明日出来ることは今日しない。そんな、ギリギリでしか物事をやらない癖は今この歳になっても直らない。子供の頃、夏休みの宿題を31日になっても大半抱えていて泣いた教訓を全く生かせていないこの人生。
あのときもやっぱりそうだった。
大学生活が終わろうとしていた4回生の年の暮れ。僕は卒業論文の締め切りを目前にして焦っていた。提出期限は12/15。何日かは夜を徹した。そして、15日の午前中にようやく教授に手渡した。なんでもっと早く出来なかったのだろう。
その提出した翌日12/16、僕は運転教習所に向かった。免許を取りに通いだしてから半年が経とうとしていた。明日になれば失効してしまう。そんなギリギリの日程で卒検を受けた。落ちれば大変なことになってしまう。なんでもっと早くに受けなかったのだろうか。
教官のお情けもあり、なんとかパスすることが出来た。その足で僕は卒業コンパへ向かった。何度目のコンパか。こんなことばかりしているから全てがギリギリのスケジュールになるのだ。
コンパも終わり、いいかげん酔っ払って深夜に帰宅。しかし眠るわけにはいかない。僕は年賀状作りに着手した。子供の頃から年賀状は木版画を作成している。図案を考え、彫刻刀で板に刻みつけ、刷る。夜が明け、昼過ぎにようやく70枚の年賀状が刷り終った。一睡もしていない。
その年賀状の束と住所録を持ち、僕は12/17の夕刻、家を出た。駅に着いて東北ワイド周遊券を購入。東海道線の鈍行列車に身をゆだねた。このあと、大垣発の東京行き夜行列車に乗る予定である。冬の東北旅行が始まった。
別に何か予約をしていたわけでもなく、何をそんなに急いで旅立つのだ。一日くらいゆっくりしてから出てもいいだろうと家族に言われた。しかし、寸刻を惜しんで旅立ってしまった。
祝祭が終わる。そう僕は感じていた。あと何ヶ月かで、こんな自由な時間もなくなってしまう。そんな焦りが、長い夏休みでも春休みでもないこの時期に僕を駆り立てた。
早暁、東京に着いた。まだ夜は明けていない。
そこで僕は、持参のウォークマンに電池が入っていないことに気がついた。京都の家を出てからもうずいぶんと経っているのに、音楽を全く聴いていなかったのでわからなかったのだ。車中はずっと泥のように眠って過ごしていた。僕は単三電池を二本買い、ようやくイヤホンを耳にした。
いつも旅行には、カセットテープを二本だけ持参する。荷物になるから多くは持ってこない。その説明は以前書いたことがある。いつもお気に入りを念入りに編集していくのだが、今回はその時間がなかった。なので、年賀状作成作業中にながら作業で適当に120分のテープにコピーした。
一本の一つの面にはバッハを、もうひとつの面にはイングヴェイ・マルムスティーンとハロウィンをざっと入れた。そしてもう一本の片面には小泉今日子と太田裕美を乱暴に詰め込んだ。残った最後の一面には「風」を。2ndアルバム「時は流れて…」の全曲と3rdアルバム「WINDLESS BLUE」の半分。そして最後に恒例の「風と落ち葉と旅人」を入れて、急いで旅立った。何のポリシーもなかった。
東京から、常磐線に乗って北に向かった。そしてようやく僕は再生ボタンを押した。耳にはフォークsideに録音した「風」の調べが流れてきた。冒頭の一曲は当然「北国列車」である。
僕が 君を追いかけてる夢から目覚めたときは
汽車は夜を走り続け 朝の駅に着いたところ
今の時代には多分こんなイントロダクションはないだろう。編曲は瀬尾一三氏だが、郷愁そのものである。冬の東北に向かうのに相応しく思えた。風の2ndをダビングしたのはたまたまだったのだけれど、その幕開けにこれ以上シンクロする曲は無かったかもしれない。
去年の今頃汽車にのり 二人で旅した北国の
あの雪の白さが 何故か忘れられずに
旅行シーズンではない東北は、ずっと静かだった。日本海側は雪。太平洋側はとにかく冷たい風がいつも吹いていた。
花巻へ宮沢賢治を訪ねて。農業高校の「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の黒板。
高村光太郎が晩年を過ごした太田村の山荘。山荘は閉まっていたが、その場所に来られたことで満足していた。
「おれは自己流謫のこの山に根を張つて/おれの錬金術を究尽する。/おれは半文明の都会と手を切つて/この辺陬を太極とする。」
当時、高村光太郎が好きだった。その頃は、あまり未来を信じられなかった。ただ、この痛切な何ものかが去っていこうとする時代に喘ぎ、光太郎の詩集を繰り返し読んでいた。
高村光太郎が造形した十和田湖畔の「乙女の像」を見に行った。あまりにも雪深い十和田に、人は誰もいなかった。ただひたすらに寒かった。行きも帰りも、バスの乗客は僕一人だった。
渋民へ石川啄木を訪ねて。ここにも人の気配はなかった。
「やはらかに柳あをめる北上の 岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに」
河畔に立つ啄木の歌碑を見てこっちも泣きそうになった。岩手山も早池峰山も姫神山も、神々しいまでに美しい。
