めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

マタニティーマークって、何?

2016-05-31 13:29:46 | 日本

マタニティーマーク成るものを、初めて知りました。
外見的にいかにも妊産婦と解る人はともかく、一見して
普通の女性と変わらない方も居て、それらの人々の事を考慮して
かなり前から存在している様です。

しかしながら、その様なマークを付けて公共機関に乗る妊産婦が
激減していると言う記事を見ました。
妊婦は病人ではない事もあり、あえて、特別扱いする必要は無いと
言う方も多いかと思いますが、時に、体調不良であったりしたときに、
事情を知ってもらい席を変わってもらったりするために考え出されたと
思われます。

初期の頃はそのマークを利用する妊産婦は多かったようですが、近年は
殆ど見かけないと言います。
それは、そのマークを付けて席を優先的に利用する事に対する不満が
一部の人に有り、妊産婦に対する暴言や行為がメディアに載り、
妊産婦が恐れて着けなくなっているのが実情の様です。
ネット上には、罵声を浴びせられたり、中には暴力行為を受けたという
妊産婦の例があり、万が一でもその様な目に遇えば、どれ程の苦痛を受け
その後の生活に大きな影響を与えると考えられるのです。

しかし、妊産婦と言う極めて特殊な例に思われがちですが、この傾向は、
今の日本社会全体に存在している悪質な犯罪と同列にあるのです。
世の中が閉そくし、人々の心が次第に行き詰って来ると、その鬱憤を
自分以外の人々に向ける人が増えてくるのです。

どうにもならない自分の環境から来る不満を、身近な人や物に向けて
少しでも自分の心の息つまりを解消しようとしているのです。
しかも、たちが悪いのは、自分より弱いもの、自分に被害が及ばない者に
攻撃的態度を示します。
いわゆるストーカーやクレイマーも同じであり、心の中の不満を、
自分が言いなりにできる者に刃を向けるのです。

学校や会社におけるイジメも同じ体質の人達の行為であり、
自分自身の心の歪みから生じて居る為、陰湿で、人の心を平気で傷付けます。
ならば、このような人々をしっかりと取り締まれば良いと思われがちですが、
根本の問題は、その人達の心の問題であり、行った行為や言動を戒めても
本質的には変わるはずはないのです。

昔の諺に、金持ちケンカせず、と言う言葉が有ります。
お金を持っている人たちは、自分の欲をお金で解消できるため、
人と争う事が無いと言う事なのでしょうが、お金が有るからと言いのではなく、
心にゆとりが有るから喧嘩しないのです。

お金がある人が心にゆとりが有るとは言えませんが、お金が無かったり、
生活が苦しくなったり、更には、周囲の人達と上手くやっていけなくなると、
人々は、その原因を外に求めがちです。
しかし、自分以上に強い人には、その矛先を向けると、更に自分の立場の
苦しさが強調され、自然と、自分より弱い人に対して高圧的な態度や行動を
安易に示してしまうのです。

その様な、人々が嫌がるやからが増えると言う事は、すなわち、社会が
人々にとって正常に回っていないと言いう事です。
一方的な流れの元に、豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しくという
犯罪や争いが一番起こりやすい社会となって来たと言う事です。

この事は、私達の生活が、家庭に於いても学校に於いても、社会に於いても
人と人との繋がりや接触が少なくなり、御互いの意思の疎通を通した生活が
次第に無くなって来た事にも因ります。
自分の身の周りの人との幸せを感じる術も無く、一部の裕福な人、社会的
著名となった人たちの生活を基準とし、情報からしか得られない生活を基準とし
身近な人達や周囲の環境を感じる能力が疎くなっているのです。

自分の心の基準は、自分自身がメディアやネットから吸収した情報のみで作られ
その基準に合うよう日々を送るようになってしまうのです。
家族や学校、会社と、周囲の環境に合った自分を作り上げる事が出来ず、
単に自分の損得や感情のみの判断で、周囲の人達を威嚇したり恫喝したりします。
でも、一番不幸なのは、このような言動や行動をとればとる程、周囲から逸脱し
家庭からも周囲の人からも阻害されてしまう事です。
こうなると、心の闇は留まることを知らず、自分の考え行いが常に正義と成り、
様々な犯罪や凶行が生まれるのです。

太古の昔から、人は人の間で育ち、助け合って生きて行きました。
更に、御互いの考えや感覚を知る事に因り、より社会に適応した人間として
成長してきたのです。
現代に於いては、何もかもが便利に成り、情報は世界中から簡単に手に入り、
人と接触しないでも生きて行けるようになりました。

