めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

尽きぬ悩み苦しみ

2016-02-29 16:28:15 | 人生

先日、東京マラソンが行われ、ランナーの数のみならず
応援に駆け付けた沿道の人々の多さには驚かされました。
殆ど毎回、多くの人々の走りを見に出かけるのですが、
いずれは出場してみたいと言う気持ちは有りますが、
抽選で当らないと出られないとあって、少し考えてしまいます。

それにしても、ランナーの姿は、ただ走っているだけではなく
一人1人に人生が有り、生活が有るのだと、改めて考えさせられ
数えきれないほどの人々の思いが交錯した大イベントと言えます。

普段、誰もが表の顔を持って生活していますが、誰にでも
様々な思いが有り、外見では計り知れないものです。
しかし、走っている人々は、走るにつれ、それぞれの思いが滲み
その表情な中に、人に言えない様な様々な人生が有ることを
感じさせます。

もちろん、見る側以上に走る人々の中には、一大決意を持って
望んでいる方もいて、単にマラソンと言うイベントを越えた
それぞれの人生に多大なる影響を与えているものと成っています。
過去のなしえなかった夢、現実の生活の苦しみ、新たなる道へと
様々な思いを乗せて走る人々に、見ている側も感動するのです。

とは言え、人は何故、苦しみから逃れられないのでしょうか。
自ら試練の中に飛び込んだりするだけでなく、どんなに夢が叶おうとも
必ずや新たなる苦しみがやって来ます。
その苦しみから逃れようとしても、次々に新たなる問題が生じ、
先が見えない人生に、自分を否定してしまう場合もあります。

平和は戦争の合間にある、戦いの前の状態であると言う様に
幸せは不幸の間にあるつかの間の安らぎに過ぎないのでしょうか。
しかし、私達は、何を持って幸せと感じるのでしょう。
スポーツや人生に於いて、人に勝った時を持って幸せと思うのか
欲しいものが全て手に入った時に幸せと思うのか
ならば、世界中の富が手に入り、全ての人をひれ伏させた時に
幸せと感じるのでしょうか。

でも、スポーツに勝つ時にしても、そんなにいつも訪れるものでは
有りません。
欲しいものを全て手に入れるより、入れられない時が多いのです。
増して、世界中の物を手に入れられない場合の方が絶対に多いのです。
つまり、殆どの場合、勝者よりも敗者と成る場合が普通なのです。

考えてみれば、自分の夢は、そう簡単に手に入るものではなく、
手に入らないのが普通なのです。
その当たり前の事に苦しむ事は、無駄とも言えるのす。
何故苦しむのか、それは、自分が勝者であることが幸せと言う
人生の価値観が有る限り苦しみは消えないのです。

大切な事、それは、自分は常に敗者であることを認める事です。
勝者と思うのは第三者が感じる事であって、自分が勝者になる事を
基準とすると、常に自分を否定する事と成り、何時まで経っても
幸せは訪れないのです。

私からすると、東京マラソンで走っているランナーは、全て勝者です。
しかし、彼らにしてみれば、自分の思いの中に、人生の苦しみが有り
言い知れぬ悩みが有り、そこから抜けだす為の切っ掛けとしての
マラソンであったりするのです。

人は、そもそも、何かにつけ比較をしたがるものです。
自分の成しえないもの、持ちえないものを持ってる人に対し
ジェラシーを感じたり、負い目を感じたりすることが多いです。

それは、明かに、自分否定であり、自分の目指している物が
手に入らない限り解決はしないのです。
ところが、実際は、努力の末、目的の物を手に入れたとしても
更なる欲望が生まれ、また、得られないものに対する苦しみが
沸いてくるものです。

誰もが抱く、欲望と言う名の夢は、価値観を自分以外に持つ限り
果てしなく広がり、果てしなく苦しむ事と成るのです。
つまり、どんな修行をしても、巨万の富を築いても、何時まで経っても
心安らぐ日は来ないのです。

東京マラソンは、走る人々の様々な思いが作り上げていると言っても
過言では有りません。
しかし、走る事に因り、自分の思いが達成されると言う訳ではなく
自分自身の心の中を再確認して、新たなる気持ちを持つ為に
苦しい道のりを噛みしめているのです。

