西郷隆盛は、時勢というものの怖さを身に沁みて知っていたはずである。
倒幕を決定付けた鳥羽・伏見の戦い。この時は、単純に考えれば官軍側は勝てるはずがなかった。薩長軍(後に官軍となる)は、土佐300人を加えても約4500。対して、幕府軍は会津、桑名兵を加え総勢約15000。火器の優劣はあったにせよ劣勢は免れない。西郷は「みな死せ」と兵を送り出した。西郷に勝算があるとすれば、それは「時の勢い」という一点であっただろう。そして、錦の御旗を仰ぐことによって薩長軍は数の論理を乗り越えた。
戦争はタイミングである、と西郷は知っていた。
前回書いたように、明治六年の政変以降、反政府運動は士族挙兵、民権運動、農民一揆と三つの流れを生み、全て反有司専制で統一していた。思想形態は違えど憤懣は同じベクトルを向いていたと言っていい。
西郷隆盛さえ起てば、これらは全て統一した革命軍になっていただろう。
思想形態の統一がなされなくては協力体制はとれない、とも考えられるかもしれない。しかし、西郷の存在はそれらを超越したところにあっただろう。時代は前後するが、西南戦争勃発の際、熊本の宮崎八郎率いる熊本民権党、また増田栄太郎率いる中津共憂社などが参戦している。宮崎八郎は、西郷は民権ではない、としつつ「全ては政府を倒して後」と参戦。野合であるが、有司専制に反対する以上、思想形態は違えど勢力としては結集しうるのだ。
西郷は結果として明治十年に起つのだが、何故それまで雌伏していたのか。戦争は時勢、タイミングであるということを誰よりも知る西郷が、その時勢を逸し続けたとも見えるのだが。
明治六年の政変後、西郷が下野して鹿児島に帰ったそのときは、時勢は間違いなく西郷に向いていたと考えられる。しかして西南戦争を起こす明治十年までに、その勢いはどんどん鎮火していった。待っていれば待っているだけ不利だったと言える。
ひとつは、士族挙兵があらかた終わってしまったということ。最も不満を持ち、そして最も戦力を保持している官軍側の士族が鎮圧されてしまっていた。薩長土肥のうち、肥前は佐賀の乱を起こし鎮圧。長州は萩の乱で鎮圧。土佐はまだ戦力を保持していたとも言えるが、自由民権運動という言論活動が主体となり、武闘派の勢いは終息に向かっていた。無くなった訳ではないが三年の間に弱体化したとも言える。
また、農民蜂起の勢いも、その最も大きな題目であった租税の問題で、政府は明治九年に地租軽減を行い不満を解消する政策をとり、これも沈静化させた。
さらに、この間政府は、徴兵制による軍備の充実を図った。当初はなかなか弱かった鎮台兵もこの期間に戦力は確実にアップした。また海軍力も充実し、西南戦争時には大量輸送を可能にしていたのである。
そして、警察力の増加も挙げられる。川路利良は大久保配下で警視庁大警視として、治安維持への実力を蓄えた。現在の警察と比べて、内偵、密偵を多用し情報収集能力を重視し、また扇動、攪乱、情報操作などあらゆる手段を講じて国家政府を守護した。これにより未然に防がれてしまった挙兵や反政府行動も多い。
さらに、反政府活動のスローガン的役割を果たしていた征韓論および外征論。これも、政変後にすぐさま政府が行った台湾派兵、そして明治九年の江華島事件による日朝修好条規締結で、一面骨抜きになってしまった。外征を題目にすることは難しくなったと言える。
以上のことにより、武力による反政府活動はもはや手足をもがれた状況になっていたと言えるのではないか。西郷が鹿児島で待ち続ける間に。
時勢を見るに敏な西郷が、これを座して見ていたのだ。とても蜂起する気があったとは思えない。時期を見ていた、という通説はどうも頷けない。少なくても反政府という題目で蜂起しようとするならば。待てば待つほど不利になる状況で。
やはり西郷は、武装蜂起する意思などなかった、と考えるのが常套だろうと思う。
それならば、何故西郷は鹿児島を軍事政権化したのか。
前回、私学校は「鹿児島幕府」である、と書いた。地租改正も無視し、士族特権も奪わず、軍備に磨きをかけていた。鹿児島は一種治外法権であり、それは日本に二つ政府があったのと同じことであったと思う。
私学校は、西郷は将軍であるが多分に象徴的存在にあり、桐野利秋が執権。銃隊学校(篠原国幹が指導)と、砲隊学校(村田新八が指導)からなり、さらに賞典学校(つまり士官学校)も所持していた。これらは軍事訓練所であり明らかに軍隊を育てている。牙を磨いている。
前述したように、これは叛乱のためであったとは考えにくい。ではいったい何のために。
ここからは想像になってしまうのだが、まず第一点として、私学校は日本軍の別働隊たらんとしていたのではないか。
西郷が考え、恐れていたものはおそらくロシアであっただろう。西郷の遣韓論も、対ロシアが念頭にあったことは容易に想像できる。
西郷の思想として、島津斉彬の亜細亜主義、そして勝海舟らが考えていた東亜連盟に近かったのではないか。19世紀のアジアで、日本だけが近代化に成功した。これが侵略・植民地化に対する防波堤になったわけだが、ロシアの膨張政策、南下政策はそういうものを無視してやってくる。現に樺太では大いに揉め、日本は千島・樺太交換条約というものを結ばざるを得なくなっている。いずれロシアは日本を欲して攻めて来ると考えていただろう。
そのためにどうすればいいか。まず、東アジアは手を結んで対露にあたるべきだと考えていた。しかし朝鮮半島は未だ旧態然としている。ここに維新を輸出して、共に対露にあたるべきと西郷は考え、遣韓論を打ち出したのだろう。日・中・朝が同格として互いに結んで西欧の侵略を防ぐ。ロシアにもまだシベリア鉄道は無い。大量輸送は出来ないだろうから、この東亜同盟で防ぐことは出来るだろう。
