加地尚武の佐倉新町電気街

「福音の少年 Good News Boy」シリーズ(徳間書店 徳間デュアル文庫)著者による電脳生活と意見。

「プレミアムフライデー」「シャイニングマンデー」「クールジャパン」

2018年07月31日 22時10分10秒 | 社会時評なんちって

月末の金曜日の午後から休みましょうという「プレミアムフライデー」が浸透しないので、週明けの月曜日午前中を休む「シャイニングマンデー」をはじめましょう、なんて感じの報道がされてネットで騒ぎになっていたけれど、事実はちょっと違うようだ。

つまり、経済産業省内で「プレミアムフライデー」を取れなかった経産省職員が月曜日午前に振り替え休みを取る際の愛称が大げさに伝わったらしい。

自分の役所すらなかなかできないことを企業に押し付けるな」とか、

「そもそも月末の金曜日なんて忙しいに決まっているだろ」といった正論はさておき(おけないが)、

「経済産業省」というお役所のことを考えてみた。

もとは「通商産業省」略称「通産省」といった。

通産省の官僚といえば、城山三郎の「官僚たちの夏」である。

官僚たちの夏 (新潮文庫)
城山 三郎
新潮社

高度経済成長期を支えた通産省官僚たちの群像劇。所得倍増計画で知られる池田勇人から佐藤栄作のころだから、もう50年前の時代を扱っているわけだが、そのころの通産省官僚たちのそれぞれの想いが面白い。

「官僚指導経済」

とは、この小説の主人公格にあたる風越の言葉である。とかく過当競争など暴走しがちな民間を行政指導によって正しい道に導こうという考え方である。

戦時下から敗戦直後の統制経済から自由経済への過渡期であればこの志向は正しい。池田首相も偉かったが、当時の官僚も偉かった。敗戦国の日本を奇跡のように立ち直らせたのだから。だから、この小説は熱い。映像化もされる。

だけど、通産省から経済産業省に変わった今でも、この小説の背景から50年経ったいまでも、経産省官僚のみなさんは、こんな幻想を抱いておられないだろうか。

「自分たちが日本の国を導いている」と。

 月末の金曜午後から休みましょう!→どっかーんと消費拡大! 

 クールジャパン戦略っ! → ニッポンのモノが海外でどっかーんと売れまくる!

皮肉なことに、「官僚たちの夏」の風越は、通産省そのものの存在意義に悩んでいる。いや、この昭和三十年代~四十年代ほど通商産業政策が重要だった時代はなかったと思うけど、悩んでいるのだ。

他の省庁と比べて予算も許認可権も少ないし、かといって海外との関係でむかしのようには行政指導もやりにくい。となると単発の、打ち上げ花火のような政策しかない、なんて言ったら懸命に仕事をしておられるみなさんに失礼だけど、そう思ってしまう。

小説の官僚たちは、冷房もない庁舎で激論を戦わせて、政策を練り上げていった。いまの官僚たちは涼しい部屋で、広告代理店やコンサルタントのパワーポイントによるプレゼンを聞きながら、カタカナ言葉を連発してマウンティングに余念がない。そんな薄ら寒い光景が浮かんでくるのは、私だけだろうか。


「本能寺の変」の真犯人はだれか? 

2018年07月30日 00時04分03秒 | 本のこと。

いや、信長って自害ですやん。「真犯人」って、あーた。

などと書くと一行で終わってしまうし、「本能寺の変 真犯人」でググってきた人がここでUターンするだろうし、ろくなことはありません。だけど、明智勢の誰かに討たれたとしたら記録に残らないはずがないので、囲まれて自害したのはまあ、事実なのかな、と思う。

だから、よくいう「本能寺の変の真犯人は誰か」かというとき、「明智光秀を操って信長を討たせたのは誰か」(つまり「黒幕」はだれか)ということを差していることがあるんだけど、正直に言って「思考ゲーム」以上の意味はないと思う。誰がどんな本で何を主張しようが日本の歴史に何も足さない。

「ゲーム」としてはどの説が面白かったかというと、下の本が最高に面白いというか、「」だった。

信長と十字架―「天下布武」の真実を追う (集英社新書)
立花 京子
集英社

いわゆる「黒幕説」の中で、最もすごい「イエズス会黒幕説」を唱えた本。ある雑誌に「緻密な論証」と紹介されていて、たまげたことがある。この本が緻密なら「地球空洞説」だって「古代宇宙人来訪説」だって十分緻密な論証だと思う。

