いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
仮説
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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拝啓 時下ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
このたびの腰痛ネタに際しましては、いろいろとご配慮をいただき、その上ご多忙の中様々な情報をご提供くださり、ご厚情ありがたく厚くお礼申し上げます。
お礼の印までに、腰つながり動画を添付させていただきます。ご笑納下されば幸いと存じます。
動画はこちらから→『たくましい腰』
さて、そんな最中、痛みの原因が骨盤の先天性の問題であることは分かっているのですが、その状況を詳しく検査するべく、本日、MRI検査へと行って参ります。
昨年末の「笑ってはいけない病院」を見てしまったがゆえ、自身の身体の状況以上に、MRI機器の中に、パンチパーマのキスおばちゃんが現れるのではないかという、いささかの不安もございますが、意を決して検査に挑む所存でございます。( ̄Д ̄)ゞ
皆様におかれましては、過度なバタフライやMCハマーのモノマネ等で腰を痛めることのないよう、ご自愛のほどお祈り致しております。
上、略式ながら書中にてお礼申し上げます。
敬具
…
ぶっちゃけ、ここからどのようにして本題に移ればよいか分からなくなっております。
こんにちは。黒斎・オブ・椎間板炎症による座骨神経痛(コルセット装備)です。
えー。
「宇宙立この世学院」シリーズでは、数回にわたって『人は皆、出来事・境遇・出会い・その他諸々といった、自分の周辺環境を教科書・教材とし、その教材を使って、自身の仮説を立証することが、この世での学びである』といったお話をしてまいりました。
別な言い方として、『人は誰しも「幸福とは○○だ。」という仮説を立て、それを自分の人生において検証している。その魂が、どんな仮説を持ち、どのような方法で検証しているか。それが「個性」となる。』というお話もさせていただきました。
さらには、大多数の方は、その内容に違いはあれど、「幸福は、境遇に比例する」という仮説をもとに人生を送っているという、僕なりの客観的な考察も述べさせていただきました。
どうでしょう? ここまでのところ。
僕の言っていること、何となくでも伝わっているでしょうか。
今一度ご自身を、また、周りを観察していただければ、本当に「幸福は、境遇に比例する」という仮説で生きている方の多さに気付かれると思います。
でも。
「幸福は、境遇に比例する」という仮説は、結局のところ、どんなに頑張っても「幸福」を立証することはできないんです。
なぜなら、境遇によって得られる幸せは、境遇によって不幸せにもなってしまうからです。
分かりますでしょうか。
例えば、「お金の豊富さ」による幸せは、「お金の足り無さ」によって不幸せに変貌します。
また、豊富な財産を持っていてもなお、「それを失うことの不安」があれば、心の平安を得ることはできません。
お金・財産だけではありません。
健康・仕事・環境・恋愛・結婚・美食・容姿・名声・肩書き・その他諸々…
何かによらなければ得られない幸せは、決して本当の幸せではないのです。
では、幸せとは何なのか?
ここで、今現在の僕の「仮説」をあげさせていただきます。
『幸福とは、その「才能」に比例する。』
これです。
「幸せ」は、音楽やスポーツ、芸術などと同じ、「才能」だと思うのです。
音楽の才能をお持ちの方から、いくら譜面や楽器、声や聴覚を取り上げても、頭の中で音楽を奏でる事を不可能にすることが出来ないように、「幸せ」という名の才能を持っている人からは、何を取り上げても不幸せにすることはできません。
「幸せ」という名の「才能」が豊かな人は、何をやっても、どこにいても幸せを得ることが可能です。
それを見ている他者が、あまりにも幸せそうにしているその人を見て、「その人の周辺環境が幸せなことなのだ。」と勘違いしてしまうことで、先の「幸福とは境遇に比例する」という仮説を持ってしまっている。
幸せとは、才能である。
ですから、その才能を得るための努力は必要となります。
しかしながら、その努力は、「幸福とは境遇と比例する」という仮説をもった方々がする努力とは、別次元のものです。
次回は、ここらへんのお話をさらに掘り進んでいきたいと思っております。
←デレデ~ン♪ 笑った人、OUT~。(タイキックの勢いでクリックのこと)
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拝啓 時下ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
