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9月11日、昨日の雲一つない抜けたような晴天と違って、この日は雲が多い。その分日差しが和らいで少しは凌ぎやすいだろう。
朝みんなと別れて、米原の琵琶湖のほとりのホテルから、9時15分のシャトルバスに乗ってJR米原駅に行った。
そこから、北の方へ列車で行こうと思いたった。若狭には行ったことがなかったので、若狭湾のどこかへその日は行こうと思った。
さて、ここから自由気ままな、地図を片手の列車による一人旅だ。
若狭といっても、地図を見ても町はいくつもある。そのなかでも、どの駅で降りようかと迷った。
とりあえず米原駅で、若狭湾の中ほどにある小浜(福井県)までの切符を買って、9時38分米原発、敦賀(福井県)行きの電車に乗った。敦賀から西の若狭方面に乗り換えだ。
列車は、米原から、長浜、姫虎を通って敦賀へ向かう。
田舎の2両編成の各駅停車の、誰も知らない人たちに紛れて、通り過ぎる窓の外の景色を見ていると、旅をしているという浮いた思いが湧いてくる。やはり、列車の旅はいい。
終点の敦賀駅で、若狭方面に行く10時44分発、東舞鶴(京都府)行きに乗り換えた。敦賀からの各駅停車の列車は、右手に若狭湾を見ながら進む。
美浜を過ぎて三方へ。ここは三方五湖があり明光風靡なところらしいが、一人湖を散歩するのはやめておこう。「湖畔の宿」でもあるまいし。
ついさっきまで、小浜で名物の鯖でも食べようと思っていた。ところが、列車の中で地図を見ていると、舞鶴の海岸近くに「引揚記念館」と小さく書いてあるのが目についた。それを見て急遽、小浜で降りずに、終点の東舞鶴まで行こうと思いを変えた。
思えば、舞鶴は、あの「岩壁の母」(歌:菊池章子、二葉百合子)の地なのだ。
終点の東舞鶴に12時50分に着くや、駅前に出てみると、そこへ周遊の市観光バスがやって来たので、それに乗り引揚記念館に向かった。この市内周遊観光バスは土日限定らしい。
乗客は、僕のほかに、恋人とも思えない、村の青年団風の男と草を刈る娘風の女の若い2人組がいるだけだ。
バスが発車するや、一番前に座った僕に、バスの運転手が、ここ舞鶴はもともと軍事港で、戦後は進駐軍が駐留していた地です、と説明を始めた。中年の運転手は、私が子どもの頃はまだ進駐軍がいまして、かすかに覚えています、と、彼はこの地を愛しているというのを伝えるかのように話を続けた。あの港に見えるのは自衛隊の船で…、あの建物が煉瓦館で…と、案内役風に観光ガイドをしてくれた。
いつもこうやって、運転手が観光ガイドをしてくれるのか、今日は特別に前の席にいる僕だけに話しているのか分からなかったが、僕は熱心な聴者になったし、適切な質問者にもなった。あるいは、運転手は今日は誰かと話したかっただけかもしれない。
引揚記念館に着いて、バスを降りるときに乗車賃を払おうと千円札を出すと、運転手は大きな黒いがま口を広げて、空っぽの中を手で探って、お釣りがないです、今日初めてのお客さんですから、と笑いながら言った。僕もポケットを探って、200円を探し摘んで、がま口に入れた。普通の市バスだと400円で、この観光周遊バスだと200円だった。
後ろに乗っていた2人組も、何やら胸から紐で下げたものを見せただけで、バスを降りた。観光用の一日乗車券らしかった。
一日乗車券以外の僕のような飛び乗りの料金(現金)を払う人間が、午後になっても1人とは少し寂しいなと思ったが、運転手が明るいのがいい。
引揚記念館に入ると、バスの乗客は少なかったのに、意外と多くの見物客がいた。入場料金は300円。
腹が減っていたので、まずは何か食べようと思って、館内の食堂を兼ねた喫茶店に入った。まるで学食のように、味も素っ気も洒落っ気もない喫茶兼食堂だ。いや、最近の学食は洒落ていてメニューも豊富だ。
掲げてあるメニュー表を見ると、内容もうどん、丼もの、カレーライスと、昔のバス停留所内の食堂のようだ。
一番上に書いてある「引揚うどん」(大580円、並480円)が目玉の売り物なのだろうと思い、並の引揚うどんを頼んだ。
出てきたのは大きな油揚げが1枚のっているきつねうどんであった。洒落であろうか。
第2次世界大戦が終わった1945年、海外には660万人の日本人がいたといわれている。戦後、佐世保、博多、呉、浦賀など10港で帰国、引揚げが行われた。そのなかでも舞鶴は、中国残留および旧ソ連のシベリアに抑留されていた日本人の帰国、引揚げを、もっとも遅くまで迎え入れた港である。それに、現地からの遺骨の引揚げも行った。
