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死後の世界.10

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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昨今のニュース番組から流れる『ムーディーズ』という単語を耳にして、

スムーズに「アメリカの格付け会社」が想起できるアナタは常識人。

一瞬ドキッとして「えっ?民放で南波杏!?」となったアナタはただのAVオタク。


毎度どうも!後者です。



さて、日常生活において、うかつに「実際には“私”は存在していません。」なんて口にしてしまうと、先のジョークを発した時以上に「この人、大丈夫?」なんて目で見られることになるので、よい子のみんなは気をつけようね♪

ってことで、この受け入れがたい「私が存在しない」ということの、本当の意味を探してみましょう。

「私が存在しない」。これを仏教の専門用語に置き換えると『諸法無我(しょほうむが)』となります。

この「諸法無我」も、その意味を理解すると、言っていることは「諸行無常」や「因縁」とイコールで結ばれるのだということに気付けます。


「因縁」=「諸行無常」=「諸法無我」


上記の公式を文章化すると次のようになります。


『原因と結果の連鎖がある限り、全ては変わり続ける。ゆえに「私」は存在できない。』


現時点では、この言葉の意味がよく理解できないと思います。

順を追ってご説明していきますので、とりあえず上記の公式を頭の片隅に残しておいてください。


では、出来るだけこの事を受け入れられる様、「私」を別なモノに置き換えて考えていきましょう。

と、言うことで、昨日の『「自我」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「私」は存在していないのです。』の単語を入れ替えてみます。


『「国家」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「日本」は存在していないのです。』


「日本」を辞書で引くと「我が国のこと」ですからね。「私」とそう遠くもないでしょう。

どうでしょう?

これならまだ、「私」よりも冷静に考えることが出来るかと思います。

それでもまだ、「いやいやいや!チョット待て! “日本”は確実に存在しているだろう!まさに、今、ここにっ!」ってなってますよね。

いよいよここから、その固定概念を崩していきますよ。ここから先は、子供のように頭を柔らかくして読み進めてください。


では、参ります。

「日本」が存在しているのは、「(日本の存在を知っている)人間の頭の中だけ」です。つまり「幻影」。

なぜなら、誰一人として、あるはずの「日本」を指し示すことはできません。

確かに「国土」は目に見えるものです。ですが「国土」はあくまで「土地・領土」であって、それが「日本」なのではありません。

「領土」や「国境」も、人間が勝手に作り上げた「固定概念」です。

「ここからここまでを日本ということにしよう」という「決め事」でしかありません。

私たちは「日本人」「ジャパニーズ」と呼ばれますが、それが「日本」なのでもありません。

たまたま「日本」と名付けられている土地に生まれたから「日本人」ということになっているだけです。これも人間が勝手に作った「決め事」です。

「日本文化」や「日本特有の生活様式」がありますが、それが「日本」なのでもありません。「文化」はあくまで「文化」です。

「日本語」はありますが、それが「日本」でもありません。「言語」はあくまで「言語」です。

「相撲」という「国技」がありますが、あのスポーツが「日本」なのでもありません。

「フランス」でも「ロシア」でも、相撲はとれます。


そういう感じで、どこをどう探しても「日本」を見つけ出す事はできないんです。

当たり前です。「日本」に限らず、「アメリカ」だろうと「イタリア」だろうと、あらゆる「国」は、あくまで「決め事」なんです。

国土だって変わります。

このまま北極の氷が溶け続け、海面が上昇していけば、衛星写真が捉える国土も、すっかり様変わりしてしまうでしょう。

大陸だって、大昔から見たら「同じ」とは言えません。それはいつでも「変化しつづけている」んです。


僕たちが「確かにある」と思っている「国家」という概念さえ、永遠不滅ではありません。

韓国やドイツを見てください。その時代時代によって、統合されたり、分裂したり、名称変更したりと、「国家」すら人間の都合に合わせて変えられてしまう、その程度のもの。実体のない幻想なんです。

