大震災から6年が過ぎ、避難解除された故郷に、次々と
被災者たちが帰り始めています。
しかしながら、新たなる引っ越しは、被災者たちにとって
多くのリスクを伴います。
故郷に帰れるとなっても、そこに自宅がある人達は少なく、
また新たに住まいを求めなければなりません。
更に、たとえ故郷と言っても、そこには、かつての故郷の姿は
海や山しか見つけられません。
街は復興工事で大きく変わり、新たなる地に住むと言っても
過言では有りません。
多くの親しい人を失っただけでなく、生まれ育った懐かしい故郷は
もうありません。
津波に襲われなかった地域にしても、放射能汚染は深刻です。
除染が終わった地域の地図を掲げ、東北の広い地域が安全になった
とするメディアは、政府が主張するがままに発表していますが、
実際は、人々が住んでいる非常に狭い地域だけが除染されていて
山や草原と言った自然が多く存在する地域は、今だ全く手つかずで
住民たちは、砂漠の中に作られたオアシスに住むようなものなのです。
緑に覆われた故郷の山々は、目に見えない放射能汚染で入る事も出来ず
居住地地域とほんの一部の土地にしか自由な行動は許されません。
復興事業と同じく、政府や東京電力は、立てられた復興計画通り
進んでいると言いますが、それは、自分達が勝手に決めたプランであり
段取りとして、自分達が次に進む事業への見切り発車と言えます。
巨大な復興計画は、あくまで実際に事業を行う関係者と政府の
都合の良い様に作られた、自分達が想像する復興計画であり、
被災者の心に寄り添ったものではない事は明らかです。
多くの国民は、災害に遭われた東北の方々を、痛み悲しみ
見守って来たのですが、事業と言う名の中身は、感情が入らない
建設計画であり、どれだけの利益を得られるかと言う観点から
作られて来たものであり、当然、多くの公共事業と同じく
そこに住む人たちにとって、何の利益もない、無用の長物が多いのです。
例え復興事業と言っても、その中身は、政府と業者の利益を目的とした
建設事業なのです。
より、外見的に美しく機能的な街を作れば、被災者たちは喜ぶと言うのは
単なる表向きであり、復興事業でどれだけの収益を得られるかが、
本当の中身であることは明らかと言えます。
政府は、復興事業を早く終わらせ、企業は、次なる利益を求めるのが
本音と言えるのです。
しかしながら、こんなにも多くの方々が苦しんでいると言うのに
相変わらず、政府の議題は、政治家と民間企業との癒着を示す、
醜い犯人探しです。
御互いに甘い汁を吸い合っている政治家と企業の醜い関係は、
お隣の大統領逮捕という大ニュースと根っこは同じであり、
如何に国民の為に政治を行っていると言っても、自分達の目的が
私欲を満たす事と成っている事実が、過去数十年の歴史を見ても
同じ事件が無くならない事からも明らかといえます。
つまり、民主主義国家と言う嘘の衣を着ている日本国家は、
どんなに外見的に豊かになろうと、経済的独裁主義を掲げる
一部の富裕層の我儘国家に過ぎないのです。
かつて、原子力発電所が絶対安全と主張する人たちに対して
それ程言うなら、原子力発電所を、東京都の干拓地に作っても
安全だろうと賛成派に食いついた議員が居ましたが、同じように
福島の美しい山の中に議員さんたちの別荘や住居を作れるかと
問えば、誰一人手を挙げる人はいないでしょう。
高濃度汚染は、山間部では全く除染されていないのですから。
被災者たちの憤りは、除染が上手く行かない事ではなく、
あたかも、完全に除染され、安全になったと発表する事です。
原発汚染は、どれ程人類にとって危険であり、東北の大自然が
安全と言われるまでは、気が遠くなるほどの長い年月が掛かるのは
誰もが解っているのです。
今回の安全宣言も、ほんのごく一部の面積であり、その周囲は
汚染当時と全く変わっていない事も知っているのです。
にもかかわらず、危険を顧みず、故郷に立ちする念は強く、
リスクを負いながらも帰郷となったのです。
しかし、政府当局の発表は、マスコミや国民に対して、あたまも
指定地域の汚染は無くなったかのような内容です。
