗状況は伝わってきません、住民側の結束も希薄になり数名が他地区同志の連絡会に出席し学習程度の参加活動に終始していました。平和な日々が続くうち、何か刺激を求めていたのでしょう、消費者運動に力を傾け食べ物の安全性を求め、日本各地駆け巡り生産者と交流し、農業疲弊を憂い日本の食料自給率の低さを出来るだけ多くの人々に知ってもらう運動を続け、わが家の食料すべて安全な材料で手作りに満足、家族一同健康で幸せでした。

 平成7年1月17日思いがけない大震災に芦屋市も大被害を受けました。幸い自宅は倒壊を免れ、当時自治会の副会長の役目で大忙し、全国から援助物資を頂き感謝、感謝の毎日でした。特に交流のあった各地生産者は道なき道を駆け巡り軽トラックに氷上の美味しい水を大きなタンタに入れ温かいご飯を重箱に入れて届けて下さった方。遠方から車中で寝泊りしながら援助物資届けて下さった生産者の方々、10年経っても有難い感謝の気持ちは変わりません。

 震災で家屋倒壊、死者多数、怪我人続出、集団避難生活、情緒不安定の最中、行政は家屋の倒壊をばねに50年前に計画し眠っていた道路を絶好のチャンスとばかりに再浮上させてきました。市民の怒りは最高潮に達し、市庁舎に押しかけ委員会の傍聴を要求しましたが拒否され閉ざされたドアを壊し暴挙にかわりマスコミの全国版になった程です。私も一員として参加していました。その後組織をつぐり活動開始し現在に至って、山手幹線道路は全線買収完了、工事も着々と進み、反対運動ではなく、条件闘争の形に変化しています。沿道の方々が行政との話し合いに努方しておられます。

 翠ヶ丘町の唯一緑深い公園、子供たちも大勢遊びにきます、ある日、二人の男性が立ち木を指しながら話しているのを見て一緒に遊んでいた小学4年生の男の子が「あの人、道造る人?」と私に聞き「僕言ってくる」と言ったのです。二人の男性に「僕たちこの公園なくなったら困るんです壊さないで下さい」と言ったのです。二人の行政マンはどんな気持ちで開いていたのでしょうか?唯笑っているだけで、何も答えませんでした。答えられなかったのでしょう。正しい判断力、積極的な意見発表、あの子が大人になるのが楽しみです。名前を聞くのを忘れましたが。

 楠や銀杏の木は百年以上経った大木です、夏は日陰をつくり冬ぼ防風林の役目をして静かなたたずまいの憩いの場所でした。現在は樹木は全部取り払われ赤土の荒野です。私はこの公園で週2回ペタンクの練習をしていました。この公園がなくなり仕方なく朝日ヶ丘北公園、西浜公園等、北谷南に単車で走っています。ペタンク初めて16年兵庫県代表で全国大会出場3回、昨年は兵庫県で優勝して県代表として北海道早来市に参加、今年はつい先日6月25日の日曜日雨の中、北淡路市の兵庫県予選で3位でした。今年もすれすれで全国大会の出場権をいただきました。

 出場者の年齢差は3世代に互り、まさに孫とばあさんの戦いです。体力の劣る分は作戦と技術で補うしかありません。これは何事にも通じる事でしょうが、好奇心旺盛の性格は何年経っても変わりません。周辺の興味ある物事にのめりこみ体力の限界を忘れます。医者をはじめ友人、家族にも「無理をしないで」と言われます。傍から眺めると哀れに見えるのでしょうか、私は命ある限り常に生きがいを求めて充実した毎日でありたいと願っています。

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『みちしるべ』**お仲間に入れていただき9年**<2004.7. Vol.30>

2006年01月11日 | 芦屋道路問題ネットワーク

お仲間に入れていただき9年

芦屋市 三木悦子

 震災に会ったお陰といったらひんじゅくをかうかも知れませんが、こんな素晴らしい方々との出会いがあった事を神様に感謝感激。メンバーの皆様にも勿論どんな言葉を使っても表現し尽くせない位の喜びを感じています。

