めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

人間の本性の醜さ

2017-09-13 16:02:15 | 社会

私たち日本人は、生活が豊かで、食が満たされれば幸せなのでしょうか。
消費経済の下、次々に生み出される便利グッズに囲まれ、病気する事無く
欲しい物が手に入れば、本当に幸せなのでしょうか。
少なくとも、この条件であることを求めている日本人が非常に多いです。
しかも、社会も、この消費形態をより高める様に進化しています。

毎日おいしい物を食べ、便利な物、高価な物に囲まれている事で、幸せと
言うならば、人は、それ以上の物を求めず、不満を並べることは無いと
思われるのです。
不満があるからこそ、争いが生れ、憎しみが生れ、悲しい思いをするのです。

しかし、人間と言うのは、面倒な生き物であり、動物の場合、お腹一杯になれば
獲物を襲ったりしないのですが、満たされるだけでは満足できないのです。
より満足感を得る為に、不幸の真っただ中に居たり、苦しみや悲しみを抱いている
自分と真反対の人々を見る事に依って満足をする事も有るのです。
遥か遠いローマ時代い於いても、コロッセオに於いて、奴隷と野獣を戦わせたり
戦争でとらえた捕虜たちを残虐な方法で殺害したりした様に、勝者の常として
歴史的に長く行われて来た行為と言えます。

人は、自分の置かれた環境を理解するために、常に比較対象を持ちたがります。
どんなに豊かな生活をしていても、同じ生活を長く続けると、その満足度は
次第に低くなり、置かれた環境に対して、次第に否定的な感覚が生れます。
他人から見て、羨むほどの生活を送っていても、当の本人は、何の満足度も無く
幸せとも感じない場合も少なくないのです。

生れた時から命の糧である空気が常にある事で生きて行けるのですが、その価値を
日頃感じる事は有りません。
しかし、空気の無い、水の中に沈められれば、誰もが、空気の存在の重要さを
感じる事が出来るのです。
つまり、どんなに豊かな生活を行っていても、その豊かさを実感できないと、
直ぐに不幸せと感じる様になってしまうのです。

知識が足りなく、日頃から馬鹿げた行動や言動で笑わせる芸人がモテるのは、
自分より遥かに無能と思われる態度を示す事で、笑いと好感を生むのです。
なまじ、高学歴で、何でもこなせる人が、テレビの表舞台で活躍できないのも
多くの大衆が求める物ではないからです。
もちろん、博学を武器にするタレントも増えてはいますが、基本的に、テレビは
大衆文化であり、視聴者は神様の存在でなければ成り立たないのです。

所で、この比較で自分の存在価値を見出そうと言う人間の本性は、
人々の先頭に立つリーダー達に於いても成り立ち、強い権力を持ち経済的に
豊かな暮らしが出来るようになると、自分以外の人達を、支配下として
認識したくなるのです。
例え、民衆の間から選ばれたとしても、長く政権の座について居たりすると、
人々の望む事、すなわち、自分と同じような豊かな生活を望む気持ちを
理解できなくなるのです。
つまり、自らが常に頂点である為には、その下に存在する人たちは、出来るだけ
その地位を維持する事が大切と考えるのです。

人の上に立つ地位と成った時、それまでの大衆の考えから、独占的な我欲を
求める様に成るのは、単に、その差を維持する為であるのです。
どんなに高い地位にあろうと、その地位を自覚する為には、遥かに低い身分と
生活を行う庶民が必要なのです。
または、同じような立場に居る人を、庶民の座に陥れるのも、自分の権力や地位を
自覚する為の行為と言えます。

しかしながら、やはり、一番の、満足を得られるのは、最も下層と思える人を作り
その人たちを人として扱わなかったり、残虐な行為で殺害する事です。
ナチスドイツの残虐なユダヤ人迫害も、同じ人間の醜い部分の現れと言えます。
独裁者が、国民の不幸を改善しようと思わないのも、身勝手に暴走してしまうのも
自分自身の存在価値を確認したいがためでもあるのです。

戦争を行い、多くの国民が殺害され傷つけられようと、自分が生き残る事で、
より優れた人間としての自己の再確認を得ようとするに過ぎません。
戦争を決定する人たちは、より自分達の存在価値を高める為であり、その事で
どれだけ多くの民衆が犠牲になろうと、その悲しみと不幸は感じられないのです。
多くの虫けらの様に殺される兵隊や庶民は、自分の為に犠牲になるのであって、
その事に対する懺悔の気持ちも悲しみの気持ちも無いのです。