自分の存在価値を知り、自分が出来る事を感じる時間なのです。
己を否定せず、何が出来るのかを知る道のりでもあります。
膨大なる人数のランナーの中で走る事に因り、自分が人の中にいて
存在を周囲に感じさせ、自らも、様々な人々の思いを体感すること
つまり、人として生きている事の価値と存在意味を感じる事が
出来るのです。

表向きで生きている普段の生活に於いては、様々な地位や身分で
人と言うより社会の圧力を受けて生きているのですが、走る時は
一人1人が、全ての社会的衣を脱ぎ去る事に因り、生の人間の
生き様を感じるのです。

多くの生きる苦しみは、自らが作り出したものであり、自分にとっては
命がけの事であっても、第三社から見れば、何のたわいのない事で
在る事の方が多いのです。
人は、どんなに不幸な事でも、自らに関わらなければ、単に新聞の
三面記事に過ぎません。

しかし、どんなに些細な事でも、自分に関わると、不幸の極致と
成ってしまう事も有るのです。
私達人間が面倒なのは、幸福も不幸も、自分の感覚で決めて
しまう事です。
そして、その、価値観は、自分の感覚と言うより、社会的な常識で
あったり、様々な社会情報が基準になっている事です。

心の苦しみ悲しみの多くが、自分と他を比較する事に因り生まれ、
その基準は非常に曖昧です。
つまり、いつも、自分自身が解からないのが人間であり、自分が
一体何者なのかを求めるのも人間です。

しかし、その答えを自分以外のものに求めると、自分の心は
いつも翻ろうされ、心の休まることは無いのです。

では、いつになったら、心が休まり、苦しみから解放されるのでしょう。
1つの方法は、自分が喜べる判断を周囲にしてもらう事です。
周囲の人々の、自分の価値を認めてもらう事です。
この為に、実は、多くのスポーツの戦いが有ります。

勝者になる事に因って称えられ、自分の中に社会における位置と
満足を得られるのです。
しかし、勝者は限られ、誰もがいつも得られるものでは有りません。
その為、心の満足を、社会的地位や他者との差別、更には、
力づくの制圧により、自分の地位を確認しようとするのです。

この事が、様々なトラブルや争い、更には国同士の戦争にまで
発展して行くのです。
しかし、このような方法で得られた勝利や利益は、多くの人々の
不幸を呼び、更には、憎しみからの新たなる争いを生むのです。

ならば、一体どうしたら良いのか。誰もが悩みます。
自分の存在、行いを認めてもらう事の共通の満足感は、
身の回りから、些細な事から得られる事を知っていると
遥かに人生は楽しくなります。

それは、自分が周囲の人たちに出来る事、つまり、喜んでもらう事です。
人は、自分を認めてくれたり助けてくれたり喜ばせてくれる人に
好意を持ち、同じように喜びを与えようとするものです。

この人間の性質は、太古の昔から人類を育てて来た基本理念であり、
人々が幸せに生きて行く大切な行いとして知られています。
多くの人々が、今の生活の苦しみから、少しでも、お金が手に入り
楽な生活がしたいと、求める事ばかりが優先しています。

しかし、求められて直ぐに手を差し伸べる人は居ません。
手を差し伸べたいから欲しいものを与えたり、助けてくれたり
するのです。
この事は、人間の本性であり、昔から変わっていません。

今の世の中、お金さえ在れば何でも手に入ると思いがちですが、
いくらお金が有っても、周囲の人々から認められ、尊敬され
大切にされないと、モノやお金にだけに囲まれている生活は
より一層不幸感を生むのです。

立って半畳寝て一畳、と言う言葉が有ります。
人の存在は、それだけの狭い状態であり、その他は、
多くの人々との関わり合いで生まれるという事です。

自分のテリトリーを広げるという事は、それだけ
他の人のテリトリーを提供してもらう事です。
略奪ではなく、進んで提供されるには、どうしたら良いか。
答えは、考える程の難しい事では有りません。


美人は三日で飽きる!?