西郷は鹿児島隠棲中はほぼ沈黙していたが、江華島事件の折は「遺憾千万」と怒りを顕わにしている。もともと征韓論であればこの怒りは理解できない。西郷は不平等条約ではなく、同盟を結びたかったのだろう。
しかして、西郷の遣韓論は既に葬られている。この上は、ロシアが攻めてくることも想定しなくてはいけない。徴兵制はまだ始まったばかりで不安が残る。日本国軍が充実するまでは、戦力を保持していなくては危ない。そう考えて、鹿児島に士族軍隊を残す。ただし、それは政府の方向性(国民皆兵)と相反するため、治外法権的に存在させたのではないか。
そして、これは治外法権でなくてはならない。将来的に日本の軍備が整えば不要になる戦力であるのだから。日本の法制に組み込めない。組み込んだとしたら、それはまた明治初期の雄藩勢力に頼った国家への逆戻りであるが故に。
大久保は、そのことが分かっていたのかもしれない、と思う。彼はこの鹿児島軍事政権(幕府)を放置したが、それは島津久光に対する遠慮だけではなかったのではないか。木戸孝允にさんざんせっつかれても無視し続けたのは、この戦力を担保にしたかったのではないか。
富国強兵という概念がある。明治政府のスローガンと言ってもいい。ただ、この「富国」と「強兵」は同時には達成できないものである。双方とも予算がかかる。紡績業を充実させようと思っても、機械は外国から購入せねばならない。大久保は内務省を設置し、まず「富国」を第一目標に置いた。後に秩禄処分で予算が浮いた時にも、大久保は殖産興業にその予算を充当しようとしていた。
列強が国家予算の1/3を軍事費に当てているこの帝国主義の時代に、軍備充実は避けて通れないものである。その国軍の弱さを補完するものとして、大久保は鹿児島の軍事政権をアテにしていたのではないだろうか。
アテにしていたとは暴論にも見えるが、現に台湾出兵の折は、鹿児島から徴集兵を受け入れている。西郷も協力体制をとっている。そればかりか、もしも日清に戦争が起こらんとした時は、西郷隆盛を総元帥として迎えねばならないと黒田清隆や川村純義、西郷従道は考えていたようである。鹿児島の軍事政権を完全に頼りにしている。いかに薩摩閥とは言え、この考えは「アテにしていた」としないと理解しにくい。
大久保は、「富国強兵」の「強兵」の部分を、予算が追いつくまでは西郷に託していたのではなかったか。
さらに、第二点。
西郷が時期を待っていた、とされる通説において、「いずれ政府は瓦解する。その時には兵を率いて東上する」と西郷が考えていたとする説がある。僕はこれは、当たらずとも遠からずなのではないかと思っている。ただ少し解釈が異なるのは、西郷は瓦解を望んでいたのではない、と考えていることである。
明治六年以降、確かに反政府活動は飽和していた。西郷起ちせば全てがひっくり返る危機にあった。西郷自身は無論起たないのだが、もしかしたら自らが立たなくても政府に危機が訪れるやもしれない。そのときは、自らが出馬しようと考えていたのではないか。これは、当然現政府を守るためという意味合いにおいて。
実は、鹿児島軍事政権は、近衛兵的意味をまだ持ち続けていたのではないだろうか。
桐野も御親兵で陸軍少将、篠原は少将で近衛長官だった。私学校は国家鎮撫の兵で成立していたと言っていい。大久保に取って代わろう、との意識を持っていた兵も多かっただろうが、少なくとも西郷は、最後の手段として自分が出馬することによって瓦解を防ごうとしていたのではないか。そのために戦力は保持していなくてはいけない。現政権補完の役割を担っていたのではないか。
以上二点が、鹿児島軍事政権(鹿児島幕府)の立脚意義であったと僕は考えている。
そして、明治十年の西南戦争である。この戦争の理由について僕は考え屈している。
以前は、以下のように考えていた。士族暴発も終り農民一揆も緩和され、政府瓦解の危険性も無くなり、国軍も充実し、もはや鹿児島に軍事政権が存在する意味が無くなった。残された旧態の存在は、官軍の生き残りである自らの軍事勢力だけである。これを無くしてこそ明治日本政府の統一が達成される。なので、最後の官軍を消滅させるために自ら負け戦を起こして散ったのであろうと。最後は自爆して明治維新を完結させる、と。
こう考えれば実に分かりやすく完結するのであるが、どうもそれだけでは理解しにくくなってきた。確かに鹿児島軍事政権を無くすのには鎮圧されるのが最も簡単である。しかし、この時点で西郷は本当に「もはや鹿児島幕府は無用となった」と考えていたのか。ロシアの脅威は決して去ったわけではない。そして、士族挙兵も全て鎮圧されたわけでもない。長州と肥前は鎮圧されたが、官軍の一端を担った土佐がまだ残っているではないか。自由民権運動は、完全に言論だけではなく武装蜂起もありうる状態で残っている。しかも、板垣退助は西郷が最も恐れる軍事司令官ではないか。そしてそれぞれは微力でも、まだまだ全国の士族は不満を持ち続けている。一斉蜂起の可能性も残っていた。農民運動は民権運動と結びつき始めている。鹿児島の軍備はまだ必要なのではないか。
やはり、西南戦争は西郷にとってイレギュラーではなかったのか。
西南戦争の導火線は、私学校党が陸軍の火薬庫を襲撃、弾薬を略奪した事件に端を発する。これを聞いた時西郷は
「シモタ!」