この事は、自分の思い通り、誰にも邪魔をされないで生きていけるのですが、
大きな問題は、人として人の気持ちを察したり考えたりする能力に欠ける事です。
私達人間は、御互いに関わり合って成長する特性を失ってしまうと、
ややもすると暴走してしまうのです。

近い将来、人間の行いのほとんどが人工頭脳によって管理され、
今人間の行っている仕事の大半が、機械で置き換えられると言います。
様々な知識も人工頭脳が管理し、人々は、自ら仕事を行なう事も少なくなると
世界の多くの科学者は伝えています。

となると、人の存在意味が無くなってしまう可能性が出てくるのです。
まるでSF映画の世界の様にも思えますが、すでに、様々な社会で広がっていて
人間を必要としない会社が存在しているのです。
人が人で有る為の意味が、実は、人と人同士の関わりにあるのです。

一番大切な、太古の昔から私達が存在できた証である、心のふれあいこそが
これからの社会で一番大切と言えるのです。
あらゆる物が人工頭脳によって管理されたとしても、そもそもの目的が
人類の幸せでなければなりません。
現に、私達が長年の歴史の中で築いてきた文化は、私達が幸せに暮らしていくために
作られて来たものです。

御互いが、気持ちよく生活できる様に、考え出されて来たものばかりなのです。
その便利なグッズが更に進化し、人工頭脳によって支配される様になったとき、
私達の絆が無くなってしまったら、それこそ、映画の世界の様に、私達人類は
人工頭脳の奴隷と成ってしまうかもしれないのです。

世の中が不況であろうが無かろうが、私達の心の絆がいつも強く結ばれ
御互いに気遣える事が出来て初めて幸せな人生が送れるのです。
今の日本の社会に一番足りないのは、豊富な財源でも、経済的に豊かな生活でも
何不自由ない便利な社会でも有りません。
日本人が、太古の昔から育て上げてきた、御互いの気持ちを察し、相手の気持ちになって
考えられる豊かな人間性を育てる環境が無くなりつつあるのです。

見てくれの美しい街、綺麗な公園、マスコミから流れる幸せそうな人々の生活、
沢山の人々が集まる賑やかな街の姿、これらは全て、自分の為にあるのではなく
その環境を利用して自分たちの利益を得る人達のための砂上の楼閣に過ぎません。
本当の幸せは、直に自らの感覚と自分が五感で感じる人や物との関わり合いから
生まれるのです。

しかし、この関わる術も力も失ってしまっているのが、現代の日本と言えるのです。
自分の生き方も考え方も、全て安易に豊富な情報から手に入れて、疑うことなく
提供者たちの意のままに動かされているに過ぎません。
一番の問題は、自分の意思が、情報によって決定される生活をしている人が
実に多い事です。

人々の行動は、情報によって簡単に管理され、この情報管理の世界が
今の日本でも有るのです。
自分の本当の気持ちは心の奥底に仕舞い、言葉や行動は、社会の意思に従うため
どんなに豊かな生活をしていても、満足は出来ません。
いかに経済的に豊かに成っても、上には上が有るのです。決して、心は満足せず
一生何かを探し求める事と成ります。

人は、どんな環境にあっても、自分の存在意味が感じられると生きて行けるものです。
生きると言うのは、自分が生きている様に感じるかもしれませんが、周囲の人々から
感じさせてもらって初めて感じるものです。。
一番辛いのは、誰からも無視されたりシカトされる事です。
これは、人間としての存在を否定される事と同じです。
反対に、自分の存在を多くの人に認められると、人は、夢を抱き、感謝を抱き
その喜びを周囲に知らせようとします。

人として幸せに生きると言う事は、自分の存在を認めてもらうと言う事です。
家庭に於いても、公共の場に於いても、御互いに相手存在をしっかりと認める事が
実は、自分自身の存在を高める事ともなるのです。
妊産婦に対する言動や行動が問題になっているのも、実は、どちらが悪いと言うのでなく、
御互いの気持ちが伝わらない事に因るトラブルなのです。

相手が妊産婦だから、マタニティーマークを付けているから席を代らなければ
ならないと言うのではなく、状況を把握して、どの様な態度で臨んだらいいのかを
判断できるの能力が必要なのです。
立場の違う人が、御互いの状態をしっかりと把握して、やり取りを行なった後
御互いが幸せな気持ちになることが大切なのです。

つまり、席を譲る方法も、千差万別あり、どの様な態度で席を譲るか、更には、
譲られた方もどの様に応じるかは、相手によって状況によって違うのです。
コンビニ店員のノルマの様な対応では、心は全く通じないのです。
暴力的行為を行なう事は、もちろん有ってははならないのですが、譲る側が非常に
嫌な思いをする事も有るようです。