 この本に比べると、「朝廷黒幕説」や「足利義昭黒幕説」「秀吉黒幕説」はいかにも地味。そもそも(秀吉はべつにして)この人たちに「お手紙」と「官位」以上の報酬が与えられるのか。

 下の本もずいぶん話題になった本。

「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求 (文芸社文庫)
明智 憲三郎
文芸社

読んでいただくのがいちばんいいけれど、「本能寺の変」が発生した状況の説明はつく。うまくついているような気がする。読んでいる間は説得力もある。なんとマンガ化もされているヒット作。

光秀の「動機」に関する本も何冊か読んだけど、どれも上の二冊ほどの面白さはない、と思った。ぼくが「主君殺しの動機なんてどうでもいい」 と常々思っているからかもしれない。そもそも史料から一武将個人の動機を、それもたった一つだけ類推するなんで、小説を面白くする以上の意味があるのだろうか?

鬱陶しい主君が死んでみたら、スッキリした。それでいいではないか。

「安土城に入りし光秀は近江武士の帰属社寺の礼使に接し逆臣の身を以て俄かに将軍の如く時めきたり」

上の一節を、たまたま「近江蒲生郡志」という本で見つけた。晴れやかな表情を浮かべた明智光秀が目に浮かぶようだ。二週間の便秘がスッキリしたような。「信長公記」なんか読むと、信長って、上司としてはほんとうにシンドイ人物だと思う。パワハラするし、身内びいきするし。

本能寺の変の変
黒鉄 ヒロシ
PHP研究所

動機はどうでもいいと書いたけど、黒鉄先生の上のマンガはとてもよかった。 2014年に発見された新史料に基づいて、四国の覇者であった長宗我部元親と明智光秀の腹心である斎藤利三との関係を分かりやすく解き明かしていく。「本能寺の変」に興味のある方で、マンガに偏見のないひとは、へたな新書を買うよりもためになると思う。

さいごに「本能寺の変の真犯人」を扱ったフィクションでもっとも好きな本を。やっぱりマンガである。

へうげもの(1) (モーニングコミックス)
山田芳裕
講談社

「真犯人」は「秀吉」である。光秀をそそのかして軍を動かさせるのだが、このマンガの秀吉は、実際に自分で手を下すのである。つまり、変装して本能寺に忍び込み、直接、信長を斬るのだ。

あ、推理小説とちがって、真犯人がわかったからといって面白さが削がれたりしない。このマンガの肝は、そこから始まる。このマンガで描かれた「主君を殺した秀吉」像の、なんと素晴らしいことか。秀吉の臨終のシーンは涙なくして読めない。困ったことに、このマンガの秀吉があまりに素晴らしすぎて、他の小説を読んだときに、顔が山田先生の描く秀吉になっちまう(笑)、それくらい、いい。

タイトル詐欺みたいな投稿になってしまったけど、日本史の三大謎のひとつとされる「本能寺の変」は、個人的には謎でもなんでもないと考える。人間は複雑かつ単純な生き物だ。明智光秀という戦国時代では知性的で保守的な武将が、いろいろな要因が重なって、主君を弑逆した、それだけのことだと思うのだ。「できるときに、やりたかったことをやった」

2020年の大河ドラマは「明智光秀」だという。「本能寺の変」前後がクライマックスになるのだろうけど、この辺りをどのように料理するのか楽しみに待ちたい。

こんな私でも戦国時代を舞台にした本を出しています。先日、「加地尚武のThe House of Stories」で公開した短編も、ためしにKDPにしてみました。よければ、どうぞ。

  

 


「ほぼほぼ」は「ほどほど」に? 

2018年07月26日 21時11分05秒 | 公園のつぶやき。
ぼくは昭和の生まれだけど、十年前には「ほぼほぼ」という言い方はあまりなかったように思う。
「ほぼ」しか、なかった。

「○○は、ほぼ完成です」
と、一回で済ませていた。

それが二回繰り返すようになったのは、つい最近のような気がしてならない。
最初に聞いたのは、技師さんからだった。建築技師だったと思う。技師の間で流行ってるのか、と数年前に思った。

文法的には間違いじゃないと思う。というか、このような話し言葉に「文法がどーの」なんて、ヤボじゃないかと思うのだ。

気になるのは「ほぼ」で意味を成すのに、繰り返したときに、なにか対象に違いがあるのかということである。
つまり、70パーセント程度なら「ほぼ」で、85パーセントから95パーセントまでは「ほぼほぼ」で、それ以上が「ほとんど」といった線引きができるのか/すべきなのか、ということが、言葉を商売道具にしているぼくは、気になる。

しかし、もともとあいまいな、アナログな言葉なので、きっとないんだろう。

かわいそうなのは「やや」の立場である。

「やややや」とは言わない。ややこしいからである。


新作長編発表しました!

