凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも毛利輝元が大坂城を明け渡さなかったら

2005年09月02日 | 歴史「if」
 最近ちょっと坂本龍馬はんと幕末関係に焦点を置いた旅行をしたので、幕末に意識が飛んでしまう。関ヶ原の話は終わるつもりだったのだがもう少し蛇足を付けたくなった。
 幕末の嵐の中で、倒幕を主導した薩長の根底には関ヶ原の恨みがあり、関ヶ原の敗者であるが故に倒幕を果たしたのだ、とはよく言われる話である。つまり、関ヶ原の合戦が幕末まで尾を引いて、倒幕、明治維新へ繋がったのだと。
 長州では、恒例の正月行事として「殿、そろそろ討幕の機かと」「いや、まだじゃ」と語られるということがまことしやかに伝えられている。また薩摩では「チェスト! ! 関ヶ原」が合言葉であったと。これは話としては面白い。
 実際は、明治維新のきっかけは黒船であり、外圧に対抗するためには幕藩体制では立ち行かず近代国家建設が急務であったことから明治維新は興ったのであり、そこに関ヶ原だけを原因にもってくるのには無理がある。ただ、一因であったことは言えるかもしれない。

 薩摩については、島津惟新義弘が夜襲を画策したがそれを三成が受け入れずアタマにきて西軍に味方しなかったと言われる。保元の乱で源為朝が夜襲を進言したが公家側が受け入れずに敗れた状況と似ている。もしも夜襲をかけていたら東軍は浮き足立ってバラバラになったかもしれずおもしろいifである。しかしながら、前代未聞の敵中突破をやってのけた薩摩は、結局は本領安堵である。幕府に対する恨みつらみについてはそれほど説得力がない。
 しかし、毛利家は領地をいったんは取り上げられお家断絶の憂き目にあっている。それを、関ヶ原で東軍に加担し功績のあった吉川家が、自分に与えられた長門、周防二国を毛利本家に差し出してなんとか家継続に至ったと言う経緯がある。改易は免れたといえ大幅減封。苦しい生活が続いた。こちらは恨んだだろう。
 簡単に、安国寺恵瓊が悪いのだ、と言ってしまうことは出来る。もしも最初から恭順していれば、あるいは前田家のように百万石を擁して江戸時代を生き残れたかもしれなかった。しかし輝元は恵瓊の進言に乗って大坂進出をした。乗った以上は情勢をよく見極めて行動しなくてはいけなかったのだが。
 毛利家は、大大名であるが故に所帯も大きく、内部派閥問題を抱えていた。統率者が居なかったこともある。小早川隆景が没して以来、カリスマ性のある人物がいなかったことが問題だったのだ。

 もしも隆景がもう3年生きていたら(隆景1597年没)、というifもよく言われる。 そうなったらどうなったか。彼は視野が広かった。天下を望むことは元就の遺訓でなかっただろうが、徳川の天下は見通せていたはず。そうなると完全恭順か。しかし、前田利家亡き後徳川の最大のライバルが毛利であることもまた自明であり、徳川の天下になると毛利家の先細りも見えていたのではないかと想像されるのだ。毛利にとっては豊臣の天下が続くほうがずっとありがたかった。なので、隆景は勝負に出た可能性も否定できない。徳川押し込めのための西軍加担である。隆景が動けば、西軍も力が生じただろう。
 しかし、隆景は死んでしまってもういない。医療が発達していないこの時代で長生きifは難しいのだ(平重盛長生きifは過去に書いてしまったが)。結局秀吉が死に、弟秀長、前田利家そして小早川隆景が存命でないことで家康は関ヶ原を起こしたのだ。このifは通用しない。
 さて隆景の死。これは痛かった。毛利では、結局その視野の広さを継承したのが安国寺恵瓊だったのだろう。彼の洞察力は、信長、秀吉の天下を見通していたことでも知れる。しかし残念ながらカリスマ性はなかった。結果、毛利家は内部分裂することとなる。
 いったん西軍に加担するという中途半端な状況を作って、吉川元春は毛利秀元の軍を抑制し、小早川秀秋は裏切る。毛利本家(輝元)は、謀略に引っかかり秀頼を押し立てて出陣するどころか、簡単に大坂城を明け渡してしまうのである。さんざん秀元が抗戦を説いたにもかかわらず、である。それなら最初から東軍に属しなさいよ。そして戦わずして改易。結局吉川の犠打で救われたが、防長二国に押し込められる。

