凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

ばっくすばにい「しあわせ京都」

2011年11月30日 | 好きな歌・心に残る歌
 ふるさとを失ってからどれくらい経っただろうかと思う。
 そう書くと、大仰な話となってしまうか。災害で本当に故郷を失った方が多い中、たかが実家が引っ越したくらいでこの大そうな物申しは反省に値する。だが、気持ちとしてはそんな感じなのである。
 両親は有難いことに現在のところ健在で、隣の隣の隣の県に居るために、しばしばではないが時には顔を見せることも出来る。だが、どうも「故郷に帰った」感じは全くしない。ただ両親の家に行っただけである。武田鉄矢氏が「おかあさんがふるさとそのものです」と言ってそれは一面真理であるけれども、土地勘もなく周りを見渡しても全く馴染みが無い場所は、いくら母親が居てもふるさととは呼びにくい。

 僕は、京都で生まれた。そして、そこに22歳まで居た。
 その頃は、故郷なんて言葉を遣う機会は全くない。当たり前のことである。離れてこそ、生まれた街が故郷となる。
 ただ、あの街に居た頃は、将来的にもこの街を「ふるさと」と呼ぶことはないだろうと思っていた。「ふるさと」という言葉とイメージが異なるのである。唱歌の「うさぎ追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川」は、かなりの数の日本人の心情を支配しているのではないだろうか。ふるさとがしばし「田舎」という言葉で置き換えられるように、ふるさとには山河があり、緑豊かで花咲きほころぶ、そういう場所でなければいけないと思っていた。
 大学時代。夏を迎え「明日から田舎へ帰るよ」なんていう友人達を見て、羨ましさを感じた。自宅から自転車通学の僕には、そういう場所はない。
 
 学校を卒業して、僕はこの生まれた街を出た。どうしても出て行きたいという願望を持っていたわけでもないが、成り行き上そうなってしまった。そして、最初に東海地方の街に居を定めた。
 その街にいる間、僕は生まれた街へ一度も帰ったことがなかった。忙しかった、ということもあるし、休みがとれればその時間は旅行に使った。親不孝者、との声が聞こえてきそうだが、親が逆に独身者だった僕のところへしばしば尋ねてきていたので、ご無沙汰しているという感じも無く。20数年前は、親も若く腰が軽かったものと思える。そして、僕はまた別の街へ移れと命じられた。今度は北陸だった。
 北陸に移り住んでしばらく経ったのち。僕は出張で名古屋へ向かうため、北陸本線で南下した。米原で新幹線に乗り換えるのだが、その前、列車が敦賀を過ぎて余呉へ入ろうとするとき、僕は急に胸に迫る何かを感じた。なんだか泣きそうな気持ちになった。
 疲れていて、気持ちが不安定だったからだと思うが、その時僕は「この線路は京都に繋がっている」と唐突に思ってしまったのだ。はじめて「郷愁」というものを覚えた瞬間だった。望郷の念にかられたのだ。生まれた街を出て、一年半が経っていた。言ってみれば、その時に僕の中に「故郷」という存在が発生したとも言える。
 そして、次に休みがとれた時、僕は「故郷」へと向かった。
 駅すらが、既に懐かしく迫っていた。この日本一長いホームを持つ古い駅から、僕は何度も旅立ち、そして最後に出て行った。列車を降りて、バスに乗った。そのバスの車窓風景全てが、懐かしかった。バスを降り、実家へと繋がるひとつひとつの建物すら懐かしく思えた。

 こんな話は、ずいぶん昔のこと。その、初めて故郷へ帰ったときの思い出すら、ノスタルジーの世界となってしまった感がある。しばらくして、両親は隣県へ引っ越した。いろんな理由があるのだが、とにかく生まれた街から実家がなくなった。
 そうなると、僕にとって故郷はどこになるのか。もちろん、生まれた街のはずだが、そこへ行く理由が無い。親しい友人も居るには居たが、限られた休暇では、優先順位は両親となる。
 したがい、生まれた街から足が遠のいた。