このたびの腰痛ネタに際しましては、いろいろとご配慮をいただき、その上ご多忙の中様々な情報をご提供くださり、ご厚情ありがたく厚くお礼申し上げます。
お礼の印までに、腰つながり動画を添付させていただきます。ご笑納下されば幸いと存じます。
動画はこちらから→『たくましい腰』
さて、そんな最中、痛みの原因が骨盤の先天性の問題であることは分かっているのですが、その状況を詳しく検査するべく、本日、MRI検査へと行って参ります。
昨年末の「笑ってはいけない病院」を見てしまったがゆえ、自身の身体の状況以上に、MRI機器の中に、パンチパーマのキスおばちゃんが現れるのではないかという、いささかの不安もございますが、意を決して検査に挑む所存でございます。( ̄Д ̄)ゞ
皆様におかれましては、過度なバタフライやMCハマーのモノマネ等で腰を痛めることのないよう、ご自愛のほどお祈り致しております。
上、略式ながら書中にてお礼申し上げます。
敬具
…
ぶっちゃけ、ここからどのようにして本題に移ればよいか分からなくなっております。
こんにちは。黒斎・オブ・椎間板炎症による座骨神経痛(コルセット装備)です。
えー。
「宇宙立この世学院」シリーズでは、数回にわたって『人は皆、出来事・境遇・出会い・その他諸々といった、自分の周辺環境を教科書・教材とし、その教材を使って、自身の仮説を立証することが、この世での学びである』といったお話をしてまいりました。
別な言い方として、『人は誰しも「幸福とは○○だ。」という仮説を立て、それを自分の人生において検証している。その魂が、どんな仮説を持ち、どのような方法で検証しているか。それが「個性」となる。』というお話もさせていただきました。
さらには、大多数の方は、その内容に違いはあれど、「幸福は、境遇に比例する」という仮説をもとに人生を送っているという、僕なりの客観的な考察も述べさせていただきました。
どうでしょう? ここまでのところ。
僕の言っていること、何となくでも伝わっているでしょうか。
今一度ご自身を、また、周りを観察していただければ、本当に「幸福は、境遇に比例する」という仮説で生きている方の多さに気付かれると思います。
でも。
「幸福は、境遇に比例する」という仮説は、結局のところ、どんなに頑張っても「幸福」を立証することはできないんです。
なぜなら、境遇によって得られる幸せは、境遇によって不幸せにもなってしまうからです。
分かりますでしょうか。
例えば、「お金の豊富さ」による幸せは、「お金の足り無さ」によって不幸せに変貌します。
また、豊富な財産を持っていてもなお、「それを失うことの不安」があれば、心の平安を得ることはできません。
お金・財産だけではありません。
健康・仕事・環境・恋愛・結婚・美食・容姿・名声・肩書き・その他諸々…
何かによらなければ得られない幸せは、決して本当の幸せではないのです。
では、幸せとは何なのか?
ここで、今現在の僕の「仮説」をあげさせていただきます。
『幸福とは、その「才能」に比例する。』
これです。
「幸せ」は、音楽やスポーツ、芸術などと同じ、「才能」だと思うのです。
音楽の才能をお持ちの方から、いくら譜面や楽器、声や聴覚を取り上げても、頭の中で音楽を奏でる事を不可能にすることが出来ないように、「幸せ」という名の才能を持っている人からは、何を取り上げても不幸せにすることはできません。
「幸せ」という名の「才能」が豊かな人は、何をやっても、どこにいても幸せを得ることが可能です。
それを見ている他者が、あまりにも幸せそうにしているその人を見て、「その人の周辺環境が幸せなことなのだ。」と勘違いしてしまうことで、先の「幸福とは境遇に比例する」という仮説を持ってしまっている。
幸せとは、才能である。
ですから、その才能を得るための努力は必要となります。
しかしながら、その努力は、「幸福とは境遇と比例する」という仮説をもった方々がする努力とは、別次元のものです。
次回は、ここらへんのお話をさらに掘り進んでいきたいと思っております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e9/b8a4bcdc22643fc1ac2303b742061ba6.png)
コメント ( 15 ) | Trackback ( )
« 風の谷のナウシカ | 才能 » |
・・・騙されたッ....。
「へぇ~い!!!ニィ~ちゃん!!!(+`3')」」”喧嘩売ってんのか!!!」
って、中指おっ立てるトコだわねっ。。。
アタシがオトコなら。。。;;
ポチ※も「ぶっ=333」
あいやぁ~;;笑っちまった。「アウトなんけ???」
キックだなんて…。。。
可愛く・・・・・・・・ジキシッ===333
しときましたッ。
変に・・・・悔しかったりして;;ぷぷぷ。
お大事にねぇ~~~~腰ッ!!!