と叫んだという。この「しまった!」という言葉の意味は何か。まだ軍事蜂起する時期ではない、と解釈することも出来るが、真意はやはり西郷は軍事蜂起など考えていなかったのではないだろうか。そのまま推移することを考えていたのではなかったか。自爆して消滅、というストーリーは念頭に無かったのではないか。私学校の兵力は、みんなかわいい西郷の弟子たちなのである。
ただし、この兵力をどうするか、ということについて、西郷は具体的なアイディアを持っていなかったのではないか、と考えられる。茫洋と「対ロシアの義軍として果てる」程度にしか考えていなかったのではないだろうか。
西郷にはそういうところがある。討幕運動にせよ、その後の具体的ビジョンを所持してはいなかった。政体もぼんやりと「雄藩連合」を考え、焦土の中から新しい国家が生まれる、と抽象的な理念しか持ちえていなかった。
以上に書いたことは、僕も遂に確信を持って書いていない。最後まで分からなかった部分である。
大久保はどうだったのだろうか。
この西南戦争の導火線のもうひとつの側面として、大警視川路利良の放った密偵が火を点けた、との説がある。通説だろう。西郷暗殺を企て、それに私学校党が怒って兵を挙げた、という話。これも事実である可能性が高い。本当に暗殺計画があったのかはともかく、警視庁の密偵は潜入したのであるから。
川路利良がこれを独断でやったと考えればすんなりいくのだが、それはちょっと考えにくい。やはり大久保の意を汲んでいたと見るべきだろう。何故大久保はそっとしておけなかったのか。
そっとしておきたくてもおけなかった、とは考えられることだろう。鹿児島軍事政権は日本の矛盾である。自らの立場としては一刻も早く消滅させなくてはならない。そして、士族挙兵も農民一揆も、軍事力も警察力も、外征論に至るまである程度クリア出来た。もう残る大勢力は鹿児島だけ。時期は今しかない。苦渋の決断だった、と解釈も可能である。ただ僕はなんとなく釈然としない。
大久保の子息である牧野伸顕の談。
「(火薬庫襲撃の一報に)父は果たして薩摩の連中が蜂起した、しかし西郷は決して出てはおらぬと言っていました。(西郷蜂起の情報にも)父は決して信じませんでした」
これが真実であるかどうかはわからない。もしも川路に命令を下していたとしたら、こんな二枚舌はない。ただ、大久保の心中を察するに、私学校はこの世から消したくても、西郷を消したくはなかったのではないか。そして西郷自身は叛乱することはないと信じていたのではないだろうか。
「(征討軍を出すときにもまだ)イヤ西郷は出てはおらぬ、しかしあの男のことだから進退去就には迷っているだろう」(同前、牧野談)
まだ様々なことについて確信が持てない。しかし、現実に西南戦争は勃発してしまった。西郷はどうしたか。
西郷はここにおいて、負け戦を始めようと決意したと思われる。それしか考えられない。ここで勝って日本を転覆させることは選択肢としては無かった。
西郷は軍略家ではなかったにせよ、この戦争の戦略戦術は愚としか言いようが無い。それは誰しも認める部分だろうと思う。やはり負けることを前提としないとこの戦争は考えにくい。自爆であったのだ。
西南戦争の概略を述べることはもうしないが、西郷軍はまず熊本城を落とすことだけを考える。こんなもの無視して進めばよかったのに。ここで足止めされているうちに、輸送力に長けた政府軍が次々と兵力を送り込む。そして、敗戦へと向かうのである。
「熊本城参謀長の樺山資紀は城を明け渡し露払いをするだろう。下関で海軍中将の川村純義が迎えの船をよこすだろう。さて、花見をしつつ上京しよう」
こんなことを本気で考えていたはずがない。
山県有朋は薩軍の動向を以下のように予測している。
一、汽船に乗って、東京もしくは大阪を突く
二、熊本城および長崎を襲い、全九州を従え後中原に出る。
三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を伺い、国内の人心を測りつつ時機を見て攻め入る
山県でなくともそう考えただろう。山県は「この三策のうちどれを取っても薩軍に勝機があった」と言う。そして、正面衝突すれば陸軍総勢力は3万ほど。薩兵は1万~2万(補充されるため)。個人力は圧倒的に薩兵。さらに、山県はこの蜂起が成功すれば全国20数ヶ所でまだ士族挙兵があったと踏んでいた。
しかし、西郷軍は熊本で留まってしまう。自殺行為に似ている。例えば、薩軍が熊本を無視して一路小倉を衝いていれば、様相はかなり変わっただろう。無数の歴史が変わる「if」がある。
もちろん薩軍内部にも「一軍は海路を持って長崎を押さえる(西郷小兵衛)」「まず若狭に上陸する(野村忍介)」などの意見があったが一蹴される。
熊本城に吸着する意味がどこにあったのか。それは、ここで足止めを喰らうことによって「薩軍の勢力は大したことがない」と喧伝し、全国の反政府勢力に二の足を踏ませることくらいしかない。
説によると、この戦闘は桐野利秋と篠原国幹が全て仕切り、有能な永山弥一郎や村田新八は黙り、戦略眼を持つ野村忍介らは前面に出られなかったと言う。ただ桐野や篠原が無能だったのだろうか。
しかし、象徴化していたとはいえ西郷が桐野らに任せていたのであるし、最終的には西郷の責任に帰するべきだろう。桐野無能説もあるが、僕は(個人的にだが)桐野は最も西郷の意を汲んでいたこともありうると思っている。負け戦にするという西郷の意図を。そう考えれば、熊本城に拘るのが、全国の反政府勢力を沈静化させるのには最も都合がいいのである。確信は持てないけれども。
西郷軍は熊本から宮崎に転進し、最終的に鹿児島に戻り城山に籠って玉砕する。西郷は、死に臨んで徴兵制による鎮台兵の強さに満足したとも言われる。今後は我ら士族兵がおらずとも大丈夫、と確信を持ったのかもしれない。
