めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

ハロウィンで熱狂する日本人

2017-10-31 14:15:33 | 日本人

今や、ハロウィンは、バレンタインデーを上回る国民的行事となって
この時期、日本人のお祭りの一つとして認識される様になって来ました。
そもそも、年末になると当たり前の様に日本中が浮かれるクリスマスも
元はと言えば欧米から伝わったものであり、ハロウィンが、日本に定着しない
理由は何もありません。

土曜日、日曜日は、奇抜な衣装とメイクで着飾った、お化け、ゾンビ?達にとって
絶好のお披露目の場であったはずなのですが、残念ながら台風の直撃で、その姿は
雨に濡れて、本物のお化けの様に成ってしまいました。
それでも、雨の中を歩く彼らの姿は、お化けなのに生き生きとしていて、恐ろしい
メイクと衣装を身に付けているものの、楽しさに溢れていました。

そもそも、日本には古来から幾多のお祭りが有り、いまだにその数は世界的に見ても
とても多くて、
根っからのお祭り大好き国民と言えます。
日本各地で催されるお祭りの数は数千を数え、日本人は、昔から、お祭りをする事で
自分達の喜び悲しみを表していた事が解ります。
感情豊かな日本人も、普段は慎ましくその気持ちを心に封印しているのですが、
お祭りとなると一気に溢れだす思いが様々な表現と成っているのです。

とは言え、現代の日本と言えば、この長きに渡って親しまれて来たお祭りが、
様々な理由で無くなって来ているのです。
特に、地方都市に於いては、人口の流出や経済的理由から、昔通りのお祭りを開催する
人も予算も限られて来て、街の萎縮と共にお祭りも減ってきているのです。

しかしながら、人は、ただ働いて食べて行くだけでは、心が次第に疲弊して行きます。
様々な遊びを行う事に依り、心も身体も前に進める様に成るのです。
現代社会は、ネットの発達も有って、様々なゲームが開発され、巨大なレジャー設備が
作られる事もあり、多くの人々は、その中で心と身体を癒そうとするのですが、
与えられた遊興設備では、やはり、本当に心から楽しむ事は難しいのです。

お祭りの最大の楽しさは、自分自身がそのお祭りそのものに成って、同じ思いの人と
心から楽しめる事です。
与えられる楽しさよりも、自らが楽しむ、しかも、目の前に同じ思いで楽しんでいる人が
何人もいる事に、喜びと共に連帯感も生まれるのです。

秋になると、昔から、日本各地で行われる豊作祭りは、生きる為の恵みを与えられた
歓びの思いを確かめ合う、地域の人々の心の癒しでも有ったのです。
苦労して育てた作物が収穫された喜びを祝う気持ちが、お互いの喜びの姿として
踊りに現れたと言えるのです。
農作物を収穫できた喜びをお互いにねぎらい確かめ合い、大自然からの恵みとして
感謝する、人々の心を一つにする大切な行事だったのです。

今の日本で、人々を喜ばせる物や施設は山とあります。
欲しいものは何でも手に入り、一日ではとても遊び尽くせない様な施設は幾らでも
有ります。しかし、殆どのお祭りは、ゲームの様に客観的に参加したり、施設の中で
遊ばせてもらったりと、どちらかと言うと、楽しさを提供されて満足するものです。
その為、楽しさのレベルは、殆どの場合、提供側の尺度によって決められ、自分の
心のままに楽しむことはできません。つまり、商業的利益が伴うのです。

日本で昔から行われて来たお祭りは、本来自然が対象であったり、神前祭り
で有ったりと、人々が、生きている事の喜びをお互いに感じ合うものでした。
誰でも同等に、感謝の気持ちと確かめ合う物であって、人と人が喜びを
表現するのが目的で有ったのです。
経済的に豊かと成って、何かを勝ち得ることが目的であり喜びであるとすると
その喜びは、人によって全く異なっていて、誰もがお互いに喜び合うものでは
無くなって来たのです。
しかも、目的によって、その喜びは常に変わって行き、さらなる喜びを得る為には
より豊かな経済力が要求されるため、極めて自己満足的な喜びと成ってしまうのです。

豊かな経済社会に在って、益々人は孤立化して行く事に、多くの人がストレスを感じ
何のために生きているのか、自分の存在意味、存在価値すらわからなくなってしまう
心が病んだ現代人が非常に増えているのです。
欲しい物が手に入れば入る程、自分の求めるものが、自分以外の物である事に
大きな不安と恐れを感じ始めるのです。

お祭りの本来の役割は、人と人との心の交流であり、普段会う事が少ない人同士が
同じ場所に集う事で、お互いの気持ちを確かめ合う事が出来るのです。
生活環境や仕事が違っていても、お祭りに参加する事で、同じ思いを抱く事に成り
歓びを共有できるのです。
もちろん、スポーツをしたり、コンパをしたり、イベントで集まる事も思いは同じであり
様々な行事を通じて、人は、お互いに思いを知り確かめあい、心が癒されるのです。

そんな中で、ハロウィンは、顔にお化けのペイントをし、ゾンビの様な衣装を着る事で
誰もが同じ価値観や思いを共有できるのです。
外見的には恐ろしい姿であっても、普段では考えられない姿に成る事に依って
現代社会の様々な軋轢を拭い去る事が出来るのです。
もちろん、日本で催される様々なエンターテインメントや遊興施設に於いても
レジャーとして楽しめるのですが、自分達が主人公に成り、しかも人間から恐れられる
ゾンビやお化けに成る事で、身分の差や経済的な差別等、現代社会で人々を苦しめる
人間関係から逃れられるのです。


とは言え、これ程にも発達した近代社会に於いて、経済的に豊かになれば心が癒され
幸せに成ると思いきや、様々な社会問題が生じ、心から癒されないのです。
社会的に望まれる生活をすれば、多くの人から称えられると思いきや、妬み、そしり
嫉妬、更には、攻撃を受ける事も有り、経済的に豊かに成って来ると、自分達を
良からぬ人から守るための術を考えなければならないのです。
自分や家族を守るためのセキュリティーを考えなければならない社会は、本当に
誰もが求める社会なのでしょうか。