「日本」だって、何かを機会に変わってしまうかもしれません。

どこかの国と合併してしまうかも知れないし、名称を変更する可能性だって、無いとは言えません。


つまり、本来分け隔てる事ができないものを、無理矢理概念で切り分け、そこに勝手に作ったアイデンティティを付け加えているだけなんです。


「決め事」を「決め事」として解釈できているならまだいいですが、それすら忘れてしまうと、「国家(幻想)」対「国家(幻想)」で喧嘩をし出します。

馬鹿馬鹿しいよね。国を分けているのは自分たちの「概念」なのに。

自分たちが作った「決め事」をすっかり忘れて、それを「実体がある」と錯覚して仕舞っているんです。

まさに、「私(我が国)がある」と思ってしまった所に、問題が生まれています。


さて、とりあえずここまで、理解できますか?



←変わらないように見えても、日々変化しています。

コメント ( 31 ) | Trackback ( )
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コメント
 
 
 
いえすいっといず (ぽん)
2008-09-25 19:15:16
はい、とてもよくわかります。

ええ、かゆい所に手が届く感じです。

微妙なところのかゆみには、フェミ○ーナ軟膏です。
 
 
 
幻想だと知りつつ幻想に酔いたくなる。 (ヘンゼルとグレーテル)
2008-09-25 19:16:31
池田晶子さんもまったく同じ話をされていましたね。
この種の話は僕にとっては理解しやすいです。
もう一人の僕(守護霊ではないはず)からは「君は本当には理解出来ていないっ( ̄Д ̄)m9」と言われていますが(笑)



「幻想」も「アルコール」の一種なんですかね。
明らかに問題の種なのに、摂取している間は心地良かったりもします。

スポーツも国VS国が1番面白いです。(この場合は毒ではないけど)
 
 
 
太陽と海と空の教室 (chie)
2008-09-25 21:20:32
関東地方では22日(月)が最終回でした。織田裕二主演で♪
その中で織田先生が「君は誰だ。名前は君を識別するためのもの。男性、女性もそうだ。国籍もたまたま日本に生まれたから日本人。君は君を何と説明する?
君は誰だ?」・・・みたいな台詞がありまして~~
「これ、思いっきりスピやな!!」と思ったんですが・・・・「私は誰だ?」・・・深いっすよ~~^^
 
 
 
地球外生命体という (神ng now)
2008-09-25 21:33:02
名称が有りますが、

人間の意識は、宇宙外意識体なのだから

「ジスイズ A ユニバース」

ここの所を理解する様になることを

新しく産まれる(ユニ・バース)と言うって

何かの本で読んだ様な?

神との対話だったかな?バシャ-ルだったかな?

 
 
 
えーと (kuro)
2008-09-25 21:46:47
人類が滅びて、国という概念が消滅しても、
とりあえず地球は残る……のでしょうか。
実体があると考えてよいのでしょうか。

これを人にたとえるなら? あ、混乱した。
 
 
 
Unknown (harihari)
2008-09-25 22:01:17
ほーーーぅ!わかりやすかったです!
なるほど!!
 
 
 
問題を作り出す過程 (リア)
2008-09-25 22:20:53
人間が創造したものの責任を自らがとるということなのですね。

自分で決めておきながらそれによって翻弄されてしまうとは・・・。

何とも、それにしても死でさえも決め事なのかもしれませんね。

とても客観的になり、問題が問題でなくなっていく瞬間ですね。

 
 
 
Unknown (rrr)
2008-09-25 22:25:53
人類が絶滅し国という概念が無くなっても大地はあります。海に侵食されたなら元大地だったものはあります。ここらへんは死後の世界8あたりの内容だったかな?
つまり「私」「自我」とはその程度のものなのでしょうね。すべて「定義するもの」がなければ定義なんてされないのですから。
コクサイさんがおっしゃられている通りに自我とは錯覚。錯覚したところで、見えてくるのは間違った情報なのですね~。
 
 
 
わかってないし (Unknown)
2008-09-25 23:03:29
「国」が無くても大地はある。
「私」が無くても肉体はある。
ってことなのか?
 