「論を俟たない」は論を俟たないか?

2018年07月22日 19時16分16秒 | 公園のつぶやき。

このブログでなぜかダントツの人気を誇る「好評につき終了シリーズ」(パート1)(パート2)にあやかって、日本語のことを書いてみたい。

以前、徳間書店さんで本を出したときに、ぼくは小説の本文に「○○○は論を待たない」と書いてしまった。そして、案の定、編集さんからチェックが入った。

「論をまたない」の「またない」は「俟たない」ですよ、と。

へ?
「待たない」じゃないの、とぼくは思った。あの優秀な徳間書店文芸部の編集さんが間違えたのか、などと失礼なことを考えた。

そうです。ぼくは「論を俟たない」という正しい表記を知らなかったのです。

ほんと、お恥ずかしい。
「そんなんでプロの作家ぶるな、ヴォケ」
はい。すみません。

オンライン漢和辞典で漢字そのものの意味を見てみよう。

  (1)まつ。まちうける。人、機会などが来るのをまつ。

   (2)まつ。もてなす。あしらう。準備をして人をもてなす。

俟  (1)待つ。

   (2)たよりにする。

   (3)立ち止まる。

よくあるブログの論拠は「待(1)」と「俟(2)」で明確に意味が違うので漢字を使い分けなければいけません、ということである。それは、そのとおり。話はここからである。「俟(2)」の「たよりにする」とはなんであろうか? 

「俟」の字が使われた慣用句・ことわざに、

百年河清を俟つ

というのがあって、これは「濁った黄河の水が清くなるのを百年(期待を持って)待つ」という意味。転じていつまで経っても実現しないことを指すたとえだそうな。これは、わかる。「俟」という字を使うのにふさわしいのではないか、と思う。叶いそうもない夢にすがってしまうんですよね、人間て。

で、「論を俟たない」だけど、なんで「俟たない」のかがピンとこない。論ずるまでもないのなら、待つでもええやん。文法上の主語はたいてい「ある事柄」であって、人間じゃないのに。ひょっとして、論に頼る必要がない=自ずと明らかな事項。自明の理、だから俟つという漢字じゃないといけないのかなと思ったりした。"wait for"と"depend on”の違い、というか。

調べると、やっぱりもともとは中国語の慣用表現だった。

固不俟論

と書く。読み下すと、「固(もと)より論を俟たず」となる。日本でもそうだが中国でも文語、つまり論文などで使われる決まり文句のようだ。 

「他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず」

とは、かの福沢諭吉先生の言葉。昨年「忖度」という言葉が流行った時にさかんに引用されたらしい。「人のこころがわからんのはもとより言うまでもないことじゃ」だそうだ。福沢先生をはじめ明治時代の知識人は当たり前のように漢文が読めた。だから中国語の「固不俟論」を普通に使う。

だから、なぜ「俟たず」なのかは、中国のひとに聞かないとわからないのだろうか。

さっき文法上の主語と書いたが、この慣用句はおもに論文に使われる文語である。つまり、個々の文の背後にいる論者は、その主張するところをすべてその文章内で証明し、読者を納得させなければならない(少なくともそんな心構えが必要だ)。「あとで誰かがきっと論じてくれますからね〜」ではいけない。だから不俟論なのか。

ああ、むずかしい。「論を俟たない」って言ってんのに論じてるよねー。

「いや、そもそもその慣用句を間違って使って指摘されたのお前だろ」

いや、それはそのとおり。こんなわたしでも、小説の本を出してます。「ロレンソの物語」といいます。

大勢の人が読んでくださるのを俟っています。河清を俟つに等しいかもしれませぬが。


【House of Stories】書き下ろし短編小説を掲載しました。

2018年07月21日 17時15分39秒 | House of Stories
いやあ、暑い日が続きますねえ。農作業もロードバイクもほぼお休みです。
さて、表題のとおり「加地尚武のThe House of Stories」において、書き下ろしの短編小説を掲載しましたのでお知らせします。
時代背景は「ロレンソの物語」よりもちょっと後の戦国時代。
でも、ジャンルとしては、「ファンタジー・ホラー」ですね。
それは読んでいただくとわかります。