人は、人から存在価値を認められ、生きる意味を知る事に依って、未来を夢見る事が
出来るのです。その価値とは、人としての心の豊かさ、そして他人の心を癒せる事です。
生まれた時、両親から絶対の存在価値を勝ち得ていたのに、成長し、豊かな生活を
送れる様になった時、誰からも自分自身の価値を認められず、自分の作り出した
社会的価値にしか人々が価値を見出さない時、一体、自分は、何のために存在し
何を持って生きている価値を見出して良いのかが解らなくなるのです。
周囲には、数えられない程の人々が集まっているのに、その誰とも心を許せず、
誰も信じられなくなったとき、自分がこの世にいる存在価値は無くなるのです。

多くの著名人、有名人が、ボランティア活動に興じたり、世界中の恵まれない人に
援助の手を差し伸べたりする傾向が有るのも、地位や名誉財産が有るからと言うより
本当に自分の存在を認め、自分を求めてくれる人が身の回りに居ない事もあるのです。
現代社会の大きな問題の1つは、この人間関係に悩む人が余りにも多い事です。
何でも手に入れられる豊かな社会に於いて、人々が求めるのは、地位や名誉、財産であり
自分を人間の価値として認めてくれる人がいないと苦しんでいる人が実に多いのです。

まだ経験の浅い若者だけでなく、人生の様々な経験を経た高齢者の自殺が増えていて
その多くが、満たされた環境の中での自殺である事が問題です。
死を選ばざるを得なかった人の周りには、その行為を止められる人がいなかったのです。
生きる意味価値をもう一度考えさせ、自殺を止まらせることが出来る人がいなかった、
一度苦しめば、最終手段を選んでしまう方が非常に多いのです。

最も弱い心の部分が、守られている事に依って、私達は生きて行けるのです。
つまり、自分が傷つきやすいように、他人もこの部分が有って、傷つきやすいのです。
如何に、この心の部分を守るかが、生きていく上での最大の課題と言えるのです。
何故、多くの人達が、豊かな生活をしていても、心の奥が満たされず、日々苦しみ
時に自らの命を絶ってしまうのか、この心は、人間が創り出した物や、地位、財産、では
守れ無いからです。

人の上に立つ生活をすれば、自分の心は満たされるとし、経済的に豊かな生活を行い

地位や名誉を勝ち得ても、この繊細でひ弱な部分を守ってもらい認めてもらわないと
人の心は安心をする事も癒されることも無いのです。
世界で一つの自分の本当の心を理解し、認めてくれる人がいる事が、生きている上で
一番大切なの事なのです。

自分自身の社会的な地位や名誉、財産等、全てを取り除いた自分自身を認めてくれる人が

いる事が、どんなに苦しい時でも、最後の手段を択ばないで生きて行ける方法なのです。
経済優先の社会は、この一番大切な部分を得られないのです。
認めてもらう為には、素の自分と成り、相手の心に触れなければなりません。
誰もが、一人の人間として向き合うのが、実はお祭りの原点でも有るのです。

人の社会的価値をすべて捨て去り、人が恐れる最も醜いゾンビやお化けの姿に成って

お互いの気持ちを確かめ合う事、これこそがハロウィンの最大の目的と言えます。
誰もが、自分自身の存在を認めて欲しいものです。
その為には、人間社会の姿を捨て去る事に依り、心の壁を取り除く事に成るのです。
大自然を敬い、神の前で自らを姿をさらす事で、生きている事の感謝を示す日本の祭りも
人々が、お互いに助け合い労わり合う事の重要性を確かめる儀式ともいえるのです。

 

 


日本人は幸せな民族?

2017-10-30 16:09:00 | 日本人

我々人間は、一人では生きて行けず、何だかの形で誰かと関わり
集団の中で其々の役割を持って存在価値を感じながら生活しています。
家庭においても、学校においても、社会で働いていても、周囲の他人と
如何に関わっているかで、幸不幸が決まって行くと言っても良いのです。

出来る事なら、周囲の他人とトラブルなく楽しく付き合っていきたいと
思うものですが、現代社会に於いては、小さい頃から競争社会の中での
生活を強いられる事から、一生、周囲の他人との軋轢が付いて回ります。
人々は、少しでも豊かな生活を得る為に、置かれた環境で競い合い、
楽しい人間関係というより、弱肉強食の関係と成っている事も多いです。

しかしながら、人の心は繊細であり、強いストレスにさらされ続ける事は
心と身体に大きな負担を与え、様々な健康被害を生じるものです。
家庭内に於いても、学校、会社と言った他人の中に居る時はなおさら
現代人は、必要以上のプレッシャーと日々戦う事に成っているのです。

近代化が進んだ社会は、世界中からあらゆる物が集まり、何でも手に入り
理想的な社会の様に思われますが、実際は、この便利な世界で生きる事に
苦しんでいる人が実に多いのです。
健康である為の情報が溢れている事で、健康になる為の様々な運動を行い
栄養が有ると言われるものを沢山摂取し、男も女も、理想と思われる姿を
求めて着飾り、他人から敬われる様に地位や財産名誉を求める生活に
疲れ果てている日本人が非常に多いのです。

日々テレビから流れて来る様々な情報は、社会の流れに付いて行く為の
チケットの様で、様々なコメンテイターの言葉に釘付けに成ります。
しばらくすると、本当に馬鹿げた間違った情報を有識者が公共の電波に
どれだけ多く流しているか、最新情報と言う言葉ですり替えるのは
有識者たちの常套手段と言えます。