こうして、日本の雄藩による倒幕、支配者階級による「革命」で抱えざるを得なかった矛盾であり負の遺産であった「勝者となった支配者階級」の抵抗は終焉を迎え、同時に明治維新も終わる。西郷と薩兵たちが全てを負って逝ったと言えば感傷的に過ぎるだろうか。
大久保は、西南戦争鎮圧後、さらに独裁色を強め内治に邁進する。大久保はこの有司専制をどう考えていたのだろうか。
「絶対主義国家は、大久保の理想国家の像へと向かうための過渡的なもの」と司馬遼太郎氏は推論している。大久保は、国家基礎固め30年説を持っていて、それは、10年は創業の時期であり内外の兵事解決。次10年は内治整え国内充実に向かわせる。そして次の10年は後進に任せる、と言った。そして、実はこの言葉がほぼ遺言となった。これを朝に語った後、太政官出勤途中で暗殺される。
西郷と大久保、この仲の良い二人は、かつて幕末時に行き詰まり刺し違えようとしたことは有名な話である。結局、維新創業を経て最終的に刺し違えた。
大久保の有司専制が、司馬さんの言うように過渡的絶対主義であったのかどうかは分からない。意思を継いだと自負しているであろう山県有朋は、その後も絶対主義をとり続け、反政府者の弾圧を続けた。大久保の20年後、30年後を山県の政治に擬しては大久保にも不満が残るかもしれない。もしも大久保がその後も政権をとりつづけたならば。しかしもう答えは出ない。
西郷がもしも政権をとっていたらどうだっただろうか。外遊組は、欧米を見て戦慄していた。だから、何とか列強に対抗しようと絶対主義への道へと進んだ。それが帝国主義に連なり、一方で天皇の地位を向上させそれを後ろ盾に重い行政国家を作った。西郷は、そこまで天皇制を強めただろうか。天皇が好きな西郷であればこそ、象徴的位置におくように進め、責任を負わねばならない統帥権などは持たせなかったのではないだろうか。また、ロシアを恐れてはいたものの、欧米諸国に戦慄と言えるほどの感情を持っていなかった西郷は、東亜同盟を始めとしてアジアには対等外交路線をとっただろう。そうすれば、日本のアジアでの立ち位置も変わっていただろう。現在にも繋がる反日、嫌韓の不幸な歴史も少しは変わっていたかもしれない。
「if」はいくらでも出てくる。しかし、今回はなかなかその「if」が成立しそうにない。この「if」は、あくまで西郷と大久保が対立構造にあれば、という前提だからである。
前述した牧野伸顕は語る。
「(大久保と)大西郷との友情は、普通(なみ)なものではなかった」
また、長岡監物の子である侍従長米田虎雄は語る。
「世の中に西郷と大久保ほど仲のよかったものはあるまい。実に兄弟以上であった」
最後まで、大久保と西郷は一心同体であったのではないだろうか。
福沢諭吉は、西郷に「野党」の原型を見たと言っている。そして、日本に健全な野党が育たなかったのは西南戦争で西郷が敗れたからだ、とも。司馬遼太郎氏もそれに賛成している。
しかし、一見野党に見えて、西郷は実は最後まで与党だったのではないか。大久保と西郷は離れてはいなかったのではないか。そんな思いが今もどうしても抜けずにいる。
明治維新と西郷どんの話を終ります。ありがとうございました。
関連記事:
もしも明治維新が無血革命だったら
もしも廃藩置県が漸進的におこなわれたなら
もしも西郷遣韓使節が実現していたら
もしも士族蜂起と民権運動が合体していたら
倒幕を決定付けた鳥羽・伏見の戦い。この時は、単純に考えれば官軍側は勝てるはずがなかった。薩長軍(後に官軍となる)は、土佐300人を加えても約4500。対して、幕府軍は会津、桑名兵を加え総勢約15000。火器の優劣はあったにせよ劣勢は免れない。西郷は「みな死せ」と兵を送り出した。西郷に勝算があるとすれば、それは「時の勢い」という一点であっただろう。そして、錦の御旗を仰ぐことによって薩長軍は数の論理を乗り越えた。
戦争はタイミングである、と西郷は知っていた。
前回書いたように、明治六年の政変以降、反政府運動は士族挙兵、民権運動、農民一揆と三つの流れを生み、全て反有司専制で統一していた。思想形態は違えど憤懣は同じベクトルを向いていたと言っていい。
西郷隆盛さえ起てば、これらは全て統一した革命軍になっていただろう。
思想形態の統一がなされなくては協力体制はとれない、とも考えられるかもしれない。しかし、西郷の存在はそれらを超越したところにあっただろう。時代は前後するが、西南戦争勃発の際、熊本の宮崎八郎率いる熊本民権党、また増田栄太郎率いる中津共憂社などが参戦している。宮崎八郎は、西郷は民権ではない、としつつ「全ては政府を倒して後」と参戦。野合であるが、有司専制に反対する以上、思想形態は違えど勢力としては結集しうるのだ。
西郷は結果として明治十年に起つのだが、何故それまで雌伏していたのか。戦争は時勢、タイミングであるということを誰よりも知る西郷が、その時勢を逸し続けたとも見えるのだが。
明治六年の政変後、西郷が下野して鹿児島に帰ったそのときは、時勢は間違いなく西郷に向いていたと考えられる。しかして西南戦争を起こす明治十年までに、その勢いはどんどん鎮火していった。待っていれば待っているだけ不利だったと言える。
ひとつは、士族挙兵があらかた終わってしまったということ。最も不満を持ち、そして最も戦力を保持している官軍側の士族が鎮圧されてしまっていた。薩長土肥のうち、肥前は佐賀の乱を起こし鎮圧。長州は萩の乱で鎮圧。土佐はまだ戦力を保持していたとも言えるが、自由民権運動という言論活動が主体となり、武闘派の勢いは終息に向かっていた。無くなった訳ではないが三年の間に弱体化したとも言える。