題名は「「ぷるがたうりよ」のひとびと」です。カッコが二重になっちゃいますね。



バナーも作ってみました。


長編伝奇小説「ロレンソの物語」もよろしくお願いします。

「ロレンソの物語」Amazon Kindleストアに登録されました。

2018年07月18日 02時43分52秒 | House of Stories
タイトルの通りです。すでにAmazonのKindleストアで購入できるようになっています。
表紙はこんな感じ。クリックするとAmazonの該当のページが開きます。



Kindle Direct Publishingを初めて使いましたが、本を作るのってこんなに簡単でいいのか、って感じでした。
むしろ上の表紙を創る方が大変でしたよ(笑)。
あ、表紙はCGソフトを組み合わせて自分で作りました。手はわたしのじゃなくて、女性の3Dモデルの手です。
修道士の小説ってことで宗教性を出してみたつもりですが、いかがですか?

KDPで出版した際に独占契約というか、そういった感じのことにしましたので、すみませんが「加地尚武のThe House of Stories」の連載分の掲載は終了させていただきます。

では。




【自転車】P・サガンのことが好きでたまらない件。

2018年07月15日 15時10分51秒 | 自転車と旅、メシ。
タイトルのまんま、ぼくはピーター・サガンという自転車選手のことが好きでたまらない。
とにかくかっこいい。

イケメンという感じではないかもしれないが、何とも言えないオーラというか、男の色気というか、スター性がある。
そして、茶目っ気というか、マウンテンバイクで遊んでいた少年がそのまんま大人になりましたっていう感じもいい。
ツール・ド・フランスの各チームのプレゼンテーションでは、ウィリーしながら出てきて、自らチームのボーラ・ハンスグローエの全員を紹介したりするというサービス精神も好きだ。

ヨーロッパのスロバキア出身なんだけど、むかしキヤノンデールにいたとき、自転車にX-MENのウルヴァリンのペイントをしてたりした。
そうそう、あのなんとなく変な英語もいいな。インタビューを聞くとほっこりする。

ぼくは妻子ある男性なのだけど、テレビにサガンが映ると、ちょっと、ときめいてしまう(笑)。

こんな男性(もちろん女性も)ファンが多いのか、自転車を供給しているスペシャライズドが「サガン・コレクション」なんて感じでサブブランドを立ち上げていたりする(松平健を思わせるような流し目が素敵)。



サガンといえばマイヨ・ヴェール(ポイント賞ジャージ)。マイヨ・ヴェールといえば緑。
いやあ、かっこいい。
欲しい。ディスクロード、欲しい。

七度目の正直で4月の「パリ・ルーベ」を征したし、いまやってるツール・ド・フランスでもポイント賞獲得は濃厚だ。

名前もいいね。

ピーター(ペテル)・サガン。

ぼくの年で「サガン」といば「フランソワーズ」なので、関係ないけど「悲しみよこんちは」のリンク張っておきますね。
(某映画サイトのマネ)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)
Francoise Sagan,河野 万里子
新潮社

「福音の少年」シリーズ(徳間書店デュアル文庫版)はどこで買える?

2018年07月11日 20時42分28秒 | House of Stories
我が家には徳間書店さんから定期的に封筒が届きます。
おおかた7~8年になるでしょうか。

中身はというと、電子書籍になった「福音の少年」シリーズがいくら売れて、印税がいくらっていう明細が入ってます。
そう、最近ではまったく紙の本が書店に無くなっても、そして増刷されなくても(汗)、こうして電子書籍として売られているんです。

とくに「福音の少年」シリーズはライトノベルというカテゴリーなので、コミックを扱う電子書籍書店と相性がいいのか、結構な数の書店で扱われています。

作家を目指す人、とくにライトノベル作家になりたい人は知っておくといいかもしれませんね。

え?お前みたいな無名の作家は年間いくらもらえてるんだって?
あ、いや、あの(汗)。
まじな話、確定申告しなくてもいいくらい。ぜんぜん。

それはともかく。
最近、長編小説を分割掲載した関係で、よく「加地尚武のHouse of Stories」のサイトをメンテナンスすることがあり、電子書籍書店のリストを長いことアップデートしていないのに気が付きました。