世界的に見ても、豊かな暮らしと、高度な知識を有する日本人の多くが
一日中情報に振り回され、自分自身の価値観を見いだせないと言う事実は、
経済的豊かな暮らしが、けっして人間を幸せにするとは言えないのが解ります。
与えられた物が、本当に自分自身が求める物であり、自分幸せに繋がると
言えるかどうか吟味する以前に新たなる魅力的な品物に飛びつかせる日本社会は
国民を、単なる消費者として利用しているに過ぎないのが解ります。

豊かで便利であると言う事を、人間の幸せとする社会を築く事に依って、
多くの利益を得る人たちが出てくるのは解りますが、自分達の利益の為に
国民を利用する事に特化すると、人々の暮らしは、次第に疲弊して行き
消費生活が何時まで経っても自分達の心を満たさない事に気が付き、
挙句の果ては、社会生産性をも失ってしまうのです。
国民生活の二極化が、この疲弊した国民を多く生み、国自体の活性を
損ねて行く事を時のリーダー達は考えなければなりません。

先進国と言われる日本よりも、発展途上の国々の人々の方が、遥かに
エネルギッシュで生活力に溢れているのは、国民一人一人が、如何に
心が満たされているかに掛かっているのです。
生活レベルは低くとも、生きる事に対する情熱は、非常に高いのです。
彼らに共通する心情は、自分達の思いや夢が、努力すれば報われると言う
人間の向上心を刺激する風潮が国内に溢れている事です。

日本の現実は、生まれた環境で未来が決まり、生活と未来が守られている
いわゆる富裕層と、生活は常に苦しく、未来を感じられない消費者層に
分けられつつあるのです。
勝ち組負け組と言われる様に、様々な環境での差別化が進み、人々の争いは
自分自身の価値を高め、人間的に豊かと成ると言うより、如何に勝ち組に
成るかと言う事が人々の目的と成っているのが問題です。

未来の日本を創っていく子供たちの勉強は、個人的な人としての豊かさと
言うよりも、如何に高いレベルの生活が出来るかが目的と成っていて
人との関わり合いも、自分の望みを達成する為にあり、自分の夢を達成
する事にプラスとならなければ、何の興味も沸かないと言うのが現状です。

この事は、子供たちが問題と言うより、親や教師の感覚が、すでに、子供たちが
将来社会的に優位な立場に立つことを目的にしている事から、集団生活の意味が
競争を強いる事しかないのが問題なのです。
子供たちは、対人的に如何に問題が有っても、学校の成績さえ良ければ
何のおとがめが無い、どんなに人間的に心優しくても、成績が悪いと
子供の心を平気で踏みにじる親や教師が少なくない事も、日本社会で
一向に人々のストレスが無くならない原因ともいえるのです。

学校成績が良ければ、全て許されると言った風潮が、二極化の大きな原因
であるとも言われ、社会全体の利益を考えられない、一方的な利益しか
考えられない富裕層が増える事とも成っているのです。
もちろん、学業が優れ給料の高い仕事に就く事は悪い事では有りません。
しかし、自分の事しか考えられない人が、人の上に立つことが問題です。
この事は、会社関係だけでなく、政治の世界でも言える事なのです。

絶える事無く噴出する政治家の贈収賄、企業との癒着、国民との約束の反故
メディアに常に取り上げられる不祥事は、例え国民を代表する人達と言えど
実際は、人間として全く成長していない、肩書だけの人間と言えるのです。
如何に日本は、経済成長は成し遂げたとしても、日本人の人間としての成長は
恥ずかしい物であるかが解ります。

この事は、やはり、日本人の代表として働く政治家と企業のリーダー達の
人間的欠陥と言えるものです。
自分の周囲の人達だけとの関わり合いならいざ知らず、私達の生活を先導し
国民生活を豊かにする義務のある方々が、我欲だけしか考えられない様では
国の未来は覚束ないのです。

政治家は、益々言葉が巧みに成り、言い逃れの術を身に付け、自己主張は
様々なパフォーマンスで演出し、常に、国民を煙に巻いている様では、
選挙で選ばれた意味は有りません。
国民生活に大きな影響を与える財界は、自分達の利益を増す事に
人々を利用する事は有っても、本当に国民が幸せに成る為には成らず、
国民生活を、つま先立ちにさせているだけと言えます。

今の日本人の生活は、人と人との繋がりと言うより、物によって繋がり
外見的な価値によって評価をすると言う、誰もが、本心を他人から解ってもらえず
孤立化をしているのです。
例え家族であっても、心から信頼し合っていない、ただ同居しているだけ
と言う家族も珍しくありません。
物やお金が豊かな時はお互いに引き合っても、いざ無くなった途端、
何の関わり合いも感じない人間関係が多く見られるのです。

人々は、決してこんな殺伐とした社会を望んでいなかったはずなのです。
豊かな生活は、心が豊かになり、人と人との関わり合いに思いやりと優しさを
求めていたはずです。
しかし、今や、日本人は、周囲の人達に不安と恐れを感じる人達が多くなって
人を信用できないという人たちが増えているのです。

かつて、日本社会は、お互いの信頼の下で作られていました。

家族同士、近所同士、学校も会社も、まず、他人との関わり合いが在って、
お互いの利益を考える社会だったのです。
しかし、現代人は、この人との関わり合いを断った生活を強いられているのです。
その為、出来るだけ他人との接触を避け、他人との関わり合いは、利害関係だけ
という、正に、人々を苦しめる現代社会の構図の様な社会と成っているのです。

人に怯える日本人が非常に多く、他人の気持ちを察する力が育たない事から

相手を傷つけたり傷つけられたりする事が多くなっているのです。
傷つけられたくない事から、他人と接触できなくて、益々孤立化する人も多く
個人的に悩みを抱えている日本人が急増しているのです。

あらゆる物が近代化し、世界でも有数の先進国家と成ったのに、それらの殆どが

国民にとって癒されるものでは無く、自分達の財を減らすものであり、
決して、人々の心を癒すものでは無いのです。
手に入れる事も楽しむ事も全て、私財を投げ打たなければならない社会は、
他人の敷地の中で時間とお金を使っているだけで、自分自身の心を育て
人としての価値を高めるものでは無いのです。

