おなじみの田坂広志さんのメルマガから。引用させてもらいます。
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「複雑系」の逆説
かつて、「複雑系」についての講演の場で、
聴衆の方から、ある質問を受けました。
企業や市場や社会が「複雑」になっていくとき、
それらをマネジメントするための技法は、
やはり、高度で「複雑」なものになるのでしょうか。
たしかに、「複雑系」というものを考えるとき、
この問いは、誰の心にも浮かぶ、素朴な問いです。
しかし、現代科学の最先端で
「複雑系」の研究が見出したのは、
不思議なことに、
東洋思想に語られる、一つの「逆説」でした。
「単純化」
それが、「複雑系」をマネジメントするために求められる
最も有効な技法であることを、見出したのです。
例えば、「ツボ」や「コツ」
例えば、「急所」や「要諦」
複雑なシステムをマネジメントするとき、
そのシステムの中の最も効果的な部分を発見し、
そこに力を集中して、働きかける。
その「単純化」こそが、
「複雑系」のマネジメントの技法であることを、
見出したのです。
しかし、同時に、
この「複雑系」の研究は、
東洋思想における、もう一つの「逆説」を、知りました。
「単純化」とは、最も高度な技法である。
そのことを、知ったのです。
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今、どんどん複雑化する社会。
ビジネスやマーケティングもいろいろな要素が絡み合い、そんな単純なソリューションは見出せなくなっている。
スパーっと、一刀両断、ひとつやふたつの決め手では済まなくなっている。
なんだかんだ言っても、空手チョップさえ出れば、追い詰められていてもあっという間にフォール勝ち。
やられていても、バックドロップが出たら、後頭部をしこたま打って悶絶、気絶。
一気に片がついてしまう。
将棋でもそうだ。
昔は結構たった一手の絶妙手を繰り出せば、そこでほとんど勝負あった、ということもあった。
しかし、今は、去年の羽生・森内の名人戦のように、複雑に絡み合った指し手の積み重ねで、しつこく、しぶとく、ビミョーに少しずつ勝ちに向かっていく、という将棋が多くなった。
「深遠感、難解感、晦渋感、重苦しい感、駆け引き感、繊細感、哲学感、手細工の工芸品感、緻密感」
あの方の名文を思い出します。
話は戻って、以前辞退の事態という記事書きましたが、またあの人の話です。
江川紹子さんの昨年11月の記事、『田母神発言・その単純明快さが危ない』。
部分的に引用させてもらいます。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
航空幕僚長を解任され、自衛隊を定年退職となった田母神俊雄氏が吠えている。
月刊誌『WiLL』で21ページにわたって「独占手記」を寄せ、「私はもはや民間人である。遠慮はいらないだろう」と本音をぶちまけている。
<中略>
その単細胞ぶりは、国会での証言の時にも感じた。
田母神氏は、こう述べた。
「日本には今、日本の国が悪かったという論が多すぎるというふうに思います。(中略)私も今回びっくりしてますのは、日本の国はいい国だったと言ったら、解任をされたと。そしてまた、責任の追及も、いい国だと言ったような人間をなぜ任命したんだといわれる」「変だなあというのが私の感想です。日本の国が悪い国だという人をつけなさいということですから」
「手記」の中でも、彼はこう書いている。
<私は端的に言って「日本はいい国だった」と言ったのだ。すると日本がいい国だったとは何事だ、政府見解では悪い国になっているんだ、ということで航空幕僚長を解任されてしまった。
なんという、強引な単純化だろう。
<中略>
しかし、そもそも歴史の問題を考えるのに、こういう風に「いい国」「悪い国」と二元論的に評価する発想はなじまない。たとえば、日本は長い歴史と豊かな文化を持っている。昭和の初期に他国に対して多大なる迷惑をかけたことがあったと認めたからといって、その長い歴史や豊かな文化のすべてを否定して、日本は「悪い国」とレッテルを貼り付るようなことができるはずがない。
<中略>
「いい国」「悪い国」という二極化、単純化は、歴史を見る時にも、今の社会を考える時にも、断じて慎むべきだ。
<中略>
田母神氏は、航空自衛隊の制服組のトップであり、幹部を教育する統合幕僚学校長をしていたこともある。考え方があまりに単純で、複雑な事柄も二元論的な見方をする彼の発想が、自衛隊の幹部に浸透しているのだろうか。
彼は、今後テレビに出たり、講演会なども予定されているという。彼に共鳴している人も少なくないようだ。ただでさえ、威勢がよく、シンプルな物言いが受けるご時世。彼の単純明快さは、受ける要素があるのかもしれない。