 代表世話人の砂場さんには活動の方向性を学び、世話人の方々それぞれ魅力ある性格、行動のすべてが、山手幹線事業を後追いしている芦屋にとっては非常に勉強になり、月一回の例会が楽しい出逢いでした。

 「みちしるべ」の内容も中身は豊富で、藤井隆幸氏の道路問題の学習、澤山氏の爽やかな文面、三橋雅子さんのユーモラスなずっこけ、楽しく読ませていただいていました。(これらすべてが、過去形になるのは残念でなりません)現在まるで部外者の如く、書き綴っている私は深く反省しております。

 芦屋の場合、幹線道路予定地の買収はすべて終わり工事事業の着手寸前の状況の時期に恥ずかしながら私は身を引いてしまって、周辺の人々は勿論のこと、道路ネットに関係されている方々も疑問視されていることでしょう。大人気ない弁解をしても自分が惨めになるだけですので、尋ねられたら「反対運動はもう終わりました。これからは条件闘争ですから道路周辺の人々自らが十分納得出来るまで市側と話し合いして下さい」と言って自分の気持ちをごまかしています。

 思い起こせば、平成7年の阪神淡路大震災直後発表された都市計画道路5路線の再浮上計画にびっくりした地元住民有志数名が同年6月から活動開始いたしました。行政に対しては要望書、要請書、請願書など華々しく活動したのが過激だったのでしょうか?批判の声が度々聞こえてきまして「道路問題ネットには近寄るな」と自治会役員幹部が発言され、他の幹部も「道路ネットは認められない」とまで言われながらも、頑張っていました。しかし地元で意見が合わずに、行政に立ち向かっても、力は分散するだけで徒労に付すであろうと決心しました。

 意気地無しの自分に腹立ちを感じながらも活動ができなくなりました。残念ながら阪神間道路問題ネットワークの素晴らしい仲間ともお別れしてしまって山手幹線問題は地元自治会におまかせの状態です。

 一番気がかりなのは翠ケ丘広場公園が幹線道路建設により無くなることです。現在、平日は幼児を遊ぱせたり、成人のスポーツ練習場になったり、土曜日曜は小学生の野球や、中学生のサッカー練習に、場所を譲り合いながら大勢の地元住民が利用して楽しんでいます。周りは樹齢100年以上の楠やイチョウの大木に囲まれ、文字通りの翠ケ丘です。災害発生時にはこの地域にとって唯一残された広場であり避難場所です。隣町に比較してかなりの高台です、車道だけでも地下を通す技術は出来るはずです。(やる気があれば)何とか残して欲しいです。

 防災公園として防災倉庫の設置など阪神淡路大震災の経験を活かし地域の環境、防災は地元民が気づき声を上げなくては実現しません。

 すぐ横に看板を掲げアピールしていますが、行政や住民の方々どのようにお感じなのか一向に反応が見えてこないジレンマに苛まれています。幸い、池浦さんが後を引き受けて下さり市との交渉もして下さっていますが財源不足を理由に要求は聞き入れて貰えないようです。財源がなければ、予算が計上出来るように努力する方向性を見出せないのでしょうか、道路は完成してしまうと、変更することは出来ないでしょう。やり直そうと思えば何十倍の財源が必要です。

 新芦屋市長は、庭園都市を目指し花と緑いっぱいの美しい町を提唱されています。人工的に造り出す努力も必要でしょうが、一方で緑の自然を壊さずに残しながら開発をする方策も考えなくては片手落ちでしよう。今が正念場だといらだちを感じます。行政と折衝されている方々にお願いします。頑張って下さい。

 第一線を離脱しても常に頭から道路問題は離れず気になっているのが現在私の心境です。

 これらすべて道路ネットの皆様方のお陰で今日まで成長させていただきました。天国に召された染原さん、黒住さん、西庄さんも含め心より感謝いたします。有難うございました。

蛇足ながら

 「みちしるべ」創刊号から現在まで読み返してその時々を思い出し、懐かしく読みごたえのある重い文章ばかりです。道路ネットの組織を否定しながら「みちしるべ」は読みたいと希望される方々は数多くおられます状況は、冊子に引き付けられ中身の魅力の素晴らしさを感じて下さっているのだと、再度確認しています。