記念館には、それらの記録や抑留時の服や生活品、現地(ソ連)からの抑留者からの手紙などが展示されている。
記念館の近くの小高い丘の公園に桟橋が作られていて、舞鶴港が見渡せる。(写真)
桟橋を出て、再び駅に戻ためにやって来た周遊バスに乗った。バスは2台が交替で周遊していて、帰りに乗ったのは、行きのバスとは違う運転手であった。
また一番前に座ったが、今度の若い運転手はガイドをすることはなかったし、僕の質問にもそれ以上の答えは戻ってこなかった。やはり、観光ガイドは常備ではないのだ。
東舞鶴駅に戻った。
地図を見ると天橋立が近いと知ったので、舞鶴に泊まるのではなく、すぐに天橋立に向かうことにした。天橋立も初めだ。
東舞鶴駅から西舞鶴駅へ出て、そこから16時08分発、豊岡行きの北近畿タンゴ鉄道に乗り換え、宮津を通り天橋立で降りた時は17時だった。
すぐに、閉める間際の駅構内にある案内所に行き、温泉のある食事付きの安い旅館はないかと訊いた。そんな全部を揃えた都合のよい旅館はないようで、係の人はすぐにないという答えを用意していた。温泉のある食事付きの旅館はあっても僕の提案した予算よりずっと高く、それに土曜日なのですでに満室らしかった。
それでは、温泉旅館に泊まるだけで、食事は外でするからと言ってみた。
すると、係の人は意外なことを言った。ここ天橋立には、夜は食べるところはほとんどあいていません。昼(昼食)はあるのですが、と。食堂は夜はほとんど締まり、各旅館や民宿は泊まり客のみの食事であるという。
外で食べたり飲んだりするのだったら、隣の駅、宮津に行かないといけないという。
それで、係の人がいろいろ考えたあげく提案した、すぐ近くに共同の温泉がある、食事付きの民宿にすることにした。安いという条件を満たしているため、トイレも洗面も共同である。
民宿に行ってみると、駅のすぐ近くで、共同温泉場までも歩いてすぐである。
その民宿は、元気なおばさん(あとで聞いたところによると72歳だと言った)が一人で切り盛りしていた。おばさんは忙しそうだ。鍵もない部屋だが、温かみがある。
荷物を降ろすと、すぐ近くの共同温泉場「智恵の湯」に行った。
おばさんの手料理の夕食も悪くなかった。
朝みんなと別れて、米原の琵琶湖のほとりのホテルから、9時15分のシャトルバスに乗ってJR米原駅に行った。
そこから、北の方へ列車で行こうと思いたった。若狭には行ったことがなかったので、若狭湾のどこかへその日は行こうと思った。
さて、ここから自由気ままな、地図を片手の列車による一人旅だ。
若狭といっても、地図を見ても町はいくつもある。そのなかでも、どの駅で降りようかと迷った。
とりあえず米原駅で、若狭湾の中ほどにある小浜(福井県)までの切符を買って、9時38分米原発、敦賀(福井県)行きの電車に乗った。敦賀から西の若狭方面に乗り換えだ。
列車は、米原から、長浜、姫虎を通って敦賀へ向かう。
田舎の2両編成の各駅停車の、誰も知らない人たちに紛れて、通り過ぎる窓の外の景色を見ていると、旅をしているという浮いた思いが湧いてくる。やはり、列車の旅はいい。
終点の敦賀駅で、若狭方面に行く10時44分発、東舞鶴(京都府)行きに乗り換えた。敦賀からの各駅停車の列車は、右手に若狭湾を見ながら進む。
美浜を過ぎて三方へ。ここは三方五湖があり明光風靡なところらしいが、一人湖を散歩するのはやめておこう。「湖畔の宿」でもあるまいし。
ついさっきまで、小浜で名物の鯖でも食べようと思っていた。ところが、列車の中で地図を見ていると、舞鶴の海岸近くに「引揚記念館」と小さく書いてあるのが目についた。それを見て急遽、小浜で降りずに、終点の東舞鶴まで行こうと思いを変えた。
思えば、舞鶴は、あの「岩壁の母」(歌:菊池章子、二葉百合子)の地なのだ。
終点の東舞鶴に12時50分に着くや、駅前に出てみると、そこへ周遊の市観光バスがやって来たので、それに乗り引揚記念館に向かった。この市内周遊観光バスは土日限定らしい。
乗客は、僕のほかに、恋人とも思えない、村の青年団風の男と草を刈る娘風の女の若い2人組がいるだけだ。