また、農民蜂起の勢いも、その最も大きな題目であった租税の問題で、政府は明治九年に地租軽減を行い不満を解消する政策をとり、これも沈静化させた。
さらに、この間政府は、徴兵制による軍備の充実を図った。当初はなかなか弱かった鎮台兵もこの期間に戦力は確実にアップした。また海軍力も充実し、西南戦争時には大量輸送を可能にしていたのである。
そして、警察力の増加も挙げられる。川路利良は大久保配下で警視庁大警視として、治安維持への実力を蓄えた。現在の警察と比べて、内偵、密偵を多用し情報収集能力を重視し、また扇動、攪乱、情報操作などあらゆる手段を講じて国家政府を守護した。これにより未然に防がれてしまった挙兵や反政府行動も多い。
さらに、反政府活動のスローガン的役割を果たしていた征韓論および外征論。これも、政変後にすぐさま政府が行った台湾派兵、そして明治九年の江華島事件による日朝修好条規締結で、一面骨抜きになってしまった。外征を題目にすることは難しくなったと言える。
以上のことにより、武力による反政府活動はもはや手足をもがれた状況になっていたと言えるのではないか。西郷が鹿児島で待ち続ける間に。
時勢を見るに敏な西郷が、これを座して見ていたのだ。とても蜂起する気があったとは思えない。時期を見ていた、という通説はどうも頷けない。少なくても反政府という題目で蜂起しようとするならば。待てば待つほど不利になる状況で。
やはり西郷は、武装蜂起する意思などなかった、と考えるのが常套だろうと思う。
それならば、何故西郷は鹿児島を軍事政権化したのか。
前回、私学校は「鹿児島幕府」である、と書いた。地租改正も無視し、士族特権も奪わず、軍備に磨きをかけていた。鹿児島は一種治外法権であり、それは日本に二つ政府があったのと同じことであったと思う。
私学校は、西郷は将軍であるが多分に象徴的存在にあり、桐野利秋が執権。銃隊学校(篠原国幹が指導)と、砲隊学校(村田新八が指導)からなり、さらに賞典学校(つまり士官学校)も所持していた。これらは軍事訓練所であり明らかに軍隊を育てている。牙を磨いている。
前述したように、これは叛乱のためであったとは考えにくい。ではいったい何のために。
ここからは想像になってしまうのだが、まず第一点として、私学校は日本軍の別働隊たらんとしていたのではないか。
西郷が考え、恐れていたものはおそらくロシアであっただろう。西郷の遣韓論も、対ロシアが念頭にあったことは容易に想像できる。
西郷の思想として、島津斉彬の亜細亜主義、そして勝海舟らが考えていた東亜連盟に近かったのではないか。19世紀のアジアで、日本だけが近代化に成功した。これが侵略・植民地化に対する防波堤になったわけだが、ロシアの膨張政策、南下政策はそういうものを無視してやってくる。現に樺太では大いに揉め、日本は千島・樺太交換条約というものを結ばざるを得なくなっている。いずれロシアは日本を欲して攻めて来ると考えていただろう。
そのためにどうすればいいか。まず、東アジアは手を結んで対露にあたるべきだと考えていた。しかし朝鮮半島は未だ旧態然としている。ここに維新を輸出して、共に対露にあたるべきと西郷は考え、遣韓論を打ち出したのだろう。日・中・朝が同格として互いに結んで西欧の侵略を防ぐ。ロシアにもまだシベリア鉄道は無い。大量輸送は出来ないだろうから、この東亜同盟で防ぐことは出来るだろう。
西郷は鹿児島隠棲中はほぼ沈黙していたが、江華島事件の折は「遺憾千万」と怒りを顕わにしている。もともと征韓論であればこの怒りは理解できない。西郷は不平等条約ではなく、同盟を結びたかったのだろう。
しかして、西郷の遣韓論は既に葬られている。この上は、ロシアが攻めてくることも想定しなくてはいけない。徴兵制はまだ始まったばかりで不安が残る。日本国軍が充実するまでは、戦力を保持していなくては危ない。そう考えて、鹿児島に士族軍隊を残す。ただし、それは政府の方向性(国民皆兵)と相反するため、治外法権的に存在させたのではないか。
そして、これは治外法権でなくてはならない。将来的に日本の軍備が整えば不要になる戦力であるのだから。日本の法制に組み込めない。組み込んだとしたら、それはまた明治初期の雄藩勢力に頼った国家への逆戻りであるが故に。
大久保は、そのことが分かっていたのかもしれない、と思う。彼はこの鹿児島軍事政権(幕府)を放置したが、それは島津久光に対する遠慮だけではなかったのではないか。木戸孝允にさんざんせっつかれても無視し続けたのは、この戦力を担保にしたかったのではないか。
富国強兵という概念がある。明治政府のスローガンと言ってもいい。ただ、この「富国」と「強兵」は同時には達成できないものである。双方とも予算がかかる。紡績業を充実させようと思っても、機械は外国から購入せねばならない。大久保は内務省を設置し、まず「富国」を第一目標に置いた。後に秩禄処分で予算が浮いた時にも、大久保は殖産興業にその予算を充当しようとしていた。
列強が国家予算の1/3を軍事費に当てているこの帝国主義の時代に、軍備充実は避けて通れないものである。その国軍の弱さを補完するものとして、大久保は鹿児島の軍事政権をアテにしていたのではないだろうか。
アテにしていたとは暴論にも見えるが、現に台湾出兵の折は、鹿児島から徴集兵を受け入れている。西郷も協力体制をとっている。そればかりか、もしも日清に戦争が起こらんとした時は、西郷隆盛を総元帥として迎えねばならないと黒田清隆や川村純義、西郷従道は考えていたようである。鹿児島の軍事政権を完全に頼りにしている。いかに薩摩閥とは言え、この考えは「アテにしていた」としないと理解しにくい。
