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(知人の教会員できっての読書家芥野氏に、コーランを読んだ感想を依頼した。私たちはイスラム教徒についてニュースでよく聞くのに身近に感じることはない。彼らの聖典コーランはどのようなものなのだろうか。以下全文芥野正巳氏の文章。)

 ギボンの「ローマ帝国衰亡史」を読んでいた。前半は中々面白く読めていたのだが、後半に入って、いまひとつ興味が湧かず、最後まで読み通すのにいささか困難を感じた。

 わたしはキリスト教徒であるが、ローマ帝国の歴史の中での、迫害されていたクリスチャンが帝国の中枢を占めるようになってからの、「キリスト教徒にあらずば人にあらず」というような社会には、却って鬱陶しさを感じてしまった。いろんな思想や宗教が渾然と存在する国に生まれ育った所以であろうか。

 そんな中で、むしろイスラムの勃興を描いた章を面白く感じられたのは、その教義や信条と関わりなく、新しさ、若々しさが印象深かったからであろう。

 そんなわけで読了後、今度はイスラムの聖典である「コーラン」(「クアルーン」というべきかもしれないが、わたしの読んだ岩波文庫版の訳語に従う)を読んでみることにした。



 ・読み物として
そんなに読んで面白いものではない。
比較するとしたら聖書であろうが、聖書にある物語性も、歴史的興味をそそる記述もなく、また構成の妙もない。ひたすら、「アラーは使徒マホメットにこのように語られた……」という記録が延々と続く。また最近のものが前にあるという構成上、連続性とか統一とかも期待できなくて、ひたすらその章その章で読んでいくしかないのである。どうやら、コーランの価値とは、そういった要素とは違うところにあるようだ。

聖典として
これまた比較するとしたら、キリスト教徒にとっての「聖書」になるのであろう。筆者は聖書なら繰り返し読んでいるが、どうやら明らかに別物のようだ。
 信仰を同じくする末日聖徒ならこの説明で理解していただけると思うが、これは「モルモン書」でもなく、「教義と聖約」である。
 聖書なら知っているという方に説明すると、旧約聖書でいにしえの族長や預言者、たとえばアブラハムやモーセといった人に天から主やそのみ使いが語られる記述があるが、コーランとは全編がそういう書物である。
 ある意味、より純粋な神の言葉であるとの捉え方をすべきなのだろうか。しかし、聖書にあるたとえや、できごとを通じて神の御心を人に知らしめることをわたし自身は愛するし、それに慣れ親しんできたので、それだけしかないというのも何とはなしに味気なく感じられる。これは理屈ではなく、感じ方の問題であるが。
 ただ、イスラム教徒は聖書も聖典として受け入れていることは付け加えておく。必ずしも彼らにとって、コーランだけが聖典ではないということである。

生活にもたらすもの
 日本に住み、暮らしているとイスラム教徒の知己を得ることはまずないだろう。しかし、世界のニュース等を見ると断片的ではあるが、彼らは宗教と生活習慣が密着していることは窺い知ることができる。
 そういう視点でこの書を読むときに、なんとなく感じ取るものはある。書斎で正しい生き方を学ぶために研究する書物ではなく、村の寄合で長老のじいさまから、語り掛けられる処世術、とでも表現すればよいのだろうか。

[モスクの中でイマームがモスレムたちに語りかけている]

 語学力に乏しい筆者にははかりしることのできないことであるが、どうやらコーランとは、原語であるアラビア語で、声に出して読むときに真価を発揮する聖典であるようだ。残念ながら、そうであるなら生きているうちに本当に理解することはかなわぬようだ。