2016-02-27 16:01:19 | 人生

美人は、三日で飽きると昔から言われる様に
私達は、どんなに素敵な物でも、しばらくすると
感動する事も、興味を持つことも薄れて行きます。
その為、何かに憧れて、ようやく手に入れたとしても
その瞬間から感動は薄れ、次第テンションは低く
新たなるものを求め始めます。

この事は、日常的にも様々な事に当てはまり、

私達の人生の満足感を左右するものです。
今の世の中、苦しい生活を強いられている方々は
非常に多く、少しでも所得を増やし、豊かな生活を
望んでいるものです。

短い間隔で禍福が訪れれば、その願望は差ほどでも無く

人々の欲望の気持ちは差ほど高まらず、あきらめも早いが
回復も早いものです、。
しかしながら、今日の日本の様に、バブル崩壊以来、
殆どの業種が低迷を続け、人々の心は、安定しない生活と
未来への不安に溢れています。

その為、お金が沢山手に入り、贅沢な生活が出来れば

どれ程幸せになれるものかと夢を抱きます。
と言うより、お金さえあれば、自分の人生はバラ色になると
信じて疑わなくなってしまいます。
それ故、世の中は、ますます、お金が中心の世の中になり
人々の心は次第に潤いを無くし、殺伐とした生活と成ります。

とは言うものの、そんな苦しい生活を重ねている人の中にも

思いがけない運命が待ち受けていて、一夜にして財を成したり
努力の結果としても、思う様な出世コースに乗る方もいます。
それまでの人生が苦悩に満ちていればいる程、その蜜の味は
筆舌に尽くせない程甘味であり、その瞬間、新たなる夢の日々は
一生続き、二度と苦しい思いは無くなると思ってしまいます。

ところが、残念ながら、美人が三日で飽きるというのと同じく、

どんなに豊かな生活をしていても、差ほど時を待たずして、
その満足度は下がって行くのです。
私達人間は、例えどんなに苦しい環境にあろうと、その置かれた
日常に慣れる様にできているのです。

その為、世界中のあらゆる環境で人間は生きている訳であり、

自分にとって、環境の良し悪しは、別の環境にいる時に感じるもので
いざ、自分がその中に入ると、その価値も苦しみも慣れてしまうのです。
すると、次には、その環境から逃れようと、新たなる、全く違った
環境を求め始めます。

急に莫大な財産が入っても、あっという間に散財し、以前の

苦しい生活に戻ってしまうと言う話は、いくらでも聞く事が出来ます。
なぜ、私達は、豊かな生活をしていても、その生活を壊してしまったり
新たなる苦しみを背負ってしまうのでしょう。

それは、私達人間が、地球のあらゆる環境に適するように出来ていて

その環境を客観的に見られない様になるからです。
自分がその環境にない時は、しっかりと分析が出来、その価値が
見いだせるのですが、いざ、自分がその中に入った途端、
何も解からなくなってしまうのです。

会社の中に於いて、社員の内は、社内の不平不満、改善余地が

非常に良く解かり、首脳陣の経営能力の無能さが解るのですが、
いざ、自分が執行部になったとたん、その能力が無くなってしまうと言う
いわゆる、ピーターの法則が当てはまるのです。

しかし、その様なジェットコースターの様な人生を繰り返していては

一向に進歩は無く、いかに、より人間的にも社会的にも上を目指す事を
考えなければなりません。
もし、自分の置かれている地位や環境が解からないのなら、それを
教えてくれる人たちを周囲に置く事です。
友でも家族でも社員でも、誰でもその役目は出来るものであり、
自分の置かれている状況を常に確認できる事が非常に大切です。

でも、自分を助けてくれる人を周囲に置く事はとても大変な事です。

何故なら、その人達も、別の環境で四苦八苦しているのですから。
ならば、どうしたら良いか。
一番簡単でいい方法法とは、周囲の人々が喜ぶ事、求めている事を
常に考える事です。

人間の器と言うのは決まっていて、欲望のままに求めるものを

入れ過ぎると、すぐに満杯になってしまって、身動きが取れなくなります。
常にスペースを開けることが、新たなる夢を捕まえる条件と成ります。
このスペースの開け方は、持っている物や気持ちを誰かの為に
与えてあげる事です。
すると、その空いた所に、新しい知識や財産を与えられた人たちが
自然に満たしてくれるのです。
実は、美人が飽きる事無く、いつまでも幸せを感じられる方法なのです。

生活が満たされず、満たすためにお金を手に入れ、多くの欲を満たした時

満腹に成ってしまうと、今度は、本能的に財産を捨てる様になるのです。
これは、誰にでも当てはまる事であり、どうせ捨てるならば、次の夢や
喜びを取り入れる為に、周りの人々に与えればいいのです。
人は、どんな些細な事でも、自分の欲している事悩んでいる事を
与えてくれたり解決してくれる人に好意を抱きます。