それ故、国民の意思や、世界の人々の不安をものともせず、独断で進めるのです。
膨大なる資産を持ち権力を持ち、更に、自分の価値を高めるには、自分と他人との
究極の差を作る事です。
最も不幸な人間を作る事で、最も幸せな自分が浮き上がるのです。
この、人間が幸せを感じる為の究極の方法が、残忍な殺戮であり、戦争なのです。

多くの人々が、不幸の極みと考える戦争を、最大の幸せと考える人がいるのです。
しかも、多くが、国民の幸せを創り上げる地位にあるリーダー達です。
彼らは、物で得られない喜びを、人の不幸を持って感じるのです。
世の中に、中々貧富の差が無くならないのは、本当に、誰もが幸せになる事を
喜ばない方々がリーダーと成っている場合が多いからです。

勝ち組である為には、負け組を作る事が重要なのです。
世の中の大半の方が不況で苦しんでいる時、数少ない豊かな生活を満喫している
いわゆる富裕層の方々は、自分達と同じような生活を、一般庶民には求めては
いないのです。出来るなら、多くの人は、自立できない、奴隷の様な、自分達の
地位や身分を守り続ける存在でいて欲しいのです。

自由平等と言う社会は、本来存在しえないと言えるのです。
どんなに平等な社会にしようとしても、その事で満足しないのが人間なのです。
誰かと比較して、常に上に立つことで自分の存在価値を高めようとするのです。
幸せで平等の社会を作ろうとして、庶民の代表を選出するのですが、その事で
選ばれた人達は、自分と庶民の差に満足を覚え、より、その差を感じる為の
我欲に満ちた生活をしようとするのです。
政治家と企業家の醜い関係も、人間の持っている、より豊かな生活を得る事で
自分の地位と存在価値の差を、一般庶民との間に感じたいのです。

しかしながら、多くの人々は、所得が上がったら幸せになり、
経済的に豊かな生活が出来たら、幸せになるの思い込んでいます。
世の中も、消費経済を推し進め、少しでも欲しい物を手に入れる事が
人生の目的の様な流れが有ります。
テレビコマーシャルも、盛んに、新製品を紹介し、より多く買い求める様
あらゆる手を尽くし、日本の消費経済を支えています。

そんな生産者の思惑に乗せられて、次々に新しい物に手を出して、
必要以上の品物に囲まれて生活しているのが日本人と言えるのです。
しかし、そんな直ぐに壊れたり流行遅れとなるものを眺めても
幸せになるものでは有りません。
例え、それが、庶民にとって手が届かない高価な物であっても
同じなのです。

物で自分を満足させる程、日本人は単純な民族ではないのです。

心と心の関わり合い、心と大自然の関わり合いで生きて来た民族です。
人の心を理解し、お互いに育て合う事に依り喜びを感じて来たのです。
その為に、便利な生活用品は必要で有っても、物が目的ではないのです。
特に、満足は、他人からの心からの称賛でなければならないのです。
例え、相手を蔑んだり、痛めつけたりして自分の存在を高めたとしても
それは、単なる自己満足であり、寂しく悲しい物なのです。

人の心は、全ての感情を抱ける程幅広いものですが、出来る事ならば

人との関わり合いを豊かに幸せに出来る様に努力すべきです。
自分の欲望だけを考えると、返って来るのは憎しみだけしか有りません。
ややもすると、私達は、自分の欲望に負けて、人の気持ちを傷つける事が
多いものです。
その為にも、多くの人達と関わり合い、自分と違う個性を知らなければ
成りません。
自分の心と違っている事を知り、自分との違いを大切にすることが
人間にとって大切な成長と成るのです。

争いを生んだり、戦争と成るのは、すべからく相手の心を否定する所から

始まっています。
子供から大人に成長して行くと言う事は、人として心を育てる事です。
その為に、様々な知識を得て、勉学に励むのです。
人間の我欲の部分だけを育てているのが現代社会の問題点と言えます。
様々な争いを回避するためにも、私たち人類は、お互いの違いを理解し
人間としてこの地球で生きて行く為には、どの様に進化して行く事が
大切で有るかを理解しなければならないのです。