のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

【重要】 精神的自由権がなぜ経済的自由権に優越するのか

2016年02月15日 16時53分29秒 | 文化
小沢一郎(事務所) @ozawa_jimusho さんのツイート。

――総理は本日の「精神的自由権がなぜ経済的自由権に優越するのか」を問われ、答えられなかった。そもそも精神的自由権が損なわれれば、民主主義そのものが傷つき、是正・回復が困難になるからである。憲法の基礎の基礎である。結局、憲法を知らない政治家が憲法を変えようとしている。冗談にもならない。〔14:16 - 2016年2月15日 〕――


基本的人権も無制限ではない。

その制約原理を

考える中で見出されたものに、

「二重の基準論」がある。

「精神的自由権は、経済的自由権に優越する」

という考え方は、

そこで述べられる。

要するに、

金目のもので決着のつく事柄は、

本質的にそうでないものより、

埋め合わせがつく点でデリカシーに欠けている。

人権の

制約原理を考えるにあたっても、

そのことが斟酌される。

すなわち、

精神的自由権を制約する際、

そのやり方は、

経済的自由権を制約する場合と較べ、

遥かに

慎重にすべしということだ。

日本の

マスコミは、

批難の言葉として、

「ダブル・スタンダード(二重基準)」

という言葉を使っている。

その影響、

大いにあると思うが、

子どもたちの中でもマナーの悪さを指摘されたとき、

たとえば、

図書館などでの大声での雑談を注意されたとき、

「あんたの声の方が大きい」

などと反論する者がいる。

女性専用列車にいちゃもんをつけるタイプも

似たような発想の持ち主と見ていい。

ネトウヨにも

ヘイトスピーチを難ぜられると、

逆に、

そんな批判こそが

ヘイトスピーチではないかと居直る人が多い。

と言うか、

そんな口答えをしない人をまだ見たことがない。

二重基準の

合理性が理解できないから、

こんな風にごねるのだろうと思う。

「我に知、必要なし」

という

反知性主義ならではの暴力だ。

「無知の知」は、

大切だと思う。

しかし、何にも知らなくていいと威張るのとは

少し違うよ。

「悪い点を指摘する」と

「悪く言う」とが違うように、

少し違うのだ

(BASIL‏@basilsauce さんのツイート〔18:09 - 2016年2月11日 〕参照)。

この指摘について、

解説をしている人がいた。

――日本の悪い点を指摘するのは、日本をより良い国にしたいから。
各種レベルが軒並み下がっているのに、日本凄い!日本万歳!日本人は世界からこんなに尊敬されている!と独り善がりな妄想世界に引き籠もっていたら日本は本当に大変な事になる。〔23:08 - 2016年2月11日 〕 ――

猛猫注意☆頑張らねば…… @mirumiru2014 さんの

発信だ。

ソクラテスは偉いけど、

安倍晋三君は大きな問題を抱えている

ということだ。

ちなみに、

「二重基準」の正当性は、

数学的に

立証されている。

ただし、社会関係におけるトラブルは、

数学の論証問題と

まったく同じというわけではないだろうから、

この機会に、

「二重基準」は、

是か非か、

考えたらいいと思う。

法律学での

扱いは、

下記〔資料〕参照。


<追記>

「精神的自由権がなぜ経済的自由権に優越するのか」が

なぜ、問題となったのか、

経緯をKoji‏@kwave526 さんがツイートしてくれているので

紹介する。

――報ステ 民主・山尾議員「なぜ精神的自由は経済的自由に優越するのか」 安倍「私にクイズされても」 山尾「経済的自由は選挙で直せるが、知る権利が阻害されるから選挙で直すことが出来ないから、優越的地位にある。これが憲法で最初に習うこと」 〔22:50 - 2016年2月15日〕――



この説明では、

はっきり言ってとても分かり難い。

精神的自由を

制約すると、

知る権利が阻害される云々でなく、

「心が受傷する」

というレベルで国民を傷つけてしまう

恐れがあるからだ。

たとえば、

経済的自由一本槍で

自由権を

考えて見たらよい。

安倍政権では、

その傾向があるわけだ。

たとえば、

解雇に関して

全面的な企業主の自由裁量権を認め、

今まで要求されていた「正当事由」を外して

被用者側に

どのような同情すべき事情があったとしても

お構いなし。

考慮しなくともいい、

後は、金で清算する制度が

現に導入されようとしているよね?