 それから随分と時間が経過してのち、機会があり僕は京都へ久しぶりにやってきた。何年ぶりだっただろうか。 
 京都駅からして、とてつもない変わりようだった。なんだこの城のような駅舎は。駅前風景も、やはり変わっていた。京都タワーはあいかわらずヌボーと建っているが、それ以外のところは、ずいぶんと様変わりした。近鉄百貨店が無くなっている。
 駅前の近鉄百貨店は、もっと昔は丸物百貨店だった。僕が少年の頃の話。そして、ここでラジオ番組の公開録音をしていた頃があった。近畿放送(現KBS京都)の「丸物わいわいカーニバル」。司会は若き日の鶴瓶師匠。僕も公録を見に行った。ゲストミュージシャンも、ラブウィングスやシャトレセカンドなど懐かしい名前を思い出すが、その中でもほぼレギュラー的に出演していたのが、きたむらけん(現・北村謙)率いる「ばっくすばにい」だった。
 このきたむらけんというミュージシャン、関西(いや京都か)出身のある年齢層の人には、非常に知名度が高いと思う。ラジオっ子はみんな知っているはずだ。一時期はズバリク(わかりますね)のDJもやっていた。あのヤンタンにも有吉ジュンさんと共にパーソナリティとして出演していたのだから。
 金・金・金曜日の担当きたむらけ~んさんは今どうしているのかと探してみたら、HPをお持ちだった。そこで、現在の活動がわかる。今も元気にバンジョー弾かれているようだが、もう還暦という情報にあっと驚く。でも考えてみたら、そうかもなあ。
 けんさんのことは、以前クライマックス「花嫁」について書いたときに触れたことがある。クライマックスに所属はしていなかったのだが、エンドレスに在籍されていた。「嫁ぐ日」とけんさんのエピソードはそこで書いた。
 僕は、バックステップカントリーバンドやエンドレス時代は、古すぎてあまり知らない。やはり「ばっくすばにい」からで、「私の朝」「しあわせ京都」というシングルはよく憶えている。ナマでも何度も聴いた。
 その「しあわせ京都」を今聴き返すと、わいわいカーニバルの時代、つまり少年時代にすっと戻ることが出来る。この曲は、局地的だったかもしれないけれどもよく売れたのではなかったのだろうか。

   ああ路面電車の窓をふいて 京の夜景を見ているあなた
   そんなあなたの顔を みている私はしあわせ

 この頃は、まだ路面電車が京都を走っていた。この日本初の電車として知られる京都市電は、僕が中学生のときに廃止された。モータリゼーションの波にのまれた形だが、よく京都の街にマッチしていた。今でも北大路や西大路通に市電が走っていないとなんだか違和感を感じたりするほど、身近だった。
 それにしても、この「しあわせ京都」を聴いていると、やっぱり京都はブルーグラスだなとつくづく思う。京都の駅前の変貌に故郷を見失いかけたが、バンジョーやフラットマンドリンの音が聴こえると、故郷に引き戻されるように思えるほど。
 ブルーグラスは、身近だった。やはりナターシャセブンが京都に居たこと、他にもカントリーの大物ミュージシャンが目白押しだったことは大きかった。同級生でもブルーグラスでバンドを組んでいたのが何人も居た。あの頃は日本屈指の底辺だったのじゃないか。