私達日本人は、様々な状況に瞬時に対応できる様に、相手の心を察する勉強を
小さい頃からしてきたのですが、近年の教育は、単に、得点を挙げるため、
受験のためと、人をいかに育てるかと言う部分でなおざりに成っているのです。
その結果、立派な大人に見えて、礼儀をわきまえない、人の気持ちがわからない
困った人が増えているのも事実です。

人が一緒に生活をしていると、便利さのみを求め、御互いに相手を想う気持ちが
失われてしまう事が有ります。
本当の幸せは何なのか、人の心に触れる事せず便利さと豊かさのみを求めると、
例え、不況から立ち直り、経済力豊かな国になったとしても、心の中は寂しく、
いつまで経っても不満から抜け出る事が出来なくなってしまいます。



信用できない日本の医療

2016-05-30 17:26:07 | 高齢化社会

今年もまた、区から無料医療検査の冊子が送られてきました。
中高年ともなりますと、様々な医療検査を無料で受けられるとあって、
かつて人間ドックなるものを受診した事もありました。
しかし、あれから、20年以上になりますか、最近は送られてくるものの、
いつも行かず仕舞いです。

本当は、無料検診のみならず、毎年検査をする事が大切なのでしょうが

よっぽど事態が急変しない限り、進んで医療機関を利用する気には
なりません。

若い頃は、スポーツで怪我をしたり、自動車事故でお世話になったりと
今より遥かに頻繁に利用したものですが、近年は、進んで足を運ぶ事は
滅多に有りません。

もちろん、早期発見、早期治療は大切だあると思われますが、治療による

メリットよりもデメリットの方が感じられて、余程の事が無い限り、自分で
対処する方が安心に思えます。
と言いますのは、決して医療の力を軽んじているのでは有りませんが、
度重なる医療過誤、更には、薬物による副作用による健康被害を身近に
見ていると、少し慎重にならざるを得ないのです。

日本の医療は、世界でもトップクラスと思われますが、必要以上の治療や

薬物投与による弊害も否めません。
中でも、周囲の高齢者が、検査の度に多くの薬を投与され、更には新たなる
病気治療を開始した途端、日常の行動言動が、非常に違和感を感じられるのは
私の周囲だけではないからです。

検査の度に発見される新たなる病に、治療と言う名目で投与される様々な薬品が

決して安全とは言えない、むしろ、以前よりも体調不良を増やしているのを見る度
どう考えても,医は算術の様に思えてしまうからです。
私の仕事の仲間も、検査によって多少年齢からして高血圧であり、降圧剤を
服用するようになりました。しかし、しばらくすると、日常生活が、見るから
病的であり、あれ程元気であったにも関わらず、まるで病人の様に静かに成って
正確が変わった様になってしまいました。

本人も、薬が合わないと思ったのか、その後、別の治療薬を試すようになったのですが、

いまだ以前の活発さは戻らず、やや高血圧と言われていた時と別人の様です。
その様な事もあって、知り合いの、中高年の方々に尋ねると、半分以上が、
降圧剤のお世話になっていて、飲まないと様々な血管障害を生むと言われて、
恐ろしくて飲んでいるとの事。しかしながら、彼らの共通の雰囲気は、全く同じで、
誰しも、以前の様な活発なイメージが無く、静かな大人しいお年寄りと言った
まるで飼い猫の様に変わってしまいました。

医療関係の方からすれば、そんなことは無いと反論されるかもしれませんが、

薬で強引に血圧を下げる事に因って、どの人も、何故か、行動が緩慢に成り、
まるでボケが始まったのではと思える高齢者もいます。
また、その中の一人は、検査により、初期のパーキンソン病と診断され、
その時は、見た目には普通の人であったのに、しばらく治療を重ねると
見るからに奇異な行動をしたり、電車のホームで突然倒れたりと、治療以前では
全く考えられない行動をとりました。

何度も薬を変え、医者を変えるも、増々ひどくなるばかりで、最近では薬を飲むと

幻覚が現れ、本人も自分が何をしているのか解からなくなってしまいました。
この五年間程の治療が一体正しかったのか、今になっては解りませんが、
治療の度に家族も手に負えなくなる程豹変するとは、長年のお付き合いで知っている
真面目で仕事熱心な人とは思えない状態です。

医者にしてみれば、様々な薬を使い臨床例を増やして自分の仕事に

利用するのでしょうが、患者にしてみれば、まるで、モルモットの様で
堪ったものでは有りません。
日本の高齢者に処方される薬の8割は必要ないと言う医療関係者もいます。
医者と製薬会社の昔からの強い癒着は、今の日本に、多くの必要のない
病人を生んでいるとも言えるのです。

