かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「薩長土肥」の「肥」の象徴、鍋島直正

2018-04-30 04:22:36 | 本/小説:日本
 * 肥前の七賢人

 僕は佐賀の田舎の町の小学校に通った。
 学校の大きな講堂には、天井高く顔写真が並んで飾られていて、「佐賀の七賢人」とあった。
 その7人とは、幕末・維新期の偉人である鍋島直正、大隈重信、江藤新平、副島種臣、佐野常民、島義勇、大木喬任である。
 僕らは、彼らがどのような人物だったのかは知らずとも、顔だけは脳裏に焼きついて育った。のちに「薩長土肥」の一角として、明治維新を推進した人物たちだと知る。
 日本人の判官びいきもあってか、鹿児島で大久保利通より西郷隆盛が人気があるように、佐賀では佐賀の乱で斬首された江藤新平の方が大隈重信より人気があった(今はどうかわからないが)。

 あるとき、「薩長土肥」の「肥」は、熊本で肥後かと思っていたけど、肥前の佐賀だったの?と、相当教養あると思っている人から言われて、肥前の知名度もその程度かとがっかりしたことがある。

 * 佐賀の産業革命

 2015年に、「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録された。そのなかに、萩(山口県)と韮山(静岡県)の「反射炉」が入っているが、日本で最初に作成され、実践可能な鉄製大砲の製造に成功した佐賀の反射炉は入っていない。
 なぜかというと、残っていないからである。
 江戸幕末期、鉄の鋳造、大砲の製造、蒸気船の建造といった西洋技術を習得して、わが国で最も進んだ科学・軍事力を持っていたのは佐賀藩であった。しかし、その痕跡はほとんど佐賀に残っていない。
 かろうじて、国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造した、筑後川の支流である早津江川河口に位置する「三重津海軍所跡」が、世界遺産に向けて近年掘り起こされたぐらいである。

 佐賀藩は福岡藩と1年交代で長崎御番(ごばん)(警備)を受け持ち、長崎近海に出没する外国船に対する警備に当たっていた。
 そのこともあり、佐賀藩は長崎に駐留するオランダからの知識で、外国に対抗するためには今の日本の軍事力では到底太刀打ちできないことは知っていた。それゆえ、軍事力をはじめとする技術革新が最重要だとの認識は、藩主鍋島直正は早くから持っていた。
 そのころ、中国の清がアヘン戦争でイギリスに大敗して、領土の割譲や不平等条約を強いられたことを知り、さらに早急に対応しなければならないと自覚させられる。そのため、長崎のオランダ人を通して、その技術を取り入れることに力を入れる。それを推進したのが鍋島直正であった。
 軍事、造船、化学力の開発のために佐賀藩が独自に藩内に造った「火術方(かじゅつかた)」、「精煉方(せいれんかた)」は、ハイテク日本の先駆けとなる当時の最先端の研究機関であった。
 もしこの「火術方」、「精煉方」が残っていれば、鹿児島の集成館をはるかに凌ぐ産業遺産・資料となっていただろう。

 また、佐賀には福岡、長崎に比肩する石炭産出の炭鉱も、唐津、多久、大町などにあった。長崎、福岡にはその産業遺産ともいうべき施設や坑道跡地などが残っていて見学もできるが、佐賀では取り壊されてほとんど残っていない。ボタ山とて面影もないと言っていい。
 佐賀には、なぜ遺産・遺跡が残っていないのか? 
 過ぎ去ったものには意味や価値を置かない性質なのか。あるいは、物や過去への執着心が希薄なのだろうか。廃墟や廃坑が好きな僕としては、残念な思いが強い。
 佐賀人は、なぜか跡を残さない性質のようである。こういうところが、佐賀人が通ったあとは草も生えないと言われるゆえんかもしれない。
 僕はかつてから、福岡と長崎に挟まれた佐賀は地味で、観光にも他県ほど力を入れているようには見えないが、もっと見直されていいと思っていた。しかし、見直すには痕跡、記録、再生が必要だ。
 
 * 鍋島直正を主人公にした「かちがらす」

 県民性かも知れないが、佐賀県人にはとりたてて目立った行動を良しとしないところがあるように思う。それはどこから来ているのだろうかと思っていたとき、鍋島直正を主人公にした歴史小説「かちがらす 幕末を読みきった男」(植松三十里著、小学館)を読んだ。