 
 
わかりやすいです ()
2008-09-25 23:15:22
はい、ここまでは、わかりました(^^)

ドラマの話、私は誰?って、哲学ですよね。
ソフィの世界を読んでから、はまったまま抜け出ることができないでいます。
抜け出せるといいなー。
 
 
 
町の境で (とっこまわし)
2008-09-25 23:21:34
「ここまでは○○町、ここからは××町」って標識が近所にあるのですが、そこがちょうど林の中なので、「じゃあここに生えとる木はどっちの町所属?」と考えたことがあります。

あえて言うなら、
どっちでもないですよ、林ですよ、木ですよ、と。

決めてるのはお役所なんですよね。

そういう話、ということでしょうか?
 
 
 
Unknown (寝ぼけ)
2008-09-26 00:05:03
一つ上の「次元」と言うか違う目線から
見られるとここに書かれていることも
もっとよく分かるのかなぁ...

ありんこは自分で自分を意識しているかも
しれないけど、人間がありんこがうじゃうじゃ
歩いているの見ても同じありんこにしか
見えないねぇ。「この中に一匹すごい奴が
います」と言われても、分かる訳が無い。
(人間がありんこより上と言うわけではないですが)

いわゆる「あの世」が人間が住んでいる
「この世」より目線が上の世界なら、そこから見れば
人間はありんこと同じ?全て同じ様な存在?
ありんこが意識している(かもしれない)自分は
関係ない?

ちょっと違うような...理解できているんだろうか??
 
 
 
いつもながら、 (natsuko)
2008-09-26 00:15:30
黒斎さん(産)の記事には感動してしまいます。

本当にクリエイティブですね^^
 
 
 
むが (未都)
2008-09-26 00:40:29
森田健さんの崇拝者ではないけど。
「私は!」という意識は、女が男に生まれ変わっても
牛から人間に生まれ変わってもあるそうです。
前世を覚えて生まれるテクニックを使えば。

ということは、
誰もが「私は!私が!」という意識を持っていない人は誰一人いない。すべての人が持っているはずです。
それが、もともと同じ者で、
何かを感じる為に対人に分かれたのだとしたら、
「私がこんなに言っているのに、こいつ日本語通じない!!。」
「この人、何言ってんの??私全然理解できない!」
この二人の「私は!」は同じもので、
同じだと理解することが無我なんじゃないのかな。
 
 
 
やっぱり、わかりやすい。 (でぶどん)
2008-09-26 06:28:53
久しぶりにこのブログに遊びに来ました。
やっぱり、わかりやすい♪

漠然と考えてたことをすっきりと説明してもらえる感じです☆国家も私も、存在しないんですね♪

お金もまるっきりルールだけで存在してるのに、いろんな意味付けがされてる感じがします。
 
 
 
よくわかります~ (えじ)
2008-09-26 09:45:51
てか
どっちのムーディーズもわからなくて
ネット検索しいてたら
AVの方、開いてしまいました

先もちょびっと見たかったけど
怖くて進めませんでした。。。
 
 
 
すごいね (こう)
2008-09-26 11:13:36
コクサイさんのブログに書き込みするのは初めてです。
安部さんの「いまここ塾」と同時進行で読み始めたのが3ヶ月前くらいからです。

色々な精神世界系のブログを見てきましたが、このお二人は同じ匂いがして、大好きです(^^)。

何故かというと、ナンか他のブログは・・・・自分のこと「教祖」と思ってんの??って感じるし、

そういう人に「依存」したくなる自分が誘発されるからです。


お二人は、本当に優しい導き方をされていると感じます。

これからも、痛快なブログを展開してください!