 もしも毛利家が一枚岩であったなら。元就の遺訓どおり三本の矢であったなら。
 輝元は大坂城に居て当時の「玉」である秀頼を擁している。これは力強い。最終的に関ヶ原で敗れていても、大坂城に籠城して徳川の兵を迎えることとなったら、福島正則以下豊臣恩顧の大名の士気が下がることは間違いあるまい。秀頼を攻めるのは「話が違う」からである。それに籠っているのは堅牢で名高い大坂城。城攻めの苦手な家康ではそうそう落せまい。堀を埋めて和睦など毛利に通用しない。
 毛利秀元が吉川広家を制して西軍に加担したら。これもまた徳川は苦しい。秀元は戦う気満々だったのだから。そうなれば小早川秀秋も簡単には裏切れまい。また、秀秋の裏切りは関ヶ原最大のifだが、これがなければ東軍勝利はかなり難しかったと言うのは定説。
 秀秋が裏切らなくても秀元が加担しても、そのうち秀忠の徳川本隊が駆けつけて数的優位に立つ東軍が最終的には勝つ、という見方もあろう。しかし、西軍も援軍があった。大津城籠城戦はあまり有名ではないが、京極高次は大津城で、立花宗茂ら西軍勢15000騎(一説には3万騎)を食い止めて関ヶ原に参戦させなかった。東軍の秀忠vs真田昌幸のようなことがこちらにもあったのである。結果大津城は降伏しているので、この軍勢も関ヶ原に向かったはず。そうなれば戦況はまたわからない。
 東軍がそれでも勝っていたことも考えられる。しかし戦いが長引いており、西軍諸将は四散せず大坂へ撤退した可能性が高い。あの戦いは秀秋の裏切りで半日で決したところに価値があるのだ。大坂へ撤退すれば、出馬しなかった毛利輝元も、秀頼も居るのである。前述したように豊臣恩顧の諸将はどうなったか。石田を討つための連合軍崩壊の危機である。もしそうなれば…。
 以前に書いたように、黒田如水の勃興もあった。また、伊達・上杉連合軍の進軍も考えられた。これらは全て関ヶ原が一日で決着してしまったが故に生じなかったことだろうと僕は考えている。そうなると…。

 元亀・天正の戦国時代に逆戻りの可能性もある。最終的勝者が誰になるのかは難しい。確かに徳川が最も力があるが、家康がどこまで長生き出来るのかが問題となってくる。
 いちばん極端な話をする。徳川は天下を握り損ねることも十分に考えられるのである。結果、豊臣政権が続き、執権的位置に石田三成が座る。最大の大名は毛利家となる。毛利家は豊臣家の最大の庇護者となり君臨するだろう。徳川家光は伊達政宗を「父と思え」と訓されたが、同様に秀頼は「輝元を父と敬え」である。豊臣家はかつての中国大返し、そして大坂徳川撃退合戦に尽力してくれた毛利に感謝し「天下あるのは毛利のおかげ」を家訓とする。
 逆に徳川は武蔵一国に封じ込められる。関東平野には大谷吉継が移封されて監視する。そして「なせばなる…」と鷹山式窮乏生活を送り、関ヶ原の恨みを末代まで三河武士は語り継ぐことになるのだ。
 そして黒船来襲。もちろん黒船は堺にやってくる。維新の志士は、虐げられた武蔵徳川藩が輩出することとなる…。

 お遊びで書いています。ご承知だとは思いますが。


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2 コメント

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大坂幕府(毛利幕府)開府 (AKB48 篠田真里子)
2012-01-15 20:53:33
室町幕府(足利幕府)第13代征夷大将軍 足利義輝より「義」の1字を拝領して毛利義元と名乗っていたら東軍を撃ち破り大坂幕府(毛利幕府)を開府していたと私は思います。
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>篠田真里子さん (凛太郎)
2012-01-17 22:35:28
「義」はねぇ。思いつくまま「朝倉義景」「最上義光」「三好義興・義重」「武田義信」…。あまり義輝から「義」をもらってもいいことないような(汗)。「尼子義久」もそうだったかな。それだと元就は義をもらわないでしょ(笑)。
それはともかく、そろそろHNは固定していただけませんか。
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