そして、より一層その喜びを手に入れたくなり、今度は、自分の取って置きを

与えてくれるのです。
私達の人生を豊かで進歩的にする為には、人間の持つ本来の習慣や性質を
上手く利用し、人を生かす事で生かされる生活をする事なのです。

この事は、社会が好景気不景気は全く関係なく、この人生のカラクリを

十分に理解している人たちは、社会情勢に振り回されず、心も身体も
健康で豊かな人生を送る事が出来るのです。

しょせん人間一人の力はちっぽけで、一人では何も出来ないのです。

世の中には、数えきれない程の自分を助けてくれる、幸福にしてくれる人で
一杯であることを知りましょう。
美人は三日で飽きると言いますが、そんなことは有りません。
三日で飽きたとしても、次から次に美人がやって来るのです。
貴方が与える事を忘れなければ。


お、も、て、な、し、は、本心から?

2016-02-25 16:41:20 | オリンピック

日本は、毎年幾つもの大型台風に襲われたり、集中豪雨が
多くの街に被害を及ぼしたり、更には、近年、どこかで起こる
大地震で多くの被害と共に沢山の人命が奪われています。
この事は、私達が住む日本列島の宿命とはいえ、対策を
講じているにも拘らず、むしろ増え続けているのが心配です。

東日本大震災の記憶から、日本人の心の底に、いつの日か
自分もその惨禍に巻き込まれるのでは、という不安が有ります。
更に、バブル崩壊後、数十年になるも、一向に景気は悪く
一部の大手大企業を除いて、特に、中小企業の低迷は
今後の日本に暗い影を落としています。

ところで、私達は、幾つもの災害に見舞われながらも、
何千年に渡って、この地に生きながらえてきました。
沢山の人命と財産を失いつつも、挫ける事無く、現代まで
生きながらえて来た訳は何だったのでしょう。

決して溢れる程の食料に恵まれ続けた訳でもなく、
豊富な資源が得られたからでもなく、災害の中で
頑張って来られたのは、日本人の思いの中にその答えが
在ったのではないでしょうか。

多く得られない食料を分けあい、数々の災害から生き残る為
御互いの物と知恵を出し合って生きて来た歴史が有ります。
食べる為生きて行く為に、人と人が協力し合い、助けあう事で
数々の天災を乗り越えてきたのです。

この事が、日本人が、非常に忍耐強く、無駄をしないで、
御互いの事を思いやる、察しの文化を生んだと言えます。
しかしながら、近年、資本主義社会の自由競争が激化するにつれ
日本人が長年培ってきた気質が随分変わって来た様に思われます。

競争する事に因り、他人を思いやるより、自分の利益を考える
独占的思考が人々の心に育って来ているのです。
この事は、日本社会が、独占的企業によって動かされつつある事にも
その傾向が見られます。

日本中の中小企業が、大手企業の傘下に落ち、そこから得られる利益は
優先的に上部企業に渡って行きます。
地方産業、中小企業は増々疲弊し、今や、何年もシャッター街が放置される
小規模商店街が多く見られます。

若者たちは、より多くの所得が得られる大手企業に集まり、3k4kの企業が
多く集まる中小企業は増々人員不足と成っています。
しかしながら、マスコミやネットの影響で、若者たちの価値観が統一され
志向が単一化される事に因り、更に、第一次産業や中小企業を敬遠する
傾向が生まれています。

この流れは、日本社会を動かすリーダーたちの政治方針とも当てはまります。
日本社会を動かす大手企業に対する優遇措置、中小企業に対する冷遇、
災害が起これば、その地の復興と言う名の企業融資、表向きのソフト面は
人道的な処置をマスコミを通じアピールし、災害地に対する支援の中身は
ハードを優先し、その地に住む人々の本当の気持ちを理解せず、あくまで
執行部の方針に基づいた街づくりが行なわれます。

自分たちの計画に基づいた復興計画を成し遂げたと言う既成概念を
到達点として、あくまで自分たちの偉業として胸を張る事実に、いつも
被災地の人々は、不信感を募るばかりなのです。