 
 
 
Unknown (ぽむ)
2008-09-26 11:20:40
覚者によると、
覚者は自我を持っていません。
普通の人は自我を自分だと思っていますが、自我は自分ではありません。
目覚めたときに消えてしまいます。
目覚めると輪廻転生もこの宇宙も幻だとわかるそうです。
だから生まれたこともないし死んだこともないという。
そして輪廻も終わります。
 
 
 
なるほど (ゆーきー)
2008-09-26 12:02:13
なんだか腑に落ちました。

肉体はあるけど、『私』というのはただの概念、イメージだから、どこにも存在しない、ということでしょうか・・・?(厳密にいえば肉体もない、って話に進みそうですが・・・)
 
 
 
わかりましぇん… (Unknown)
2008-09-26 12:10:20
アメリカで生まれても日本人は日本人でしょ?
ドイツでしゃべっても日本語でしょ?
ロシアで相撲とってもそれは日本の国技でしょ?
(いまや国技とはいえない状態かもしれんが)

…なんか比喩に飛躍があるような…
 
 
 
Unknown(2008-09-26 12:10:20)さんへ (雲  黒斎)
2008-09-26 12:49:07
皆さん、いつもたくさんのコメントありがとうございます。

ちょっと時間が取れないので、取り急ぎUnknownさんのコメントにだけ返答入れさせてください。

>…なんか比喩に飛躍があるような…

え~とですね。
確かに「私」を「日本」に置き換えていますが、今回のお話は「比喩」ではないんです。

>アメリカで生まれても日本人は日本人でしょ?
ですから、それは「国籍」ですよね。

>ドイツでしゃべっても日本語でしょ?
これは「言語」。

>ロシアで相撲とってもそれは日本の国技でしょ?
それも「国技」という「スポーツ」を指した概念です。

ですから、これらは全部「存在の本質」ではなくて、「属性」を現しているだけなんです。

その「属性」も、「日本」にかかっているのではなく、それぞれ「戸籍」「言語」「スポーツ」にかかっている属性です。

どうでしょう?
ご理解いただけますかね?
 
 
 
Unknown (らん)
2008-09-26 13:34:56
川にたとえてもそうなのかなぁ

川って何って聞かれたら
水をすくって、これですって言ったらそうじゃなくて

じゃあ、土や岩とか?って言ってもそうじゃなくて、

例えば写真にとったとして、これが川っていっても、もうその水は海にあって、砂は形を変えて下流の方にいってて。だからといって見た目は?変わってないような感じで
もう写真にとった川?水砂とかはすでにそこにはなくて

冬に川をみて次の年の冬に川をみて変わってないなぁって思っても、もう変わってて。そんなんが諸行無常??

体も心も地球も、その写真にとった。たとえば模型で作ったような固定された変わらない感じに思ってることが、今を生きてないってこと?

 
 
 
らんさんへ (雲 黒斎)
2008-09-26 13:40:39
そういうこと!
 
 
 
確かにそうですね (虚空)
2008-09-26 15:13:29
お久しぶりです。が、いつも本当に楽しく読ませていただいております^^
私は集中して読むため毎日PCアクセスですので、ランキングもポチッ!っとしまくってますよ~~。

そもそも「日本国」という国家概念が出来たのも、せいぜい江戸末期?くらいですよね。今回の話しでなぞらえると国家概念(その領土や境界線)も人の自我(というか専有欲というか・・)が作り出したもので、日本国というのもその為の単なる便宜上の「固有名詞」である事は間違いないですよね。

先日の雨粒の話も、作家 五木寛之の「大河の一滴」でも書かれててすごく分かりやすかったです。
雨粒って空から地面か海川に落ちるまでの間の名前ですものね。川に落ちれば「川」に変化しそれを雨とはいいませんし、流れて海にいけば「海」という名詞になり、同様に雲になりまた雨になり。

が、という事は「自己・自分」というものも、在るようで無く、無いようで在る存在で、物理的変化の一つのプロセスで今、たまたま人間という形であるという事で、間違いないって事になると思います。

とすると、私自身も死んで埋葬されないとしたら、私の肉は窒素化合物やカリに、骨はリンになり植物の三大栄養素として草木に吸収され、その草を牛が食べ、牛はライオンに食われ、ライオンの死体もまた土に返る。そうやってただ巡り巡っている物だとするならば(これはこれで事実ですし)生まれてきた意味などと言うものの有ろうはずもなく。。。という事なのでしょうか@@;