知識を得る為にも、資格を得る為にも、その裏にはしっかりとした計算が有り

自分の思うがままに欲しい物が手に入るのでは無いのです。
つまり、沢山の知識を得るのも沢山の施設を利用して遊ぶのも、
満足する為には、膨大なる資金が必要と言えるのです。
心を満たすには、沢山のお金が必要と言う、消費経済社会のルールが在って
誰もがその恩恵に預かれるとは言えないのです。

子供達が如何に多くの知識を得る事が出来るか、より高度な知識を得る事が出来るかは

経済的な余裕が有るか無いかに掛かっているのです。
自由主義社会に於ける様々な権利は、同等に与えられるのではなく、
完全に差別されて、人々の夢は、経済力によって決まると言うのが現代社会です。
夢を叶えるには、経済的に豊かになるしか無く、その事に特化して生きる事が
人々の生き方と成っているのです。

これこそ、日本人の最大の不幸であり、生まれて死ぬまで、自分の生き方は

本人の思いに関係なく、生活レベルによって決定される社会が、多くの人々を
苦しめている最大の元凶と言えるのです。
一体日本人は、何のために経済成長をして来たのか、世界でも有数の近代国家に
のし上がったのか、国の経済力や近代的な街を取り除いたら、日本人の価値は
何処にあるのでしょう。

オリンピックで、何故、お・も・て・な・し、と言う言葉を世界中に示した
のでしょう。
巨大な施設や膨大なる資金源を持って、日本の凄さを見せつけなかったのでしょう。
今の日本が求めている、または、求めさせられているものを世界に見せれば、
オリンピック招致には一番相応しい物では無かったのでしょうか。

この言葉は、今や、日本人にとって一番失われているものであり、

一番求められているもの、と言えるのではないでしょうか。
他人に対して一番大切な心掛けを見失った日本人の、心の中の叫びと言えます。
この言葉は、オリンピックの招致の為にわざわざ世界に示すものでは無く、
ごく当たり前の、日本社会に昔から在った心の潤滑油だったはずなのです。

オリンピックで世界の人達を迎え入れる事で、もう一度我々日本人が

考えるべき言葉と言えるのです。
オリンピックが出来る程の経済力がありながら、国民の心は疲弊し、
人々はお互いに相手の心が解らず、怯えている現状を、如何に打破し、
本当に世界の人々が憧れる国民になる為の言葉であるのです。

これから日本は益々苦しい時代に突入して行きます。

一部の人達が幸せであるような国で在ってはならず、国民一人一人が
この国に生きてることを喜びと感じ、自分の生活に誇りを持ち、
幸せを感じられる事が大切です。
国民生活を豊かにすると言う事は、単に経済的に豊かにすれば良いと言うのでなく
一人一人の心に寄り添った政治や企業活動が成される事が大切と言えるのです。

 

 

 

 

 

 

 


ファッションは、自分自身を育てる為に

2017-10-28 14:48:31 | ファッション

ここ2週間ほど、週末になると、台風に伴った雨に見舞われます。
今の時期は、秋晴れの青空の下、美しい紅葉を愛でる事が出来るのに、
今年の秋は、本当に心が晴れません。
日本中が活気づくと思われた選挙も、従来の大勢と何だ変わらず、
新たなる期待を抱くと言うより、またこれから混沌とした不信感に満ちた
政局が続くと思うと、これまた心が晴れません。

しかしながら、お天気が悪いとは言え、年末に向けてのイベントの一つとして
最近若い人達に定着して来たハロウィンが、多少なりとも街中を明るくしています。
月末の本番まで、今日明日は、仕事が休みの方が多いとあって、様々な職場から
学校関係から、この日の為に様々な衣装で繰り出してきます。

近年、若者たちのファションに対する感覚は、より綺麗によりファッショナブルに
そしてメイクは、如何に理想の美しさに近づくかに注目しています。
それ故、街を歩くと、若者たちは、衣装とメイクに気を配り、よりハイセンスな
出で立ちで颯爽と歩いていて、日本人の若者たちが随分ファッショナブルに成ったと
感動してしまいます。

この傾向は、メディアの発展により、より美しさを求める為の手段としとして、
自らの体形を理想的にすべく、多くの若者が、まるでモデルの様に、自らの身体を
シェイプアップしています。
中には、お隣の韓国の様に、整形をする事すら抵抗を感じず、日本の若者達の中には
完全に元の姿から変身してしまう者も増えています。

連日テレビに映される理想的な男女の姿は、若者達にとって憧れであり、
プレッシャーとも言えます。画面から伝わる様々な情報は、自分達の目的は
誰もが憧れる様な美男美女であり、多くのタレントの姿や仕草が理想であり
求める姿であるかのように思わせます。
様々な商品を使えば、その理想に近づくかの様に、メディアの情報操作は
商業目的とは言え、人々に、必要以上の理想に近づく事を求めます。

しかしながら、同じような商品を使ったり、同じような衣装を纏ったとしても
テレビタレントや俳優たちの様には成れません。
というより、そもそも、人は誰一人同じではなく、其々の個性で生きているからです。
如何なる格好で、いかなる化粧をし、衣装を身に付けるかは、答えが有る訳でなく
一人一人の感性に委ねられるべき事なのです。

専門のメイクや衣装の方々が作り上げた姿は、画面を通して見ると、自分の求める
美しさの様に錯覚してしまい、まんまと、商業的なトラップに掛かってしまうのです。
確かに、年々洗練化されるファッションや化粧を見て真似れば、それなりに巷の
若者達も美しさを増すと言えるのですが、毎年変わる流行は、人々を美しくする
というより、より商業的利益を生むための商法であり、流行に乗せられて、本来の
自分自身の美しさに気が付かなかったり、大切な個性を見失ってしまったりすると
本人は満足していても、次第に、端から見ると、残念な人に成ってしまいます。

