忙しいほうがいい。でも本当は・・・

時間が止まってしまうと、いろんなことを
考えてしまいます。
だから忙しいほうがいい。

でも、本当は・・・

「十字軍」

2009-09-26 10:52:31 | のんきの聖書物語
さて。ミラノ勅令の続きです。

第一次世界大戦当時…といいましたが、少しだけ別の時代のお話をしてみたいと思
います。

天使と悪魔に登場する「アブラム」。後にアブラハムとなるのですが、彼の子、イサムと
イシュマエル。イサムの子たちがイスラエル十二支族の素となるのですが、記事中に
もある通り、もう一人の子、イシュマエルは「アラブ人の祖」となります。

後に彼の子孫がつくった宗教こそ、「イスラム教」。

ムハンマドはアラビア半島の商業都市マッカ(メッカ)で、クライシュ族のハーシム家に
生まれた。父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数ヶ月前に
死に、母アーミナもムハンマドが幼い頃に没したため、ムハンマドは祖 父アブ
ドゥルムッタリブと伯父アブー=ターリブの庇護によって成長した。

成長後は一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に参加。25歳
の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、15歳年長の寡婦であった彼女と結婚
した。ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけるが、男子は2人とも成人
せずに死んだ。

610年頃、悩みを抱いてマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマ
は、そこで大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、唯一神(アッラーフ)の
啓示(のちにクルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。


ムハンマド(マホメット)の開いた宗教が「イスラム教」。イスラム教はキリスト
教と同様、民族を限定せずに信仰することができる宗教であったようです。

ローマ帝国が東西に分かれた後、西ローマ帝国は滅びます。当然、西ローマに属し
た諸国は東ローマ帝国の皇帝を指導者として仰ぐわけですが、この中から、カロリ
ング朝フランク王国が、カールが教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで、
ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも
離脱します。

このフランク王国が、後に「神聖ローマ帝国」となります。これがキリスト教会の
東西分裂ってやつですね。東ローマ帝国は1453年、イスラム教国である
オスマン=トルコ帝国によって滅ぼされます。

当時のローマ帝国では、オスマントルコの全身であったセルジューク朝の時代、こ
のセルジューク朝の圧政に苦しんだ住民達の申し出を受け、ローマ教皇(このころ
からキリスト教の指導者は教皇でした)に支援を申し出ます。

このときにキリスト教徒に呼びかけて設立されたのが「十字軍」。「イェルサレ
ム」奪還の旗印の下、彼らはトルコへと何度も攻め込みます。

「参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言」されたため…彼らはイ
スラム教徒たちにたいして、かなりの悪さをはたらいたようです。…ユダヤ教時代
からの習性がやはりぬけてません。

十字軍は、キリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。十字軍に参加
した諸侯は、宗教的な動機と共に、戦勝時の利益への目算も当然あったであろうと
考えられている。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国
やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至って
は、同胞のキリスト教(正教)国家東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス
(現在のイスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを
露呈している(しかも、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に
破門宣告されている)。


結局同族間での争いを繰り返し、国力を弱めた東ローマ帝国は、後にオスマントル
コ帝国によって滅ぼされてしまいます。

…やっぱりデジャヴを見てるようでしょう

ちなみにイスラム教国下では、「占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁
止しており、エルサレムの平安は維持されて」いました。

しかし、「1098年にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回するが、まもなく十字
軍の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺」
しました。

イェルサレムは、ユダヤ教徒にとっても、イスラム教徒にとっても「聖地」であった
わけです。もちろん、キリスト教徒にとっても…。

さて。次こそは、予定したとおり、「第1次世界大戦前後」へとシフトしてみたいと
思います。


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