魂については 魂=心=その人の信念や考え方 だとしたら単に肉体の一部である「脳」が作り出した幻想という事になるのでしょうか・・
ただ魂については、継がれてゆくものだとは思いますが(例えば自分が死ぬまで、共感できた○○さんの信念と同じものを持って生きる→生きてる間に子供や他人に伝え、継承者ができる)という事で言えばです。
身近なところでは本田総一郎氏のHONDAイズムといった具合に。
かくいう私もコクサイさんのこと生涯忘れないと思いますし^-^

だとしたら生まれて死ぬまでの一時的状態(人間の時期)に「何をすべきか?」「どう生きるべきか?」 いあいあ、そんなものすらないよ?という事になるのでしょうか?
人はただ生まれ、ただ死んでゆくものなのか。
唯一意味があるとするなら、諸行無常(水なども含む食物連鎖)の一環でしかないのでしょうか。

そうだとするなら、生きてく上で価値のあること、意義のあることなど、所謂凡人のモチベーションの源泉が見出せずに困惑している次第です。

あぁ・・長々と失礼を^^;
これからもずっと読ませていただく中で、この駄文の答えも探していければと思います。
少なくとも今こうして悩んでいる私にとってはコクサイさんは意義のある存在です^^
今度とも宜しくお願いします!
 
 
 
外枠はたぶん理解できましたが・・ (ぽん)
2008-09-26 15:30:46
ソフトの方がついていけてない自分を「今」自覚中です。

どうしても、矯正できない性格の癖。
考え方の癖。

こういうのは、どうしたら乗り越えていけるのでしょう。

こう思ったらいい、というのはもうすでに「今」ではないんです。

何も今、苦しめられているわけではなく、ただパソコンに向かっているだけです。
でも、心のなかにどうしてもねじれる部分の思いの偏りが、ある瞬間は克服できたと思ったのに、生活していくなかにまたねじれて感じてる自分を自覚する瞬間があるんです。

ゆったりと大河の流れのように生きたいと思ってるのに、急流では、水なのだから、溺れることはないのに、溺れるって思いこんでしまう自分を自覚する水滴というまことに滑稽な自分なんですけど、
その溺れるっていう思いが克服できたあとはもう、大丈夫だとゆったりとした気持ちになるんですけど、それも、長続きしないんです。

こういう状態を仏教用語では煩悩というのでしょうか。他にさす言葉はありますか?
 
 
 
こんにちは (わび)
2008-09-26 18:03:35
初めまして!!
ここ最近の記録を読ませて頂いたのですが
とても判り易くて面白かったです!!
倫理の参考になります..
前に理解できなかった記号論を思い出しましたー

哲学したい時にまた読みたいです!!
 
 
 
そういえば・・ (虚空)
2008-09-26 18:05:12
個人的質問で恐縮なのですが、先日このブログでも取り上げられていたヴィパッサナー瞑想というものをやってみたところ、2分くらい経った頃に器官がむずむずする感じがして、その後急に咳きが止まらなくなり、目から涙が出る程でした。
咳きの度合いは、飲み物が器官に入った時になる程度にすごかったんですが、この現象についてなにかご存知の方いらっしゃいましたら教えて頂きたく、勝手にこの場を借りてしまいますが、宜しくお願いいたします。
 
 
 
ありがとう (いのち)
2008-09-27 04:01:04
 
 ありがとうございます

 泣けて泣けてたまりませんでした。
 
 物心つくころから、他人が「これは面白いもの」「これは怒れるのがあたりまえ」と、ハッキリと出来事に対して感情を決めて表現していることや、自分の子と「よその子」を分けるのが、ナニを基準に分けているのか、何が怒れて何が楽しいのかの基準も理由も、こどもをどうやったら分けれるのかがさっぱりわからず、悩み苦しんできました。

これはもう「マネをするしかない」と、人まねをして
分ける””練習をして生きてきたけど、確信も意味もわからず、ただ不安と絶望の中で生きてきました。
ずっと孤独でした