その様な、人々を常につま先立ちさせている理想への憧れからすると、
ハロウィンは、全く逆の立場から若者達に受け入れられていると言えます。
そのメイクは、よりおぞましく、怪奇であり、見る人を驚かせます。
普段なら美しい顔立ちと出で立ちに人たちが、全く逆の立場の衣装と化粧で
街中を練り歩きます。
美しさや可愛さを強調する為に行っている普段の努力と真逆であると言うより
それ以上の、美とは真逆の方向に自分自身の存在を印象付けています。

所が、彼らの気持ちは、美しさを追求する以上にエキサイティングであり、
開放的なのです。
まるで、本来の若者の姿を見る様に、外見とは裏腹に、素直な心の笑顔が見られます。
悍ましく醜いメイクが、本当の若者達の心を出させている様で、ファッショナブルに
街を歩いている時の、見られている評価への緊張は有りません。

しかしながら、この、其々の気持ちが自然に現れる社会と言うのが大切と言えます。
現代社会は、自分の本当の姿を見せられるのは、プライベート以外には難しく、
常に周囲の事を気遣い、必要以上に自分の評価を高める努力をしなければいけません。
経済社会に於いては、如何に多くの所得を得て、他人よりも少しでも豊かな生活をし
より高い地位を確保する事がステイタスとされ、世の中のカラクリも、子供たちの
日々の勉強も、この経済社会で豊かに暮らすために有るのです。

とは言っても、どんなに頑張っても、常に自分より上の人が居る事で、多くの人達は
常に戦い続け、より豊かな生活を求める努力を強いられます。
この社会に於いては、より経済的に豊かな生活をしている人が、多くの人々の理想となり
外見的な姿も、人々が求める姿を理想としています。

しかし、どんなに努力しても、誰もが、同じように理想的な生活が出来る訳でなく

殆どの人が、自分の生活に常に疲れていると言ってもいい状態なのです。
毎日つま先立ちの生活をしていれば、心も身体も疲れてしまいます。
人は、大地にしっかりと足の裏を付け、時にしゃがんだり、横に成ったりすることで
新たなる力が湧いて来るものです。

その自分を支える大地は、人其々であるだけでなく、一生を通じて自分を育てて行く

大切な命の源を生み出すものと言えます。
現代社会は、常に、周囲を見渡し、自分より高きに居ると思われる人に近づくことが
幸せの道であるかのように人々に求めます。

多くの人達は、自分自身を見つめなおす事も無く、常に、社会の求めるままに

背伸びをする生活を強いられているのです。
そんな生活に耐えられなくなると、突然崩れ落ち、立ち直る事が出来ない人たちが
増えてくるのです。

人は、普段の生活においても、夜は身体をベッドや布団に長らえ、朝目が覚めると

自分の身長の高さを基準にして、様々な環境で身体を自由に動かして生きています。
しかし、心の中が、同じようなリズムを失い、背伸びをし続けると、いつの間にかに
自分自身の姿が見えなくなってしまうのです。

周囲を気にし、周りの環境に心を奪われてしまうと、心の居所を見失ってしまうのです。

もし、世の中に自分を映す鏡が無かったら、人々は、もっと自分自身の事を知り、
外見的な姿を求めるより、同じように人の心を気遣う様に成ったでしょう。
人は、鏡や自分の映像を見なければ、自分自身がどの様な顔をしていようと気にしません。
つまり、他人と自分の外見を気にしないのです。

もし誰かが、自分の顔は世界で一番美しいと言えば、そう信じるしかないのです。

しかし、自分の求める他人の顔が、一番美しいとすると、周囲の人達の思いはどうでしょう、
当然あなた自身に対する評価は、批判的と成ってしまうのです。
人は、その人の顔を通じてその人の人格を理解するのです。

いい悪いと言うのでなく、自分達が見た顔が一番その人を表していると思うのです。

顔が良い悪いと言う事で、評価をしているのではなく、その人の個性として外見を
見ているに過ぎないのです。
つまり、顔を通して人格評価をしているのであって、顔で人格評価をしていないのです。

美しい顔であろが醜い顔であろうが、その顔を通して現れて来るその人の個性が、

自分達にとって喜ばしい物かそうで無いかが重要なのです。
美しいメイクをして、綺麗な服を着たからと言って、その人の人格評価が変わるとは
言えないのです。というより、むしろ、外見的な美しさから、醜い心が見えた時は
評価は最悪であると言えるのです。

美女と野獣と言われる様に、世の中には、外見的に理想的と思われないペアが多くいます。

もちろんこの逆の場合も有ります。
しかし、多くの方は、幸せは、誰もが求める姿である事で得られると思ってしまいます。
同じく、経済的豊かな生活は幸せな生活と思い込んでいる方も多く居ます。
所が、現実では、こんなはずではなかったと後悔している方も非常に多いのです。

人は、生きていく上で安心を求めます。

その為に経済的に豊かな生活を求めるのでしょうが、美しさ、経済的豊かさは、安心に
繋がらない事が多いのです。
特に、つま先立ちの生活は、自分自身も辛いのですが、そんな生活をしている人を
多くの人は好みません。
大地にしっかりと足を付けた人を求めます。

その大地に足を付けた人と言うのは、自分自身をしっかりと理解していて、自らのペースで

自分の感覚を大切にして生きている人なのです。
つまり、外見的に美しさを身に付けても、例え整形をして、美しくなったとしても
その美しさを他人との比較として理解している人は、やはり、いずれ嫌われるのです。

溢れる世の中の情報の中で、如何に自分にとって相応しい物かの判断が出来ず、

ただ闇雲に、背伸びをしていると、いずれ足元をすくわれてしまうのです。
自分自身の五感がしっかりと働く為には、いつも、自分の心に向かい合っていなくては
成りません。周囲の環境に対して、センスある行動がとれる方は、どんな世界に居ても
周囲の人達から憧れられるものです。

素晴らしいファションで身を飾り、美しいメイクを施し、理想的な身体に仕上げても

そのどれをも、自分自身が欲するものとして選択できている方は、より素晴らしい
評価を周囲から受けるのです。
何が自分にとって本当に相応しく必要な物なのか、背伸びをしないで、じっくりと感じる
豊かなセンスを育てる事が、自分自身の人としての価値を増し、周囲から見ても
素敵な人生を送っている人と評価されるのです。

 

 

 

 


 

 

 

 

 




 

 


アメリカは日本の保険、いや、日本はアメリカの保険?