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『みちしるべ』**新年の夢 ひとこと**<2004.1. Vol.27>

2006年01月10日 | 芦屋道路問題ネットワーク

新年の夢 ひとこと

芦屋道路問題ネットワーク 池浦康子

 “車が走れば走るほど都会の空気をきれいにする”という新聞記事の「技術最前線」を読んだ。ダイハツエ業の材料技術部主担当員は『不老不死』の自動車触媒を開発した。貴金属の原子をセラミックスの分子構造の中に練り込んだ結晶を開発し触媒にした。今は排気ガスに含まれる炭化水素・一酸化炭素・窒素酸化物を99%以上除去出来れば理論的には排ガスは都会の空気よりきれいになるという究極の触媒を開発中ということ。

 楽しみながら歩ける美しい街路樹のある歩行者専用の道、自転車専用道路、車道があり、車は静かに空気清浄機の役目を果たしながら走っていく、夢の実現を・・・・・

 車社会の発展は目覚ましく、国道43号線建設の時は沿道の人たちの人生を変えるような酷い公害が起こることは想像しなかったのでしょうか。約30年の長い間苦労を重ねてきた尼崎の公害訴訟は国などと和解が成立したが、大型車の規制が実現出来ず、今年の10月排ガス規制を施行すると報じられた兵庫県条例も実現していない。「うちは道路をつくるのが使命。人の健康を考える必要はない。」と言い放った人物がいるとか。共生の心を忘れず心豊かに生きたいと願う。

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『みちしるべ』**イタリア中部の古都を巡る旅13日(最終回)**<2003.3. Vol.22>

2006年01月08日 | 芦屋道路問題ネットワーク

イタリア中部の古都を巡る旅13日(最終回)

芦屋市 岡上裕子

 ヴァチカンの近くのリストランテはやばいよ!と聞いていたので兎に角トスカが終幕で飛び降りたサンタンジェロ城を左に見ながらテレベ川を渡る。シチリア風料理と書かれた看板を見て、冷たいビール、海の幸の前菜、(ナスのカポナータが美味い)フロマージオのピザ等で一服する。この店は“僕たちはナポリの出身だ”と言うウエイター達ばかり、この国では同じ出身地の人達でガードを固めるが、大抵はしっかりした女将さんがレジを仕切っていて目を光らせ、レジやキーはファミリーの人以外には任せないそうだ。

 プラタナスの大木が並んでいる素敵な大通りエマニエル2世通りを通ってラファエロの墓があるバンテオンに入る。ここでも凄い数の観光客だ。ここから近くのサン・ルイージ・デル・フランチェージ聖堂とサン・タゴスティーノ聖堂でカラバッジョを見る。彼の作品は他の人の作品とは全然違っている。光の使い方、そしてその強烈な表現力、全てを画き尽くして迫って人を虜にする絵だ。

 夕方になって少し涼しくなって来た。ナヴォーナ広場でパフォーマンスを見たりして一休み。広場というのは実に素敵な場所だと思う。美しい噴水やスタチューを囲んでバール、ジェラートのお店、トラツトリアが椅子を並べていて、皆が集まって来る場所になる。うらやましい様な舞台作りだ。明日の朝は早いから、ホテルに帰って荷造りしなくてはアスパラガス、ツナ、アヘテイチョークがたっぶり入ったサンドウィッチを買ってお風呂でゆっくりと疲れを取って、冷たいビールでいただきましょう。

 この2週間実りが多い旅だった。お天気に恵まれ一度も雨はなく(少々暑かったが)お互いいい人達で、よく出来た添乗員さんでイヤホーンのガイドも良く聞き取れて良かったし実に楽しかった。ローマの空港で美味しそうなスフォルアテッレを見つけたので持って来たタッパーに詰めた。後はミラノの空港で生徒達に配るキャンデーを買わなくては。

 機中からは万年雪に覆われたアルプスの山並みが延々と続いていた。

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 ローマってほんとに凄い!イタリアってものすごい所だ!!

