このブログを始めて1499日が過ぎたらしい。
始めたときの長女は小学5年生の1月だった。
次女は幼稚園の年少だったのか。
1500というキリのいい数字に過ぎた日の無量なるを実感させられる。
ときどき自分の過去の記事を読み返してみる。
そこには今の僕とはほんの少し違う僕がいる。
なるほど、ブログを始めた頃が一番迷っていたし、一番苦しんでいたようだ。
そんな自分を鼓舞するために僕は綴ることを始めたのだと思う。
自分の能力の無さに絶望したり、地図のない道に不安を感じたり
行間から滲み出るそんな思いを、僕は今でもありありと思い出すことができる。
しかし今から思えば、これまでの僕らはやはり「やり過ぎた」感は否めない。
医者にでもなって、僕ら夫婦の近くで暮らしてくれればいいなどと思っていたのに
いったん走り出した列車は容易には止められないが如く
いったん反応を始めたリアクターは制御が困難な如く
たぶん長女は自らの使命とやりがいを求めて広い世界へと旅立っていくのだろう。
そのことを嬉しいと思う自分もいるが、寂しいと思う自分もいる。
まあ、どうやら長女のそばに寄り添っていられるのもあと3年間ということだけは確実なようだ。
それほど巣立ちを寂しいことと思うなら次女には別の接し方を考えるべきだろう。
しかし僕は結局次女にも長女と同じ贈り物をし続けている。
次女も今はかつての長女と同様「お医者さん」という職業をモチベーションにしているが
やがて学力が向上し、社会常識を身につけていくと、より大きな夢を描くようになる。
そしてそのことはいつしか僕ら夫婦の願いを離れて、やがて次女も自分の道を歩き始めるのだろう。
最後には僕ら夫婦だけが残る。
家内はそれでいいと言っている。
僕も最近はそれでいいと思っている。
まあ、先々のことを寂しがって生きることは馬鹿げている。
1500日という節目に少し感傷に浸ってみたが
僕が人生をかけて決めた「1日1時間の贈り物」やめるはずなどない。
始めたときの長女は小学5年生の1月だった。
次女は幼稚園の年少だったのか。
1500というキリのいい数字に過ぎた日の無量なるを実感させられる。
ときどき自分の過去の記事を読み返してみる。
そこには今の僕とはほんの少し違う僕がいる。
なるほど、ブログを始めた頃が一番迷っていたし、一番苦しんでいたようだ。
そんな自分を鼓舞するために僕は綴ることを始めたのだと思う。
自分の能力の無さに絶望したり、地図のない道に不安を感じたり
行間から滲み出るそんな思いを、僕は今でもありありと思い出すことができる。
しかし今から思えば、これまでの僕らはやはり「やり過ぎた」感は否めない。
医者にでもなって、僕ら夫婦の近くで暮らしてくれればいいなどと思っていたのに
いったん走り出した列車は容易には止められないが如く
いったん反応を始めたリアクターは制御が困難な如く
たぶん長女は自らの使命とやりがいを求めて広い世界へと旅立っていくのだろう。
そのことを嬉しいと思う自分もいるが、寂しいと思う自分もいる。
まあ、どうやら長女のそばに寄り添っていられるのもあと3年間ということだけは確実なようだ。
それほど巣立ちを寂しいことと思うなら次女には別の接し方を考えるべきだろう。
しかし僕は結局次女にも長女と同じ贈り物をし続けている。
次女も今はかつての長女と同様「お医者さん」という職業をモチベーションにしているが
やがて学力が向上し、社会常識を身につけていくと、より大きな夢を描くようになる。
そしてそのことはいつしか僕ら夫婦の願いを離れて、やがて次女も自分の道を歩き始めるのだろう。
最後には僕ら夫婦だけが残る。
家内はそれでいいと言っている。
僕も最近はそれでいいと思っている。
まあ、先々のことを寂しがって生きることは馬鹿げている。
1500日という節目に少し感傷に浸ってみたが
僕が人生をかけて決めた「1日1時間の贈り物」やめるはずなどない。