来たるべき東京オリンピックには、おもてなし、と言う言葉を持って
世界の人々を受け入れようと、関係各庁、一体と成って準備を着々と
進めている様ですが、私達日本人は、本当に、おもてなし、が心から
出来るのでしょうか。
一部の、関係者のみの、オリンピックを成功させるための、単なる
プレゼンの一つに過ぎないのではないのでしょうか。

日本中の人々の心は、本当に、この、おもてなしの、心を持てるだけの
豊かな気持ちと余裕のある生活が有るのでしょうか。
外見だけを取り繕って、実際の国内を見ていない心配はないのでしょうか。
オリンピック招致に諸手を挙げているのは、ほんの一部の、政府関係者
並びに、莫大な利益を目論んでいる企業の方々だけではないかと
思ってしまう今の日本の現状は、下手をすると、ギリシャの様な状態を
招かないともいえないのです。

私達の祖先が、数千年に渡って築き上げてきた、日本人特有の
思いやり豊かな人間性が、ほんの100年程の間に入って来た
資本主義の考えに置き換わるとは考えられません。
今でも、その素晴らしい心は、私達の中に脈々と息づいていると
思われるのです。
しかし、人間は、弱いもの。目の前にご馳走が並ぶと、思わず手を出して
必要以上に食べてしまうのです。
文明開化により、雪崩の如く流入してきた西洋文明は、正に砂糖に蟻の
状態で、日本人の私欲のみを育てる事になったのです。

その結果は、何度も繰り返した諸外国との戦い、そして、日本の豊かな
自然の富を取り尽くし、さらには、自然を破壊してきました。
世界に名だたる先進国にもなり、GNPもトップクラスとなりました。
しかし、私達は何を得たのでしょう。
外見的に豊かな生活は得られても、多くの自然を失い、戦いに於いては
沢山の人々の命を失い、更には、人々の間の信頼関係、思いやりも
薄れてしまいました。

もはや、我が国は、おもてなしの心を世界に示すほどの国ではないのです。
その気持ちは心のどこかにあっても、100年に渡って忘れてきているのです。
諸外国の人々からすれば、日本人は皆、おもてなしの心を持っている
素晴らしい民族と思うかも知れませんが、もし、その心が発揮されるなら
日本人以外に対してのみと言っても過言では有りません。

今や、日本は、御互いに思いやる心やおもてなしの心を持つ環境ではなく
御互いに気遣う事すらできない社会と成りつつあるのです。
しかし、日本人は、そんな殺伐とした時代ばかりを生きて来たのでは
無いのです。
心の中では、今の時代がおかしい事を皆解っているのです。
でも、その心を分かち合う環境を失っているのです。

新しい街づくり国造りは、人々の心の中の、お、も、て、な、し、の

心が有ってこそ成り立つものです。
オリンピックは、日本経済が復興して、新たなる豊かな日本が生まれる
きっかけと成れば良いと思われがちですが、単に経済的に豊かになっても
人々の心に安らぎが生まれない限り、いずれ、足をすくわれることは
明かとも言えるのです。


巨大な刑務所の壁

2016-02-24 13:53:44 | 災害

今朝、新聞を見ると、第一面に何か暗い壁の様な写真が
載っています。
良く見ると、東北の沿岸に建設されている堤防の一部です。
長さも高さも、まるで万里の長城のように、次第にその姿を
現わして来ました。

それにしても不気味です。色合といい、その冷たさといい
見事に東北の自然にも街にも違和感を与える存在感です。
こんな巨大な壁が、海と人々を隔て、巨大津波から守ると言います。

確かに、巨大津波が来たときには、多くの人命と財産が守られる
かもしれません、
しかし、その時まで、この地は、巨大な刑務所の中に入れられ、
高い塀に囲まれて生活をするのです。

作った人からすると、堤防を越えれば依然と変わらない海が有り、
以前よりも便利で快適な街が出来上がったと自負するのでしょうが、
住む人にとっての気持ちはどうなのでしょうか。
幾つもの新しい施設や住居が立ち並び、道路も広く真っ直ぐに伸び
多くの発展した地方都市の様に見えます