大久保は、「富国強兵」の「強兵」の部分を、予算が追いつくまでは西郷に託していたのではなかったか。
さらに、第二点。
西郷が時期を待っていた、とされる通説において、「いずれ政府は瓦解する。その時には兵を率いて東上する」と西郷が考えていたとする説がある。僕はこれは、当たらずとも遠からずなのではないかと思っている。ただ少し解釈が異なるのは、西郷は瓦解を望んでいたのではない、と考えていることである。
明治六年以降、確かに反政府活動は飽和していた。西郷起ちせば全てがひっくり返る危機にあった。西郷自身は無論起たないのだが、もしかしたら自らが立たなくても政府に危機が訪れるやもしれない。そのときは、自らが出馬しようと考えていたのではないか。これは、当然現政府を守るためという意味合いにおいて。
実は、鹿児島軍事政権は、近衛兵的意味をまだ持ち続けていたのではないだろうか。
桐野も御親兵で陸軍少将、篠原は少将で近衛長官だった。私学校は国家鎮撫の兵で成立していたと言っていい。大久保に取って代わろう、との意識を持っていた兵も多かっただろうが、少なくとも西郷は、最後の手段として自分が出馬することによって瓦解を防ごうとしていたのではないか。そのために戦力は保持していなくてはいけない。現政権補完の役割を担っていたのではないか。
以上二点が、鹿児島軍事政権(鹿児島幕府)の立脚意義であったと僕は考えている。
そして、明治十年の西南戦争である。この戦争の理由について僕は考え屈している。
以前は、以下のように考えていた。士族暴発も終り農民一揆も緩和され、政府瓦解の危険性も無くなり、国軍も充実し、もはや鹿児島に軍事政権が存在する意味が無くなった。残された旧態の存在は、官軍の生き残りである自らの軍事勢力だけである。これを無くしてこそ明治日本政府の統一が達成される。なので、最後の官軍を消滅させるために自ら負け戦を起こして散ったのであろうと。最後は自爆して明治維新を完結させる、と。
こう考えれば実に分かりやすく完結するのであるが、どうもそれだけでは理解しにくくなってきた。確かに鹿児島軍事政権を無くすのには鎮圧されるのが最も簡単である。しかし、この時点で西郷は本当に「もはや鹿児島幕府は無用となった」と考えていたのか。ロシアの脅威は決して去ったわけではない。そして、士族挙兵も全て鎮圧されたわけでもない。長州と肥前は鎮圧されたが、官軍の一端を担った土佐がまだ残っているではないか。自由民権運動は、完全に言論だけではなく武装蜂起もありうる状態で残っている。しかも、板垣退助は西郷が最も恐れる軍事司令官ではないか。そしてそれぞれは微力でも、まだまだ全国の士族は不満を持ち続けている。一斉蜂起の可能性も残っていた。農民運動は民権運動と結びつき始めている。鹿児島の軍備はまだ必要なのではないか。
やはり、西南戦争は西郷にとってイレギュラーではなかったのか。
西南戦争の導火線は、私学校党が陸軍の火薬庫を襲撃、弾薬を略奪した事件に端を発する。これを聞いた時西郷は
「シモタ!」
と叫んだという。この「しまった!」という言葉の意味は何か。まだ軍事蜂起する時期ではない、と解釈することも出来るが、真意はやはり西郷は軍事蜂起など考えていなかったのではないだろうか。そのまま推移することを考えていたのではなかったか。自爆して消滅、というストーリーは念頭に無かったのではないか。私学校の兵力は、みんなかわいい西郷の弟子たちなのである。
ただし、この兵力をどうするか、ということについて、西郷は具体的なアイディアを持っていなかったのではないか、と考えられる。茫洋と「対ロシアの義軍として果てる」程度にしか考えていなかったのではないだろうか。
西郷にはそういうところがある。討幕運動にせよ、その後の具体的ビジョンを所持してはいなかった。政体もぼんやりと「雄藩連合」を考え、焦土の中から新しい国家が生まれる、と抽象的な理念しか持ちえていなかった。
以上に書いたことは、僕も遂に確信を持って書いていない。最後まで分からなかった部分である。
大久保はどうだったのだろうか。
この西南戦争の導火線のもうひとつの側面として、大警視川路利良の放った密偵が火を点けた、との説がある。通説だろう。西郷暗殺を企て、それに私学校党が怒って兵を挙げた、という話。これも事実である可能性が高い。本当に暗殺計画があったのかはともかく、警視庁の密偵は潜入したのであるから。
川路利良がこれを独断でやったと考えればすんなりいくのだが、それはちょっと考えにくい。やはり大久保の意を汲んでいたと見るべきだろう。何故大久保はそっとしておけなかったのか。
そっとしておきたくてもおけなかった、とは考えられることだろう。鹿児島軍事政権は日本の矛盾である。自らの立場としては一刻も早く消滅させなくてはならない。そして、士族挙兵も農民一揆も、軍事力も警察力も、外征論に至るまである程度クリア出来た。もう残る大勢力は鹿児島だけ。時期は今しかない。苦渋の決断だった、と解釈も可能である。ただ僕はなんとなく釈然としない。
大久保の子息である牧野伸顕の談。
「(火薬庫襲撃の一報に)父は果たして薩摩の連中が蜂起した、しかし西郷は決して出てはおらぬと言っていました。(西郷蜂起の情報にも)父は決して信じませんでした」
これが真実であるかどうかはわからない。もしも川路に命令を下していたとしたら、こんな二枚舌はない。ただ、大久保の心中を察するに、私学校はこの世から消したくても、西郷を消したくはなかったのではないか。そして西郷自身は叛乱することはないと信じていたのではないだろうか。