威勢のいい発言は、聞いていて気分が高揚し、心地がいい。単純すれば、難しい国際情勢も複雑な歴史もたやすく分かったような気になれる。だから、ついついそういう発言に惹きつけられる心理は分からないではない。
しかし単純明快に語れば語るほど、威勢のいい言動を重ねれば重ねるほど、歴史の真相からも国際社会の現実からも遠のいていく。このことは、よくよく肝に銘じておきたい。「単純明快」は悪魔の誘惑でさえあると思う。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「単純明快」は悪魔の誘惑、と江川さんは書いています。
「単純化」とは、最も高度な技法である。、と田坂さんは書いています。
思い出しますよね、小泉郵政選挙での自民党圧勝。
これほどわかりやすいものはない。
一つのことだけを争点にして、全員白か黒か旗を揚げよ、と。
他のことは問わない、一つのこと以外は関係ない、と。
基地問題、拉致問題、派遣などの雇用問題、教育問題、毎日新聞などで取り上げられているすべての問題は、そんなに簡単に白黒言えることは少ない。
賛成でも反対でも、自分の意見には、いろいろな条件とかついてしまうし、単純明快な結論を言い放って済んでしまうことはあまりない。
とはいえ、難しいものは、整理して、まとめなおして、できるだけわかりやすいようにするべきとは思う。
単純化に向けての地道な作業はするべきであろう。
しかし、そうしていくためには、田坂さんの言うように、
「ツボ」や「コツ」、「急所」や「要諦」のようなものを身に付けた上でないと、本質をついた単純化は難しい。
大人である事。バランス感覚を持つ事。修羅場も含め、様々な体験をしていること。
いわゆるプロのスキル無しに単純化をすることの危険性。
いろんな要素をどんどん見切ってしまうことの怖さ。
とはいえ、選挙であるとか、多数決であるとか、書類にサインをするかしないか、とか、
時間も限られた中で、丁半の判断を迫られる事は日常生活の中で多々あること。
まあ、気楽に、かつ、真剣に、
複雑極まりないことをうまく単純化できるように、
努力して行きたいと思っています。
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「複雑系」の逆説
かつて、「複雑系」についての講演の場で、
聴衆の方から、ある質問を受けました。
企業や市場や社会が「複雑」になっていくとき、
それらをマネジメントするための技法は、
やはり、高度で「複雑」なものになるのでしょうか。
たしかに、「複雑系」というものを考えるとき、
この問いは、誰の心にも浮かぶ、素朴な問いです。
しかし、現代科学の最先端で
「複雑系」の研究が見出したのは、
不思議なことに、
東洋思想に語られる、一つの「逆説」でした。
「単純化」
それが、「複雑系」をマネジメントするために求められる
最も有効な技法であることを、見出したのです。
例えば、「ツボ」や「コツ」
例えば、「急所」や「要諦」
複雑なシステムをマネジメントするとき、
そのシステムの中の最も効果的な部分を発見し、
そこに力を集中して、働きかける。
その「単純化」こそが、
「複雑系」のマネジメントの技法であることを、
見出したのです。
しかし、同時に、
この「複雑系」の研究は、
東洋思想における、もう一つの「逆説」を、知りました。
「単純化」とは、最も高度な技法である。
そのことを、知ったのです。
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今、どんどん複雑化する社会。
ビジネスやマーケティングもいろいろな要素が絡み合い、そんな単純なソリューションは見出せなくなっている。
スパーっと、一刀両断、ひとつやふたつの決め手では済まなくなっている。
なんだかんだ言っても、空手チョップさえ出れば、追い詰められていてもあっという間にフォール勝ち。
やられていても、バックドロップが出たら、後頭部をしこたま打って悶絶、気絶。
一気に片がついてしまう。
将棋でもそうだ。
昔は結構たった一手の絶妙手を繰り出せば、そこでほとんど勝負あった、ということもあった。
しかし、今は、去年の羽生・森内の名人戦のように、複雑に絡み合った指し手の積み重ねで、しつこく、しぶとく、ビミョーに少しずつ勝ちに向かっていく、という将棋が多くなった。
「深遠感、難解感、晦渋感、重苦しい感、駆け引き感、繊細感、哲学感、手細工の工芸品感、緻密感」
あの方の名文を思い出します。
話は戻って、以前辞退の事態という記事書きましたが、またあの人の話です。
江川紹子さんの昨年11月の記事、『田母神発言・その単純明快さが危ない』。
部分的に引用させてもらいます。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