ただでさえ、高齢者医療費が問題と成っています。

高齢者に対する医療補助だけでなく、医療機関に対する国の費用も膨大なものです。
本当に健康な国民を作りたいのなら、病人を作る医療から、病人を無くす医療に
転換しない限り、安心な老後は保障されないのです。


大統領の演説の陰に軍事産業の存在

2016-05-28 14:35:18 | 平和

71年前、突然の閃光の下、一瞬に多くの人々の命が奪われ
その後、現代にいたるまで、沢山の人々の心と身体を傷つけ
苦しめて来た事実が、決して過去の物でなく、これからも、また
地球のどこかで起こる可能性に、世界の人々の不安は隠せません。

たった二発の原爆でありながら、これ程にも、世代を超えて、
多くの人々を苦しめている事実を、いかに広く世界中の人々に伝え
二度とこの惨事を起こさせない様にすることが、地球に生きる
私達人類の使命と言えます。

しかしながら、今、世界中に存在する核兵器は、地球を何十回も破壊し、
生物を根絶するほどの量と言われます。
核兵器の廃絶、軍縮を叫んでも、現に、多くの国々や地域が日夜戦い
その背後に核兵器を所有する大国の陰が見え隠れしているのが
現実でもあります。

いくら核廃絶を叫んでも、人間は、自らの欲を満たす為、その悪魔の
兵器を取り除く事は有りません。
危険な物を廃絶すると言うより、御互いに危害を加えられない様に
武器を持ってけん制をする事が平和への道と成っているのが
私達人類の不幸と言っても良いでしょう。

御互いの信頼関係の元に、助け合って人類は進歩してきました。
しかし、その反面、より利益を得る為に、他の者を排除すると言う
争いの歴史を重ねて来ました。
これまで、私達の過去に於いて、争いが無かった事は有ったでしょうか。
世界のどこかで必ず争いが有り、国の中で、同胞同士の悲しい争いも
無くなる事は有りません。

しかし、何故、人は争わないと生きていけないのでしょうか。
争う事で何かを得ると言うより、悲しい辛い歴史を刻むだけなのに。
世界の多くの人々は平和を求めているはずです。
この気持ちは、いつの時代も変わらないと思われます。
それなのに、争いは無くならず、常に新たなる争いが生まれています。

平和は、戦争の合間と言う人がいます。
それ程にも人々は争いの中で生きているのでしょうか。
かつては、自分たちの生活を守る為、より豊かな土地を得る為、
有史以来人々は戦いを繰り返してきました。

でも、この争いは、争いの後、勝者も敗者も平和を得られる争いでした。

多くの国々の形が書き換えられ、様々な国々が生まれ消えて行きました。
この事は、殆どの場合、領土確保と食料確保が目的でした。
しかし、現代の戦争は、単に、陣取り合戦ではなく、戦争そのものが
国の産業を育成し、戦う事に因り、より多くの外貨を稼ぐことが
目的と成っています。

軍事力を削減しようにも、強大な軍事産業の存在を否定する事は

国家の財源を削減する事ともなるのです。
戦いに使われる武器は、例え原爆であっても、市場製品と言えます。
殺りく兵器が売られ、国を支えているのです。

しかも、軍事兵器ほど商業価値のあるものは無いのです。

そのため、世界の政治家も、自国の軍事産業を否定する事は
自分自身の政治生命ににも関わる事なのです。
日本に於いても、明治以降の海外との戦いで、多くの収益を上げたのが
今の日本を支えている大企業で有る事は誰もが知るところです。

平和日本を叫ぶ私達の国を支えてきたのが、他ならぬ軍事産業で

資本を増した大企業でもあるのです。
世界の国々は、戦争の悲惨さ、人々の苦しみには目を向けるのですが、
それを支える、世界の巨大な軍事産業には目を向けません。
言え、向けないと言うより、向けない様にメディアが統制されているのです。

公平を期すべきマスコミであっても、彼らを支えるのは、軍事産業に加担し

巨大化した企業がとても多いのです。
私達の生活は、平和であることを願いながら、戦争を糧とする企業によって
営まれているという、世界的事実によって成り立っているのです。

表向きは、世界の正義を唱えつつも、あらゆる情報が、国を動かしている

多くの大企業によって操られ、更には、戦争と成れば、その戦争を糧とする
企業が懐を肥やしていくのです。
つまり、戦争放棄、核廃絶、軍縮を叫ぶ場を与えられていても、現実では、
戦争もまた商売とする人々の手の内で踊らされていると言っても良いのです。

現職では初めての大統領訪問に、世界中が注目し、日本人のみならず、

世界の人々が彼の動向に注目しました。
原爆投下の地へ足を踏み入れた初めての米国大統領としての意義は
非常に大きいものでは有りますが、平和の弁舌は素晴らしいものの、
彼の米国内での存在の陰には、巨大な軍事産業が控えていることを
どれだけの人が知っているでしょう。