 来る度にそう思う。唯々すごいとしか表現出来ない。私の思っているイタリアヘの感じは多分大方の日本人が持っているイタリアヘの気持ちとは少し違うんじゃないかと思う。日本のある雑誌がアンケートで調査した結果は、文明国の中でイタリアは最低の国の評価の結果だった。楽天的で、快楽主義で、チャランポランで、当てにならない、…とかとか。だけど良く考えてみると、そのいい加減、成るようになるさ的なものは、自由な発想を生むし、決められたマニュアル通りに事を進めないといけない今の日本にはとても必要なことではないかと思う。初めてイタリアヘ来た時“何さ!お昼にお店も閉めて皆ワインを飲んでお昼寝をして土曜も日曜も休んで…。もっと働けば良いのに”、と思った事もあったが、それは間違い!このパターンを変えない事の良さ。

 唯、売上が上がるからと言う理由でコンビニを夜中中開けている必要はない。過労死する程働く事はない。陽が落ちたら家に帰って家族と夕食を共にしたら良い。何でも効率、効率と利益ばかり追いかけて失うものが多い今の日本。合併して唯々巨大な会社に成ることばかりしていては、小回りが利かないじゃない?よい職人が育たないんじゃないですか?

 イタリアの工房やら家内工業やら専門店やらを大切にしている所が本当に良いなあ一と思う。来年もイタリアヘ行こう。多分その次の年も・・・見尽くせない程見たいもの、聞きたいもの、行きたい所、食べたい物があふれているから。

平成13年7月

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『みちしるべ』**イタリア中部の古都を巡る旅13日 (2)**<2003.1. Vol.21>

2006年01月08日 | 芦屋道路問題ネットワーク

イタリア中部の古都を巡る旅13日(2)

芦屋市 岡上裕子

(30日 水曜日 晴れ)続き

 ここが幼いモーツアッルトが音楽理論家マルティーニ神父から難しいフーガのテストをされた場所なんだなあ!ボローニアには魅力的なポルティコが沢山残っていて良い写真が撮れた。これは私道なのだそうだが、人も歩くし、工房の人も仕事をするし、トラットリアの人も椅子を出して食事の場になるし……と自由に使っていて、この街の人々にとっては冬の寒さと夏の日差しから守つてくれるなくてはならない大事なものなのだそうだ。今夜の宿泊地フィレンツェは郊外の大きなホテル・シェラトン。夕食のワインはキャンティーの少し上等をオニダーしてみた。美味しかった。

(31日 木曜日 晴れ)

 バスで行けるのは、ミケランジェロ広場まで。フィレンツェの全景をカメラに収めてポンテベッキオで皆と別れる。ヴェッキオ宮殿へ入って200人広間、500人広間等壁いっぱいに描かれた絵を見て回る。ここはピイッティー宮殿に移る前までメジチ家のコジモ1Cが住んでいた所。メジチ家の紋章は丸い玉が7つ並んでいるがあれは丸薬の事。メジチはメディスンだとか。

 近くのパルジエロ国立博物館へも足を運ぶ。ここはミケランジェロの“バッカス”やドナテッロの“ダヴィデ”等すばらしい彫刻が沢山有るところ。中庭も建物も重厚だが親しみの持てる落ち着いたいい所だ。近くのブティックで結婚記念日のプレゼントにバックを買ってもらう。ネッディ通りを通ってパッと広場に出るとサンタ・クローチェ教会が目に飛び込んで来る。白と黒の大理石のフアサードは大袈裟で装飾過多だとも言われているが、そうは思わない。まるで舞台装置のようにどきっとする美しさだ。(後で調べると教会は13Cに着手、14Cに完成、フアサードは何と19Cに出来上がったそうだ)

 教会は後回しにして近くの“レオン”で食事。 トスカーナ風前菜、生ハムメロン、パスタはラザーニアとスバゲティーを半々に入れてくれた。 ドルチェのラズベリーもジェラートも美味しかった。それにしても今日も暑い。(32℃ だった)教会の中はひんやりしていて、ジョットのフレスコ画“フランチェスコの埋葬”等があり、ミケランジェロ、ロッシーニのお墓もある隣の美術館も見て回り、街の食器屋さんで記念にトマトのサラダが似合いそうなお皿を一枚買う。