あれなどは、

精神的自由を一切、無視している。

石原大臣がかつて

口にした

「金目の問題でしょ」

という暴言を彷彿とさせる。

この暴言で何が問題になったかと言うと、

福島の被災者の気持ちだ。

またぞろ閣僚に復帰というのは、

安倍某自身に

この暴言の持つ冷酷さが理解できていない証拠なんだ。

野党は、

そこを突かないといけない。

精神的な世界に

土足で踏み込まれたくないという

精神的自由の問題は、

丸川大臣の

この間、撤回した

「『反放射能派』と言うと変ですが、

どれだけ(線量を)下げても心配だという人は世の中にいる」

という暴言にも潜んでいる。

福島のある人は、

故郷に

墓参りに帰ったとする。

そういう人がいるからと言って、

帰らない人を

責められるのかということだ。

法案を

考える場合、

もし、それが成立して適用されたとしたら、

「精神的自由」を損なうような場合、

「経済的自由」の場合と異なって

単なる合理性だけでは是非を決せられませんと考えるのが

「経済的自由権に対する精神的自由権の優越を認める」

立場だ。

精神的自由権を制約、

すなわち、その限りで、

精神的自由権を無視した場合、

取り返しが

つくものなのかどうかで

精神的自由権を制約する可否を決しようというわけだ。

純粋に

経済的自由権の問題なら、

制約しても

ほぼお金で決着をつけるというのが

合理的なんだ。

精神的自由権が混じりこんでいると、

「最期は金目でしょ」

なんていう無神経なこと、言うべきではないのだよ。

『反放射能派』なんて言って、

被爆問題を問う人間を一括りにしてしまうのも、

暴力的だ。

被災者を人間として見ていないから、

そんな単純な括り方ができるのだろう。

被爆問題は、

徒党を組むために

考案されたものではないのだ。

被爆という

現実に立ち向かうために

力を合わせるため問題提起されたに過ぎない。

力を合わせようという

決意をするまでにはお子さんの白血病だの甲状腺がんなどの

不安が影響する場合があるだろう。

言うに言えない、

心の葛藤を経て皆さん、

裁判に訴えられたリ、デモに行かれたりする。

『反放射能派』だから、

物申すといった単純なものではない。

そのような各自にある事情を踏まえた上で、

どういう必要性と手当があれば、

精神的自由権の制約を正当化できるのか、

考えようというのが

「二重基準論」の中身だ。

山尾志桜里議員が言う

「選挙で直すことはでない」という結論が正しいとしても、

抽象的に

「国民の知る権利が阻害されるから」

とするだけでは、

安倍某に伝わらない。

普通に考えて、

もし、「(特定秘密保護法とかで)国民の知る権利が阻害されたとして」

10年して、

秘密解除され、

公開されるというなら、

精神的自由権が制約され阻害されていた状態が

「直された」

と言って不都合ではないからだ。

そうではなくて、

問題となる精神的自由権の制約される場合は、

金銭解決が不能で

そのままでは直されようがない場合だ。

すなわち、

「秘密解除」という

制度的手当てがない場合、

何時まで経っても

「国民の知る権利が阻害されたままだ」。

そのように、

精神的自由権の制約される場合というのは、

お金では埋め合わせがつかないものだ。

山尾さんに

考えてもらいたいのは、

安倍某が精神的自由の優越という

憲法のキーワードを知らなかったとして

それがどうした、

ということだ。

実際、彼は、

「国民の知る権利が阻害された」

という事実状態を認めたとしても、

「結構ではないか」

としか思わないんじゃないかな。

もし、国民に情報疎外の陥らせては駄目という

価値観の持ち主なら、

「慰安婦問題」をなかったことにしたりしないよ。

史実などどうでもいいと考えていればこそ、

日韓合意の直後に

韓国政府に

慰安婦像の撤去を申し入れたりするわけだ。

それだけじゃない。

「岸田外相を通じて謝罪した。これで同国との歴史問題は解決」

なんていう結着は、

ありえないにもかかわらず

「後の世代に謝罪の重荷を背負わせない」

とコメントを述べていた。

これでは、

日本側が約束を破って蒸し返したも同然だ。

女性から見て、

「慰安婦」として

性的労働に強制的に服させるというのは、

究極の精神的自由の剥奪だ。

そういう

かつて日本軍がした蛮行を申し無く思うという

感情の自然の発露さえなく、

ただ謝罪を見せかけるというパフォーマンスをしたからと言って、

直ぐに見返りを求めるような

品性のない、

そして誠意に欠ける行動を彼は、

国民にして見せた。

安倍某は、

恥を知らんのだ。

そういう人間に恥を知れと言えば、

どうなる?

喧嘩だよね。

しかし、それをする覚悟がなければ、

できない内容の質問をした。

「これが憲法で最初に習うこと」で終わるのではなく、

もう少し、

突っ込んだ問いかけをして欲しかった。

2016年2月16日未明 記



<追記-2>

山尾氏からの質疑は、

どういう形だったのか知りたくなって、

中継を見たら、

内心の自由との関連だった。

☆ 衆院インターネット中継サイトURL:http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=45498&media_type=fp

なぜ、この自由が経済的自由に優越するのか。

それは、これを許せば、

命さえ放棄させるほど個人の尊厳を害するからだ

という説明で充分ではなかったろうか。

たとえば、

昔の踏み絵を考えれば、

内心の自由の

大切さがわかる。

この自由を踏み躙られて抵抗できなければ、

背教者になってしまう。

宗教弾圧に際し殉教の選択が

頻繁に起こったのは、

そのためだ。

そんなことが文明国で歓迎されるはずがない。

山尾氏が「知る権利」を持ち出したのは、

普通、憲法の講義などにおいて、

経済的自由権に対して精神的自由権が持ちだされるのは、

報道の自由との関連でだろうから

だったろう。


2016年2月16日早朝 記



<追記-3>

日刊ゲンダイが

安倍某の答弁の混乱ぶりに触れていた

(拙稿「日刊ゲンダイ / 「破滅への暴走が始まっている」」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/432a269dcf131489f5a4a45badfd59bb)。

経済的自由権に対して精神的自由権がなぜ、

優越するのかの説明でなく、

逆に、

精神的自由権に対して経済的自由権が

優越する

説明をしようとしていたのかと、

納得した。

そういう勘違いも

安倍某の場合、

ありえるわけだ。



〔資料〕

「二重の基準論」

   芦部信喜著「憲法(第4版)」(岩波書店発刊)所収









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1 コメント

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Unknown (V)
2016-02-16 01:59:51
二重基準が間違っているわけではないが、二重基準のすべてが正しいわけでもなく、間違ったダブスタはごまんとあるんですが。ご都合主義の言い換えと言ってもいいでしょう。あなたの例示したダブスタの他の例は、あなたのご都合主義ですね。何故二重基準を設けねばならないか、その理由が合理的であるか否かであり、二重基準=合理的というわけではありません。世の中にはあなたのように、何でも自分の都合のいいように拡大・歪曲解釈するものがいます。それを我田引水とも言います。
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