航空幕僚長を解任され、自衛隊を定年退職となった田母神俊雄氏が吠えている。
月刊誌『WiLL』で21ページにわたって「独占手記」を寄せ、「私はもはや民間人である。遠慮はいらないだろう」と本音をぶちまけている。
<中略>
その単細胞ぶりは、国会での証言の時にも感じた。
田母神氏は、こう述べた。
「日本には今、日本の国が悪かったという論が多すぎるというふうに思います。(中略)私も今回びっくりしてますのは、日本の国はいい国だったと言ったら、解任をされたと。そしてまた、責任の追及も、いい国だと言ったような人間をなぜ任命したんだといわれる」「変だなあというのが私の感想です。日本の国が悪い国だという人をつけなさいということですから」
「手記」の中でも、彼はこう書いている。
<私は端的に言って「日本はいい国だった」と言ったのだ。すると日本がいい国だったとは何事だ、政府見解では悪い国になっているんだ、ということで航空幕僚長を解任されてしまった。
なんという、強引な単純化だろう。
<中略>
しかし、そもそも歴史の問題を考えるのに、こういう風に「いい国」「悪い国」と二元論的に評価する発想はなじまない。たとえば、日本は長い歴史と豊かな文化を持っている。昭和の初期に他国に対して多大なる迷惑をかけたことがあったと認めたからといって、その長い歴史や豊かな文化のすべてを否定して、日本は「悪い国」とレッテルを貼り付るようなことができるはずがない。
<中略>
「いい国」「悪い国」という二極化、単純化は、歴史を見る時にも、今の社会を考える時にも、断じて慎むべきだ。
<中略>
田母神氏は、航空自衛隊の制服組のトップであり、幹部を教育する統合幕僚学校長をしていたこともある。考え方があまりに単純で、複雑な事柄も二元論的な見方をする彼の発想が、自衛隊の幹部に浸透しているのだろうか。
彼は、今後テレビに出たり、講演会なども予定されているという。彼に共鳴している人も少なくないようだ。ただでさえ、威勢がよく、シンプルな物言いが受けるご時世。彼の単純明快さは、受ける要素があるのかもしれない。
威勢のいい発言は、聞いていて気分が高揚し、心地がいい。単純すれば、難しい国際情勢も複雑な歴史もたやすく分かったような気になれる。だから、ついついそういう発言に惹きつけられる心理は分からないではない。
しかし単純明快に語れば語るほど、威勢のいい言動を重ねれば重ねるほど、歴史の真相からも国際社会の現実からも遠のいていく。このことは、よくよく肝に銘じておきたい。「単純明快」は悪魔の誘惑でさえあると思う。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「単純明快」は悪魔の誘惑、と江川さんは書いています。
「単純化」とは、最も高度な技法である。、と田坂さんは書いています。
思い出しますよね、小泉郵政選挙での自民党圧勝。
これほどわかりやすいものはない。
一つのことだけを争点にして、全員白か黒か旗を揚げよ、と。
他のことは問わない、一つのこと以外は関係ない、と。
基地問題、拉致問題、派遣などの雇用問題、教育問題、毎日新聞などで取り上げられているすべての問題は、そんなに簡単に白黒言えることは少ない。
賛成でも反対でも、自分の意見には、いろいろな条件とかついてしまうし、単純明快な結論を言い放って済んでしまうことはあまりない。
とはいえ、難しいものは、整理して、まとめなおして、できるだけわかりやすいようにするべきとは思う。
単純化に向けての地道な作業はするべきであろう。
しかし、そうしていくためには、田坂さんの言うように、
「ツボ」や「コツ」、「急所」や「要諦」のようなものを身に付けた上でないと、本質をついた単純化は難しい。
大人である事。バランス感覚を持つ事。修羅場も含め、様々な体験をしていること。
いわゆるプロのスキル無しに単純化をすることの危険性。
いろんな要素をどんどん見切ってしまうことの怖さ。
とはいえ、選挙であるとか、多数決であるとか、書類にサインをするかしないか、とか、
時間も限られた中で、丁半の判断を迫られる事は日常生活の中で多々あること。
まあ、気楽に、かつ、真剣に、
複雑極まりないことをうまく単純化できるように、
努力して行きたいと思っています。
カオス、フラクタルが代表的な用語です。
カオス、フラクタルのURL
http://www001.upp.so-net.ne.jp/seri-cf/gallery.html
数式で表現すると混乱するので、2次元の画像でのサンプルです。
本題と少し話がそれますが、複雑系の数学的な例です。
理数系の話はまるでついていけません。
複雑系は、数学の用語なんですか。
そんなことも知らなかったです。
こういうのは、数学には強いと言われる棋士の皆さんは、理解できるんでしょうか?