 ・思想、そして現実の世界で
 どうにか全編を読み通して、どうしても引っかかることがある。それは、コーランは決して人が平等であるとの立場に立っていない、ということだ。
 つまり、人間とは「男」であって、「女」はその従属物、補佐するもの、仕えるものの立場を超えていない、ということだ。すなわち、アラーの前では男と女は同じ価値があるわけではない。
 煩雑になるので引用は避けるが、筆者は「民主主義」とは基本的に「人間は平等である」という思想のもとで生み出され、広まったものとの考えを支持している。だから、イスラム教徒の国家ではなかなか民主主義は取り入れられても、定着はむずかしいのではないだろうかと心配している。現実のニュースを見ると、この考え方は外れてはいないように感じる。

 ・自らを省みて
 ここまで書いてきて気がついたのだが、キリスト教徒自体そうでない人から見れば、閉鎖的、男女差別的なのではないかと。
 神は人を男と女とにお造りになった、だから男女それぞれの特徴があり、役割があることを受け入れ納得しているが、非キリスト教徒にとってはそれが男女差別的に感じることなのかもしれない。
 つまり筆者がコーランを読んで感じるようなことを、世間の人びとは筆者を含めたキリスト教徒に感じているのではないかと。

 ・終わりに、あるいは予告
 筆者はキリスト教徒であり、またその中でも決して主流とはいえないモルモンとも呼ばれる末日聖徒でもある。
 そんな立場で思うことに、聖書もモルモン書も読んだことのない人に宗教上の批判はされたくないという気持ちがある。何か言いたいことがあったら、それくらいまず読んでくれと。
 そう考えるときに、コーランくらい読まないことには、イスラムのこと、アラブのことをとやかく言えないな、と。最初にふれなかったが、これがこの書を読んだもうひとつの動機でもあった。
 他人のことをとやかくあげつらうなら、その人、また人びとの最低限のバックグラウンドを理解までは無理でも触れておくことくらいはしたいものだと思う。

 同じ理由で法華経も一通り目を通したので、別の機会に紹介したい。- - - 芥野正巳


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コメント
 
 
 
末日聖徒のコーランに対する見方 (教会員)
2014-04-18 11:46:02
世間ではあまり知られてはいないが、モルモン教会はコーランについて半絶賛しているようなところがあり、研究しても良い、あるいはした方が良い書物として扱われています。

で、私も少し挑戦してみたことがあります。で難しすぎて断念してしまったのです。

新旧約聖書と違って、登場人物や場面場面が何の脈絡もなく飛び出してくるので、慣れない人が何のガイドもなく読んだところで何のことだろうということになるのですよね。

あるコメントで、コーランは親父の説教みたいなものだったと表現している方がいて、最初何のことだろうと聞き流していたのですが、

それをしばらく聞いてああなるほどねと思ったことがあります。親父がガミガミと隣人に迷惑をかけた息子を叱ってる場合、のっけから学校のプリントを親に見せなかった過去の話からスタートして、息子は神妙に叱られながらも何それ?と思うあの感覚に近いのかと。

つまりコーランは福音のテーマテーマで章になっているのかとやっと分かった。 つまり例えばある章は「従順の律法」について、あたある章は「財産に関する律法」についての説教だと。 しかも分かってみれば福音の真髄をついている文章だったりするわけです。

例えば「商売なりでもうけた時は、最初から貧者の分を含んでいる」という発想。最初読んでも分からないが、なぜ施しや献金するときに惜しむ気持ちになってしまうのか、それは無意識に「自分の儲け」を人に施すと考えているからであって、それがそもそもの間違いであって、最初の儲けには自分の取り分と何パーセントかの貧者の取り分が混ざっているんだという教えだったりするわけです。

全世界がこの発想でいけば、数日のうちに世界中の貧困問題は解消するなと、神の視点を垣間見たような気持ちになり、正直感心しました。

これなんかは教会内用語の「分かち合いの精神」という福音を大幅に補強するというものになるでしょう。
 
 
 
こんな方が (沼野治郎)
2014-04-18 13:58:01
日本のldsでコーランを読んだ方がいたんですね。この記事は、大方の反応が冷たかったようで、少し残念に思っていたところでした。コメント大変参考になりました。有難うございました。
 
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