彼は、ノーベル平和賞も受賞し、世界で最も平和な世界を語れる人として

知られるようになりました。
しかし、それはあくまで表向きの顔であり、彼の演説をみても解るように
軍事産業を無くすような事は決して盛られていないのです。

世界中の君主が、表向きの平和を唱えるも、その誰もが、自分を支える

死の商人の仲間たちが存在しているのです。
もし、自国の死の商人を否定する事は、自分の政治生命を否定する事と成り、
平和の顔を見せる事すらできなくなるのです。

そんな中、今回の米国大統領の広島訪問は、彼の出来る最大限の

リップサービスと言えます。
しかしながら、世界の多くの国の首脳陣が集まり、平和に関して話せる事、
そして、その姿を世界に示す事は、私達の未来に対して、希望を持つ事となり
少しでも長く平和な日々が続く糸口と成るのです。

もし、本当に世界平和が訪れるとしたら、世界から軍事兵器が無くなり、

核兵器が廃絶されることに他なりません。
この事は、つまり、世界から軍事産業が無くなると言う事です。
しかし、この膨大な収益が得られる軍事産業が無くなることは、
世界が平和に成るよりも難しいのです。

より殺傷力のある兵器をいかに持ち、周囲をけん制する事しか

平和への道が選べない人類は、やはり、地球にとって最悪の生物と
言えるのかもしれません。
地球に本当の平和が訪れる時、それは、人類が死滅し、軍事産業が
無くなる日なのかも知れません。


男女の違いを認める努力

2016-05-27 13:26:17 | 社会

世の中には、基本的に、男女の二つの性が存在します。
もちろん、外見的に見えるのと心は違っている方々も多いですが、
メンタル面から言えば、どちらかの性に分けられます。
人は、外見に囚われ易い為、心と身体の違いに苦しむ方が居るのです。

しかし、全体の傾向として二つに分ければ、男女の二つの特性が見られ、
昔から、一緒に子孫を繋いできたにも関わらず。今だ合い入れない
深くて広い心の溝が有る様に思えます。
この事は、生まれてすぐに性差として現れる事も多く、社会的にも
この二つの性を分けて判断されることが多いです。

男女の違いは、遠い昔から、様々な方々によって語られ、人々の中に
普通の常識として広まっているのですが、いまだに、男女共に
御互いが理解できず、諍いが起こったりする程頭を悩ませるものです。

ところが、この差が、若い頃には魅力と成り、御互いに引かれ合う様に
成って行くのですが、これとて、その後生涯幸せな日々が続くと思いきや
いつの間にか、この違いがお互いの気持ちを引き裂き、様々なトロブルや
不幸を生んでいるのです。

恋人同士であっても、その後結婚しようと、この、トラブルの種が無くなることは
有りません。
何しろ、有史以来、男女の溝が無くなった事は無いからです
御互いの性が変わらない様に、心の中の特性も、無くなる事無く存在していて
トラブルが無い時は、その矛先をお互いにさやに入れ、見えない様にしているだけで
蜜月期間は、御互いが隠していたり見ない様にしているに過ぎないのです。

しかし、何から何まで許せるバラ色の日々は差ほど長くないのが実情です。
同じ屋根の下で、一日中顔を突き合わせていれば、いつの間にかに相手の行動や
言葉に受け入れられないものが生じて来るものです。
特に、長くその存在を見ないでいると、そのギャップは大きく、蜜月から地獄の日々と
想像もしない事態に陥ることも有るのです。

私達は、恋人であろうと友人であろうと、その価値観を求めるとき、考えや行動が
一致している事を上げます。
息が合うと言う事は、一緒にいる事に対する喜びであり幸せで有るのです。
しかし、これとて、たまたま合ったのであり、ほとんどの場合が違っているのが
普通なのです。でも、御互いに合う事に価値を求め、日頃から合わせる努力を
行なっているのです。

恋人同士であっても夫婦であっても、御互いに相手の思いに合わせる事が重要で
間違っても自分の思いに強引に同調させようとすると、本能的に諍いが起こり
二人の溝が深まるのです。
つまり、男女と言う二つの性は、合い入れないのが当たり前であり、入れない事で
御互いの役目を果たしているのです。

しかし、御互いが共同生活をする様になると、本来の性の違いを主張するだけでは
生活が成り立って行かないのです。
では、根本的に違っているから仕方がない事として諦めなければならないという
のではなく、この違いをいつもしっかりと認識している事が大切なのです。
人類が生まれてこれまで、決して変わらぬ性の仕組みが、今更変えられる訳が
有りません。