 もう京都市電はとうの昔に無く。僕は、地下鉄に乗った。目指したのは、かつて実家のあった場所。
 情報は、聞いていた。両親が引っ越したとたん、その場所はすぐに更地になった、と。地主はとにかく土地をなんとか活用したかったらしい。戦前から建っていた家だったもんなぁ。限界がきていたのも確かだが、そうして僕の生まれ育った家は、僕の知らぬ間になくなったらしい。
 地下鉄を降りて、そのあとは歩く。歩いてみたかったのだが、下車した地下鉄駅周辺のあまりの変貌ぶりに驚く。全く違う街に来たようだ。京都という街はもう1200年も続いていて、非常に伝統を重んじるところもあるが、一面新しモノ好きである。なので、結構街の更新も激しく行われる。僕は、その数年の間についてゆけないほど変わった街を歩いた。
 商店街も変わった。昔と店が違う。好きだった佃煮屋が閉めている。お茶屋さんもない。ここのおばちゃんにはずいぶんかわいがってもらったのだが。果物屋もない。和菓子屋もない。続いている店もあるが、代替わりしていたり、リニューアルしていたり。
 通った小学校の前に立つ。校舎がみな建て替わっているのはしょうがないが(相当に古かったので)、植生がかわっているのには驚いた。あの藤棚は、あの桜は、あの松はどこへ行ってしまったのか。
 そして、実家のあった場所へ。
 見事にマンションが建ってしまっている。面影は、全く無い。ご近所さんもみな立ち退きに遭ったのか。
 その時にふと浮かんだ言葉は「根無し草」だった。なんだか、寄る辺ない人間になってしまったように思えるほど、現実はショッキングであり、しばらく立ち尽くしてしまった。生まれて育った、痛切な思い出の詰まった家、今は無し。
 その瞬間に、僕は故郷を失ったと言える。
 つまり僕にとっての故郷とは、生まれた街を離れて一年半ほど過ぎたあの望郷の念の時に発生し、そして、生家が失われたのを確認したこの時までの、わずか10年弱くらいの間にしか存在していなかった。あくまでも、僕の中で観念的に言えば、だが。

 その後は、京都は遊びにゆく街となった。再び関西に移り住んだこともあってしばしば訪れる。妻を伴うことも多い。かつて実家がこの地にあったときは、妻は京都=実家であって、舅と姑もおり、買い物をしたり墓参りに行ったりで費やされ、あちこち見て回ることはあまりなかった。妻は、結局修学旅行以来、京都をほぼ知らない。
 もう今は、自由だ。観念上は僕の故郷でもなく、旅行先と思えばいい。考えてみれば、京都は屈指の観光地。しかも、土地勘があって絶対道に迷わない歴史ヲタクがあんたの配偶者だ。どんどん活用しなさい。

   三年坂を手を引きのぼる清水参道 息を切らせて
   あなたの腕が自然にのびて私の肩にかかります  
   ああ長い階段踏みしめながら ふたりの愛を誓い合います
   あなたとならどんなことでも耐えて行けると

 故郷を失くしたことは、寂しくないわけではない。けれども、それは観念上のことにすぎない。呪縛から逃れた、とも言える(と、強がってみる)。そして、それからさらにひと時代過ぎた。もはや自らで故郷を作り出していかねばならない世代ともなっている。別に、無理はしないけど。 

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9 コメント

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ふるさと (よぴち)
2011-12-04 23:44:12
凜太郎さん

福井に生まれ育ち、今も福井を離れずにいる私が、ほんの少しでも共感する、なんていうのは甚だ図々しいと思いつつも…。

福井とはいえ、実家ははなれている私なので、たまに実家に帰ると、多少は「故郷に帰って来た」感があるわけです。
けれど、凜太郎さんと同じ、故郷の町は建物も、道路も(道路の位置までが!)変わっていて、小道やあぜ道などはもう、無くなっていて。
実際、生家ももうなく、今の家は同じ町内といえど引っ越した家で、それすら、私が県コンスル直前に改築して、今の実家の建物には、私の遠い記憶にあるものは何一つなく。

学校も、もう、建物そのものも、敷地内での後者の位置も変わっているし。

何か、淋しいのです。

しいていえば、匂い。
田舎なので、季節の匂いがする。
でもそれは、時に、故郷でなくても感じることがあって、そんな時、逆に、場所を問わず、故郷に帰った感が味わえています…(^_^;)
>よぴちさん (凛太郎)
2011-12-05 06:40:11
いやいや、こういうのは自治体の枠組みとかそういうことではなく、心理的な問題だと思います。ですから、100m離れたところに故郷がある、ということだってありうると思うんです。
ですから、故郷を失ったと思う気持ちは、かわらないはずですね。距離の問題でなく。
何か、淋しいですね。確かに。
そうなると、故郷はやはり心象風景の中にしか存在しない。だから、匂いとか感覚で察知したりする。五感で追憶が甦ることで具象化する。
ふるさとって、そういうものになっちゃうんでしょうかね、今の時代。江戸時代なら多分100年後も同じ風景が続いたと思うのですが…。まあそれは、しゃーないことなのかなー。
すみません (よぴち)
2011-12-05 10:07:09
今、凛太郎さんのお返事を読むのに、自分のを見てみたら、なんともひどいコメントで…(>,<)
このところ睡眠不足で疲れていたとはいえ、
結婚する→県コンスル
校舎→後者
もう、呆れるの通り越して、笑えますね。