しかし、この町は、確実に、この地に住んでいない、
よそ者の考えで作られたものです。

東北の人々の心を踏みにじり、ここに住む人々の故郷を消し去った
余りにも無慈悲な人の心が感じられない建築物です。

東北の人々は、豊かな海や山のと共に、心も身体も育ってきました。
海も山も、自分たちの身体であり心であったのです。
自然だけでなく、人々はこの地に住む事にとって、人間としての
豊かな人間性、自然に対する思いやりを持って生きてきたのです。

建築をした人達や、この地を復興したと思っている人たちにとって
仕事をやり遂げたと言う喜びはあるかもしれませんが、実際に
これからこの新たなる故郷の地に住む人たちにとっては、この
自然も人々も無視した短絡的な建造物に、少なからず、落胆し
故郷の変わりように傷付いていると思われます。

多くの人々からの支援を受け、新しい安全な街を作ってもらった事に
感謝はしているかもしれませんが、心の中は、こんなはずでは無かったと
悔やんでいる方も多いのではと思われます。

助けてもらった側から言う事ではないと、心の奥底に留めていても
この先、この地で生き、子供達を育てて、新たなる歴史を作って行くのは
現に、住む人々であり、その環境に馴染み誇りに持てるかと言えば
恐らく、ノー!であることは明らかです。

地獄の様な大災害から助けてもらって、生きる為にどれ程多くの人々から
沢山の援助を得て来たかは、痛いほど解っているとは思いますが、
本当に、そこに住む人たちの事を考えて作られたとは考えられず
心の底から喜べないのが被災者たちの心情ではないでしょうか。

復興と言う名のもとに、人々の故郷の自然も、そこに住む人々の
心も無視したとしか考えられないこの巨大堤防は、今や全国にある
何の役にも立たない公共施設と同じく、いずれ無用の長物になり
人々の足かせとなる事は明らかです。

いつか来るかもしれないから、この巨大な堤防が必要だと言う人は、
その時まで生活して行く人々の気持ちや、そこに生きて行く人々の
心の事を全く考えていない人々と言っても過言では有りません。

かつて、私の故郷は、伊勢湾台風で大きな被害を受けました。
沢山の人が亡くなり、美しい故郷の姿は一変しました。
10メートルを超える高波が押し寄せ、街の守る堤防が15ヶ所決壊し
多くの家族が全滅しました。

海面より遥かに低いこの地は、水が引くまで一カ月近く掛かり、
行方不明者の捜索も難航しました。
しかしながら、日本のみならず、世界中の国々から援助を受け、
数年がかりで街の復興が行なわれました。

ところが、街の周囲に出来たのは、以前の倍以上の高さの巨大な堤防です。
街をぐるりと取り囲み、私達の美しい故郷は消えました。
土地は、かさ上げされ、殆どの美しい水郷は無くなり、今では、新興住宅地として
外部からの資本でマンションも建つようになりました。

しかし、この刑務所の様な故郷には、昔の面影は全く有りません。
街はどんどん寂れ、いまでは、都会からの大型店舗しかめぼしい商店は無く
人々も、近くの都会に働きに行く方が多く、街としての個性も歴史も
消えてしまいました。

福島や、宮城と言った被災地の堤防や新しい街づくりが、
いずれどの様になって行くか、我故郷を見ると痛いほど解ります。
巨大な利権が働き、復興と言う名のもとに、多くのお金が動き、
先へ続かない、目先の建造物がやたらと多くなり、故郷がどんどん消えて行く。
その地に住み続けなければいけない、特に、昔の故郷を知っている人々にとって
どれ程苦痛か、外から街づくりをした企業や国の指導者たちには
解からないでしょう。

いずれ、東北の街が出来上がって来たとき、もうすでにかつての美しい
自然と人々が共に生きている姿は見られないでしょう。
東北を愛おしく思っていた私にとっても、これから東北の街を訪ねて
心の安らぎを得られるか心配です。

確かに災害大国日本に於いて、人々の暮らしを守ることは大切です。
しかし、日本人は、昔から美しく豊かな自然と共に生きてきたのです。
ただ物が手に入り、生きて行くだけの生活では誰も満足しません。

かつて石炭採掘が盛んだった頃に作られた軍艦島と言う島が有ります。
石炭採掘の為に作られた人工島は、今では人が住む事も無く、
とても生き物が住む所とは思えない程の荒廃ぶりです。