あたしゃ~随分とご無沙汰なので(何が???)そコントこ???
心配にゃい;;
「いい~んだか???悪いんだか???」ぁへぁへッ;;
変なダンスも???
今の所(へっ???いづれ、有るってか???)
…予定御座いませんので。。。
お気遣い無くッ☆ぷぷぷ
では☆
笑ってはいけないの
あのおばちゃんには
毎度、笑わせられますよね。
しかし、あのMRIのおばちゃんは
笑いももちろんですが、怖かった。
それで黒斎さん、キッスは奪われませんでしたか?笑
「幸せ」の才能か~。
その昔、「愛の才能」なんて
歌があったことを思い出しました。
大半の人は生まれたたての赤ちゃんの時は、キャンパスであり、そこに境遇が絵を描いてゆく、そしてその画家はだれ一人として、同じ画家は居ない そこに個性が生まれる。精巧な写真のようの絵、クセの強い印象派 複雑な色使いな絵から水墨画みたいに単色の絵もある。
哀しく辛い思いをするのは、境遇がそういう作風で絵を描こうとしているのか はたまた 画家が創作意欲を失くしているのかの何れか・・
でも、それじゃあ自分は絵なんだからなにもできないじゃないか
でもたった一つだけ出来ることがある!!!
画家に明るく楽しい絵を描く、創作意欲に働きかけることがね・・・
超のど渇いてたり腹減ったりしてたときの
水やご飯のナントうまいことか
超さぶい時にあったかい部屋にはいったらナント心地よいことか
何気ないこと見逃してた事にちっちゃな幸せを感じることが出来るようになれば、境遇はまた 鮮やかな絵の具で心をこめて描いてくれる
そう思う今日この頃
長文失礼しました。異論反論たくさんあると思いますが、なにせ私の心は現在 壊れぇ~かけぇの~レディオ~♪ なのでできればやさしくご指摘いただきたいです。
歌は世につれ世は歌につれ となりの祖母さん孫つれて (スーパージョッキーより ビートきよし談)
幸せってさぁ~、結局は「愛」と「感謝」の心を持
っている人なの!
勿論境遇にもよるとおもうよ。
幸せになること?幸せを感じること?
似たようで両極端にいるくらい心地は違いますよね(ニコ
感情がある、ということが私には今一番嬉しいことです。
「幸福は 理由があって感じるもの。至福は何の理由もなく感じるもの」・・・というのを何かの本で読んだことがあります。(ディーパック・チョプラ氏だったかな?)
ただ、自分が今ここに無事でいること、生きていること、沢山のもの(物質的なものとは限らずに)を既に手にしていること・・・そんな事を思い出すと、”至福”を感じることが出来ます。
雲さんの言いたいことも、こんなのかな??
ちゃんと治して来てね
MRIまだ一度もやったことないけど。。。
狭い処でスゴイ音っての怖くて。。。
狭い場所(エレベーターとか)と、沢山の人ってのが苦手~
幸せの才能。。。
なるほど~~~
今ある状況を如何に楽しむか。。。でしょうか
で、過去の栄光に(あったとして)しがみつかない
夏にそれやって相当凹んだから~
人もモノも時が経つと変質する
思い出は常に美しいけどそれは思い出だから~
う~~
海里みのぐさん風に言えば。。。
暗くて寂しい絵も、素晴らしい芸術作品はある訳で
でも私は明るく楽しそうな絵で芸術を表現したいな
びっくらしました
これって。。。。見ていいのか。。。。って数秒
暫く他のどーでもいいYOU TUBEも見ちゃった
あれって俗に言う偉人ってことなんだよね、
肉体は滅んでもその名は語り継がれて、作品は美術館で大事に保管される。
ムンクの 叫び なんて たしかに名画だけど暗くて哀しい感じがするよね?