(6月1日 金曜日 晴れ)

 バスの中から工ニシダで黄色くなった岡々を眺めながら、美しい塔の街11Cそのままの街サンジミニアーノヘ向かう。朝の気持ちいい空気の中、中世の石畳を歩いて街の中心へ上がる。権威の象徴である塔は昔は70本あったそうだが今は14本。ここでも名物の昔のレシピで作ったケーキを買う。小さいのに重いなーぎっしり詰まっているみたいだ。バンフオー卜と言うそうだが冷蔵庫の無い時代甘いのだろう。

 それからシエナヘ向かう。真っ赤なケシの花が沢山咲いていてきれいだ。シエナ色と言われる色はこの街の色だ。多くの優れた美術品が有り芸術の街、また初めて銀行を作った街(国家)としても有名な所、ここに来るのも楽しみだった。昼食に出たフンギのスープはなかなかの出来。シエナも中世そのままの装いでメインの道から少し入った路地が特に表情が有って素敵な写真のポイントになる。毎年7月と8月に行われる町対抗の裸馬の競馬、パリオが行われる貝の形をした広場、世界一のエレガントな広場と言われているカンポ広場は広場を囲んでプブリコ宮殿とマンジャの塔が並んでいる。この広場へも来てみたかった。宮殿の中の善政と悪政のアレゴリー(寓意)が描かれているフレスコ画や地図の間などを見てから小さな坂を上って“世界一華美なドゥオーモ”と言われているドゥオーモを眺める。なんて奇麗なんだろう!よく“あでやかな聖堂”と言われているだけのことはあるな一。中はもっとすごい。白と黒の大理石の横縞模様が印象的で実際よりよりぐんと高さを感じさせる。床は象嵌細工で埋め尽くされているが、傷みが激しいので特別の時以外ロ一プで囲った1つだけ見せている。全部が見れたらきっと唸るだろうな一。ピサロ作の説教台、精巧な木彫の聖歌隊席等などさすがフィレンツェと並ぶ文化都市国家だっただけのことはある。しかしこの街も14Cのペストの大流行で人口の5分の4が死亡したという事だ。そうした時には誰でも宗教にすがりつきたくなるものだろう。シエナからベルージャヘ。

(2日 土曜日 晴れ)

 ペルージャのホテルは山の中腹。部屋の窓から緑のウンプリア平野、美しいベルージャの街が一望出来る。朝食後、町中のあちこちにあるエスカレーターに乗って街の中心地の頂上へ行く。朝の空気は気持ち良い。こんな大きな街ならサッカーチームがあっても当然。居心地の良さそうなきれいな街だ。バスでアッシジに向かう。フランチェスコの礼拝堂だった教会に寄り大きな城塞の様な山の上のサンフランチェスコ教会に入る。神父さんの案内でフランチェスコの墓やチマブーエ、ジョットの28のフレスコ画、特に有名な“小鳥に説教する場面”を見て回る。フレスコは壁が乾かないうちつまり壁がフレッシュな間に描かないといけないのでそういわれている。アッシジも聖地だけあってすごい人で混雑している。神父が腰に巻いているヒモには3つの結び目があって清貧、純潔、柔順を表しているそうだ。広場の方に出て昼食、広場でヴァイオリンを弾いていた青年にお恵みを少々。

 それから最後の地ローマヘ向かう。夕食は一寸上等なリストランテでフルコース。この夜の食事が皆と一緒の最後だ。前菜は魚貝のマリネ、アサリのボンゴーレクリーム味、豚肉のサルティンボツカ、デザートも沢山あって満足。その上仲良しになった村岡さんご夫妻とバロック音楽から演歌までの音楽談義であっというまに時間が経ってしまった。夕食後魚谷さんの案内で夜のお散歩に出掛けた。スペイン広場は足の踏み場もない程の混雑。少し速足のお散歩でくたびれた。

(3日 日曜日 晴れ)

 トレビの泉やローマ時代に動物と奴隷たちが戦ったりしたコロッセオを見てサンピエトロ寺院べ行く。つい先日決まったそうだが今日はイエスが神になった日の大ミサが行われるので中には入れない。そして考えられない事だが、その為にローマとナポリのサッカーの試合も取りやめて延期!何でこの国はすぐに変更があってそして誰もプーイングしないのだろう?それだけバチカンの思し召しが偉大なのかな。