「(征討軍を出すときにもまだ)イヤ西郷は出てはおらぬ、しかしあの男のことだから進退去就には迷っているだろう」(同前、牧野談)
まだ様々なことについて確信が持てない。しかし、現実に西南戦争は勃発してしまった。西郷はどうしたか。
西郷はここにおいて、負け戦を始めようと決意したと思われる。それしか考えられない。ここで勝って日本を転覆させることは選択肢としては無かった。
西郷は軍略家ではなかったにせよ、この戦争の戦略戦術は愚としか言いようが無い。それは誰しも認める部分だろうと思う。やはり負けることを前提としないとこの戦争は考えにくい。自爆であったのだ。
西南戦争の概略を述べることはもうしないが、西郷軍はまず熊本城を落とすことだけを考える。こんなもの無視して進めばよかったのに。ここで足止めされているうちに、輸送力に長けた政府軍が次々と兵力を送り込む。そして、敗戦へと向かうのである。
「熊本城参謀長の樺山資紀は城を明け渡し露払いをするだろう。下関で海軍中将の川村純義が迎えの船をよこすだろう。さて、花見をしつつ上京しよう」
こんなことを本気で考えていたはずがない。
山県有朋は薩軍の動向を以下のように予測している。
一、汽船に乗って、東京もしくは大阪を突く
二、熊本城および長崎を襲い、全九州を従え後中原に出る。
三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を伺い、国内の人心を測りつつ時機を見て攻め入る
山県でなくともそう考えただろう。山県は「この三策のうちどれを取っても薩軍に勝機があった」と言う。そして、正面衝突すれば陸軍総勢力は3万ほど。薩兵は1万~2万(補充されるため)。個人力は圧倒的に薩兵。さらに、山県はこの蜂起が成功すれば全国20数ヶ所でまだ士族挙兵があったと踏んでいた。
しかし、西郷軍は熊本で留まってしまう。自殺行為に似ている。例えば、薩軍が熊本を無視して一路小倉を衝いていれば、様相はかなり変わっただろう。無数の歴史が変わる「if」がある。
もちろん薩軍内部にも「一軍は海路を持って長崎を押さえる(西郷小兵衛)」「まず若狭に上陸する(野村忍介)」などの意見があったが一蹴される。
熊本城に吸着する意味がどこにあったのか。それは、ここで足止めを喰らうことによって「薩軍の勢力は大したことがない」と喧伝し、全国の反政府勢力に二の足を踏ませることくらいしかない。
説によると、この戦闘は桐野利秋と篠原国幹が全て仕切り、有能な永山弥一郎や村田新八は黙り、戦略眼を持つ野村忍介らは前面に出られなかったと言う。ただ桐野や篠原が無能だったのだろうか。
しかし、象徴化していたとはいえ西郷が桐野らに任せていたのであるし、最終的には西郷の責任に帰するべきだろう。桐野無能説もあるが、僕は(個人的にだが)桐野は最も西郷の意を汲んでいたこともありうると思っている。負け戦にするという西郷の意図を。そう考えれば、熊本城に拘るのが、全国の反政府勢力を沈静化させるのには最も都合がいいのである。確信は持てないけれども。
西郷軍は熊本から宮崎に転進し、最終的に鹿児島に戻り城山に籠って玉砕する。西郷は、死に臨んで徴兵制による鎮台兵の強さに満足したとも言われる。今後は我ら士族兵がおらずとも大丈夫、と確信を持ったのかもしれない。
こうして、日本の雄藩による倒幕、支配者階級による「革命」で抱えざるを得なかった矛盾であり負の遺産であった「勝者となった支配者階級」の抵抗は終焉を迎え、同時に明治維新も終わる。西郷と薩兵たちが全てを負って逝ったと言えば感傷的に過ぎるだろうか。
大久保は、西南戦争鎮圧後、さらに独裁色を強め内治に邁進する。大久保はこの有司専制をどう考えていたのだろうか。
「絶対主義国家は、大久保の理想国家の像へと向かうための過渡的なもの」と司馬遼太郎氏は推論している。大久保は、国家基礎固め30年説を持っていて、それは、10年は創業の時期であり内外の兵事解決。次10年は内治整え国内充実に向かわせる。そして次の10年は後進に任せる、と言った。そして、実はこの言葉がほぼ遺言となった。これを朝に語った後、太政官出勤途中で暗殺される。
西郷と大久保、この仲の良い二人は、かつて幕末時に行き詰まり刺し違えようとしたことは有名な話である。結局、維新創業を経て最終的に刺し違えた。
大久保の有司専制が、司馬さんの言うように過渡的絶対主義であったのかどうかは分からない。意思を継いだと自負しているであろう山県有朋は、その後も絶対主義をとり続け、反政府者の弾圧を続けた。大久保の20年後、30年後を山県の政治に擬しては大久保にも不満が残るかもしれない。もしも大久保がその後も政権をとりつづけたならば。しかしもう答えは出ない。
西郷がもしも政権をとっていたらどうだっただろうか。外遊組は、欧米を見て戦慄していた。だから、何とか列強に対抗しようと絶対主義への道へと進んだ。それが帝国主義に連なり、一方で天皇の地位を向上させそれを後ろ盾に重い行政国家を作った。西郷は、そこまで天皇制を強めただろうか。天皇が好きな西郷であればこそ、象徴的位置におくように進め、責任を負わねばならない統帥権などは持たせなかったのではないだろうか。また、ロシアを恐れてはいたものの、欧米諸国に戦慄と言えるほどの感情を持っていなかった西郷は、東亜同盟を始めとしてアジアには対等外交路線をとっただろう。そうすれば、日本のアジアでの立ち位置も変わっていただろう。現在にも繋がる反日、嫌韓の不幸な歴史も少しは変わっていたかもしれない。
