のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

辺見庸さん / 「(SEALDsの行動は)『現象』とは思うけど、ムーブメント(運動)とは考えてない」

2016年01月23日 08時53分06秒 | 社会運動
志葉玲
‏@reishiva さんのツイート。

――著名な人であっても、ちゃんと現場で取材していない人に話をきくべきではないね。食うにも困る最底辺層の怒りや悲しみを、SEALDsの、かのう君はデータと共に訴えていた。
RT(インタビュー)時流に抗う 作家・辺見庸さん:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S12169379.html …〔13:30 - 2016年1月22日 〕――

学生運動、社会運動でも

勝ち組、負け組というのはあると思う。

辺見庸さんは、

リーダーシップを握っていた

という意味で、

60年代安保闘争の勝ち組なんだろうな。

だからどうしても、

過去の栄光にすがってしまうのだろう。

そう言って失礼ならば、

美化された過去の鋳型にSEALDsが嵌らないからと言って、

彼らの存在を無視しようとしている。

たとえば、

こんな風だ。

「若い人たちが危機感を持つのは理解できます。ただ、あれは『現象』だとは思うけど、ムーブメント(運動)とは考えてません。まだスローガンみたいな言葉しか言えてないじゃないですか。ぼくはそこに何も新しいものを感じない。もっと迂遠(うえん)で深い思想というか、内面の深いところをえぐるような言葉が必要だと思います」

 「例えば米国や欧州でのサミット(主要国首脳会議)に反対するデモは、資本主義のあり方そのものに反対している。あまりにもむき出しで、びっくりしちゃうんですけどね。日本とは『怒りの強度』が全然違う。なぜ、国会前デモのあとに行儀良く道路の掃除なんかできるんでしょうかね」

 「安倍政権が現状をこれ以上悪くすることへの反発というのはあるでしょう。しかしどこか日本的で、むしろ現状維持を願っているような感じがしますね。例えば、日々食うにも困るような最底辺層の怒りや悲しみを担ってるわけじゃない。なかにはそういう人もいるでしょうけど、全体としては『何としても社会そのものを深いところから変革したい』という強いパッションが見えないんです」

 ――極端に言えば、いまの自分の暮らしが保たれることだけを願っているように見えると?

 「そういうことです。『怒りの芯』がない。それは言葉の芯とともにどこかに消失してしまったんでしょう。この傾向は70年代から幾何級数的に進んできたと思います。市場経済の全面的な爛熟(らんじゅく)って言うんでしょうか、それとともに言葉が収縮し、躍動しなくなったことと関係あるかもしれません」

氏は抗議の仕方が

たとえ、

焼身自殺の形を取っても

「運動」に反映されない現実の冷たさを

見ていない。

連鎖の形を取らない

「運動」はない。

連鎖しないものを連鎖させようとする

賢明さが

デモの後にする

彼らの掃除する動きにあるんではないだろうか。

然るに、

辺見さんは、

彼らの上っ面の上品さに幻惑されて、

「それじゃ、喧嘩になっていないだろう」

と罵っているようなもんだ。

上品さに包まれた怒りを怒りとして

認めていない。

要するに、

SEALDsの若者たちって

時が過ぎれば、

簡単に鎮まってしまうという認識だな。

しかし、まだまだ、彼らは

化けるんじゃないか

と思う。

そしてそれが

彼らの活動が「運動」である証だ。

「運動」とは、

状況に応じて姿を変えるものだからだ。

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