2017-10-27 17:29:08 | 日本人

戦後、日本は、日米安全保障条約の下、有事の時、アメリカに守られるもの
と多くの日本人は思っていました。
戦争放棄を謳い軍事国家と成る事を放棄しただけでなく、アメリカ軍の駐留を認め
同盟国としての役割を担ってきたのですが、近年、日本に対するアメリカの要望は
日本がより軍事的な役割を世界で果たす事により、中国、ロシア、更には北朝鮮の
盾に成る事を全面的に押し出しています。

まずは、改憲運動を後押しし、日本が確実に軍事国家へ移行する事を計算に入れた

様々な圧力をかける様に迫って来ているのです。
自民党がより改憲に熱を入れる背景には、アメリカの思惑が働いていて、この事は
北朝鮮がアメリカ本土に到達するミサイルを開発した事に依り、一層現実味を
増してきているのです。

元々、危険な軍事国家に成る事を抑える為にも戦争放棄を求めたのですが、

近年の東アジアの情勢を見るに、日本が無防備で戦う力が無い事で、アメリカの
負担が大きくなる可能性が高くなってきたのです。
特に、直接アメリカ本土を攻撃できるICBМの開発は、アメリカ人の考えを
大きく変えることにもなって来たのです。
例え韓国や日本にアメリカ軍が対戦兵器を持ち込んだとしても、一発のICBМが
アメリカ本土に到達すれば、膨大なるアメリカ国民が犠牲になります。

これまで、キューバ危機の様にアメリカのお膝元でソ連の核ミサイルが持ち込まれるとする

問題は有りましたが、まだ、本土に照準が向けられる事は有りませんでした。
しかし、今や、北朝鮮のミサイルは、確実にアメリカ本土の都市を狙っているのです。
と成れば、狙われる前に、同盟国が同じように核装備をする事も辞さないとするのです。

アメリカよりずっと近い距離で、北朝鮮に核ミサイルを向けられる国が有れば、

アメリカの脅威が一段と弱められると考えるのです。
二度と戦争を起こさない様に戦争放棄を強要した時とは全く違う考えで、日本や韓国
と言った同盟国に核兵器保有を促すようにもなっているのです。

アメリカにとって、日本と韓国は、常にアメリカを守る立場でなければならないのです。

もし有事と成ったとしても、真っ先に北朝鮮や中国ロシアにミサイルを向けられるのなら
日本はアメリカを守る大切な軍事国家と成る事を求められるのです。
この事は、今の安倍政権の未来への展望として、国民を守ると言いながらも、その内訳は
戦争への準備ともいえる軍事国家への導入でもあるのです。
今や、衆議院選挙の大勝を胸に、更なる独裁政権の確立の為にも、アメリカの意向を
全面的に受け入れた、東アジア諸国への盾の役割を日本が担う事とするのです。

とは言え、果たして日本は軍事国家へと成り得るのでしょうか。

軍事専門家に言わせれば、既に、核ミサイルとする事が出来る核物質の保有量は
ミサイルにして1000発を超える程の量に達していると言われています。
日本の技術を持ってすれば、数年以内に、世界でも有数の核保有国に成る事が出来
第二次世界大戦の頃以上に軍事国家として驚異の存在と成る可能性も有るのです。

とは言え、日本国民の心情から、日本が軍事国家と成り、核爆弾保有国と成る事には

幾つもの壁が有り、潜在的に軍事国家として世界の脅威とは成り辛いのです。
国民の殆どは戦争経験がなく、平和主義の国として生きて来た事も有って、簡単には
その路線を変える事は出来ないのです。

しかし、戦争を否定していた国が、いつの間にかに軍事国家に移行した例は多く、

平和を主張していた国民が、一気に戦争を肯定する様に成る事は少なくないのです。
その要因の多くが、国民の生活や命に対する危機感です。
自国がどこかの国から侵略を受けそうに成ったり、危害を受けそうに成った時、
ナショナリズムが沸き上がり、国に対する忠誠と、自分達を守ろうとする思いが
軍事国家への移行を促す場合も有るのです。

今や、日本国民は、北朝鮮からの危険な挑発に身の危険を感じています。

アメリカの様に強大な軍事力が有るならまだしも、他国と戦う事を想定して作られて
来なかった日本は、もし有事と成って、戦争状態に撒き込まれたら、はたして、
誰が日本人の安全を保障してくれるのでしょうか。

当然、日米安全保障条約の下、アメリカ軍がすぐにでも応戦し、強大な軍事力で

圧倒すると思われますが、それでも、常に戦う事を前提に生きて来た北朝鮮の軍隊は
簡単には殲滅する事は出来ません。
戦争が終結するまでに、どれ程の犠牲を強いられるか、日本や韓国が見舞われるとする
ミサイル攻撃を主体とする犠牲者の数は、想像の域を超えると思われます。

例え大地震が起こったとしても、大都市に住む人々全てを葬り去るとは言えません。

しかし、例え一発でも、核ミサイルが大都市に落とされたとすれば、天災による犠牲者の
数十倍の規模になると言われています。
もちろん放射能による影響も、福島第二原発の事故より遥かに大きく広範囲に渡ると
考えられるのです。
この恐怖を国民が感じる様に成った時、果たして、戦争放棄、平和主義を貫けると
言えるのでしょうか。