日本がない”ように、本当は「ない」んですね?
今までずっと「ない」ことに苦しんできました。どうしていいのか どうやったら人と同じように「分け」られるのかが分からなかった。

すべてに境界はないんですね?
「分け」なくて いいんですね
 
 
 
いいんですよー(いのち様へ) (Fam)
2008-09-27 04:45:14
いいんですよー。あなたが思う事があなたの真実です。
誰かの許しが要るのでしたら、私はあなたを許します。あなたが正しいと感じる事を実行してください。誰かのマネをしても誰かのマネでしかありません。他の人がどうであろうと本当は関係ないのですよー。基準なんてないのです。何故誰かが作った基準に従わなければいけないのでしょう?従えと言われたわけではありませんよね?あなたがそうした方が良いと感じるのなら「よその子」や「自分の子」なんて分ける必要はありません。一人一人のの人間として接して下さい。いくら自分の子でも「物」ではありません。精神が未熟なだけで自分以外の人間です。「どうにかしなきゃいけない」と思いこむのも良くないのではと思います。悪い事をしたら叱る、それ以外なら愛する。良い事をしたら褒める。それだけだと思いますよ?
そして、何が起きても現実を受け止めて、その時考えるのが良いでしょう。あわてることもあるかもしれませんが、深呼吸をして落ち着いて考えてみるようにすればよいかと思います。そう、心に留めておいて下さいな。
うまく言えないですがあなたが涙したその心を大事にしていって欲しいですかね。たぶんそこに真実はありますよ。昔から「自分の胸に聞け」って言う事がありますよね。叱り文句のようですが、本当はそうではなくて「魂に聞いてみる」事(瞑想するようなもの?)なのではないかと思っています。少しでもあなたの助けになれば良いなと思います。解り辛い文で申し訳ないです(;゜Д゜)
 
 
 
Unknown (いのち)
2008-09-27 12:17:32
Famさま


 ありがとうございます

「自分の胸に聞け」 本当にそうですよね
 
 そして、思ったまま 感じたままを、ただ、そのままに 思い”感じ”ればよかっただけなんですね

 「信じる」ことさえも どうやったら信じられるの?と、必死で探して生きてきました笑

 真実は本当に単純で、あまりに単純で
素直で純粋すぎて 目の前にあるのに 今 触れているのに ただ 気づいてないだけなんですよね

 信じる”のではなく、ただ そうであると気付くだけ

 今、感じているこの感覚が「真理」なのか「真実」なのか、または「間違っているんじゃないのか」と
頭ではどう考えようかと思考しています。

でも、ただ、そう”なんですね

平穏なことが地に足を着けることだと思っていました。でも、そうじゃない。

もともと私たちは「地」に足が着いていて、着いていることを忘れたために、どうやったら足を着けるか”のゲームをしていただけなんですね。
だからどんな思いも、「地」に足が着いていない”ことからスタートしているから同じところをぐるぐるぐるぐるまわっている。。

もともと「足」は着いている。そのまま感じ”ればいいんですね。

そして在り方によっても変わる。。んでしょうか?
うーん!単純で、素晴らしくて、深いですー


そしてこれは、私の真実です^^
心が自由になります
ありがとうございました

黒斎さま
場をお借りいたしました ありがとうございます。
続きを楽しみにしております~^^


 
 
 
らんさんのをテンプレに使わせていただきます (waking)
2008-09-29 17:05:55
空にたとえてもそうなのかなぁ

空って何って聞かれたら
上を見上げて、あれですって言ったらそうじゃなくて

じゃあ、雲や空気とかって言ってもそうじゃなくて、

例えば写真にとったとして、これが空っていっても、もうその空気はもうなくて、雲は形を変えて風下の方にいってて。だからといって空気も雲もそれ自体は無くなってはいないような感じで
もう写真にとった空というのはすでにそこにはなくて

冬に空をみて次の年の冬に空をみて毎年同じような空だなって思っても、もう変わってて。そんなんが諸行無常??



勝手にいじくらせて頂きました。
らんさんすいません。
 
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