近年多く起こる男女のトラブルは、この違いによるトラブルと言うものでは無く、
違いを無視し、御互いに当たり障りのない生活を送る事に因り起こっています。
社会全体に於いても、いかにトラブル回避するかと言う事に対して、多くの方が
周囲の人や環境に無関心と成ることで自己防衛をする傾向が有ります。

この事は、恋人や夫婦間に於いてもその傾向が見られ、御互いの気にいらない
行動や言動を問い詰めると言うより、無視をする事に因って、争いを回避し
現状を維持しようとしてしまうのです。
いわゆる、シカトという方法で自分を守るように成った事で、増々お互いの
意思の疎通が失われ、人として、相手を受け入れる事も理解する事も無く、
共同生活の根本が崩れて行く事態が多くなっているのです。

直接的に自分の考えを主張し、相手の言い分と争っている間は、まだしも、
全ての共同生活に於いて、存在を無視されると言う事は、人にとって
一番辛い事です。
人は、長い歴史の中で、御互いにその存在を主張し、争いながらも
新たなる道を歩んで来ました。
自分の考えも相手の考えとのバランスにおいて存在していたのです。

しかしながら、近年の人間生活における大きな問題は、家庭に於いても
学校に於いても、会社に於いても、はたまた、夫婦間、恋人間に於いても、
この相手の存在を無視するという、人としては相応しくない方法を
選択して、周囲と隔絶して行く人々が多くなっているのです。

子供達に於いては、イジメの本質であり、学校教育の中でシカトは
大きな問題と成っています。
しかし、直接的に危害を加える事が無いこの行為は、社会に於いても
一般の会社組織に於いても、非常に陰湿で根が深いものと成っています。

社会全体が、気にいらなければ、抹殺してしまえば良いと言う、
まるでゲームの世界の様に、人の気持ちを無視した行為が横行しています。
直接手を下せば犯罪に成る事も、無視するだけでは、それを止める理由も
見つかりにくいのです。

人との関わり合いが、本来はお互いに助け合い、より豊かな人生を送る為に
人の生きるいかなる場に於いても重要であったのに、その関わり合いを
持つ事が出来ないという事は、人としてお互いに成長できないと言う事です。
関わらなければ危害を受けない、自分を守れると言う、本当に我儘な考えが
一般社会にも広がっているのが問題です。

男女が、根本的に違っている事を認識し、御互いの違いを否定する事無く
長所として生かし、御互いの利益に繋げて行く事に因り素晴らしい人生が
歩めるように、社会に於いても、様々な人の気持ちを無視したり否定したりせず、
違いをいかに生かしていくかを考えて行く事が大切です。

同じ意見同じ考えを持つ者同士は、何事をするにもスムーズに行き、
トラブルも少ないかもしれません。
しかし、様々な観点から物事を考える事が出来ないと、本当の幸せや
成功をつかむ事は出来ません。
人と人が共同に生活をしたり仕事をしたりすると言う事は、自分とは違った
素晴らしい考えを知ることが出来ると言う事でもあるのです。
幸せは、自分だけの狭い考えを守る事ではなく、沢山の考え意見を
柔軟に取り入れ、御互いがお互いの違いを理解した上で、最善の方向に
協力し合って進む事です。

男女は、全く違っているからお互いに引かれ合ったのであり、その違いを
全面的に受け入れていたからこそ、二人の蜜月期間が有ったのです。
自分の利益のみを考え、相手の気持ちを受け入れなくなった時点で、
二人の幸せは遠のいて行くのです。

今の若い人達は、様々な情報の中に育ち、知識は人一倍多いのですが、
人の本心を見抜く力が今一の方が多い様です。
情報から自分の目的価値観を決め、仕事も恋愛も、その情報に合う様に
考えがちです。
そのため、人との関わり合いに、人を見ないで知識を当てはめようとします。
特に男女間に於いては、外見と経済力にばかり目が行き、肝心の人を見る
オリジナルの感覚が弱い様に見受けられます。

ネットの発達や情報の洪水から、様々な知識が有るにもかかわらず、
人と関わる事が下手なため、肝心な場面で、自分の本当の魅力を
出す事も、相手の本心を見抜く事も出来ず、苦しんでいる若者たちが
いかに多いか、人を好きになる喜びすら得られない方が増えています

様々な情報から、人々は、自分を着飾る術を覚えました。
街を歩けば、美しい女性、格好良い男性が、いくらでも歩いています。
どの様な姿で歩けば、異性から注目を浴びるか、誰もが知っています。
中には、はっとする程美しい姿で街を闊歩している女性も多いです。