当然、この心情を突いて来るのが、軍事国家への移行を望む人達と言えるのです。

この事は、かつて我が国が戦争に向かう時、あらゆる情報操作によって、戦争ありき
という思いを国民に抱かせたのは、時の政府と軍であり、その背後の大企業で
あったのです。

その流れはいつの世も同じであり、国民が軍事力を肯定し、戦争を在りとすることが
日本人を戦争に駆り立てた人々のやり方でもあったのです。
いつの世も、戦争は多くの国民にとって不幸であり、悲しみと怒りと憤りを生む
人類にとって最悪の行為と言えますが、一部の人達にとっては、最高の利益を生む
玉手箱の様なものです。

この事は、現代社会に於いても同じであり、まず、軍事力を高める事で、多くの

国内産業が活発となります。軍事関連商品は飛ぶように売れ、中でも、武器の生産は
あらゆる商品の中で最も多くの利益を生む事が出来るのです。
明治以降、国の中心となって繁栄した財閥や企業は、例外なく戦争で莫大なる利益を
得て来たものであり、例え国民が多く犠牲に成ろうも、戦争による莫大なる収益は
喉から手が出るほどの魅力なのです。

日本が軍事国家と成る事に依るメリットは、国内産業の発展であり、より一層の

収益を目論む大企業の野望でも有るのです。
バブル崩壊以降、どんなに策を練っても成果を出せない現政府は、国民の期待だけでなく
自分達に利益を得る為にも、禁断の軍事国家への移行のカードを出したいのです。
様々な管理規制によって国民をがんじがらめにして、法的にも認めさせることで
切っ掛けさえあれば、すぐにでも新たなる日本の道を強引に進めようとしているのです。

日本を守る為、日本の平和の為と言う表向きのパフォーマンスの陰では、着々と

新たなる国家づくりが進められていると言えるのです。
おりから、トランプ大統領の訪日も有り、これからの日本の役割を示す事に依って
より強固な支援を得られる事を期待しているのは、現政府と膨大なる利益を目論む
経済界の方々と言えるのです。

経済的に締め付けられ、日常の全てを監視され、身の危険を感じて来た国民に対し

たとえ渦中の栗を拾う事と成っても、危険な軍事国家への提案は、有無を言わさず
受け入れざるを得なくなる可能性も高いのです。
戦後日本は戦争放棄を行い、平和な国家に変わったと言え、本質は、戦前の社会と
全く変わっていないのです。

豊かな人達はより豊かになる為に国民を利用し、政治家はその橋渡しをするだけで

国民の為に政治を行っているという詭弁を繰り返しているのです。
私達国民は、政府の打ち出す様々な国民への考えは、彼らが、国会の中の審議を通じ
生み出されたものと考えがちですが、多くの場合、そのバックにある日本経済を
動かしている方々の意見が多分に働いているのは否定できないのです。

如何に国民から多くの利益を得るかしか考えていない方々は、時に、戦争をしても

自分達の利益を確保する事を考えるのです。
今や、益々国民の意見が国会で反映できない状況となって来ました。
与党の独裁的な政治は、裏を返せば、与党を操る日本国内で膨大なる利益を得ている
戦争をも厭わない方々の意見の反映とも言えるのです。

図らずとも、トランプ大統領は、商人として膨大なる利益を得る事で成り上がり

大統領の地位を確保したのです。彼の身体の中は、明らかに、利益を得る事でしか
歯車は回っていません。
日本に対する交渉に於いても、アメリカの利益に成る事しか興味が無いのです。
つまり、日本国民が犠牲に成っても、アメリカ国民が傷つかなければ良いのです。
条約上、日本を守ると言明しても、アメリカ国民が犠牲に成る可能性が有れば、
そんな約束は簡単に反故するのが彼の考えです。

そう、アメリカ国民が今や犠牲になる条件が生れているのです。

日本の役割、それは、アメリカの為に犠牲になる事です。
日本を守る事以前に、アメリカ国民を守る事が彼の役割なのです。
となると、当然、東アジアの脅威は、日本が身を挺して防ぐと言うのが彼の考えです。
この商人としての感覚を日本のリーダーが自分達の利益を考えて受け付けるのか、
その動向がこれから数年間、日本政治の中に見てとれるのです。

どんなにもっともらしい弁論を唱えたとしても、日本国民の安心と安全を損なう言葉が

使われる様になった時、日本は、確実に未来の壊滅的な戦争に巻き込まれる可能性が
高まると言えるのです。
一部の政治家の暴走を止めるべく存在する野党面々の余りにも情けない状態に
期待する事は不可能と言えます。
国民の一人として、誰もが、未来の日本を深く考え、しっかりとその行動を
見据えて行く事が、日本人の幸せを見失わない大切な行いと言えます。

 

 

 

 

 


 


問われれる力量と責任

2017-10-26 16:40:40 | 日本人

勝てば官軍負ければ賊軍、と言う状態が今回の選挙後の様と言えます。
この事を狙って現政権は総選挙を決定したと言えます。
これまで、いかなる不正不信が有ろうとも、勝てば、全てが帳消しとなり
新たに国民の支持が得られると考え、その通りの結果となって、さぞや
ほくそ笑んでいるかと思われますが、例え勝ったにせよ、これまでの不正不信が
無くなる訳では有りません。

長く続く独裁政権の間に、国民に対して義務を果たして来た事も有りますが、

多くの人達が疑問に思ったり、不信感を抱いたことに対して、何の説明も無く
核心部分を常にはぐらかして来た事は、いかに、これまでの政治が、私達
国民を中心に成されて来たものでなく、彼らの思うがままの私欲に満ちたもの
であったかが解ります。