夏に下北半島は細かに歩いたことがあったが、津軽半島はまだ未踏だった。三厩まで汽車でゆき、バスに乗り換えて竜飛を目指す。
横殴りの吹雪。その先に、荒涼とした竜飛岬が。
「この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ」
太宰治の言葉が刻まれている。まだ青函トンネルが工事中だった時代。夏は観光客でにぎわうであろうこの地も、そのとき訪れていた人は誰も居なかった。
五所川原に戻り、ストーブ列車に乗り金木へ。
太宰治の斜陽館は当時、まだ旅館として営業していた。喫茶店が併設されている。そこに座り込み僕は持参した年賀状をせっせと書いていた。来年はおそらく、この年賀状の宛先がガラリとかわる。そんなことを考え鬱になりながら、太宰の町でひねもす過ごした。
人と話す機会が少なかった。YHに泊まってもこの時期、宿泊者はごく少数か、僕一人。18切符も所持していたので、青函連絡船の夜行便にも乗ってホテル代わりともした。朝日に輝く大沼駒ヶ岳は息を呑むほどだったが、そんな光景を見ていたのも僕だけだった。また周遊券を持っているので、区間内の自由席のある夜行急行列車(八甲田と津軽)で夜を明かすことも数度。
ぼくの他にあと少しの人を降しただけで
汽車はすぐに まだ暗い朝に消えて行った
こんなことを僕も何度繰り返しただろう。あの「北国列車」の主人公は、やはり冬の一人旅だった。汽車はすぐに消えていったのだから、終点まで彼は乗っていない。となると行き先は青森ではなく、岩手かどこかの駅かもしれない。
おもいきり背伸びをした 薄暗い空に君の星座がまだ光ってる
星が見えるのだから晴れている。おそらくは太平洋側か。東北本線の夜行だろう。
そんなことを考えながら、クリスマスも過ぎていた。僕は遠野へ行った。
実はその頃、まだ柳田國男は読んでいない。この旅はどちらかと言えば愛読書の文学散歩的な色彩もあったのだが、予備知識のない場所も訪ねてみたい。
その遠野で、3日間ほどを過ごしてしまった。ちょっと気候が変わり少し日が差して暖かな遠野を、僕はずっと歩いた。ときにはコンセイ様のおやしろに上がりこんで昼寝も。うららかな日差し。しかし3時にはもう日が傾くのがわかる。その斜光線が刈り終わった冬枯れの田に反射し黄金色に輝く。キラキラした水路。あの美しさは生涯忘れないだろう。
もう大晦日が近づいた。仙台には、何度も訪れた宿がある。知り合いも集まっていることだろう。そこで年を越そうと思った。あまりに人と話さない旅を続け、少し人恋しくなっていた。
ひなびたところばかりを巡っていた旅だったので、仙台は大都会に見えた。定禅寺通りのイルミネーションが眩い。
本当は、年内にうちに帰ろうとも思っていた。来年は、家を出て他県で一人暮らしをすることがもう決まっている。最後の正月くらいは、家族と過ごすべきだろう。しかしながら、ずるずると旅を続けてしまった。
家に電話をした。年が明けてしばらくしたら帰る、と。
母親は「そう言うと思っていた」と笑っていたが、この歳になっていろいろわかる事がある。あのとき、母親は寂しかったに違いない。少しの後悔が残る。以来、今に至るまで元旦に家に帰ったことは、無い。
大晦日には寒波が戻ったのか、雪がまたちらつき始めた。北国の、あまりにも細やかに降りつむ雪。輪王寺で除夜の鐘が響いている。この雪の白さもまた、たぶん忘れることはなかろう。いろんな思いが去来する中、僕は学生最後の新年を迎えようとしていた。
♪北国列車
私にも思い出がある曲です。
16歳の頃に憧れていた2つ年上の先輩。
これ聞いてみたら?
渡してくれたカセットテープに入っていたのは風
しかも
先輩が好きな曲で編集されていました。
結局…先輩とは♪海岸通のような別れ(笑)
妹から昇格できずに終わった恋
先輩との思い出は寒さと風の曲に彩られています。
30年後の今年
一年が過ぎるスピードを早すぎると嘆き、昨日のことは忘れてしまうのに
30年前の出来事をしっかり覚えている中高年特有の記憶力(笑)に苦笑しています。
何かに急き立てられるように生きた日々
あの頃があるから今がある。
気づけばブログ上のお付き合いも長くなりましたね♪
これからもボチボチお付き合いしていけたらうれしいです。
動きが早く、存在が希薄になりがちのネット上での長いお付き合いがうれしく思えます。
本当にそのとおりなんですよね。振り返りつつ生きていくのを許して欲しいなと思います。ギリギリの人生を反省はしますが(汗)。
あのカセットテープの時代。よく自分なりのベスト版をつくって、人にも聴かせたものです。録音時間が短かったカセット一本に思いをこめる。今はもうそんな時代じゃありませんから。
風の曲がバックグラウンドに流れる切ない思い出も、またひとつのたからものですね。
ネットの交流ってのは、どうしても通り過ぎる風のようになりがちです。たくさんの人が、僕の前からもいなくなってしまいました。でも、僕はまだここに居る。そしてアラレさんも居てくださるのが、とても嬉しい。
ご無礼ばかり続けていますが、本年もどうぞよろしく。