日本は、今や、多くの海岸が埋め立てられ、護岸で覆われ、
日本特有の多くの生物が絶滅して行きました。
このまま、自然との関わり合いを無くす生活が続く限り
いずれ、日本全体が軍艦島の様になってしまいそうで
非常に残念で不安な思いで一杯に成ります。


所得倍増、経済的支援をしても、心は安心できない事実

2016-02-23 14:08:58 | 日本人

今の日本社会が抱える大きな問題は、様々な対策が
国民の将来に対する不満を解消していない事です。
所得を倍増し、減税を行ない、福祉を充実する事に因って
生きて行く為の生活は安定するかも知りませんが、
人々の心の不安は、一向に解消しないのです。

資本主義経済を貫く日本社会は、経済的に豊かになる事が

近代国家の道であり、人々の生活を便利にしさいすれば
国民は幸福になると信じて疑いません。
しかし、高度成長期も、バブルの時も、本当に日本人は
豊かな生活となったのでしょうか。

確かに経済的には豊かになったとは言えるでしょう。

戦後の、あの何もない時代からすると、世界でも指折りの
先進国となったと多くの方が主張するかもしれません。
でも、人々の生活が豊かになったかも知れませんが、
日本国民の身体も心もどんどん衰えている様に思えます。

文明国として復興するにつれ、自然は次々に崩壊し

人々は、社会に付いていく為に必死に競争をする事で
御互いに傷付き傷つけられ、心の休まる時がなくなりました。
多くの新しい病気が生まれ、心の闇を抱える人も急増しました。

確かに、対外的には、先進国として進歩したように見えますが、

発展途上国の人々の心と、私達日本人の心の差は有るのでしょうか。
何でも手に入る生活をしている日本人の方が、病んでいる事も多く
いつも何かに追われ、一生不安を抱えている日本人が
幸せであると誰が言えるのでしょう。

人と人との関わり合いが薄れ、家族や友達の関係も昔に比べ

遥かに弱くなっている様に思えます。
家族崩壊、離婚、離散、離職、と不幸な事が、日常茶飯事で
ニュースと成る日本社会に、安心と言う文字は無いのです。

更に、私達が日頃浴びる情報の量は膨大で、ネットの発達も有り

あらゆる社会基準が定められ、その流れに従う事が、現代人として
社会に適合して行く術の様に報じられます。

国民全体が評論家であり、裁判官であり、加害者と成り得るこの社会は

やはり、人間の生きて行くべき社会とは異なっている様に思えます。
誰とも関わらないで生きる事に喜びを感じる人が増え、人と人との
関係は増々希薄と成っています。

そんな中、ただ、金銭的支援をしたとしても、社会は動く事は有っても

人々の心は相変わらず不安と不信の世界を抜け出る事は無いのです。
今、一番大きな問題は、日本を動かし背負っていくべき若い年代が
この不安と不信の中で生きている事です。

多くの方が苦しんでいる原因が経済的問題と捉えているのは、

バブルを生きた資本主義を貫いてきた年寄りの感覚です。
今や、高額所得を得ている若者ですら、このマイナスの気持ちが有るのです。
彼らは、自分の生活の心配が無いものの、他の若者と同じく、
今の日本の現状を憂いているのです。

所得を倍増すれば日本人は幸せになると言うのは、高度成長期を体験した

爺と婆の、いつまでも変わらないバブル感覚であり、例えまた日本経済が
高度成長期と成っても、今の若者たちの不安と不信は変わらないのです。

私達人間は、どんなに進歩しても、動物の一つに過ぎません。

食べなければ生きてはいけないし、生殖しなければ種を繋げません。
更に、人間は、御互いに助け合う事で境遇を共有し進歩してきました。
人からの信頼と安心感で心を満たしてきたのです。

家の中にある便利な日常品をすべて取り去って、自分だけになった時

発展途上国に住む、物も道具も無い人達と、どれ程幸せ感が違うでしょう。
少なくとも、物が無くなった不安で遥かに不幸感が増しているでしょう。

今や、社会が冷え切った状態で、一部の人のみが潤っている時代です。

こんな時、お金や道具を与えて、幸せを感じる程、日本人は落ちていません。
本当の幸せを求めるが故悩んでいるのです。
餌を与えれば尻尾を振っているペットではないのです。
消費社会を楽しんできた高齢指導者の妄想が有る限り、
日本社会は、何時まで経っても、不安から逃れる事は出来ないのです。