「if」はいくらでも出てくる。しかし、今回はなかなかその「if」が成立しそうにない。この「if」は、あくまで西郷と大久保が対立構造にあれば、という前提だからである。
前述した牧野伸顕は語る。
「(大久保と)大西郷との友情は、普通(なみ)なものではなかった」
また、長岡監物の子である侍従長米田虎雄は語る。
「世の中に西郷と大久保ほど仲のよかったものはあるまい。実に兄弟以上であった」
最後まで、大久保と西郷は一心同体であったのではないだろうか。
福沢諭吉は、西郷に「野党」の原型を見たと言っている。そして、日本に健全な野党が育たなかったのは西南戦争で西郷が敗れたからだ、とも。司馬遼太郎氏もそれに賛成している。
しかし、一見野党に見えて、西郷は実は最後まで与党だったのではないか。大久保と西郷は離れてはいなかったのではないか。そんな思いが今もどうしても抜けずにいる。
明治維新と西郷どんの話を終ります。ありがとうございました。
関連記事:
もしも明治維新が無血革命だったら
もしも廃藩置県が漸進的におこなわれたなら
もしも西郷遣韓使節が実現していたら
もしも士族蜂起と民権運動が合体していたら
以前に西郷達が使った武器を調べればもう少しいろいろなことが見えてくるかな?と思ったのですがまだネットもなかった時代で挫折しました。
西南戦争はやはり外国との関連が無視できないですよね。
戦争をして儲けたかった人は必ずいるはずだし、侵略されないために努力した人もいたはず。
白村江のあとの日本と良く似た状況だったのではないか?とついつなげてしまいます。
でもどうも私は英国にばかり目がいってましたが記事を拝読し、ロシアか……と思わずつぶやいてしまいました。
この凛太郎さんの記事は1本筋が通っていますよね。
今まで読んだどの西郷説よりも物事がすっきりあるべき場所に収まると言うか。
まだまだ凛太郎さんが書かれたことの半分も理解できていないのでもっとちゃんと読んで自分なりの考えも導きだせたら!と思います。
本当に今回の記事は歴史の醍醐味を味あわせて頂きました。
ありがとうございます^^
この全五話の記事は、書き出したのは夏なんですよね実は。寝かせるたびに膨らんでしまって。
武器の話で、ちょっとそれるかもなんですが、政府軍はかなりの新型兵器の実験をしていることが最近の調査で分かってきたらしいですね。ロケット弾とか。水雷艇や風船爆弾の記録もあるそうで。対外国戦の予行演習をしているようにも思えたりして。
それにしても、明治時代って書くのは難しいですね。身近なだけに。古代は史料が少ないので解釈勝負なんですけど、明治にもなると史料が多すぎて。たいていは孫引きになっちゃうんですけど、解釈も百花繚乱で。そんなのに埋もれながら、ずっと考えていた自分の納得いく時代像を模索して、この形になったと言いますか。でも書き終えて、奈良時代を書いたときと同じような充足感があります。
長い間草稿状態で寝かせ続けたこの話も終り、来年はどうしようかな。これ以上近代は書けないかも。鎌倉時代とかに戻るかな(笑)。
先ずは自己紹介をさせて頂きます。
西郷隆盛について研究している者で稲垣秀哉といいます。
司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んで、西南戦争および征韓論破裂に興味を持ち、西郷隆盛についての研究に取り組むようになりました。
一昨年夏に幕末の西郷隆盛の討幕活動についての研究を史伝形式でまとめた『(新)西郷南洲伝(上)』を鹿児島の出版社高城書房より出版いたしました。特に西郷隆盛の思想と実証性に重点を置いた史伝です。
この作品はもちろん、征韓論争と西南戦争における西郷隆盛の真の意図と歴史的意義を解明するために取り組んだ作品で、ようやく『征韓論政変』編および『西南戦争』編の執筆を終え、近日下巻を出版する予定です。これは司馬氏の『翔ぶが如く』に対する長年の疑問に答える内容で、おそらくこれまで謎とされてきた西郷隆盛像、征韓論政変および西南戦争観を覆す内容になるのではと手前味噌ながらも思っています。
かなりお調べになられているようですので、面白くお読みいただけるのではないかと思います。
一度是非お読みいただければと思います。
関連記事をブログ(saigou.at.webry.info)に掲載しておりますので、一度お立ち寄り下さい。
当方歴史の専門家でもなく、公式には高校日本史以上の学習はしていません。あとは趣味で手当たり次第にいろいろ読んだ程度です。
そうした上で、古代史ではなくこれほど近い時代のことであるのに何ゆえ西郷隆盛像というものが理解しにくいのか。それがずっと疑問でした。疑問を持ち出して後に「翔ぶが如く」も読んだのですが、それでは何ら納得が出来なかったので、自分なりの解答を探してこういう記事になった次第です。ただし「そんなに人間は変わるもんじゃないはずだ」が出発点ですので、命題が先にあるので不備は多い。そしてこういう結論とも言えぬ結論に帰着しました。
まず稲垣さんのブログを読んで勉強させていただきます。ありがとうございました。
まず潰しやすい会津を、西郷らはなんだかんだいって
いちゃもんつけて潰した
その理屈からいくと薩摩も邪魔だから
いずれは潰さにゃならんということになる。
ほかの藩だけつぶしておまえんとこの薩摩だけは
残すなんて、そんな都合いいことあるかいなと
元列藩同盟の藩士は怒るわと
じゃあ薩摩も俺が抱きかかえていっしょに滅びるから文句ないだろと
そういうわけでござんす