陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

607.桂太郎陸軍大将(27)病床の桂太郎中将は、「三浦の、馬鹿野郎が……」と、苦々しく言った

2017年11月09日 | 桂太郎陸軍大将
 田庄台占領後、四月に入り、第三師団は第二期作戦のため、金州(きんしゅう)に集結したが、四月十七日、下関で日清講和条約が締結された。

 その後、四月二十三日、ロシア、ドイツ、フランスの三国が、日清講和条約の内容に干渉して来て、日本は遼東半島を放棄せざるを得なかった。だが、台湾は清国から割譲した。

 明治二十八年六月二十日、桂太郎中将は御用船で大連港を出港、帰国の途についた。六月二十三日、広島の宇品に到着、六月二十五日、名古屋に凱旋した。第三師団の残りの部隊も次々に帰還し、七月二十三日には全部隊が帰着した。

 桂太郎中将は、日清戦争の軍功により、功三級金鵄勲章を授与され、子爵を授けられた。一挙に華族に列せられた。

 だが、その後、七月下旬、桂中将は腹部の不調を感じ始めた。診察を受けると、医師は、肝臓炎だが、不治の病だと診断した。激痛が続き、遂に上京して、九月十一日、東京の日本赤十字病院に入院した。

 やがて重体となり、陸軍関係者、知人、友人たちも心配した。陸軍次官・児玉源太郎少将も見舞いに来たが、意識不明の桂中将を見て驚いた。児玉少将は三日間病床の桂中将に付き添った。

 四日目から、桂中将は意識が戻り、奇跡的に回復していった。肝臓炎は誤診で、胆汁下痢と診断されたが、病名ははっきりしなかった。

 明治二十八年十月八日、朝鮮で、閔妃が暗殺された。日清戦争後、閔妃がロシアと共謀して、日本の朝鮮単独支配に抵抗していると見た、駐韓国特命全権公使・三浦梧楼中将(予備役)が手をまわして暗殺した。大院君による親日政権樹立のためだった。

 暗殺の内情を知った、病床の桂太郎中将は、「三浦の、馬鹿野郎が……」と、苦々しく言った。日清戦争後、国際社会が、日本の一挙一動に注目している中で、無謀なことを断行した三浦の無知かげんに腹が立ったのだ。

 日本人による閔妃惨殺という、残忍な凶行に、世界各国は日本に対して非難を行なった。日本政府は、三浦公使らを召喚し、十月二十四日入獄させ、裁判にかけた。

 だが、明治二十九年一月二十日、全員無罪となり、釈放されたので、朝鮮民衆は騒ぎ出し、騒乱状態になり、親日政権は倒れた。結局、この事件により、朝鮮では反日感情がさらに高まった。

 明治二十九年五月、養生を続けて、病が癒えた桂太郎中将は、上京を命じられ、二代目の台湾総督に就任するよう、打診を受けた。

 初代台湾総督は、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍大将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐<三十四歳>・陸軍中佐<三十七歳>・陸軍省第二局次長・熊本鎮台参謀長・陸軍大佐<四十一歳>・近衛参謀長・陸軍少将<四十四歳>・警視総監・海軍大輔・海軍少将<四十七歳>・子爵・海軍中将<四十八歳>・海軍大輔兼軍務局長・海軍次官・欧米出張・海軍大臣<五十三歳>・予備役・枢密顧問官・現役復帰・軍令部長・海軍大将<五十八歳>・台湾総督・伯爵・功二級・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・枢密顧問官・議定官・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)だった。

 当時の内閣総理大臣・伊藤博文が、樺山海軍大将の後に、本格的な植民地行政を推進できる人材として、桂太郎中将に台湾総督の就任を要請した。伊藤首相は、桂中将を、長州閥の有能な軍人政治家であると評価していた。

 ところが、桂中将は、これを辞退した。大病の後で、台湾は当時、瘴癘(しょうれい=伝染病の熱病)の地とされており、さらに依然島民の反乱が続いている状況なので、台湾総督の就任に自信が持てなかったのだ。

 だが、伊藤首相と高島鞆之助拓殖務大臣は、桂中将に就任を懇請し、健康不良ならば、内地で十分療養した後に赴任してもよいとの条件を提示した。

 桂中将はこの時の心情を、五月十八日付の伊藤内閣の野村靖(のむら・やすし)内務大臣に宛てた書簡で次のように告白している。

 「全体小生ノ希望ハ今此ノ任務ニ就くハ好ザル事ニテ、他人ニ譲タク相考申候、ナゼト申ニ、第一二小生不幸ニモ昨年大病ヲ煩ヒ、マタ一ヶ年ヲ経過セザレバ身体上如何コレアルベキヤト相考候、第二ニ此ヤリチラシノ跡始末ハ小生ノ如キ弱腕ニテハ整理コレアルベキヤ、未ダ小生等ガ出テヤル時ニモコレアルマジク、所謂名望アル元勲ノ内ヨリ此任ニ当ル事ガ当然ナラン」。

 ここには、大病の後で健康に自信がないこと。さらに、日清戦争後の放漫な台湾政策の後始末をやるのは、元勲ら責任のあるものが担当すべきであろうという批判めいた考えがあった。

だが、桂中将は、この書簡の文末には「君国のためだから、他に人がいないのなら、敢えて辞せず」という趣旨を付け加えている。