 昼食後予約を入れていたボルゲーゼ美術館へ行く。大きな公園の中にあって厳しい人数制限をしているのでゆっくりゆとりを持って見ることが出来た。この優雅な建物はカラバッジオの作品のコレクターとしても有名なシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の館だった所だ。カラバッジオの作品6点、ヴァッカス、果物籠、ヨハネ等が見れた。質の高い彫刻も沢山あって暖炉や壁の絵、天井画などに満足出来る美術鑑賞の一時が過ごせた。ヴェネト通りを通って一寸小路に入ったトラットリアで夕食をしてホテルに帰る。

(4日 月曜日 晴れ)

 朝早めにシスティーナ礼拝堂に行く。こんなに早く来たのにもうすごい人が並んでいる。年間280万人も訪れるそうだ。歴代の法王が財力と権力にまかせて集めた美術品ばかり。唯々唖然とする質と量だ。かなり勉強してきたはずだが、お目当ての作品を探すのにキョロキョロしなければならない。ピナコテーカ(絵画館)、ヴェルベデーレの中庭、ラフアエロの間、ビーニャの中庭、燭台の間、地図の間、タペストリーの間、ピオ・クレメンティーノ美術館、等を回り最後にシスティーナ美術館へたどり着いた。

 余り大きくない部屋だがあの有名な天井画が押し寄せてくる感じで、10分程上を向いていても首が痛くなるのに4年ものあいだ淡いローソクの明かりで描き続けて最後には背中も首も膝も曲がってしまったミケランジェロはどんな執念で描いたんだろう、と考え込んでしまうほどこの作品は凄い!。それまで人体を平面的にしか描かなかったのを、彼は裸体にしてしかも体をよじらせ筋肉などの動きを誇張して表現したのがマニエリズム。しかし余りやり過ぎて他の人も皆真似をしてゆく様になったので変化がなく飽きてしまったのでマンネリズム、所謂マンネリと言う言葉が出来たそうだ。ここは3、4時間ではとうてい見尽くせない。改めてゆっくり来よう。

つづく

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『みちしるべ』**イタリア中部の古都を巡る旅13日**<2002.11. Vol.20>

2006年01月08日 | 芦屋道路問題ネットワーク

イタリア中部の古都を巡る旅13日

芦屋 岡上裕子

(5月25日金曜日晴れ)

 今年から西宮北口発の関空行きのバスが出来たので便利になった。アリタリアは今日はどうしたのだろう。気流が悪くて随分揺れたが、夕方ミラノ着。空港のチェンジの前、到着して5分、たくさんの日本人のツアー客でごったがえす中、もうすでに荷物を置き引きされて青くなっている人がいた。ウチのチームでなくてよかった。ホッ!。今度のツアーでは24人ほとんど全て60歳以上の(中?)老カップル組。しっかりしたコンダクターが付いてくれた。“魚谷さん”男性。今回の目玉は、ミラノでオペラを見る事。カラバッジオの絵を1枚でも多く見る事。ラヴェンナのモザイク画、アッシジのジョットのフレスコ画、それにシスティーナ礼拝堂、ピナコテーカ、ラファエロの間、……何だ、やはりたくさんの目玉になってしまった。

 飛行機のトイレでタバコを吸った人がいて、警報機がなる。500万円以下の罰金だそうだ。マルペンサからミラノの市内はラッシュで混雑。中央駅の目の前スターホテルは4っ星。お湯もたっぶり出て、清潔なベットで空調もあって快適。これ以上は望まない。安定剤を飲んですぐ寝る。

(26日土曜日晴れ)