この政治不信に対し声を上げたのが希望の党であり、その他の野党の面々で

有ったのです。
国民が感じる現政権に対する怒りや憤りを代弁してくれるのではと期待し、
様々な人が共に戦う為に手を上げたのです。
もちろん、国民の意思は彼らに託されるべきでは有ったのですが、結果は
残念ながら、戦う以前から結束が失われ、其々の思惑が全面に出る事で、
国民の声を代表すると言う使命を忘れてしまった事で、国民の思いから
浮き上がってしまいました。

現政権に国民の意思を伝える為には、国民からの絶大なる支持が無くしては

何の力も発揮できないのです。
立候補者の個人的な理想論を語られても、聴いている人たちの心には訴えず、
力強い後ろ盾を持つ現政権の圧力には屈してしまうのです。

しかしながら、毎度のことながら、選挙が終わると、負けたごまめ達と

勝った腰ぎんちゃく達がわめき散らすものです。
時の流れに乗っかり、自分達の地位を確保しようとした人たちは、負けると
途端に反旗を翻し、自分達の事を差し置いて、リーダーを罵ります。
自分達の能力の無さを差し置いて、選挙前に褒めたたえていたリーダーを罵り
責任問題を押し付けます。

また、勝った方の腰ぎんちゃく達は、自分の能力で勝利を得たかのように吠え立て

敗者を罵ります。
どちらも、立場が逆に成れば、同じような行動と言動を行う、政治家と言うより
ごまめの無能者たちとしか言いようが有りません。

勝者であろうと敗者であろうが、真っ先に考えなければならない事は、

国民に対する責任責務です。
選挙を行えば、膨大なる費用が掛かり、その間、政治は滞り、日本社会の流れは
停滞してしまうのです。
国民誰しもが、選挙を行う事で、日本社会が良くなると信じているからこそ、
この時とばかりに訴える歯の浮く様な演説にも耳を傾けるのです。

勝った現政党にしても、負けた野党達にしても、今後、どの様に国民に対して

責任を感じ、国を運営して行くかを考えなければならないのです。
勝ったから、自分達の思い通りの政治が出来るとか、負けたから、何も出来ない
というのではなく、選挙の前以上の働きを示してこそ、国民に対する落とし前
を付ける事が出来るのです。

これまで、長きに渡って同一政党が実権を握って来た事で、日本国民の多くが

この国で生きて行く事に幸せを感じていない事実を、選挙結果に関わらず
真摯に受け止め、これ以上、国民に不信感や怒りを抱かせぬ様に、一人一人が
身を挺して頑張らなければならないのです。

日本人は、非常に我慢強く、怒りを面に表さない民族です。

不平不満が有っても、選挙を通じて代表に思いを託す民主主義国家としての
優しい国民なのです。
世界の激しい気性の民族であったなら、今の政権は、果たして何年続いたか
これ程まで長く続いているのは奇跡としか言えないのです。

その優しさに甘えて来た事で、国民に多くの不信感や不満感を生んでいるのです。

口先だけの言い訳で騙せると思っていること自体が、政治に対する甘さを
示していて、まして、選挙で国民の疑惑や不信を払拭できると考える事自体、
国民の期待を担えない、世界で、経済力でしか地位を示せない政治家と
言えるのです。

政治家は、経済力で国民と向き合うのではなく、信頼で向き合わなければ

成りません。
国民が経済的に豊かになれば幸せに成ると考えている単純さは、他人の気持ちを
考えられない子供と言えるのです。
国民の立場に立った政治は、ただ、金を与えれれば良いと言う様な、旧態依然の
上から目線では無いのです。

何不自由なく育ったお坊ちゃん政治家は、満たされ続ける生活が当たり前であり、

常に生活苦にあえいでいる国民の気持ちは、しょせんわかる事は出来ないのです。
政治家としてのテクニック満載の弁舌は、聴いている人たちをその場で説き伏せるには
十分なのかもしれませんが、言っている言葉は、殆どが、頭の中で作られたものであり
国民の生の声を感じて生み出された言葉ではない事から、どんなに理路整然と語り
パフォーマンスで形作っても、国民の心には一向に伝わらないのです。

現政権が国民に認められたと思うのは錯覚であり、多くの国民は、他に託す人がいなくて

仕方なく任せているのであって、満面の笑みで勝利を喜ぶ場合ではないのです。
また、彼らの暴走を止める野党の覇気の無さは最悪であり、勝った負けたと言って
その場限りの事でとやかく言っているのは、与党以上に情けないものです。

今の様に内輪もめをしながら、責任問題で騒いでいる様では、この先永遠に

彼らの表舞台はやって来ないと言えます。
勝って兜の緒を締めよ、と言う様に与党の面々は、より一層国民に向き合い、
山積する問題を片付ける努力をしなければなりません。
彼らが如何に働くかで、日本の将来が決まって行くのですから。

しかしながら、野党の責任は更なる大きなものと言えます。

国民の思いを政治に反映できないだけでなく、自分達の未来を創造する為にも
あらゆる場面で、与党に優る働きを示さなければ、存在する意味もありません。
民主主義国家としての政治を維持する為には、如何に野党の力が大きいかと言う事です。
単なる頭数で存在していれば、一党独裁の偏った政治が行われ続けるのです。

一日も早い立て直しが必要であり、党内でいがみ合っている場合ではないのです。

誰かに責任を取らせようと言うのは、自分の不甲斐なさを隠そうとする行為でもあり
勝っても負けても、ごまめの一人にしか成れない無能な政治家と言えるのです。

今や、日本を取り囲む不穏な空気は、一発触発で日本の未来を変えてしまいます。

内輪もめをしていたり、派閥争いをしている場合ではないのです。
たった一発のミサイルで、政治家の思いは吹っ飛んでしまうのです。
もっと広い心と大きな視野で、世界レベルの考え方が出来る政治家でなければ
これからの時代は取り残されてしまうのです。
一体誰を幸せにしたいのか、政治家たちの力量と責任が問われているのです。