しかし、その外見の進歩に反して、中身が伴わない方が多いです。
マスコミからネットから、外見的な情報を手に入れるだけの生活は
人の心を安っぽくしてしまいます。
若者は、自分たちが楽しいから良いじゃないかと言いますが、
彼らの本心は、本当に好きな人が現れたら、一体今の姿をどの様に
現実へ変えて行くか、恐ろしさに恋愛すら出来ない人もいます。

外見は素晴らしいのに、本当の自分に自信が無い人が多いです。
何故なら、自分自身は、マスコミから知らされる理想の人とは
程遠い事を知っているからです。
格好良さ美しさの仮面を取る勇気がない若者がとても多いです。

でも、そんなつま先立ちの人に、本当に好意を抱く人はいないのです。
誰もが、自分に自信が無いのは当たり前なのです。
自分も爪先立ちの苦しさを知っているのに、つま先立ちの人達に
心から好意は抱かないのです。

恋人同士になる事、更には結婚すると言う事は、御互いに両足で
しっかりと大地に立ち、御互いの立場を理解すると言う事です。
偽りの姿、心を保っての共同生活は直ぐに破たんするものです。
普段外で顔を合わせる場合は仮装行列でも楽しくていいのですが、
本当に幸せになるには、心も身体もスッピンに成って、先ず第一に
相手の幸せを考えられる事が大切です。


 

 


超潔癖、無関心社会が悪質犯罪を生む

2016-05-26 12:52:02 | 日本人

海外の旅行者が日本を訪れて最初に思う印象は
街が非常に綺麗であると言う事です。
更には、公共の場にゴミがほとんど落ちていない事や
人々が非常に親切であることです。
これは、日本人にとって喜ばしい評価であり、世界に胸を張れる
日本社会に誇りを持てる事でもあります。

もう少し、評価を進めましょう。

日本を訪れた海外の方が公共の機関を利用すると、そこには、
沢山の日本人が居るものの、殆ど話し声がしません。
地下鉄に乗っても、トンネル内を走る列車の轟音は聞こえてきても
人々の話し声が気になる事は有りません。

これは、例え、朝のラッシュアワーに遭遇しても、その苦しみで、

叫ぶ事も言い争う声も殆ど有りません。
この事は、初めて日本を訪れた海外の旅行者が感じる思いであり、
何故、日本人はこんなにも清潔で、静かなのだろうと思うのです。
人と争うことなく、街は綺麗で、誰もが、知的であり冷静で有ることが
彼らにとっては脅威としか感じられないのです。

しかし、この事をそのまま、日本人の素晴らしさと取っていいのでしょうか。

近年、住宅街であろうが、公共の場であろうが、何処を歩いても、
街が非常に綺麗で、ゴミが散乱している場面に出くわす事は有りません。
当然、この事は、多くの方の努力によって成されている事であり、
地域にの方々の長年の取り組みがその結果を生んでいるのです。

ところが、この美しい環境が必ずしも、私達にとって最良とは言えないのです。

周囲の環境であろうと、公共の場であろうと、日本がまるで誰かの命令のごとく
統率されているような街姿を見せるのは、実は、綺麗にすると言う意味よりも
相互監視と言う、常に、自分以外に欠点や難点を見つける社会になっていて
日本中が神経質になっているとも言えるのです。

あらゆる物に抗菌を施し、家の中も街も、全てから汚れを消し去ることが

人々の目的と成り、汚れが無くなることが幸せと思い込んでいる人が増えていて、
国民の多くが、綺麗か汚いかの二者択一の答えを求める傾向が有るのです。

もちろん、清潔で美しい街や環境は、私達の求める事では有るのですが、

そのどちらかに決める事は、あらゆるトラブルを招く心配が有るのです。
まるで、世の中が、ヒヨコの雄雌の種分けをする様に、一時の感情や思いで
判断され、より綺麗で無菌の状態が私達の生活の中心に成ってしまうと、
本来の目的が失われ、あらゆる人間活動が画一化され、途端に、人々は
身動きが取れなくなってしまうのです。

本来、街を綺麗にするのも、生活から汚れやゴミをか片付けるのは、

私達の日常が、便利で、御互いが気持ちよくスムーズに生活できる為でした。
より綺麗な街に成れば、誰もが、気持ちよく生活をする事が出来、
社会生活の円滑さが生まれたのでした。

しかし、この綺麗さ、潔癖さと言うのは、決して誰もが共通のものではなく、

人々の心が一人1人違う様に、その感じ方は違っているのです。
社会全体が、一定の潔癖レベルを設けると、そのレベルに常に報いる事が出来ない
多くの人々が出てきます。

でも、決してこれらの方々が不潔で汚れるのが好きとは言ってはいないのです。

人は、生きている間、日々生活している間、様々なゴミや汚物を出し、その行為を
全て消し去ることは出来ないのです。
そのため、様々な工夫が生まれ、生活を安全で便利にする文化が生まれたのです。