 「かちがらす」の本名は「カササギ」で、かつては佐賀で最も有名な鳥だったといえる。
 黒に白が混じったカラスに似た鳥で、今は滅多に見られなくなったが、僕の子どもの頃は県内のどこにでもいた、佐賀の県鳥でもある。
 豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に持ち帰って、佐賀をはじめとした北九州に頒布したといわれている。

 鍋島直正(号は閑叟(かんそう))は肥前佐賀藩37万石の10代目藩主で、幕末、明治維新期の「佐賀の七賢人」の中心人物ともいえる。
 鍋島直正は、島津斉彬とは母方の従兄弟、井伊直弼は父方の再従兄弟(はとこ)で、幕末期には雄藩とかなり複雑な血族関係があったということである。

 本書では、鍋島直正の心情が事細かく綴られている。
 江戸幕末期、佐賀藩は長崎警備という役目があるため、自力で最新鋭の大砲を造ったということが知れ渡るようになり、注目される藩となる。そして、その軍事力を期待して、鍋島直正には幕府から将軍相談役の声がかかる。
 直正をめぐっては、当時、朝廷、幕府の両方が引っ張り合いを繰り広げていた。

 長崎にいるオランダの軍医のボードウィンは直正に、当時日本に来ていた海外の黒船の国の考えていることを、暗に教える。
 イギリスやフランス、アメリカなどは、対立する両陣営、薩長、幕府などを煽って余った武器を売り、さらに内戦で国土が疲弊したあと、インドのムガール帝国のように侵略する魂胆であると。
 ちなみに、ボードウィンについては、長崎で彼の教え子の武士たちと一緒に撮った写真が残っている。
 直正は、日本がインドやアヘン戦争後の中国の清のようになることを最も恐れていた。それゆえ、最新鋭の大砲を、幕府のためにも、薩長のためにも、使うことを拒み続けたのだった。
 直正は、軍事力を高めているのは、外国への対抗のためであって、佐幕であれ倒幕であれ、日本人に向けるものではない、内戦だけは避けたいという気持ちであった。直正の体調が悪いことも重なって、幕府にもなかなかちゃんとした返答を出さない状況を続けた。

 あるいは鍋島直正の幕府、朝廷への対応は、巷間言われているように、両方の様子を見ていて判断が遅くなり、薩長に乗り遅れたのかもしれない。
 イギリスの通訳官アーネスト・サトウは、鍋島直正の印象を、「……彼は日和見主義者で大の陰謀家だと言う評判だったが、はたして……その去就が誰にもわからなかったのである」と記している。
 鍋島直正は、15代将軍・徳川慶喜、勝海舟とも会っている。
 本書のなかで、佐賀藩は日本を守るため、日和見という汚名を歴史に刻んでもよい、と直正は慶喜に言う。

 * 「反射炉」の構造の謎

 本書で、僕が今まで疑問に思っていたことの発見があった。
 一つは、なぜ「反射炉」でなければならなかったのか、ということである。
 日本でも、刀鍛冶を見ても分かるように、鉄はすでに作成されている。しかし、もっと強度の高い鉄で、なおかつ大砲のような大きな器にするためには「反射炉」が必要という知識はすでに得ていた。
 そして、あの「反射炉」の構造が熱を上げるためとは知っていたが、どうして設計図通り造っても失敗を繰り返すほど、鉄の作成が難しいかがわからなかった。
 それが必要温度はもとより、鉄と炭火、つまり炭素の取り込みの関係が重要ということを知った。確かに、化学が導入されていない江戸という時期には難しい論理ではある。

 * 佐賀城

 佐賀城は、石垣と鯱の門が残っているだけである。この門には佐賀の乱のときに受けた弾痕が生々しく残っている。(写真)
 僕が子どもの頃は、この城内に小学校があった。
 2004(平成16)年に、天保年間完成の本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館ができ、様々な催しものを開催している。
 この佐賀城鯱の門の広場に、去年(2017年)、第2次世界大戦時の金属供出に伴って撤去されたという、鍋島直正の銅像が生誕200年を記念して再建された。
 今度佐賀に帰ったときには見てこようと思っている。

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