教えていただいた2次元の画像見ても、まるでなんだかわかりません。
今度初歩から教えてくださいね。
文庫で読める日本はいい国だなあ。
平成12年初版の、物語ですから専門知識がなくても読めます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB
wikiに説明はまかせて
要するに複雑系を卑近なレベルの教訓にすると、要するにと纏めることに懐疑的になり、あまり簡単にわかった気にならないよう気をつけよう、とこんな感じになるかどうか全く自信ないですが・・・。
最初に紹介した文庫本の解説では、複雑系発見の端緒となる最初の研究のひとつに、ボイル・シャルルの法則をあげています。
確か高校入ってすぐに習った法則で、温度=圧力×体積×定数というあれです。モル、という単位もやりましたね。ええと細かい数字はあやふやですが、6.02×10の23乗くらいのアボガドロ定数とか、1モルの理想気体の体積が22.なんとかとか、気体の種類を問わない定数があるのだ、という奴です。これが最も高度な単純化です。それに関する全てのパターンに当てはまる法則(学問の進歩により色々注釈がついたりはしますが)です。
このようにかける10の23乗個などという、途方もない数の分子全体の動きの結果(温度と圧力と体積の関係)がわかる一方で、今では分子一つとか二つの相互作用を計算することもできます。しかし、それが三つになると途端に式は複雑になり、100などになると計算は全くお手上げになることは想像できまうか? ビリヤードの熟練者は静止している玉に一つの玉をぶつけた結果を計算し、かなりの精度で実現しますね? ではこれが、一つの台で二人が同時に玉をついてコントロールするゲームだったらどうでしょう? 同じチームなので、お互いにどういう玉を打つかは相談して決められるとして、とても計算しきれないゲームになりそうですよね?
分子一つ一つの性質はわかっている。
一定量全体の法則もわかっている。
しかしその中間はお手上げ。
現実に起こる諸問題は、その殆ど全てが、中間の混沌、複雑な状態で提示されたものです。
法則とか定理を見つけることに当たる単純化、が至難かつ最高の技法である、というのは想像できますよね?
そして、単純化が危険であるのは、それが至難であるが故、本当に正しいのか、間違っているのかの判断が明快ではないからです。
数学で法則というのは、その分野に置いて絶対の規則で、それに対する定理というのは、一定の条件化で成立するものですが、その定理か更に限定的なものが、現実世界では金言やアフォリズムといったところでしょうか。
日常生活で単純化するというのは、その物事の一面を切り取るということですが、全うな占いや性格診断などが信憑性を帯びるように、一面なのに定理や法則のように感じる人がいます。論理学や哲学、ディベートのスキルに長けた人(欧米ではそういう授業を高校とかでして、優秀な人間が大学にいけ、政治家や官僚などになる)は、それを意識的に行うことができます。自分に有利になる一面を切り取り、それを普遍の法則であるように言う訳です。この場合、主張することを自分が信じているかいないかは関係ありませんし、本音と建前を本人がわかっているので、暴走はしません。
本音も建前もなくこうこうなのになんで? というのが件の今は一般人らしい人で、複雑である世界では、こちらもある程度の説得力を有してしまいます。
ほうら悪魔の誘惑。
あああ・・・こんな長文自分のブログで書いてトラックバックにしろよとかなしで・・・