こんな酷いコメントにも
きちんと返して下さって、ありがとうございます(^_^;)
すみません2 (よぴち)
2011-12-05 10:13:08
あれ?
何故か、投稿されたコメントが半分以上端折られてる…。

再度、続きを投稿します。

....................................................
結婚する→県コンスル
校舎→後者

あまりに酷くて、もう、呆れるの通り越して笑えますね。
こんな酷いコメントにも、きちんと返して下さってありがとうございます。
>よぴちさん (凛太郎)
2011-12-06 06:08:34
わざわざすみません。
いや、変換御簾は可ならずありますので気づかなくてもしょうがないんです。気にしてませんので。
「脊椎反射」http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=668
ネットの場合の誤字は、「貧欲」「団魂」でなければOKですんで少なくとも僕ん家では訂正の必要はありません。
それより途中切れは申し訳ありませんでした。半角カギカッコは、タグだと認識してしまうようです。で、以降の文字列が失われる。ごめんなさい(汗)。
Unknown (こねこ)
2011-12-10 22:04:54
う~む、、、
どう言葉にしていいのか思いつかないのですが、凛太郎さんの言わんとしていること、なんとなくわかるような気がします。
わたしも、生家も知らず、育った家も訳あって処分し、今の家のみです。
そんなこんなで、生まれた所のことを知りたくなって、お邪魔したのが始まりです。


わいわいカーニバル、なつかしいなあ。ズバリク、聞いていました!!なぜか育った場所はKBS京都がよく入る地域でした。
少し前にアルファーステーションで「しあわせ京都」を聞き、なつかしかったです。
ああ、、、そんな歳になったのですね、、、
>こねこさん (凛太郎)
2011-12-11 08:00:42
こちらまで来ていただいてありがとうございます。ここが、僕が長くやってるブログです。
人は誰しも…かもしれませんが、やはりルーツはたどりたくなるもんだと思うんです。そして、ごく小さな頃に記憶の底に沈みこんだあれやこれやを、何とかして甦らそうとする。僕が生まれたところと違う街に来てもああして路面電車の痕跡を必死で探したりするのもその一環かもしれないなと思ったりして(笑)。
こねこさんの「武庫川の西に夕陽が見える」というお話にも感動させていただきました。

アルファステーションはあんまり聴こえなくて(汗)。あそこなら「しあわせ京都」も流れるでしょうね。ズバリクやわいわいカーニバルをご存知の方で嬉しかったです。(^^)
はじめまして (SHOW)
2011-12-24 21:37:27
ばっくすばにいで検索してたどり着きました。数年前までは北村謙で検索しても殆どヒットしなかったのに,ここ数年のBLOGはすごいですね。しかも僕と同世代と思いますが,ヤンタン,スバリク,有吉ジュンさん…久しぶりに聞く単語が並び,私も少年時代に戻った気がします。私は今,大阪に在住していますが,実家は京都駅の近所で,昔はよくわいわいカーニバルの公開録音に行きました。当時は「丸物」でしたね(笑)
>SHOWさん (凛太郎)
2011-12-25 07:36:12
どうもはじめまして。
確かに、以前よりも情報が蓄積されている感じはしますねー。ネット上のおっさんたちがみんな懐古に走っているのかな(笑)。僕も、ヤンタンやズバリクのことは時々書いてしまいます。
僕は北区だったので、丸物まで延々自転車で来ましたが(当時は元気だったなぁ…)、帰りが結構大変でした。行きは下りなのでいいんですけれどもね。京都駅のご近所だったとはうらやましい(笑)。

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