なので、更新しました。
表紙を並べると、色合いがキャンディというか駄菓子の詰め合わせのような楽しさがありますね。中臣さんのイラストがいいのはもちろんですが、装丁も大好きです。

わたしがイラストや装丁をしたわけではありませんので、自画自賛ではありません。



長編時代小説「ロレンソの物語」完結!(連載・最終回)

2018年07月09日 21時42分02秒 | House of Stories
愛媛県に住んでいるので、西日本を広範囲に襲った「平成30年7月豪雨」の影響をもろに受けました。ただ、私の地元はたまたま雲の層が薄かったのか、ほとんど被害はありませんでした。奇しくも二人の姉が広島と岡山にそれぞれ嫁いでいたので、7日の早朝LINEで連絡を取り合ったのですが、幸いみな無事でした。瀬戸内は一つの生活圏なので、私のように親族が中国・四国に散らばっており、それぞれ被災されたという方もいるかもしれません。
とにかく、この大災害で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、避難所等で不自由な生活を強いられているみなさんが一日でも早く元の暮らしを取り戻されるよう祈りたいと思います。

さて、四国に出されていた警報がすべて解除されたので、家でゆっくり作業ができました。なので「加地尚武のThe House of Stories」で連載中の「ロレンソの物語」最終回を掲載しましたので、お知らせします。

通して読んでみると、これはこれで異色の戦国時代物語かな、と思います。
面白いかどうかは読んで判断していただくとして、この小説にぜひ入れたかった場面のことを語りたいと思います。

「この小説のテーマは──」なんて、作者が自ら語るほど無粋なことはありません。そうではなくて、ある場面、歴史的事実のことです。

それは、「日本で最初のクリスマスは、戦国時代1552年12月25日、陶晴賢の支配する山口で行われた」ということです。

ご存知でしたか?

私は「ロレンソ了斎」のことを書こうと思って調べ始めてから、初めて知りました(恥ずかしながら)。

「クリスマスのシーンがある歴史(時代)小説なんか読んだことがねーな」と感心した単純な私はどうしてもその場面を入れたくなってしまいました。
そのためにプロットを一部変更したくらいです(笑)

もちろん、現代の日本で行われているようにツリーを飾ったりプレゼントを交換したり、というものではなく、一つの宗教行事だったようですが。
でも、できるだけ史実に沿いながら、ちょっと創作のエピソードを入れております。

それがこの長編小説にとってプラスかマイナスなのか、それは読んで判断してみてくれるとうれしいです。

なお、この連載はまとめてKindleおよび楽天KOBOなどで電子出版したいと考えています。
まとめてタブレット等で読みたい方はそれをお待ちいただいてもいいと思います。
もともと連載分はA5一段組縦書きのPDFなのでタブレットやスマホに向いているとは思いますが。

それでは。

長編時代小説「ロレンソの物語」連載第四回目!

2018年07月01日 16時16分52秒 | House of Stories


と、いうわけで「加地尚武のHouse of Stories」において連載している「ロレンソの物語」の四回目を掲載しました。
個人的には「本能寺の変」に次ぐ下克上事件であると思ってる「大寧寺の変」が勃発し、主人公の男女二人が巻き込まれます。彼らの運命やいかに。
という回です。

織田信長が明智光秀に討たれたというのは当時の人にとってはある程度意外で衝撃的な事件だったかもしれまんが、大内義隆を陶晴賢が討ったのは、山口の人々にとっては「あ、とうとうやったか」という感じではなかったかと思います。そのつもりで執筆していますが、ある意味、大内義隆は誰もが認める滅びの道をまっしぐらに進んでいたのですが、認識していなかったのは本人だけ、ということだったのかな、と思います。

さて四回にわたり連載してきた「ロレンソの物語」ですが、次回掲載分でいよいよ完結となります。
いやー、個人的には連載というのは面白かったですね。次に長編小説を書くときもなんらかの形で反映したいですね。

ところで、ついに長崎・天草の潜伏キリシタン、世界遺産に登録されましたね。
素直に喜びたいのですが、観光する場合はどれも宗教施設なので、節度を持って見学することを心掛けたいですね。

では、次回いよいよ最終回。お楽しみに!