 朝食、ハム、チーズ全て良し。皆と別行動。ブレラ美術館に行く。やっと念願のカラバッチョの絵が見られた。大天才でありながら、はちゃめちゃな人生を送った彼の伝記も読んだし、画集も買って何度も見ていたのですぐにそれと分かる。その他いい絵が沢山ある。近くのポルディベッツィオーリ美術館は第二次世界大戦で9割程焼失したにもかかわらず、残っていた設計図から元のままに修復し、美術品、家宝の懐中時計、家族が使っていただろう美しいレース等素晴らしい日用品も残っていた。ペックで昼食、リナシェンテ(デパート)へ寄って台所用品を買う。ホテルヘ帰ってシャワーを浴び、一寸おめかしをしてスカラ座へ。ベルディーの“仮面舞踏会”。リッカルドムーティの指揮でしかも土曜日の夜、こんな条件なのによくもあったものだ。その上三階正面のバルコニー、高いチケットを承知でダフ屋のお兄さんから買う。6万5千円にまけてもらい名前と電話番号まで教えてもらう。“ロニィーと詠んでだけど貴方は日本人じゃないみたい”とまた言われてしまった。

 ムーティーのタクトは弦が美しい。バリトンとソプラノが一寸良くない。特にソプラノは声にハリと奥行きに欠けるが終幕の豪華な美しい舞台は忘れることが出来ない。バルコニーの一部屋にはベルギー人夫妻、ドイツ人夫妻、スエーデン人夫妻、私達、皆オペラ・クレージーばかり。幕あいには楽しくオペラの話に花が咲いた。今日はミラノの地下鉄の“一日券”乗りまくったなあー

(27日日曜日晴れ)

 昨年来たベルガモを通ってヴェローナベ。アディジェ川は冬に山間部で雪が多かったので例年になく水量が多く、流れも速い。美しい眺めだ。古代ローマ時代の劇場跡を通って、スカラ家の廟へ。因にスカラは階段の事、スカラ座はスカラ家の教会の後。12Cに建てられた家々が並ぶエルベ広場、ロミオ、ジュリエットの家等を回って前に(アイーダ)を見たアレーナヘ行く。このアレーナはローマのものより古い。ここで毎夏オペラをするなんて、何と素敵な文化なのだろう!。この街もゆっくり滞在してみたい所だ。

 バスでパドヴァヘ。広い広い公園プラート・デッラ・ヴァッレには街の偉人の像が並んでいて、ロマネスク、ゴチック、ビザンチン、のミックスしたエキゾチックな美しい姿の聖アントニオ聖堂が見える。今日は日曜日でミサがある為に中に入れない。その上1300年頃描かれたジョットのフレスコ画が沢山あるスクロヴェニー礼拝堂は修理中、ラジョーネ宮も修理中、中に入れない。修復テントの横から垣間見た天井絵はすばらしかった。24時間開いていて知識人達の討論の場だったカフェペドロッキ等、大学の町らしく若者の多い見るべきものが沢山ある良い街だ。今夜の宿泊地ヴェネツィアヘ向かう。未だ行ったことがないリド島に泊まるのだ。

 ローマ広場からモーターボートでアット言う間にリド島に着いた。船着き場のすぐ近くのおしゃれなホテル。夕日が美しくサンマルコの姿を映している。

(28日月曜日晴れ)

 窓からアドリア海を眺めながら朝食。サンマルコの前で皆と別れて昨年見損なったサンロコ同信会へ行く。昨年は30分前に行ったのに見せてくれない訳だ。とてつもなく大きな部屋に大きな絵が天井からあらゆる壁を埋め尽くしている。テイントレットはこの絵を描く権利を得るために大層苦労したそうだ。天井の絵が見やすいように大きな鏡が取り付けてある。すごいな一!。リアルト橋を通って大富豪の館、15Cゴチックの傑作と言われているカ・ドーロヘ行ってみる。大理石の美しい床、中庭、数々の宝物を見る。此処は海にクイを打って作った島なのだと一瞬忘れる位だ。

 “世界は神が作ったが、ヴェネツィアはヴェネツィア人が作った”と誇り高いヴェネツィア人は豪語するそうだ。リアルト橋の近くのリストランテで氷に乗った大きなオマール海老でパスタを作ってもらう。“ビアンコにしようか、それともロッソ?”“ 勿論ロッソよ”(ウーンでもこれはモコ湖の方が味は上だ!)又サンマルコ広場で、午後の光を浴びた素晴らしいモザイク画を眺めながらグラニテを飲む。