しかし、この文化は、あくまで、個人的な生活圏であったり、公共機関の中であったり

会社の中であったりと、様々な場合に柔軟性を持って変わって行くものです。
その場に相応しい潔癖性が必要であり、全てに同じ基準を適応する事は、
人間本来の生き方を否定するものでもあるのです。
とは言え、最近では、自分の潔癖性の為、街に出る事も、更には、公共の施設を
利用したりする事すら出来ない人も多くなっています。
酷くなると、他人の作った料理は全く食べられない人も珍しく無くなっています。

更に、もう一つの問題は、社会に対して、自分の周囲の環境に対して、

全く関心が無く、何が起こっても、全く表情も態度も変えない人々が非常に多くなって
世の中全体が、自分以外の事に関わらない生活を求める傾向が有るのです。
特にネット社会に成るにつれ、現実の世界より、ネットの世界に深い関心を寄せ、
現実の社会には関わらない人々が多くなっています。

極端に言えば、今や、全く外出する事無く、全ての事がネットを利用すれば出来てしまい

人に全く関わらないで何年も過ごす事も可能な社会と成っているのです。
これは、本当に便利な社会になって来たとも言えますが、人に関わらないと言う事は
全て、物事の判断を自分の知識と経験で決定してしまい、時に、周囲の人から
浮き上がってしまったり、周囲の人達の気持ちが解からなくなってしまう事が有るのです。

問題は、自分だけで生活しているのならいいのですが、自分だけの一方的な判断で

世の中を見てしまい、欲に任せて身勝手な犯罪に走る人が非常に増えている事です。

人と関わってトラブルを起こす場合は、相手からの情報や威嚇、言動に反応しての

犯罪と成ることが多く、いかにも何か起こしそうな雰囲気が感じられて、人々も
被害を受ける前にその場から逃げる事も出来るのですが、ネット社会のみで育ってくると
人に対する感情が見分け辛く、突然の凶行に悲しい結果を生んでしまう場合が有るのです。

私達日本人の、奥ゆかしい性格は、決して気が小さいとか優しいと言うのではなく、

人の心を察して、相手に迷惑が掛からない様、先ず、相手に喜んでもらおうとする
他者優先の性格なのです。
そのため、むやみに自分の欲を出したり、相手に求める事は恥ずかしい事と思い、
感情を心の中に抑えているに過ぎないのです。

しかし、最近の日本人に多い、事なかれ主義や、観て見ぬ振りは、自分のテリトリーを
侵されることに対する恐れであり、防衛反応であることの方が多いのです。
自分のテリトリーは美しく潔癖に保ち、他者を受け入れない、他者に関わらないという、
本来の日本人が持っていた他人を想う美しい心が失われてしまった人々が増えています。
そして、その結果、一度問題が起こっても、関心を持つことが無い事から、
様々な悲惨な事件が起こるのです
本来、このような事件が起こらない様にする警察ですら、この日本人の最近の傾向が
そのまま捜査の現実と成り、事件を未然に防ぐ事も出来ず、様々な失態を
起こしているのです。


これらの事は、日本人の心がだんだん失われてきたと言うだけでなく、社会全体の

日本人の物事に対する価値観が変化して来たと言えるのです。
社会全体が、不安定で不況化してくると、誰もが保身に走ります。
自分の事で精一杯なのに、人の事を考えられないと言う社会に成ってしまったのです。

しかし、経済が豊かに成れば、元の様な美しい日本人が増えるとは言えないのです。

日本人は、有史以来、様々な天変地異に悩まされながらも、子孫をこれまで繋いできました。
飢餓に苦しみ、多くの自然災害に毎年苦しめられながらも、豊かな日本人を育ててきたのは
他でもない、日本の大自然であったのです。

災害をもたらす事だけでなく、日本の自然は、人々に多くの幸せを与えてきたのです。

人々は、自然に感謝し、自然の中に神を信じ、更には、家の中の生活の品々にも
感謝しました。

そんな人々が、共に生きる相手や周囲の人々を想わない訳が無いのです。

現代人が失ったもの、それは、大自然に対する畏敬の念と人間同士の感謝の心です。

究極の潔癖、自分だけを考える無関心社会がどれ程人々を幸せにしたでしょうか。
自分の家を美しくする事も街を美しくする事も、一体何のために行っているのかを
もう一度しっかりと見つめ直さなければ、きれいな家や街に、人が住まわせてもらってるような
相互監視の息苦しい社会と成ってしまうのです。