バスが発車するや、一番前に座った僕に、バスの運転手が、ここ舞鶴はもともと軍事港で、戦後は進駐軍が駐留していた地です、と説明を始めた。中年の運転手は、私が子どもの頃はまだ進駐軍がいまして、かすかに覚えています、と、彼はこの地を愛しているというのを伝えるかのように話を続けた。あの港に見えるのは自衛隊の船で…、あの建物が煉瓦館で…と、案内役風に観光ガイドをしてくれた。
いつもこうやって、運転手が観光ガイドをしてくれるのか、今日は特別に前の席にいる僕だけに話しているのか分からなかったが、僕は熱心な聴者になったし、適切な質問者にもなった。あるいは、運転手は今日は誰かと話したかっただけかもしれない。
引揚記念館に着いて、バスを降りるときに乗車賃を払おうと千円札を出すと、運転手は大きな黒いがま口を広げて、空っぽの中を手で探って、お釣りがないです、今日初めてのお客さんですから、と笑いながら言った。僕もポケットを探って、200円を探し摘んで、がま口に入れた。普通の市バスだと400円で、この観光周遊バスだと200円だった。
後ろに乗っていた2人組も、何やら胸から紐で下げたものを見せただけで、バスを降りた。観光用の一日乗車券らしかった。
一日乗車券以外の僕のような飛び乗りの料金(現金)を払う人間が、午後になっても1人とは少し寂しいなと思ったが、運転手が明るいのがいい。
引揚記念館に入ると、バスの乗客は少なかったのに、意外と多くの見物客がいた。入場料金は300円。
腹が減っていたので、まずは何か食べようと思って、館内の食堂を兼ねた喫茶店に入った。まるで学食のように、味も素っ気も洒落っ気もない喫茶兼食堂だ。いや、最近の学食は洒落ていてメニューも豊富だ。
掲げてあるメニュー表を見ると、内容もうどん、丼もの、カレーライスと、昔のバス停留所内の食堂のようだ。
一番上に書いてある「引揚うどん」(大580円、並480円)が目玉の売り物なのだろうと思い、並の引揚うどんを頼んだ。
出てきたのは大きな油揚げが1枚のっているきつねうどんであった。洒落であろうか。
第2次世界大戦が終わった1945年、海外には660万人の日本人がいたといわれている。戦後、佐世保、博多、呉、浦賀など10港で帰国、引揚げが行われた。そのなかでも舞鶴は、中国残留および旧ソ連のシベリアに抑留されていた日本人の帰国、引揚げを、もっとも遅くまで迎え入れた港である。それに、現地からの遺骨の引揚げも行った。
記念館には、それらの記録や抑留時の服や生活品、現地(ソ連)からの抑留者からの手紙などが展示されている。
記念館の近くの小高い丘の公園に桟橋が作られていて、舞鶴港が見渡せる。(写真)
桟橋を出て、再び駅に戻ためにやって来た周遊バスに乗った。バスは2台が交替で周遊していて、帰りに乗ったのは、行きのバスとは違う運転手であった。
また一番前に座ったが、今度の若い運転手はガイドをすることはなかったし、僕の質問にもそれ以上の答えは戻ってこなかった。やはり、観光ガイドは常備ではないのだ。
東舞鶴駅に戻った。
地図を見ると天橋立が近いと知ったので、舞鶴に泊まるのではなく、すぐに天橋立に向かうことにした。天橋立も初めだ。
東舞鶴駅から西舞鶴駅へ出て、そこから16時08分発、豊岡行きの北近畿タンゴ鉄道に乗り換え、宮津を通り天橋立で降りた時は17時だった。
すぐに、閉める間際の駅構内にある案内所に行き、温泉のある食事付きの安い旅館はないかと訊いた。そんな全部を揃えた都合のよい旅館はないようで、係の人はすぐにないという答えを用意していた。温泉のある食事付きの旅館はあっても僕の提案した予算よりずっと高く、それに土曜日なのですでに満室らしかった。
それでは、温泉旅館に泊まるだけで、食事は外でするからと言ってみた。
すると、係の人は意外なことを言った。ここ天橋立には、夜は食べるところはほとんどあいていません。昼(昼食)はあるのですが、と。食堂は夜はほとんど締まり、各旅館や民宿は泊まり客のみの食事であるという。
外で食べたり飲んだりするのだったら、隣の駅、宮津に行かないといけないという。
それで、係の人がいろいろ考えたあげく提案した、すぐ近くに共同の温泉がある、食事付きの民宿にすることにした。安いという条件を満たしているため、トイレも洗面も共同である。
民宿に行ってみると、駅のすぐ近くで、共同温泉場までも歩いてすぐである。
その民宿は、元気なおばさん(あとで聞いたところによると72歳だと言った)が一人で切り盛りしていた。おばさんは忙しそうだ。鍵もない部屋だが、温かみがある。
荷物を降ろすと、すぐ近くの共同温泉場「智恵の湯」に行った。
おばさんの手料理の夕食も悪くなかった。