政府と東電の努力が、人々を救ったかのようなリップサービスは、
放射能汚染が、汚染地域のほんの一部である事を覆い隠し、
自分達の努力で東北の人々が救われたかのような取り上げ方です。
国民や世界には、何とか被災地域は安全である事をアピールし、
国を挙げての復興作業が、東北の街や自然を復活させたかのような
自分達の活躍を前面に示すような内容です。
過去の事は水に流して、無かったかのようにして、次の利益を求める
日本政治に長く続く悪癖は、今や世界に通用しないのです。
これまで発表されて来た様々な安全宣言が、世界の人々には
全く信じられていなくて、今や、福島の実態は、海外の調査機関の方が
日本政府よりも遥かに詳しく、その内容は、日本人にとって
脅威と言えます。
福島第二原発の事故による放射能汚染の実態だけでなく、東京湾の
干拓地の多くに多大な汚染物質が埋もれれている事に、日本人以上に
海外の人々は恐怖を感じています。
近隣諸国では、日本からの生鮮食料品の輸入を禁止している国も有ります。
福島近県の農林水産物のみならず、日本全域を汚染地域としている国も
有るのです。
政府は、国民に不安を抱かせない様に、その様な報道を規制すると共に
日本の食料品は安全であると常々訴えていますが、世界の人々は
全く信じていないとう事実も有るのです。
そんな放射能汚染を憂う世界の人々が、安全になったからと言って、
人々を汚染地のど真ん中に戻す事に、驚きを隠せません。
まるで、猛獣の檻に羊を放す様ななものです。近づけば一気に食い殺され
命の保証のない獣たちは鎖につながれているとは言え、羊たちは、周りを
ぐるりと囲まれ、何処に逃げることも出来ません。
羊を入れた人たちは、毎日、餌をあげるから大丈夫といいますが、
そんな危険な檻の中で生きて行けるはずは有りません。
余りのストレスで、例え、以前より美味しい餌を食べられたとしても
生きた心地はしません。
今や国会では、狐と狸が、どちらが美味しい餌を食べたかと
お互いの主張を繰り返しています。
たらふく食べているものの、更に美味しいものを欲しがったために
欲望の後始末を強いられているのです。
国会の外には、多くの悩める子羊たちが、その日に食べる餌を得る為
苦労を重ねています。
その数は、膨大なる数であり、次第に年老いた羊が多くなっています。
キツネやタヌキは、一生懸命働けば、自分達の様に美味しいものが
食べられると宣いますが、羊たちは草食であり、彼らの食べる、
ギトギトの脂ぎった肉は食べたくはないのです。
今や国民は、経済的な幸せを押し付けられ、基本的な幸せを得られず
苦しんでいます。
国民経済を高めれば、国民は幸せになると言う首脳陣の考えは、
物と金に満たされた方々の考えであり、国民の多くは、そんな
外見的な幸せを欲しては居ないのです。
それぞれの環境で、自分の心を満たし癒してくれる幸せが欲しいのです。
そう、この事は、安全宣言で故郷に帰される人々の気持ちと同じです。
どんなに立派な住居を作ってもらっても、都会並みの、立派なライフラインを
整えてもらっても、その価値を認めるのは、政府と東電関係者、更には
建築を請け負って利益を得た人達だけなのです。
国民の多くは、誰もが同じ幸せを持つことを望みません。
それぞれが、自分の価値観を持ち、自分を生かす事に依って、
満足した人生を送りたいのです。
幸せの価値観を、洗脳されて、便利グッズや高価な家庭用品に囲まれて
求めている幸せと思っているのは、高度成長期の日本人だけなのです。
今や、国民と政治家の意識の差は、余りにも甚だしく、特に、見てくれで
育って来たお偉方には、一般庶民の気持ちは全く解らないのです。
その為、自分達が喜ぶ事を、国民も喜ぶと思ってしまうのです。
世の中は、ネットの進歩と共に、どんどん進化しています。
高度成長期で頭の中が止まった政治家たちには、今の日本人は
到底理解できないのです。
親の七光りで地位を得たような政治家ではなく、本当の国民の気持ちを
理解できる新しいタイプの政治家が出てこない限り、金の臭いに弱い
私欲に満ちた見てくれの政治家ばかりが増えるだけなのです。