モナリザの微笑みなんかは、私は調和を感じるし・・・
目指すは ゴッホのひまわりかな? 明るくて力強いと思うからね
結局 境遇の全ては自分でどうしようもないけど、自分自身も境遇と言う画家のモチベーションに大きな影響をあたえてる。と言うか 画家の思考そのものなんだよね。
例えばイスラム圏に生まれれば、イスラム教徒になるのは 当たり前の境遇だけど 極端な話 モハメド・アリなんかは まさに見事に境遇に働きかけたって事だと思う でも、みんなアリみたいにはなれない だから私は小さくても出来ることから始めている。
ごめん、ほとんど独り言みたいになっちゃった。レスありがとう
最後に
大きな事はできませんが、小さなことからコツコツと(クワ!! と目を見開いて)
西川きよし師匠、参院選、初出馬の演説より
今回の記事は今までで最重要な気がします
実はあのおばちゃん スタンドなんですよお~!!!!
だってMRIはいったら ゴゴゴゴゴ… って聞こえたでしょう?WWWW
スタンド使いは、技師のだれか、スタンド名
は KISS です。 WW
スタンド自体はDIOに匹敵する強さなので、本体を攻撃して倒すしかありませんよ~
尻切れになりそうなので、このへんで・・・
やれやれだぜぇ
いつでも比較して得られるなら、いつでも比較で失うはず。
条件付きで得られるのなら、条件次第で必ず失う。
得たり失ったりするものなら、永遠に繰り返されるだけ。
永続してこそ幸福と呼べるはずだ。
二元性の世界にいるうちは、永続するものは一つもない。
二元性から抜け出すための学びが必要だ。
そのために、あらゆるものを手放す覚悟と実践が必要だ。
と、考えています。
すぐ挫折しちゃいますけど。
>・・・騙されたッ....。
( ̄ー ̄)
える。さん
>それで黒斎さん、キッスは奪われませんでしたか?笑
おばちゃんには襲われませんでしたが、
ものっそい睡魔に襲われました。
電磁波浴びると、ぐらぐらするね。^^;
海里みのぐさん
>境遇とは画家であり、人格とは絵画である。
なるほど、面白い。
夢さん
コメントが支離滅裂だよ。。。
ぽんさん
ふふふ。マンション住まいなので
雪かきとは無縁なのです。^^
>幸せになること?幸せを感じること?
>似たようで両極端にいるくらい心地は違いますよね(ニコ
( ̄ー ̄(_ _( ̄ー ̄(_ _ウンウン
前にも書いたけど、努力すべきは
幸せになることではなく、幸せであること、ですね。^^
kazさん
自分が日々、何を見て生きているかが大切ですよね。
「人の不幸は蜜の味」なんて人が多い世の中ですからね。
不幸を見つけるスキルがあがる一方ですよね。^^;
幸せのスキル向上を目指す人って少ないんだよなぁ…
不思議と。
えじさん
>今ある状況を如何に楽しむか。。。でしょうか
( ̄ー ̄(_ _( ̄ー ̄(_ _ウンウン
正にそれですね。^^
ヘンゼルとグレーテルさん
>「才能」とは珍しい方面からのアプローチですね
分かってる人にとっては当たり前すぎることなんでしょうけどね。
だからこそ、こういう話をする人が少ないのかなぁ。
海里みのぐさん
わはは。スタンドと遭遇する前に眠りに落ちてました。
camiさん
>「幸福とは、変化しないものである」
( ̄ー ̄(_ _( ̄ー ̄(_ _ウンウン
「幸福」と聞いたとき、人は一律に「幸福」を思う。
その出来事、境遇の連想に違いはあれど、「幸福」を思う。
「幸福」と聞いて「不幸」を思い浮かべる人は居ない。
現象側で捉えられる「幸福」は変化するが、本質側の
「幸福」は、決して変化しない。
この時、「幸福」のイデアとは何なのか。
(池田晶子チックに)
「幸せになることではなく、幸せであること」
幸せとは・・・・私は、
『好きなモノ(事・人)が多くて嫌いなモノ(事・人)が少ないことが幸せ』かと思っていました。
かなり勘違いだったみたい?
次の記事を読んで勉強してきます。
ttp://www.youtube.com/watch?v=sL_6E5FMuf8
あぁ、怖かった(´;ω;`)