10月5日(土)ソルトレークシティの大会センターで開催された末日聖徒イエス・キリスト教会の秋季総大会で、ディーター・F・ウークトドルフ第二副管長は過去に教会の指導者が間違ったことがあったと認め、そのような「人」の過ちに躓いた会員がいたことは不幸であると述べた。LDS教会の上位の幹部がこのように語ったことは、教会に疑問を呈し、異議を唱えあるいは離反する信徒に対する指導層の姿勢に変化があったのではないか、と受けとめられた。ニューヨークタイムズ[電子版]が報道し、末日聖徒の間でも大きな話題になった。(特にネット上の各種グループの間において。)
ウークトドルフ副管長は説教の後半をこのことに割き、諄々と率直に説かれたので聞いていて驚いた教会員が多数いた。このような内容を聞くことは今までになかったからである。説教後半に入ってまず、教会を去った人たちは対人関係か何かで躓いたとか、その人がいい加減だったからとか罪を犯したからなどと片付けることはできない、ことはそれほど単純ではなくむしろ何年も去るべきか苦悶した人もいる、と去った人に焦点を当てた。そして、モルモン書の扉の頁にもあるように欠点があるとすればそれは「人」の過ちである、神の教会も不完全な「人」によって運営されており、率直に言って教会の指導者が過ちを犯したことがあった、ある言説や行為は私たちの価値観や原則・教義と調和するものではなかったと認める発言をされた。
また、人々の多様性、才能、異なった視点は教会の資産・力であり、その存在は教会全体をよい方向に向かわせる。皆さんの席はとってあるので私たちのもとに来てください、と語りかけられた。
終わりにかけて、疑問を感じることは自然であり、誠実な探求は深い理解に到達する。教会は疑いという土壌に播かれた種をも培うために存在している。ただ疑念については、信仰を疑う前に生じた疑いを疑って欲しい、と求めた。(この部分について彼の限界を感じて失望する声も聞かれたが、私は彼の立場にあってこの部分も誠意ある声と受けとめることができないかと思う。あるいは、保守的な幹部や教会員の存在を意識した挿入である可能性もあるかもしれない、と感じた。)
なお、ウークトドルフ副管長のこのような柔軟な姿勢は使徒のD. トッド・クリストファーソン長老が9月24日BYU-アイダホ校で話した講話にも一部見受けられた。ジョセフ・スミス文書の刊行に触れ、ジョセフ・スミス自身が述べているように彼にも人としての弱さゆえに弱点や失敗があったことに言及し、教会の土台はあくまでイエス・キリストにあると学生たちに語りかけている。
いずれも明らかに、教会を去る人々が出ているという最近の一連の傾向に対応した内容であって、この度のウークトドルフ副管長の説教は教会の知識層から注目され歓迎された画期的なものであるといえる。
説教の本文
http://www.lds.org/general-conference/2013/10/come-join-with-us?lang=eng
ニューヨークタイムズのURL:
http://www.nytimes.com/2013/10/06/us/a-top-mormon-leader-acknowledges-the-church-made-mistakes.html?smid=tw-share&_r=0
指導者にも誤りがあり得ることについて触れた説教など(カナダの医師グレゴリー・L・スミスによる総リスト 2013/10/12 “Prophets and fallibility”)
http://seesangelsinthearchitecture.wordpress.com/
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Unknownさんが出て来られるなら、直で会談しましょう。
(突然の「え」の前に削除されたコメントがありました。他の読者へ。)
(後で読むと私の書き方にも不適切な響きが読み取れました。文字にすると書いた者が気づかないきつさが感じられることが往往にしてあります。)
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