 今日はすごく暑い。後で30℃と聞いた。何でもアフリカのサハラ砂漠の方から吹いてくる“シロッコ”だから白い砂が混じっていて、車も真っ白。そしてこんな暑さになるのだそうだ。9時からリアルト橋のサン・バトロイト教会で室内楽のコンサートがある。美しいお堂の中で聞く音楽は、これこそヨーロッパ!だと実感する。イタリアの若々しくキビキビとして賢そうな青年達の奏でるバッハ、ビバルディー、モーツアルトは体の内蔵にまで染み渡る響きだ。音楽ってなんでこんなに良いんだろう!。音楽を作ってくれた神様に感謝!そして今日ここに来れた事にも感謝! 楽しい一日だった。

(29日火曜日晴れ)

 ヴェネツィアにさよならをしてバスでフェラーラヘ。この都市はエステ家の支配。芸術と文化のパトロンだったイサベラ・デステの時代が一番栄えていたのだろう。小さいが美しいドウオーム等を見て回った。昼食のハムとズッキーニのパスタ、ポークのアーテイチョーク・ソース、イチゴ、なかなか良かった。今度の旅行では口蹄疫のために牛肉は一切無し。牛肉の消費は6割減ったそうだが多くの人々は魚に変更しないであきらめて牛肉を食べているとか。

 昼食後ラベンナヘ行く。日本名“まさこさん”と言うイタリア女性の案内で市内を見て回る。今イタリアでは観光ガイドの規制が厳しくガイドの資格を持っている人でないとガイドは出来ない。またその資格を取るのは難しくて大変なんだと何度も聞いた。フィレンツェを追われてこの町で亡くなった“ダンテ”のお墓を回って、5Cに建てられた皇帝の娘の廟ガラ・プラッチデイア廟、6Cのラベンナが陥落する前の皇帝の為のサン・ヴィターレ教会へ行く。本当にほんとうに簡素な外観のお堂の中によくもこんな素晴らしいモザイクがあったものだ。約1500年の年月を経ても、プルプラ貝で染めた紫衣、銅、コバルト、鉄、を使って作った色ガラスの小さな小片で描いたモザイクが永遠の光を失わずに輝いていた。美しい物を作りたい美しい物を残したい!という人間の共通した執念にホーッとため息が出る。これが見たかった。ラヴェンナには他にサン・タポリナーレ・イン・クラッセ聖堂とサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂があって共に美しいモザイク画が残されている。次回のお楽しみに残しておこう。デザイナーのミッソーニは良くこのラヴェンナのモザイク画からデザインや模様のヒントを得るそうだ。

 サン・ジョバンニ・エヴアンジェリスタ聖堂のまえのホテルは良かった。夕食後中央駅の方に酔い醒ましの散歩に出掛けたが、一寸寂しい感じでこの街に西ロ一マ帝国の皇帝の住まい、つまり都があったなんて信じられない。

(30日水曜日晴れ)

 快晴のサンマリーノ共和国は高台にあって美しい遠望が大きな気分にしてくれる。今日は遠くが少し霞んでいるが、くっきりした日にはアドリア海もみえるそうだ。街の革屋さんでショルダーとお菓子屋さんでお菓子を買う。どんな味のお菓子なんだろう?。切手とコインと観光の小さな国だから歩いて難無く回れる。ボローニアは今まで何度も列車で通っていたのに一度も降りてみなかった。古い美しいポルテイコ(柱廊)の下で昼食。名物のラザニアだが七面鳥のラザニアで美味しかった。中世には200本もあったが今は2本しかない塔を見て、旧ボローニア大学へ。ヨーロッパ最古の大学。教会の反対を押し切って世界で初めて人体解剖をした記念すべき白い大理石の手術台がある。旧アルキジンナージオ宮殿だった建物でこれが大学かと思うほど典雅な建物だ。中世に栄えたボローニアは古くから交通の要所でここからローマ、フィレンツエヘの分岐点だった。サン・ペトロニオ聖堂の前の広場で一休み。資金が足りなくなってファサァドの上半分の大理石が未だに張ってない未完成の聖堂を見上げる。

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