陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

559.源田実海軍大佐(19)分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ

2016年12月09日 | 源田実海軍大佐
 ある日、東京市内の映画館に入り、ニュース映画を観ていると、アメリカ海軍の正規空母「レキシトン」「サラトガ」「エンタープライズ」など四隻が単縦陣(一列縦隊)で航行する場面が出て来た。

 空母は分散するものとされている日本海軍では、空母が単縦陣で航行するのは出入港以外にはなく、それも二隻止まりだった。

 「米海軍は変わったことをやる。航空母艦を戦艦のように扱っている」と源田少佐は異様に思った。数日後、源田少佐は、ハッと思いついた。それは次のような着想だった。

 「なんだ母艦を一か所に集めればいいじゃないか。それなら空中集合も問題ない。分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ」。

 源田少佐は、数日間、この着想を検討・研究し、次の様な結論を導き出した。

 「飛行機隊の空中集合は、各母艦が視界内にいるから、いかに大編隊でも問題ない。集中配備の最大欠陥は、敵索敵機に発見された場合、全母艦がその位置を露呈し、敵襲によって全戦闘力を失うことだ」

 「しかし、『赤城』『加賀』『蒼竜』『飛竜』の四隻を集中配備すれば、各艦が搭載戦闘機一八機のうち半数を攻撃隊援護にまわしても、残る三六機で母艦四隻を護衛することができる。さらに二隻の母艦が加われば、五四機で護衛できる」

 「対空砲火も、周囲に配した巡洋艦、駆逐艦などの火器を合わせれば、一〇〇ないし二〇〇門の高角砲と、三〇〇門以上の二〇ミリ機銃によって、厳重な防火網を構成できる。集中配備をやるべきだ」。

 昭和十五年十一月一日、源田実少佐は第一航空戦隊参謀に就任し、十一月十五日、中佐に進級した。この間、「空母集中配備」の思想をますます強めていった。

 太平洋戦争中の批判も少なくない源田実海軍大佐だが、海軍軍人としては、先見の明のある参謀型の人物であり、合理性に富んだ思考形態は天性のものであったが、同時に奇想天外の発想を好んだ。

 昭和十六年一月下旬、連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、真珠湾攻撃の研究を第一一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将に依頼した。

 二月、鹿屋航空基地の参謀長室で、源田中佐は、第一一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将から、ハワイ奇襲作戦の構想を打ち明けられた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将の発案であり、山本大将からの手紙も見せられた。大西少将は源田中佐に作戦計画案を早急に作成するよう依頼した。源田中佐は二週間で仕上げ提出した。

 三月中旬、大西少将がその素案に手を加えて山本大将に提出した。雷撃の修正はあったものの、これが真珠湾攻撃の作戦計画の発端であった。

 昭和十六年四月十日、第一航空艦隊が編成され、源田実中佐は、第一航空艦隊甲航空参謀に補され、空母「赤城」乗組となった。三十六歳だった。

 第一航空艦隊司令長官は南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・八番・海大一八・軍令部第一部第二課長・一等巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第三戦隊司令官・水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面艦隊司令長官・戦死・大将・功一級)だった。

 第一航空艦隊が編成された後に、瀬戸内海に碇泊中の連合艦隊旗艦「長門」に、第一航空艦隊の幹部が呼ばれた。

 長官公室の中央には連合艦隊司令長官・山本五十六大将が控え、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将ら艦隊指揮官の将星、連合艦隊参謀が顔を揃えた。第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐も出席していた。

 その中には第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)もいた。